こうちジョイタイムス2000年9月号

信頼

 「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。自分を見て賢いと思ってはならない、主を恐れて、悪を離れよ。そうすれば、あなたの身を健やかにし、あなたの骨に元気を与える」 箴言3章5〜8節

 「やあ!」「お〜い」仲間同士の待ち合わせの声は、とても心を和ませる響きがあります。友だち、仲間の間での信頼関係は大切なものです。

 若い人たちは、仲間をとても大事にしています。しかし、自分の意見を言えないほどに気を使い、仲間から外れたくない、恥をかきたくないとも思っています。

 それほど強く求めるのは、仲間同士の信頼関係に魅力があるからです。「信頼」は心のオアシスです。心の休み場、休息を与えてくれます。

心の空洞

 しかし、もう一方で人の心の中に、空洞がいくつもあるように見えます。衝動的な行動が増え、心の中の悪い思いを抑制することが出来なくなっています。若者は社会を反映しています。紫陽花(アジサイ)のように土の性質により花の色が変わるようなものです。

堂々巡りの現代人

 今の私たちは、社会や自分の内のテーマ
に答が出せなくなっています。若者の衝動的な殺人事件に困惑し、原因を求めても納得がいく答が見えてきません。彼らに自明の道徳を教える言葉に、考え込んでしまう始末です。
 日本人である私たちは、歴史の中で様々な支配の中で生かされてきました。江戸時代、明治時代、大正時代、昭和20年まで・・・組織の支配者から規律が与えられ、その中で某かの答を出してきました。
 しかし、自由だと言われ、時間が与えられ、ふと自分を振り返ると、そこには真の規範が何もないのに気がついたのではないでしょうか?そして、昔の時代に帰ることも出来ず、今の不毛な価値観にも納得が出来ず、自由を持て余し、堂々巡りの不安に支配されています。

信仰による確信

 現代、なんらかの確信を持っている人は、二通りのタイプがあります。一つは、宗教組織の中に吸収された人です。大きな宗教組織にいる人は、そこから教えをもらい、盲目的に従い安心し、そこに信頼をおいています。
 聖書が教えるのが、信仰による確信です。「主に信頼せよ」とあります。これは神様と人との直接の交わりであり、その間には組織は存在しません。そして、常に聖書によって正しい神様との関係を求めます。ここで成長するのは信仰者の自発的な信仰です。叉、神様による個人的な恵みの経験です。それが聖書の教えです。

聖書からの戒め

1) 自分の知識に頼ってはならない。
 人間の知識は、多くの結果をもたらしました。
・ ダーウィンから始まった進化論の思想
・ 機械文明の発達による便利な社会
・ 自然観察から遺伝子組み換えへ
確かに、人間の欲望は満足されつつあります。しかし、一方で多くのものを失っています。進化論は人間の尊厳を奪い、人間関係を希薄にさせました。

 機械文明は、公害をまき散らし、人間の力では取り返しがつかない環境汚染を起しました。更に人の知識は遺伝子にまで及び、人の人格をコントロールするまで押し入り、神様の領分を犯しかねません。どんな問題が発生するか想像もできません。

2) 自分を賢いと思ってはならない。
 自分を賢いと思う高ぶりは、人を自己の暗やみに導き、終わりには悪に走り、破滅が待ち受けています。

神に対する信頼

 私たちは経験において、自分にも他の人にも、富にも、知識にも頼れないことを学んだはずです。ですから、人は真に信頼できる存在を求め、必要としています。
 聖書は真の神に信頼することを教えています。そして、御子イエス・キリストが私たちの救主として来て下さったのです。

『聖書は、「すべて彼(イエス・キリスト)を信じる者は、失望に終わることがない」と言っている』 (聖書)