こうちジョイタイムス2000年10月号

憂うつ

 『ある人にふたりの子があったが、兄のところに行って言った、「子よ、きょう、ぶどう園に行って働いてくれ」。すると彼は「おとうさん、まいります」と答えたが、行かなかった。また弟のところにきて同じように言った。彼は「いやです」と答えたが、あとから心を変えて、出かけた』 (聖書)

 シドニーオリンピックが終りました。感動と後の寂しさを残して。
少し憂うつになっていませんか?選手たちの頑張りに興奮し、感動を共有したと思ってもふと、我に帰ると、以前と変わらない孤独な自分を発見して、憂うつになる。今回は、秋の憂うつの聖書的解消法です。

 オリンピックは一時の心のカンフル剤となりますが、長くは続きません。私たちの身の回りで、心を元気づけるのは、よい人間関係を作ることではないでしょうか。それがうまくいっていないのが問題であったりします。

 ここで、一人の息子の話があります。彼は一度、父の願いを断りましたが、後で後悔して、心を変えて出かけたとあります。彼の心は憂うつから晴れ晴れしたことでしょう。

憂うつの原因は、内にある

 こんな経験ありませんか? 「どうして、あんなことを言ってしまったんだろう?」と後悔する。後から、後から後悔や反省の思いが出てくる。

 日本人は過去を後悔して前に進めない人、叉は、反省することなく問題をうやむやにして
しまう人が多いと思います。両方とも、過去を引きずったままで生きていることになります。どう解決したらよいのか分からない、罪過に対する対処を知らないのです。日本はドイツなどと違い、戦後処理の問題がいつまでも解決できていません。過去を引きずりがちな私たちですが、後悔する時があったなら、次のようにお考えになったらどうでしょうか。

後悔するより!

1) 私たちの後悔する失敗は、はじめから自分に欠けていたことで、失敗することは不思議ではなかったと考える。
 まず、自分の過失を認め、罪を認め、自分の失敗を振り返る時、「ああすれば良かった、こうしとけば良かった」と後悔にとどまるのではなく、その失敗は、わたし自身の欠けであったと認めることです。

 柔道の篠原選手は、審判の誤審で負けたと言われていますが、彼は「自分が弱かったから」と言いました。勝敗の真実は別として、これは立派な解決法であり、いつまでもくよくよするより、「ならば、これからもっと努力しよう、勉強しよう」と考える方がよいはずです。

2) やり直す
 ソクラテスは「無知の知」と言いましたが、自分の無知を自覚することが真の知にいたる出発点であると言います。そして、失敗し後悔しているなら、心を変えて新しくやり直すことです。そこに新鮮な心が芽生えます。

キリストに聞く

「信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである」 (聖書)
「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」 (聖書)

 人は人生をやり直すことは出来なくても、新しく始めることは出来ます。それは、後から心を変えた弟のような者です。イエス様はそのような人に、

「しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」

と言われました。

 憂うつ、それは人が現実に失望し、希望を失っていることであり、自分の失敗、罪の解決を出来ないでいる心の姿です。その解決は、自分の問題点を早く認めて、ボタンのかけ間違いを早く直し、つまり、始めからやり直す、新しい生き方を始めることではないでしょうか。

 神様はご自分から離れて生きている人に、主イエス・キリストにより和解をさせて下さいました。誰でも、彼を信じる者が神との和解を受け、神の恵みを知る生き方をするためです。

 心の憂うつは、単純な問題ではないでしょうが、しかし、多くの人は過去や自分自身の欠けにしばられています。ハッキリとキリストにより心を入れかえる生き方ができれば解決できると聖書は教えます。