こうちジョイタイムス2000年7月号

聖書の救い


 『兄弟たちよ。物の考え方では、子供となってはいけない。悪事については幼な子となるのはよいが、考え方では、おとなとなりなさい 』 (聖書)

大人になりたくない!

 こんな言葉を聞いたら、大人は困ってしまいます。これからの社会生活を心配します。

 自然界の生き物は、芽を出した種は、すくすくと生き生きと成長し、花を付け、実をつけるまで休みません。
 動物たちも、小さな時は親に慕い、大人を目ざして大きくなります。ライオンキングのシンバはムファサを尊敬していました。
 人間も、幼少においては、大人になるために生き生きと活動しているように見えます。

 ところが、ある時期から、「大人になりたくない!」と思うことがあります。
また、大人びた子供、子供のままの大人が増え、大人と子供の境界線が見えなくなっているようにも感じます。

子供達の見る大人

子供達には大人はどのように映っているのでしょうか?

・影の薄い存在になっている
 親の意見を聞いたり、大人を見習おう!などとは考えなくなっています。母親はだた口うるさい者となり、父は家で粗大ゴミ扱いです。「人生に楽しみを見いだせない大人は尊敬できない」と言います。
・自分勝手な生き方をする人に見える
 新聞の投書から「それでも大人ですか?淫行する人、痴漢する人、たばこをポイ捨てする人、仕事ばかりする人・・・ただ年をとった子供だと思います」。自分勝手な大人に見られています。

・形式的・表面的、うすっぺら
 表と裏を使い分けて、形式的で体裁ばかり気にかけている。「結局は自分たちの評価、利益になることしか考えていない」。親から、人の徳と言われるものが見えなければ、子供達は大人をバカにします。

大人の見る大人像

 ところで、大人は子供達と違った見方をしています。

・責任のとれる人
 第一に、大人とは責任がとれる者です。人とは、言ったことや行動に対して、他者に責任をとる心構えがある人です。だから、人前では言葉を選び、失敗しないように消極的(慎重)にもなります。

・経済的に自立している人
 自分と家族を養うことができる経済を持っている人です。他者のすねをかじっているようでは、大人ではない。だから、どこの学校に行っているか?どんな職業についているか?仕事に我慢強いか気になります。

まとめ

 まとめると、大人は社会性を重要視し、子供達は人間性を大人に求めているようです。

 そして、これが大人と子供の対立となり、お互いが認めあっていないのが現状ではないでしょうか。大人は子供に対して、だらしないと言い、子供は大人を汚い、自分勝手と言います。
 そして、子供は大人を尊敬せず、大人は子供を愛を持って、寛容に見れなくなっています。大人は大人らしさを失い、子供は子供らしさを無くしています。
 そこには人間としての自分発の建設的意見がありません。

『なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁(はり:太い材木)を認めないのか』 (聖書)

人は、罪人であることを認めず、寛容と、謙遜を忘れています。

聖書から

 聖書は人の成長について、二つの点に言及しています。
1) 考え方では大人となれ
2) 悪事については幼な子であれ

 新聞投書に「僕は将来に対して大きな不安を抱えています。日本の将来には何も希望が見えてこないからです」とありました。
 希望は、自分で見い出すもので、周りから教えられるものではありません。
 周りの問題が特に目につき、それに責任をすべて押し付ける傾向があります。でも、そこから希望は生まれません、まず自分に目を向け、自分の内面(心の問題)の解決を求めることが優先されます。あなた自身が正しい生き方を実践する努力が求められます。

 そこにこそ、希望があります。その時、本当の大人になれるのではないでしょうか。聖書は、その教えでも大変有益な書物です。

『み言葉の戸が開くと、光が差し込み、 わきまえのない者に悟りを与えます』 (聖書)