今週のメッセージ 2007年
第2週報    2007年12月9日 2007年ビジョン「信仰」
    神のみわざが現れる
ヨハネ9:1-3
 「イエスが道をとおっておられるとき、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生まれつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。 ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである」」

 日常生活で、罪の責任を負わされる言葉こそが、一番辛いのではないでしょうか。「これはあなたの所為」「おまえが悪いから」・・・ 今も、アダムとエバの互に責め合う罪を、わたしたちは受け継いでいるのです。 弟子たちの言葉もそのままでした。
 「先生、この人が生まれつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」優しさのない言葉ですね。しかし、イエス様が答えられた。「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである」 私たちも、こんな人を励ます言葉を常に言えたらと願うのですが、この言葉は、いっぺんにその盲人を元気にしたことだろうと想像するのです。

 イエス様は、私たちを責められる神ではない。私たちに希望を与え、元気を与える救主である。「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である」 そして、私たちのすべての罪の責任を負って下さって、十字架の死をもって代価を払って下さった。イエス・キリストの元には、いつもゆるしがあり、休みがあることを覚える時、今もイエス様によって元気にされる。
第1週報    2007年12月2日 2007年ビジョン「信仰」
    救主イエス・キリスト
 1テモテ1:15
「「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。』

 罪人と言う言葉は、聞こえが悪いように思われるが、神さまは決して悪くは思われてはいない。なぜなら、キリストは「罪人を救うためにこの世にきた」とあるではないか。
 イエスさまが弟子の足を洗ってあげた時、ペテロは申し訳なく「私の足を決して洗わないで下さい」と言ったことがある。ところが、その時イエス様は「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」と言われた。 イエス様は、私たちの罪の汚れを洗い聖めるために、人となられ、私たちの所に来られ、驚くべきことに、私たちの罪の身代わりに、十字架の上で身代わりに死なれたのです。それほどに、神は私たちを愛しておられるのだと聖書は語ります。
 パウロは、イエス・キリストは十字架で、私たちの聖めを完成して下さったのだ。だから、私たちは彼を信じて、罪を赦され、聖められたと確信して良いのだと言いました。

 私たちは喜んでイエス様を信じなければなりません。神さまはこのような尊い救の準備を完成して下さっているからです。
 イエス様は罪人を責めません、ご自分の所に来るように招いておられるのです。そして、私たちはそのお言に従い、主の元に行くなら、罪をゆるされ、休みが与えられ、罪赦された平安の経験、恵み豊かな祝福を受けるのです。 
第4週報    2007年11月25日 2007年ビジョン「信仰」
    真の強さを受ける
 テモテ人への第1の手紙 1章12節「わたしは、自分を強くして下さったわたしたちの主キリスト・イエスに感謝する」

 自分を強いとか,弱いと思ったしますが、弱いということが真実です。神さまは弱いと私たちに言います。 どうしてか?
それは正しさよりも、自分の罪に弱いからです。
すぐに怒ってしまう。続けるべきなのにあきらめてしまう。
正しいと分かっていることを放り出してしまうから、弱いのです。
人間関係が大切なことは分かっているのに、つい腹を立てて,壊してしまう。
健康のため自制しなければならないのに、食べ過ぎ,飲み過ぎをしてしまう。
こうしなければならない、ああした方が良いのが分かっているのに出来ない。

 原因は、自分が自分に弱いからではないでしょうか。それは神さま中心でも,他者中心でもなく、自分中心だからです。だから、神さまが正しいとすることが出来ないのです。
 イエス様は次のように生きられました。ピリピ人への手紙 2章6〜8節
「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」

 強さとは、自分のためではなく、他者のために生きれることです。
そして、それが出来るようにして下さるのがイエス・キリスト様なのです。 私たちは正しい目標を持って、その道をイエス様に助けられ、信仰によって生きる時に、「わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである」と言えるのではないでしょうか。
第3週報    2007年11月18日 2007年ビジョン「信仰」
    模範とし、模範となる

2テサロニケ3:9「それは、わたしたちにその権利がないからではなく、ただわたしたちにあなたがたが見習うように、身をもって模範を示したのである」

 私たちの人生に、模範となる人を持つことは幸いなことです。今は理想像としての模範者を持たない方が多いのではないでしょうか。
聖書の中には、模範者を持つように教えています。 今日の聖句で、宣教師パウロ自身が教会の模範として示したとありますし、他の箇所ではイエス・キリスト様、先輩信仰者を模範とするように教えています。
 模範を持つことによって、私たちは目標がより具体的になり,イメージしやすく、より積極的になり,目標を達成しやすくなります。

1)あなたの周りの人を模範とすることを意識したらどうでしょうか。
 教会の中で、家庭の中で、仕事場で、色々な場で模範を見つける。正直に相手を褒め、人の長所を尊敬する。今まで、いつも欠点に目が行っていたら、これからは良い点を捜して、それにならおうとしてはどうでしょうか?
1)尊敬されるその人が元気になります。
2)模範をいつも目の前に見ますから、積極的に求め続けます。
3)その結果、自分自身の成長と共に、人間関係が良くなります。

2)自分自身も人の模範となれるように、意識されたらどうでしょうか?
我が子の模範として、兄弟姉妹、友の模範となるように。 難しいことではなく、小さなことから、出来ることから頑張ってみませんか。聖書を読むこと、優しくなること、祈ること、勤勉になること・・・
その結果は、平和がおとずれ、自分自身の成長として報いが与えられます。
第2週報    2007年11月11日 2007年ビジョン「信仰」
    神の言が早く広まりますように。
 2テサロニケ3:1「最後に、兄弟たちよ。わたしたちのために祈ってほしい。どうか主の言葉が、あなたがたの所と同じように、ここでも早く広まり、ま
た、あがめられるように」

 宣教師パウロは、神様から託されたお言(聖書の言)が、彼が行く先々で早く広まることを願いました。彼は行く先々で人々に語り、受けいれた人により更に他の人に伝えられて行きます。
彼は、ひとりの人ががイエス・キリストを信じ救われることが、神様の最も大きな望みであると理解していたのです。
1)早く広まる
 彼はゆっくりではなく早く広まることを願いました。なぜなら、時間の経過と共に大ぜいの人が死を迎えているからです。神様の存在も知らないで、神様の救いのみ業も知らないで、罪を犯したままに死んで行く人々が多いのです。
神様は言われています。
ヘブル9:27「そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっている」 人はどうしても罪の解決が必要なのです。
2)神様のお言があがめられる
 聖書の言が崇められるとは、神様を崇め、その教えを敬い受けいれることです。
イエス・キリストの救いの業を真心から受けいれ、信じることです。これらの態度こそが、信じた証と言えるのです。
私たちの望みは、私たちの信じる御子イエス・キリストと、そのみ言が多くの人に受けいれられ,神に救われ、神の恵みを喜ぶ人が増えることです。
そして、その福音が早く広まることが願いです。
第1週報    2007年11月4日 2007年ビジョン「信仰」
    真理に対する信仰
  テサロニケ人への第2の手紙2章13節
  「それは、神があなたがたを初めから選んで,御霊によるきよめと、真理に対する信仰とによって、救を得させようとし」

 テサロニケ人への第2の手紙2章には、興味深く「真理」と言う言葉が2カ所出てきている。10節「真理に対する愛を受けいれなかった」、13節「真理に対する信仰によって」。
真理とは、三つの意味があります。
 第1に、「イエス・キリスト」。イエス様が「わたしは道であり,真理であり、命である」と言われたように、信仰者にとると、彼こそが真理です。
 第2に、「事実」です。アリスとレテスは「在るものを在ると言い、在らぬものを在らぬと言うことが真理」と定義しました。真実こそが真理です。
 第3に、「道徳的正義」。例えば、命はどれほど重要か?と言う議論に、真理はどんな物よりも重いと応えます。愛は何か?最も重要な教えと応えます。

 この第1の中に、第2と第3が含まれている、イエス・キリストのうちに真実と正義があると言えるのです。
そこで、私たちは、イエス様に対する信仰と愛に生きることこそが、私たちを救い、真理に生きる道であると信じています。
彼を真実なる、現存する主として、彼の教えに従い生きることこそが、信仰者の真理を求める生き方なのです。教会とはそう言う所です。

「神の家というのは、生ける神の教会のことであって、それは真理の柱,真理の基礎なのである」 テモテ第1の手紙3章15節
第4週報    2007年10月28日 2007年ビジョン「信仰」
    神の恵みを信じる
 詩篇34篇8節「主の恵みふかきことを味わい知れ、主により頼む人はさいわいである」  テサロニケ人への第2の手紙1章12節
  「それは、わたしたちの神と主イエス・キリストとの恵みによって」
 信仰者は、神の恵みによって生きるように勧められています。 つまり、神様の恵みを信じて、自分の力に頼るより、神に信頼して生きるのです。
その時、私たちは神様の偉大さ,その恵みの深さを平安と共に理解する信仰生活を経験させられます。
今までと違った視点、価値観によって考え、行動するものとなります。
すべてを照らす光、見えない空気、日々の食事、人との交わりを喜び,感謝する生活です。なぜなら、すべてが神様の恵みですから。
私たちが心悩める不幸を、罪を犯した結果,神様の恵みが受けられないからと聖書は教えます。 ローマ3:23「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており」
 イエス・キリストによって罪をゆるされた私たちは、キリストのうちにある、限りない恵みを信じて生きるのです。そして、神の栄光、祝福を受けたいのです。
 私たちが求めなければならないことは何なのでしょうか?
神の恵みによって生きること、恵みの深さを味わう信仰生活です。
 つまり、主が下さるさまざまな恵みを信じて、信仰と希望をもって生きることです。恵みを数える生活です。神に信頼し、信仰によって、安心して、主にお委ねした生活を送りましょう。主は、私たちを幸いに導いて下さいます。

「主の恵みふかきことを味わい知れ、主により頼む人はさいわいである」
                       詩篇34篇8節
第3週報    2007年10月21日 2007年ビジョン「信仰」
   神の福音とさばき
2テサロニケ1:8、9「その時、主は神を認めない者たちや、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者たちに報復し、 そして、彼らは主のみ顔とその力の栄光から退けられて、永遠の滅びに至る刑罰を受けるであろう」

 今世の中には、理不尽(むちゃな)な事件、出来事が多い。人が神のさばきをおそれなくなり、平然と罪を犯している。犯した行為に当然の報いがあるなどとは考えないし、隠れて見つからないと思っている。
しかし、聖書は神様の裁きがあり、すべての行為には報いがあると教えている。
ガラテヤ6:7「まちがってはいけない。神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる」
黙示録20:12「死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた」
人は皆、罪人だ、だから、人は心を変えて、神様の救を受けなければならない。イエス・キリストは私たちの罪からの救主として、人となられてこの世に来られたのだ。そして、人の罪の犠牲となられた。彼に対する信仰だけで,罪人が救われる。神の愛なのである。
しかし、もし神を信じず、イエス・キリストを受けいれない者に対して、神は報復すると言っている。
2テサロニケ1:8「その時、主は神を認めない者たちや、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者たちに報復し」
 その時こそ,人は神の恵みから離されるというのだ。この世にあっても、人は神の臨在と恵みの中に生かされているが、裁かれる時には神から退けられ、一切の恵みが無くなる。
「彼らは主のみ顔とその力の栄光から退けられて、永遠の滅びに至る刑罰を受ける」 私たちは皆、キリストの福音を受けなければならない。
第2週報    2007年10月14日 2007年ビジョン「信仰」
   忍耐の尊い意味
2テサロニケ1:4、5「そのために、わたしたち自身は、あなたがたがいま受けているあらゆる迫害と患難とのただ中で示している忍耐と信仰とにつき、神の諸教会に対してあなたがたを誇りとしている。 これは、あなたがたを、神の国にふさわしい者にしようとする神のさばきが正しいことを、証拠だてるものである」

 忍耐は、ほとんどの場合、良い結果を生むと考えられているが、信仰者の場合はなおさらその忍耐は、尊いものと強調されている。
忍耐には、「動かない」と言う意味があり、信仰者として正しく生きる立場に立ち、道から外れない頑張りと言うことです。
そこで、何に対する頑張りであるかが大切であり、私たちは信仰に堅く立つと言うことなのです。それがもし、自我であるなら頑固と言われてしまいます。
 パウロは、テサロニケの人の忍耐と信仰とを、他の教会に対する「誇り」と言った。他の教会にも誇れるとは、忍耐が特に優れた行為であると言ったのです。それは、他を圧倒する輝かしい誉なのだ。あなたは、忍耐することを誇りあるものと考えておられますか?
1)忍耐によって、内面が成長する。
ローマ5:3、4「忍耐は練達を生み出し」 忍耐は,クリスチャンを「本物」へと成長させて下さいます。その性格の成長は、私たちをわくわくさせるほどのものです。
2)忍耐は、あなたが神の国の一員である証拠となります。
2テサロニケ1:5「これは、あなたがたを、神の国にふさわしい者にしようとする神のさばきが正しいことを、証拠だてるものである」
最後まで、神は信仰者を忍耐を持って堅く立たせて下さり,確かに救われた者であることの証となるのです。このように、忍耐には尊い意味があります。
第1週報    2007年10月7日 2007年ビジョン「信仰」
   いつも善を追い求めるために
1テサロニケ5:14-18
「兄弟たちよ。あなたがたにお勧めする。怠惰な者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。 だれも悪を持って悪に報いないように心がけ、お互に、またみんなに対して、いつも善を追い求めなさい。 いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。 すべての事について、 感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである」

 神様は私たちに、「みんなに対して、いつも善を追い求めなさい」と命令しています。それは、相手に取って善いことをせよと言うのです。 辛抱強く、その人の益となることをせよと言うのです。怠惰な者には戒めを、小心な者には励ましを、弱い者には助けて上げなさいと言います。
つまり、その人の一番の問題を解決のために手助けをしなさい、それが善であると言います。真にその人の立場に立った助けです。

 ところが、イエス様は良くご存じなのです。その時に、思いもよらない仕打ちを受けることがあることを,思いどおりに行かないために疲れ、気落ちすることを。

 だから、言われました。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい」イエス様もそのように試練を乗り越えられたのです。ヘブル12:2、3
そして、私たちがこのような善の行為のために苦しむ時、また主の歩まれた道を踏みながら勝利する時に、主は私たちを、その訓練を通して、尊く成長させて下さるのです。 万事が益となることを学びます。主のお言葉に従いましょう。
2007年9月30日
   近づく神のさばきと その備え
1テサロニケ5:8「しかし、わたしたちは昼の者なのだから、信仰と愛との胸当てを身につけ、救の望みのかぶとをかぶって、慎んでいよう」

 聖書は突然に、この世に終りが来ると警告している。
その時、神は我々の罪をさばかれる。誰も神の高い基準にとどかないから、人は皆、その罪をさばかれる立場にある。ところが、神はその愛の故に、救の道をもうけ、私たちがイエス・キリストを信じて救の道に入ったかどうかを見られる。
 そして、もしこのキリストの救を信じないで、神の尊い救いを無視しているなら滅ぶと警告しているのである。
1テサロニケ5:3「人々が平和だ無事だと言っているその矢先に、ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むように、突如として滅びが彼らをおそって来る。そして、それからのがれることは決してできない」
 信仰を持つかどうか?によって、人は皆この分かれ道に立つ。あなたはキリストを信じて,救われる道を選んでいるだろうか?

 それでは次に、幸いにイエス・キリストを信じて、神の救を受けた者に、神はどんな生き方を教えて下さっているだろうか?終末の時代にどう生きるべきべきなのだろうか。
 裁きの日が近いから、そのことで慌てよ,急いで特別な行動せよと教えているだろうか?聖書は次のように言っている。
「信仰と愛との胸当てを身につけ、救の望みのかぶとをかぶって、慎んでいよう」

 つまり、聖書は、今まで通り信仰を持ち続け,キリストの愛の教えを実践し,救の望みを持ちつづけるように言う。神のさばきが近づく時にも、人は慌てることなく、今まで学んだことを生活に実践し、さらに人格的に成長するように教えている。それがイエス様が教える終りへの備えだ。
2007年9月23日
    キリストと共に生きる恵み
「キリストがわたしたちのために死なれたのは、さめていても眠っていても、わたしたちが主と共に生きるためである。 だから、あなたがたは、今している ように、互に慰め合い、相互の徳を高めなさい」   
                テサロニケ人への第1の手紙5章10、11節

 多くの人は孤独に生き、孤独に死をむかえる。
詩篇90:10「しかしその一生はただ、ほねおりと悩みであって、その過ぎゆくことは速く、われらは飛び去るのです」と聖書の著者は語る。

 人生を血眼に頑張ったとしても、死を迎えた時に、真の目的が見つからないなら、それまでの目的は朽ち果ててしまい、空しさが残るのではないだろうか。
 神は、私たちがそのような空しい生き方をしないように願われている。神の愛は、人がその朽ち行く生と死から救われて、ご自身と共に朽ちない喜びに生きるように願われている。
「キリストがわたしたちのために死なれたのは、さめていても眠っていても、わたしたちが主と共に生きるためである」とある。

 イエス・キリストを信じるとは、私たちが孤独に生き,神を無視して滅びるのではなく、神と共に永遠に生きる望みを持つことである。
神は今も、信仰ある者の心を励まし,支え、み力をもって導かれている。そして、私たちは肉体の死を迎えることがあっても、同じ信仰の友と共に、永遠に主と共に生きる恵みを受けているのである。
だから、今の時も、互に慰め合い,互に徳を高め合って、明るく生きることが出来る。
 2007年9月16日    清い生活を目ざしましょう。
「神のみこころは、あなたがたが清くなることである」   
                テサロニケ人への第1の手紙4章3節
 私たちは聖さについて、次の二つの理解が必要です。
第1に、私たちは信仰によって、罪を清められたと言うことです。
ローマ1:7「ローマにいる,神に愛され,召された聖徒一同へ」とあるとおり、イエス・キリストを信じる者を聖徒と呼んでいます。
信仰を持った初期、あるクリスチャンは自分が清められたことをあやしんいます。自分の内面、行動を見ても,聖徒と言われるには、あまりに欠けていると思
うからです。
でも、信仰による清めは、行いによるのではなく、ただ約束による信仰による結果であって神様の恵みなのですから、キリストを信じる者は罪赦され、罪のない者とされた清めを確信すべきです。

第2に、清められた者に相応しく、生活を清めることが神様の御心であることを理解し、清めを求め,祈り、行動することがクリスチャンの務めなのです。
特に、ここでは性的不品行を慎み,自身のからだと心を清く尊く保ちなさいと教えています。
不品行は、私たちの生活の勤勉さを奪い,私たちを更に悪い習慣へと導きます。
反対に、清さの中に生きようとするとき、私たちは家庭を守るために働き、更にイエス・キリストに近づくよりよい目標を持ち続けることが出来ます。

その故に、罪を捨て清さに生きる為に、私たちには熱心な決意が必要なのです。
箴言20:30「傷つくまで打てば悪い所は清くなり」とあるように、不品行のような悪い習慣,罪を止め、生活を清くするためには、神様のチャンスと決断
が必要なのです。罪が示されている時がチャンスであり,清めの決断すべき時なのです。
 2007年9月9日   励まし合う関係
・ローマ人への手紙1章9節「兄弟の愛をもって互にいつくしみ,進んで互に尊敬し合いなさい」
・1テサロニケ2:20「あなたがたこそ、実にわたしたちのほまれであり、喜びである」
・1テサロニケ3:8「なぜなら、あなたがたが主にあって堅く立ってくれるなら、わたしたちはいま生きることになるからである」

 教会とは、神様が「互に愛し合う」ことを命令した実践の場です。
使徒20:28には、「聖霊は、神の御子の血であがない取られた神の教会」とあるように、教会にはイエス・キリストの犠牲によって、罪の滅びから救い出
された者たちが集まる所とあります。
この特別な集まりの中で、神様はどのように関係、交わりを示し、私たちは目ざしているのでしょうか?愛の交わり、愛の関係がそこに築き上げることを願っ
ているのです。
 世の中の交わりは、私たちを疲れさせるものが多く、その原因は、それぞれが自己中心的に考え,ある時は競争し,都合の良い時に仲間となり、しかし、い
つか人間関係に疲れ果ててしまいます。
 しかし神は、愛のない世から、イエス・キリストにより孤独な人を救い出し、愛の交わりを目ざすのが教会なのです。その中では,尊敬し合い,互に励まし
合い、安心できる祝された交わりを築く所なのです。
人が本来持つべき,愛の交わり,関係が出来る所。疲れた人が、そこで荷を降ろすことが出来,くつろげるところです。イエス・キリストがいつも語られ、彼
によって一つとなって生きるところです。
この交わりをつくりあげることが、私たちの重要な使命なのです。
 2007年9月2日    信じる者のうちに働く、神の言

1テサロニケ2:13「これらのことを考えて、わたしたちがまた絶えず神に感謝しているのは、あなたがたがわたしたちの説いた神の言を聞いた時に、それ
を人間の言葉としてではなく、神の言として--事実そのとおりであるが--受けいれてくれたことである。そして、この神の言は、信じるあなたがたのうち
に働いているのである」
 私たちが聖書を読むとき、二つの点に注意を向けたいと思う。
第1に、聖書を神の言として、受けいれているか?と言うことです。
聖書の言は、単なる知恵を与えることわざではない。その言には、神の力があり、また意味がある。
イザヤ55:11「このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す」
聖書の言には,神のお力があると認めて、聖書を読みましょう。

第2に、聖書のお言は、私たちの内に最も効果的に働くことです。
私たちは、つい周りを見回し,自分ではなく周りが変わることを願います。また、どちらが悪いか考えて,悪い方が直されなければならないと考えます。
しかし、神様のお言はうちに働くとあります。
御言を読み、受け入れる時、その言を信じるその人のうちで,み言が働くというのです。その人の人格が変えられ,神様の栄光を現すのです。
私たちは喜びます。なぜなら、最も重要な私たちの願いである、私たちがイエス様に近づく奇跡が起こるからです。
兄弟姉妹、み言は、私たちの内に働くものであり、私たちを変える主の愛の剣なのです。喜んで,主の前に自分を差し出しましょう。
 2007年8月26日    神様から勇気も貰う
1テサロニケ1章2節「それどころか、あなたがたが知っているように、わたしたちは、先にピリピで苦しめられ、はずかしめられたにもかかわらず、わたし
たちの神に勇気を与えられて,激しい苦痛のうちに神の福音をあなたがたに語ったのである」

 私たちは思わぬ試練に向かうと、問題が大きくならないように、それがどういう意味があるか考えもしないで逃げ出そうとする。
立ち向かう勇気が出てこないのです。自分自身が担う重荷をあまりに大きいとあきらめるのです。

 しかし、信仰者の模範者であるパウロは、逃げ出さず、自分の姿勢を変えなかった。神様からの使命を全うするために、神の福音を語る彼の使命を継続しま
した。

私たちも正しい働きであるなら,勇気を持って、忍耐強くその働きをつづけられる者でありたいと願う。止めるから、その後の恵みを見ることが出来ないから
だ。聖書には、忍耐強く継続したからこそ、目的のものを得た記録が多くあり、諦めた者には祝福がなかった。

今、私たちが直面している試練は、神様の御心にそった正しい事のためだろうか?
もし、そうなら神様から勇気をいただいて前進することを目ざそう。

恐れ,心配、苦痛,不安を神様のお委ねして、平安をいただこう。そして、神様に信頼して、勇気をいただいて、試練に立ち向かおう。その後に、神様の祝福
があることを,苦しみの中にも信じて、信仰を持って進みましょう。
 2007年8月19日   仁戸名教会の牧師、兄姉に感謝。
コリント人への第一の手紙9章24、25節「あなたがたは知らないのか。競技場で走る者は、みな走りはするが、賞を得る者はひとりだけである。あなたが
たも、賞を得るように走りなさい。・・・わたしたちは朽ちない冠を得るためにそうするのである」

 夏休みの8:15-17と仁戸名のダビデスピリッツが訪問して下さった。二つの集会で演奏して下さり,小林先生は案内,説教に全身全霊でご奉仕して下
さいました。
心から感謝致しました。
団員は小学校3年生〜5年生頃から楽器の練習を始めている。そして、すぐにコンサートなどに出て腕を磨き、今では本当に統率がとれ、福音を伝える働きに
用いられている。彼らの成長と信仰を考えてみよう。

1)ビジョン
牧師は教会オーケストラの願いを持ち,祈り、準備し、そして道が開かれた。彼らの楽器は皆、他から無償で譲られたと言う。神様が道を開かれたのだ。

2)チャレンジと成長
そして、彼らは練習を初めてすぐにコンサートに出ている。多分、未熟な状態でも挑戦したのだと思う。そして成長した。行動を起こすことによって、願いが
強まり、技術においても精神面でも成長した。

3)中心は主イエス・キリストへの奉仕の心
彼らは信仰によって、働きを継続している。自分のためではなく,主の栄光のためであり,献身の心が整えられた。だから、試練が来ても忍耐が出来、進む方
向も間違わない。彼らの信仰と方向が一致しているところに祝福がある。
 2007年8月12日   神に立ち帰った証
1テサロニケ1章6-8節「すなわち、主の言葉はあなたがたから出て、ただマケドニヤとアカヤに響きわたっているばかりではなく、至るところで、神に対
するあなたがたの信仰のことが言いひろめられたので、これについては何も述べる必要はないほどである」

 キリストは、私たちの代わり映えしない人生に光を照らして下さった。
このテサロニケの町でも、人々は喜びのない,希望のない日々を送っていたのだと想像する。
しかし、彼らはキリストの福音を語る者が来た時に、人生が変わってしまった。彼らは偶像を捨て、目が開かれ、神に立ち帰って、主に仕える道を選んだ。
1テサロニケ1:9
更に、主が再びこの地に来られて、神の国に永遠に生きる望みを持った。その変わり方が素晴らしい。
 彼らは確信したことを,黙ってはいなかった。彼らは確かに信じ、彼らの心は平安、喜び,確信が溢れたのだ。だから、誰かに語ろうとした。救いの証を隠
さなかった。
9節〜10節を見るとき、
彼らは福音を伝えるパウロとの出会い,彼を受けいれ,イエス・キリストを信じたこと,その後に、熱心に偶像を捨て、真心から神様に立ち帰ったことを言っ
た。神様に立ち帰るとは,キリストを主として、新しい生き方を始めたのだ。
そして、神様に仕える道を選び,キリストを証する人生に入った。

 私たちも真実なる神様に立ち帰る経験をしたなら、その証を隠さず、語る時が来ているのではな
 2007年8月5日   互に仕える
エペソ5:21「キリストに対する恐れの心をもって、互に仕え合うべきである」

 イエス様は、人格を持つ者同士の関係が一番大切だと教えてくれる。
信仰とは、神様との関係の修復と言えるが、同時に神様は、人同士の関係も非常に大切だと言われる。関係を親密にせよと言われる。
私たちは神様を恐れ敬う心をもって、互に仕え合うことが重要なのです。愛し合うことです。
互に仕えるとは、どういうことだろうか?
それは、あなたの隣人との関係において、神様と相手が喜ぶことをすることであります。例えば、コロサイ3章18節から書かれている。
1)妻たる者へ 夫に仕えなさい。これはあなたの夫も最も喜ぶことです。
2)夫たる者へ 妻を愛しなさい。辛くあたらない。これはあなたの妻が最も喜ぶ ことです。
3)子たる者へ 両親に従いなさい。これは両親が最も喜ぶことです。
4)父たる者へ 教える者として、子供をいらだたせてはいけない。子供は親が良き理解者であることを望んでいます。
5)僕たる者へ 主人に従いなさい。仕事の上司は従うことを望んでいます。
6)主人たる者へ 正しく公平に扱いなさい。使われる者は公平を望んでいます。

 これらすべての教えは、神様にも相手にも喜ばれることを積極的にすることを教えています。
あなたが、この御言葉に従うなら、神様の素晴らしいお働きをそこに見るのです。
その人が救われるか、親しい関係,愛の関係ができるか、共に健康的に成長するか・・・神様は必ず祝福を持って、あなたを導かれるのです。
第5週報       2007年7月29日
    聖書をよみ、まなぶ
コロサイ3章16節「キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌によって、感謝して心から神をほめたたえなさい」

 聖書を読むことは、信仰を持ったとき,最初に牧師から言われることではないかと思う。聖書を読むことによって、どんな有益があるか。
1)神様との交わりが生まれる。
 祈りは神様との交わりだと言うが、同時に神様からの言葉は聖書から来る。神様は変わらない方であるから、御言葉を通して,神様の御心を深く知る。

2)知識を知る。
 人類の歴史、神様、人、救い、人生の道などについての真理を知ることが出来る。深く学ぶ中に、更に聖書から真理を教えられる。私たちが知覚できるすべての点で,分からないままで置くこともあるが、ほとんど納得のいく理解を得る。そして、徐々に分からない所も教えられてくる。

3)自分の思考が変わり、人生が変わる
 思考が変われば、人格が変わるように、生き方が変わり人生が変わる。その方向はイエス・キリストに向かう方向であり、神様が喜ばれる道である。例えば、愛することを最重要に考えるようになる。だから、聖書を読むこと、それを正しく理解することは非常に大切な学びなのです。聖書を正しく理解するなら、次に従うことが重要になります。
第4週報      2007年7月22日
    交わりの秘けつ ゆるし
コロサイ3:13
「互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。」

信仰生活の特徴に、聖書は愛の交わりを教えている。
 互に奉仕をし、互の悲しみや喜びを共有する関係を持つことである。「交わり」(ギリシャ語「コイノーノス」)には「共にする人、共にあずかる者」と言う意味があり、一緒に何かをし、何かに向けて真心を込めて、共に時間も思いも共有する関係である。そこに喜ぶ交わりである。 その時、私たちは正直に、語り、行動する中に、交わりが深まり、また私たち自身の心が成長して行く。勇気を持って、正直に語り合うことである。そして、その良い関係を守り維持する秘けつが、「互にゆるし合う」ことである。
箴言17:9「愛を追い求める人はあやまちをゆるす、人のことを言いふらす者は友を離れさせる」

 今日は、夏恒例の教会バーベキューがあります。子供たちは喜び、大人も交わりと食事を楽しみにしています。そこで何が重要になるのでしょうか?
1)交わりを深めるため、心を開いた、正直な会話をしたいものです。
2)また、問題が起こった時は、すぐに忘れ、ゆるし合いましょう。

 これらすべてが、私たち自身の霊的な成長につながっており、更に、私たちの交わりが深められるのです。家庭で、仕事場で、積極的にゆるすことを実践するなら交わりはより祝された、安定したものとなることでしょう。
第1週報    2007年7月1日
    明らかにされている救い
コロサイ1:26-27 「その言の奥義は、代々にわたってこの世から隠されていたが,今や神の聖徒たちに明らかにされたのである。 神は彼らに、異邦人の受くべきこの奥義が、いかに栄光に富んだものであるかを、知らせようとされたのである。この奥義は、 あなたがたのうちにいますキリストであり、栄光の望みである」

 福音(聖書の救の教え)に接した人、その内容を深く知った人は、皆驚く。
神様とそのご計画がダイナミックであることに。また、この世界が現実にそのご計画に従って進んでいることを知らされるからだ。そして、その計画の中に自分自身が関わっていることを知り、神様がわからず、遠い存在だと考えていた者には、身近な存在となられた神様に驚ろかされる。 そして、その救の祝福の大きさに感謝するようになる。

・あなたは、今も働かれている神様を信じるか。
・神様はあなたを救おうとしておられることを信じるか。

この望みが、自分自身のものとなるのは、ただ神の御子イエス・キリストによる。 そして、このキリストの救を、「異邦人の浮くべきこの奥義」と教えている。 神様は神様から全く離れ、不幸に生きる者に、「イエス・キリストを信じる者が救われる」救のご計画を明らかにしてくれた。

 私たちはこの奥義にある望みが、どれほど大きく、私たちの生き方さえも変えるほどに、根底から励まし,強め、望みを持たす救いであるかを知れなければならないのです。
第3週報    2007年6月17日
    天のお父様
ローマ8:14-16 「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである.その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる」

 祈りの集会で、ある姉妹が「天のお父様」とお祈りを始めた。
私はなんとも言えない新鮮さ,親しみの呼びかけに、心が感動したことを覚えている。私たちは神様に対して、心からの親しみをもって「天のお父様」とする特権をいただいている。なんと言う感謝だろう。
イエス様が、祈りを教えて下さる時に、こう教えて下さった。
「だから、あなたがたはこう祈りなさい。天にいますわれらの父よ。」マタイ6:9

 あなたは、このように呼びかける方をお持ちだろうか?
聖書の神様は、イエス・キリストを受け入れる者、その名を信じた人たちには神の子とする特権を与えると言われた。神様が父親となって下さると言うのだ。なんと言う幸い、恵、特権であろうか!

 私たちは神を父とし、神様の家族に入れて下さることに驚きと感謝でいっぱいである。そして、この恵によって、試練の多い中であっても、恐れ,心配,思い煩いを持たずに生きることができる。
天のお父さまは、いつまでも変ることがなく、私たちを支え、見守り続けて下さる神様である。
第1週報    2007年6月3日
    恵に満ちたキリストの支配下
コロサイ1:13「神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった。」

 私たちは皆、何かのコントロールの中にある。自分で自分をコントロールしていると思い、ある時は理性で、ある時は感情で、考えて行動している。だから、満足であるはずなのだが、満たされないものが心の中に増えてくる。 何のために生きているのか、 生きる価値のある目標はあるか? 自分はなぜ今いるのか? も分からない。聖書は、人は 「やみの中、やみの力にコントロールされている」 と教えてくれる。自分のコントロールと言うが、実は闇の力にコントロールされているのだ。もし、あなたが新しい生き方を見つけたいなら、イエス・キリストをご紹介したい。
 聖書のメッセージは、その私たちを 「やみの力から救い出して」 と言っている。イエス・キリストを信じて、自分で解決出来ない闇の力から、神によって救われよ!と勧めているのだ。つづけて、キリストを信じた信仰者の立場を、次のように言っている。
 『その愛する御子の支配下に移して下さった』
闇の支配から、愛される御子の支配の下に移されているのだ。
 感謝なことに、ここに人の真の喜びと平安がある。
支配する方がイエス様だから、私たちは安心し、その恵を信じる信仰生活に入ることが出来る。人は皆、イエス・キリストの元に行くことにより、ゆるしを経験する。また、本当の生きる意味を見いだし、喜ぶことが出来る。そして、キリストが更に弱い自分を、正しくコントロールして下さることをを願うようになる。そこに人の本当の生き方がある。
第4週報    2007年5月27日 2007年ビジョン「信仰」    満たされている人生の秘けつ
ピリピ4:11-12 「わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ」「富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている」

 状況によらず不平不満がなく、物事を前向きに、肯定的に考えれる人生は、満たされている人生である。そのような人は明るいだろうし、簡単には気落ちしない。そして、次の特徴がある。

1)現状の不足が、不幸の原因になるとは考えない。 あれがない、これがないことが、不幸の原因にならない。不満の原因が、何かの不足と考えるなら、その人は決して満たされた人生を見いださないだろう。すべてが満たされた人は一人もいない。乏しいことを思いわずらわないことは、次の祝福のステップとなる。

2)信仰によって、見えないものを期待している。 原因を世の中に求めない代わりに、見えないものを信じ、追い求めている。そこに元気の源を置いている。イエス・キリストの言葉
ヨハネ4:14「わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」

 私たちが満たされた人生を送る秘けつは、神なるイエス・キリストに信頼し、その恵をしっかりと受けることから始まる。そして、キリストは永遠に変ることがなく、その恵は泉のごとく尽きることがないから、人は主キリストにあって、真に心が満たされる経験をすることが出来る。
第3週報    2007年5月20日  2007年ビジョン「信仰」      神様の御心を行う
ピリピ4:9「あなたがたが、わたしから学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことは、これを実行しなさい。そうすれば、平和の神が、あなたがたと 共にいますであろう」

1)神様は私たちに人生の目的を与えている。 
私たちは自分の目的は持っているが、神様が人に与えている目的を知らない。
自分の目的だけを見て生きるので、多くの人は神が喜ばれる本当の人生を見失っている。エリートだと思われていた者が、思いもよらず凶悪な犯罪を犯す。神を知らない者のもろさを見る。その心の奥に、目標を見失い、行き場、居場所を見つけられないうめく声が聞こえる。私たちは、神様が教えて下さっている人生の目的に目を向け、それを知 り、その土台の上に人生を建てていかなければならない。

2)そして、神の御心を実行しなければならない。
聖書は私たちが神の言を読み,聞き、見たことを実行するように命じている。その結果として、「そうすれば、平和の神が、あなたがたと共にいますであろう」とある。クリスチャン人生は、どれだけ神様の御心を知り,実行しようとしているかで祝福が決まる。事実、主の御心に従っている聖徒たちの歩みには霊的な祝福がある。 そこで、自分に問いかけてみよう。
私は、第一に、イエス・キリストを救主として心に受けいれているか?
キリストを信じた後に、何をしなければならないかを知ったか?
その教えを理解して、私はそれを実行しようとしているか?
この行動の中に、神様の恵があらわれると神様は言われます。