こうちジョイタイムス2002年6月号 No36

神の水

  聖書は落ち込んでいる時でも、心を明るくしてくれます。不思議なやくそくがいっぱいです。

 例えば、聖句には、「金を出さずに、ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ」とあります。そんな所があれば、毎日なが〜い行列が出来るでしょう。

 確かに社会は、身体も心も潤されることを求め、渇いているように思います。ニワトリが、水を求めて、コオッコオッ・・せわしく鳴くように、渇きを潤すことを求めています。  聖書の神は、渇いている者を優しく招き、その言葉を信じる者に答えると言ってます。だから、聖書を読む時、慰められ、信じる時癒されます。

生ける水

 イエス様がエルサレムに近いサマリヤを通られた時、ひとりの可哀想な女に出会いました。彼女は、昼の12時、焼け付く暑さの中井戸に水を汲みに来ていました。人前に出られない理由がありました。イエス様も旅の疲れを癒そうと、井戸の側にいて、その女に「水を飲ませて下さい」と頼みました。彼女は快く水を分けてはくれませんでしたが、イエス様は女に言われました。
「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。しかし、わたしが与える水を 飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」
  (聖書 ヨハネ 4:13、14)


 水をくみに来た女に、イエス様はのどを潤す水を例にして、心と魂を潤す神の水の話をされました。

心の渇きを満たすもの

 私たちは心と身体が要求する欠乏を求め、毎日さまよっている者です。しかし、イエス様が女の心を潤す神の水の話をされたように、心が最初に満たされることを求めなければなりません。身体の欲求は、また渇きます。

「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう」 (聖書 ヨハネ4:13 )

 人は、モノを渇望しますが、モノでは満足できないものです。モノは無くても、心が満たされているなら、人は幸せを感じるものです。

 そして、心は神によってのみ、満たされるものなのです。 人はいくらかでも信じて生きています。人を信じ、社会を信じ、何も信じないでは生きられないものです。実際、精神的病は、社会生活に支障をきたすほどに、人や自分が信じられない、世のものが
信じられなくなっている状態ではないかと考えます。現代人は、信じられるモノを持っていないので悩み、不安を持っていると思うのです。  その渇きを潤すものはどこにあるのでしょうか。それを神はお持ちなのです。

神の水

 神の水はどこにあり?どうして手に入れるのか?聖書は次のように教えています。 1) どこにあるか それはイエス・キリストの元にあります。

「だれでも、かわく者は、わたしのところにきて飲むがよい」

とイエス様は言われました。 2) 何をすればよいのか?  罪を悔い改めて、信じるだけです。今までの不信仰を悔い改め、イエス・キリストを信じることです。

「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」
「さあ、かわいている者はみな水にきたれ。 金のない者もきたれ。来て買い求めて食べよ。」

 聖書の救は、すべての人にいつも開かれています。御質問のある方は教会まで連絡してくだされば、いつでもお答え致します。