こうちジョイタイムス2000年5月号


 『光は快いものである。目に太陽を見るのは楽しいことである』 (聖書) 

 ひまわりは春、種を巻き、夏は花を鑑賞し、秋に種を収穫します。向日葵と書きますが、太陽に向かう性質があると言われます。日光が好きなんでしょうね。花は明るい黄色の花弁を付け、いかにも明るさを象徴しています。光に向く向日葵のように、人も光(良いもの)を見ることを喜び、光を愛する者になれれば、心は楽しく、明るくなれるででしょうね。

身の周りの光とヤミ

 美しいものには刺があると言われますが、表面的には良く見えても、実は毒があったり、腐っているものがあります。最近、特に見せつけられます。

ヤミ

 私たちが正しさを信じたかった警察、行政、病院、学校などの信頼感が崩れてきています、きしみ音がします。実際は良い人の中に少数の悪い人がいるのか?悪い人の中に少数の良い人がいるのか?分からなくなっています。

 また、子供達の数は減っているのに、子供達の事件は増えてきているようです。
 可愛いはずの子供達が、虐め、恐喝などの事件を犯します。親子の間に不信が広がっています。人の心に闇があるのでしょうか。 

 でも、多くの人の心を和ませ、明るくするものがあります。
人の悲しみに同情し、手を差し伸べること。弱い立場の人を励ますこと。人の幸せを願って、何かをすること。
 そんなことに目を向けている人たちがいます。愛することをしている人たちです。「愛とは人を幸せにする意志」と三浦綾子さんは言いました。

 私たちが明るい道を歩むなら、その人も周りも明るくなります。  

光に向く人

 テレビ番組「知ってるつもり!」で三浦綾子さんが登場しました。彼女の一生を見せていただいて、本当にすがすがしさがありました。ヒマワリのように光の方へ、イエス様の方に向こうと一生懸命の人生のような気がしました。  

光に向く活動

 障害児を持つ母親のサークルを御存じでしょうか?その中には、人を感動させる話が多く、明るさがあります。弱さを持つ中で、一生懸命に生きる。障害児との交わりの中で、人の尊さ、心の大切さを教えられていく。
 彼らは、この世の価値観を追い求めているのではなく、神様が下さった尊い命を感じながら、光りに向いています。光りに向いている人には、明るさがあり、人を元気にする感動があります。

『すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、・・すべて愛すべきこと、・・称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい・・ そうすれば、平和の神が、あなたがたとともにいますであろう 』 (聖書)

心の中の光とヤミ

 ところが、「言うは易し、行うは難し」と言い
ますように、人は善なることを実行し続けるのは、大変困難です。

『わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行ってる・・・
わたしはなんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか』 (聖書)

 良いと分かっていても実行できない、人の心に光と闇があり、闇が強く人を支配しています。(闇とは罪をいいます)それに比較して、私たちの心の光はなんとも頼りないものです。存在しているかどうかもあやしいものです。

 私たちは出来るだけ善をしようと思います。でも、なかなか出来ない。なぜか?他の人のために自分が犠牲をするなど、心の欲求にはないからです。やっぱり、人は自己中心です。

光なる救主

『わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう』 (聖書)

 ところで、聖書はイエス・キリストを信じるなら、命の光をもつであろうと言います。イエス・キリストは人を闇から救うために、自ら十字架にかかられ命を捨てられました。それは、御自分を犠牲とする愛から出たものです。そして、誰でもキリストを信じる者は、罪が赦され、光の内を歩むことができる道を備えて下さったのです。

 私たちが真の光なる方に向く時、私たちは光を受けて、真心から光に向くことができるようになるでしょう。