こうちジョイタイムス1999年6月号

きょうを生きよう

「あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日で十分である」 マタイによる福音書6章34節

◇ さまざまな誘いと心配

 現代は四方八方から娯楽、ファッション、グルメなどの生活情報の誘いがあります。そして、ローンを組んだり、情報を追い求め、楽しみを追い求める時代になりました。
 よくクイズの商品に「グルメギフト」があり、旅には「グルメツアー」があります。
 もう一方で、健康志向の食べ物がもてはやされ、テレビでも健康がテーマの番組は視聴率が高いようです。

 街を闊歩する若者のファッションは個性一杯のテレビや雑誌の世界をそのままに表現しています。
 田畑が埋め立てられ、新しい家が建ち、アパートも新しくなっています。あちこちで建て替えが盛んです。

 人々は快適な生活を追い求めています。でも、それと比例して人生に様々な問題を背負い込み、悩んでおられる方が多いと思うのです。

◇ 思いわずらいは不要

 現代は質素な生活、単純な生き方などは出来ない時代でしょう。人はなにがしかの「心配」を心に持ち、問題を持ち、思いわずらいを持っています。
 聖書は空の鳥、野の花を例にあげて、その生き方から思いわずらわないように教えています。 空の鳥は食物のことで思いわずらいません。彼らはまくことも、刈ることもせず、倉に取り
いれることもしないのです。

 更に、思いわずらったからとて、寿命をわずかでも延ばせられるか? とイエス様は言われます。

 野の花は、自分で気を使って着飾ろうとしないのに、栄華を極めたソロモン王よりも華やかであると言います。
 思いわずらったからとて、自分の力が100%以上になったり、良い方向に物事が進むこともなく、却って、心が悩み、苦しみ、不調になり、良い結果は期待できません。思いわずらいにはなんら良い点がありません。

◇ 更に深い思いわずらい

 ところが、どれほど言葉で思いわずらいの悪い点をあげ理解してもらい、思いわずらいは不必要であることを明らかにしても、「・・・でも」と続けます。その根は深いようです。

◆この世で生きるとは?

 聖書は人生をこう言っています。
人類の堕落と罪の結果、この世で生きることは労苦である。
「地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る」 (聖書)

 これは労働によって、額に汗して生活することを教えています。生活には必ず労苦があります。ですから、悩み、苦しみが必ずあると覚悟する必要があるのです。

◆思いわずらいは強い反勢力

「あすのことを思いわずらうな。あすの ことは、あす自身が思いわずらうであろう」 (聖書)

 思いわずらいは執拗に私達を捕らえ、支配するほど、強大な勢力であり、活動的な
力なのです。まず、このことを理解しないなら、私達は負けてしまいます。
 聖書は「あすのことは、あす自身が思いわずらう」とあります。
「思いわずらい」は「あす自身」と人格者のように書かれています。思いわずらっている本人は解放を望んでいても、「思いわずらい」そのものは望んでいないのです。「思いわずらい」は、その人自身の意志に反してあなたと論じ続け、心配の種を蒔き続けます。人格を持った使いのようです。

 つまり、頑強な思いわずらいの中にある人は、一つの強大な心の反勢力と対決していることを自覚するべきです。

◇ きょうを生きる

「一日の苦労は、その日一日で十分である」 (聖書)

「現状を苦悩しているのに、どうして明日の事まで思いわずらうのか?」とイエス様は言われています。明日の事を思いわずらうことをやめて、一日の初めにその日一日に出来ることを決め、そして後のことは神様にゆだねて「きょうを生きる」こと、一日の労苦の分だけで十分だと言っています。

 ロイドジョーンズと言う伝道者が言いました、「信仰とは大部分、不安でいっぱいの思いを拒絶することから成り立っている」。信仰とは、思いわずらいを拒絶し、きょうと言う日を神に対する信仰を持って生きることから成り立っていると言います。

「主はわたしの助け主である。わたしには恐れがない」 (聖書)

「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」 (聖書)