今週のメッセージ2008年   2007年
2008年12月28日 
恵みを知り、感謝の生け贄をささげます。
 ヘブル13:14-16「この地上には、永遠の都はない。きたらんとする都こそ、わたしたちの求めているものである。 だから、わたしたちはイエスによって、さんびのいけにえ、すなわち、彼の御名をたたえるくちびるの実を、たえず神にささげようではないか。 そして、善を行うことと施しをすることとを、忘れてはいけない。神は、このようないけにえを喜ばれる」

 2008年最後の日曜礼拝となりました。 私たちはこの日も、主のめぐみに心から感謝し、そして神様を心から賛美しましょう。
世では色々な不幸な出来事が起こっていますが、私たちの心には主の平安があります。 私たちは既に、神の恵みにいっぱい満たされています。

1)身の回りにあるあらゆるものが神様からの恵みです。
 命を受けていること,健康、友人、自然、季節、聖書、教会・・・毎日の生活にある様々な物は神様の恵みです。それらを豊かに受けています。

2)信仰を持つ事によって受けた祝福は神様の恵みです。(救いの恵み)
 イエス・キリストを信じることによって、新しい恵みの経験をしました。 悔い改めに導かれ、信仰に導かれ、新しく生まれ変わらせて下さり、義と認めて下さり、神の聖霊を内に受け,主による清めの中にあり、主の守りの恵みの中にあります。私たちは皆、神の子としてのこのような豊かな恵みの中にあります。

 今年、私たちはこれらの恵みを、その中途かもしれませんし、量が少なかったかもしれませんが、実体験させていただいたのです。 聖書知識の成長、人格的成長。心の成長と共に、愛の交わりの祝福。教会の成長。皆様の心はこれを喜び、心からの感謝をお持ちでしょう。

 この喜びと感謝を、神様に賛美をいけにえとしてささげる事を勧めています。
わたしの心は主イエス様を賛美し、喜びます。父と御子、聖霊なる唯一の神に心からの賛美を捧げます。救いを感謝します。そして、主に喜ばれる事をしようと願うのです。わたしを救ってくれてありがとう、わたしを新しく造りかえて下さりありがとう、心から感謝しますと。 あなたの歩まれた道をわたしも歩みます。
2008年12月21日 
クリスマスの喜び
 ルカ2:10、11「御使いは言った,『恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。 きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生まれになった。このかたこそ主なるキリストである」

 ベートーベン作曲の「喜びの歌」は年末年始に良く歌われます。ドイツ語の詩は、
『美しい神なる閃光(ひらめき)は大きな喜び(歓喜)だ。  天国の楽園からの娘は大きな喜びだ。  神よ! 我々は貴方様の天国のような聖域に、 情熱を持って(情熱に飲まれたように)踏み入る。  貴方様の神的な不思議な力(エネルギー)は、  今の流行や風習などで強く、引き裂かれたものを再び結びつけ、  貴方様の神なるやさしい翼の触れる所では、  すべての人間がみんな兄弟姉妹になる。』

 朝気持ちよく口笛を吹いていると、「「喜びの歌」でしょ、天国と地上の喜びを歌ってるんだよ」と小学校一年の娘が教えてくれました。

 私たちはクリスマスをお祝いします。神様の下さる大きな喜びを、世の中の多くの人にお伝えすることを願って、クリスマスを喜びます。以前、私はこの喜びを知らない者でした。しかし、救主イエス・キリストを知り,信じるに至って、罪から救われ、この喜びを味わう者に変えられたのです。 

この喜びは何か?あまりに多く、広く、深くて、わたしには十分答えることは出来ないのですが、おおざっぱに言えば、それは信仰生活に伴うあらゆる喜びです。世の中の様々な罪、汚れ、失望,空しさから救われて、聖なる神と同じ家族となり、その愛の中に生き,永遠に生きる喜びであり、同じ信仰と同じ救いをいただいた兄弟姉妹と愛の交わりの中に生きる喜びです。また、様々な神の守り、救いの喜びです。

 私たちはイエス・キリストによって新しく生まれ変わり、新しい道を進む兄弟姉妹に導かれました。神から全く離れていた者たちが、イエス様により、恵みによって神様に立ち帰らさせられて、この喜びを喜ぶ者となったのです。

 クリスマスはその大きな喜びの知らせです。
2008年12月14日
クリスマス キリストの恵み
ヨハネ1:16、17「わたしたちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、めぐみにめぐみを加えられた。律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたのである。」
クリスマスは、神様の恵みが世に明らかにされた日をお祝いする日です。この恵みは私たちの大きな喜びとなるものです。

1・神様の恵みを知っていますか?
世の人の心は、神様の恵みに対して盲目になっています。神様が見えない,見ようとしない。また、見えてないことを認めないのです。イエス様は、「見えると言い張るところに罪がある」と言われました。神様は、恵みが見えない私たちのところに見えるようになるためにイエス様を送って下さったのです。 ヨハネ9:39「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人が見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」 見えないことを真実に認める人に、罪をゆるし、恵みを与えようとして下さっているのです。あなたはイエス様の恵みを知っていますか?

2・恵みはキリストを通してきたのです。
「めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたのである。」 神様の恵みをどこに求めるべきでしょうか。それは、イエス・キリストにのみ求めるのです。 自分では救いを受けることが出来ないと分かっている人は、イエす様に求めなければなりません。恵みはキリストを通してくるからです。 神に恵みを求める人は、
a ) 聖書を読み、キリストに従う道を求めます。
b ) 祈りを通して、神様に恵みを求めます。

3・恵みを知りたくありませんか?
私たちは聖書の言葉を通して、また信仰生活の中に恵みを理解するようになります。信じるなら、その恵みは人生全体に広がり、聖書は、その恵みがますます増し加わることを教えています。キリストとその言葉に従うことによって得る恵みです。神様の恵みの素晴らしさを日々に味わうというのです。その恵みは泉のように湧きいで、私たちを満たすというのです。神様の恵みを知って下さい。
2008年12月7日
兄弟愛を目ざして
ヘブル13:1「兄弟愛を続けなさい」
 兄弟愛とはギリシャ語で「フィラデルフィア」と発音し、アメリカの独立宣言の都市の名前となっています。兄弟と言っても,男性だけをさすと考えることはなく、人同士の愛、または同じ信仰者同士の愛のことです。その愛は、信仰を持つことによって可能であり、信仰によってのみ味わう恵みなのです。そして、神はそれを目ざし続けなさいと言います。私たちはその愛を教会の大きな目標にしているのです。
1テモテ1:5「わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と偽りのない信仰とから出てくる愛を目標としている」

1・兄弟愛の素晴らしさ
詩篇 133:1 「見よ、兄弟が和合して共におるのは、いかに麗しく楽しいことであろう。」
私たちは限られた人間関係の中で、孤独な人生を歩んでいます。しかし、神様は独りで生きることを喜ばれず、愛する友を持ち,その関係を大切にすることを願っています。私たちは信仰を持つことによって、初めて兄弟愛に生きることを学び,そこに喜び、楽しさを見いだします。

2・兄弟愛の恵み 兄弟愛に生きる時、どんな恵みがあるのでしょうか。
1)神様と共にあることを悟るのです。
1ヨハネ4:7「すべて愛する者は、神から生まれた者であって、神を知っている」 神様のみそばに生きていることを自覚できることは,何と幸いでしょう。信仰と愛こそが神様と共に生きる自覚を与えるのです。
2)励まし合いとなります。
愛し合う兄弟姉妹を持っていることは、私たちの人生の大きな心の助けになります。信仰の戦いにおいて勇気を受けます。試練のときの助けとなります。教会は互の人生を、神様と信仰の友と共に生きる集まりです。

3・兄弟愛の実践  愛は行動の力の源泉です。1コリント13章にあるように、愛は他の人を気にすることなく、後ろ向きの心となることなく、イエス様のように心から行動する力となります。
1)ありのままを愛します。
2)相手の心を第一に思います。
3)裏切りません。
愛は与えるものであり、犠牲を伴いますが、それ以上に兄弟姉妹と共にあることを喜び楽しむのです。
2008年11月30日
京都教会より 近松満牧師をお迎えして
「まことの光であるイエス・キリスト」

ヨハネ1:9〜12「すべての人を照らすまことの光があって,世にきた。彼は世にいた。そして、世は彼を知らずにいた。彼は自分のところにきたのに、自分の民は受けいれなかった。しかし、彼を受け入れた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである」」

 本日は、京都の母教会から近松満牧師をお迎えしての礼拝です。毎年、年の暮れには高知を訪問して下さって感謝です。私は30才の頃、京都の教会でイエス・キリストを救主として信じ救われました。その頃は、生きている意味が分からなくなって、全く迷ってしまっていて、救いを求めて教会に行ったことを思い出します。

 それから20数年が過ぎました。しかし、その時以来、イエス様を信じ、心迷ったときもあったかもしれませんが、神様を信じ,従がってこられたことを心から感謝しております。イエス様は、「まことの光」と呼ばれますが、私たちの心を照らすことの出来る唯一の方です。

1)私の心の本質を見せて下さいました。
それは、愚かで,罪深く,迷っていますが、神に愛されている心でした。神様に対して目が開かれれば開かれるほど、自分の足らなさが見えました。高ぶりを教えられ、自分が全く変えられなければならないこと、そうでないと、真の幸福にはとどかず、神様が喜ばれる生活が出来ない事を教えられました。

2)希望を与えられました。
しかし、同時に光に照らされ、光に向かう時に、私たちは希望を貰いました。イエす様によって正しい心に少しずつでも変えられて行く希望です。また、イエス様ご自身が、神様と共にあって、私たちの希望となって下さっていることを知りました。

今振り返ると、信仰をもってから、この世の栄華からは離れたかもしれませんが、神様の栄光には近づけたと感謝しています。そして、これからも欠けが多い中にも、更に光の栄光へと導かれることを信じています。救いを感謝です。

2008年11月23日
私たちの神は焼きつくす火

ヘブル12:27-29 「この「もう一度」という言葉は、震われないものが残るために、震われるものが、造られたものとして取り除かれることを示している。このように、わたしたちは震われない国を受けているのだから、感謝をしようではないか。そして感謝しつつ、恐れかしこみ、神に喜ばれるように、仕えていこう。わたしたちの神は,実に、焼きつくす火である」

「わたしたちの神は,実に,焼きつくす火である」とのお言葉がこの聖句をまとめています。なんと厳しい神の呼び名でしょう。
私たちは聖書の神様を「愛の神」「ゆるしの神」「救いの神」と信じていますが、また神は恐るべき焼きつくす火であると言っています。私たちは悟りのない者ですから、この意味の深さを聖書から学びましょう。

1)神の恵みの終わる時が来る。
2コリント6:2「見よ、今は恵みの時、見よ,今は救いの日である」今は、恵みの時、救いの日とあるように、私たちは神様の恵みの中に生きています。しかし、終りが来る。のんびりしておれない時が来ると言います。

2)その終りは恐ろしいのです。黙示録20:11ー21:1
「わたしたちの神は、実に、焼きつくす火である」と言われるのは、そのさばきの大きさ,広さ,確かさにおいて、その恐怖は人の思いを絶するからです。大昔、ノアの洪水で人類がさばかれましたが、それを超す大きな変化があります。

3)義を追い求める者は感謝する時。
それは、悪と言われるもの、世の罪を全くさばかれるときです。しかし、「このように、わたしたちは震われない国を受けているのだから、感謝をしようではないか」 この時、義を求めていた者は、その義の成就の見、一切が義となるので感謝しようと言うのです。その中に住むのだから感謝しようと言います。

しかし、その時、震われる人が多いのです。
罪を悔い改めることをしなかった人は、赦しのときが過ぎてしまったんです。神様は容赦をされません。今、私たちは、私たちの家族、友、知人が,世の人が一人でも震われることなく、永遠の命を得ることが出来るように歩むべきなのです。まず、私たちが熱心に悔い改めて、福音に相応しい生活をすべきです。
福音に生き、福音を伝える者となることです。

2008年11月16日
信仰の歩みをまっすぐにしよう
ヘブル12:12、13「 それだから、あなたがたのなえた手と、弱くなっているひざとを、まっすぐにしなさい。 また、足のなえている者が踏みはずすことなく、むしろいやされるように、あなたがたの足のために、まっすぐな道をつくりなさい」

 信仰者は、罪からの救主としてイエス様を信じることによって生まれ変わりました。新しい信仰をもってイエス様と共に人生を歩み始めたのです。その信仰生活は、平安と明るさがあるものですが、その人格的成長のために神様は信仰者を苦しさと悲しさの中にも入れられることがあるのです。でも、そこで悲しみに落ち込み,弱ってはならないと聖書は教えます。

ヘブル12:3、4「わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主は責められるとき,弱り果ててはならない。主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」

イエス様は、信仰のあるすべての子をむち打たれるのです。
 私たちは根っからの罪人です。ですから、神様は人を懲らされるのです。その時は悲しく感じるのですが、その訓練によって、私たちが謙遜にされ、罪の自覚によって、きよめを与えて下さるのです。そして、よかったと言えるようになるのです。

 しかし、もしその訓練によって心が弱ったままにあるなら、「手とひざをまっすぐにしなさい」といわれます。信仰的に元気になりなさいと言われるのです。 大体、信仰者が弱る理由は、神様が共におられることを忘れ、信仰が弱るからなのです。自分の弱さを知って、罪を自覚し、神様に深く頼る信仰が生まれればよいのですが、神様に目が行かなければ弱るのです。

 さらに、教会の中で、信仰を踏み外すことがなく、弱った者が癒されるように「まっすぐな道をつくりなさい」と言われています。それは教会の中で一人一人がまっすぐに生きることにより、教会に神様にまっすぐな道がつくられるのです。その道は、その教会に集まる信仰者を励まし、助け、元気を与えるのです。 教会において、一人の人が曲がった信仰生活をするか、まっすぐな信仰生活をするかは大変重要です。

 一人の人がイエス様を信じ、イエス様にしたがって、イエス様と共に歩むなら、私たちの信仰生活はよりよいものとなります。

2008年11月9日
信仰者の競走
ヘブル12:1-2「 こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。」

聖書は、私たちが参加すべき競走を走り抜こうと勧めています。信仰生活をある競走であると言うのです。マラソンのような競走に似たところがあると言うのです。 競走には,次の四つの特徴がありように、信仰生活にも4つの注意点があります。

1・ルールに従わなければなりません。2テモテ2:5
1)神の義を求める競走です。マタイ6:33
自分の幸福を第一に求めるのではなく、神様が喜ばれる義を第一に求める信仰生活でなければなりません。
2)信仰によって歩む競走です。ヘブル11章
信仰的であることを求めています。現実がどうであるかではなく、神様に信頼し、まだ見ていないことを信じて進みます。
3)自制による競走 1コリント9:25
罪を取り除くなど、自分を自制することが求めら、安易な競走ではないのです。

2・忍耐しなければなりません。
「わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。」
1)信仰に立ち続ける。
2)信仰的行いを継続する。

3・一つのゴールを目ざします。
「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか」
1)キリストに似ることがゴール
私たちは、地上生活においても心満たされる生活をすることが目標です。その時、信仰の導き手、完成者であるイエス・キリストを見続けるのです。
2)イエス・キリストと同じ栄光のゴールを目ざして
黙示録3:21「勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である」 イエス様と同じ座につけると言うのです。
2008年11月02日
信仰者の信仰と行動と恵み
ヘブル11:6「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自分を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。」
ヘブル 11:16 「しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった」

信仰とは心すすがれた、平安の生活を与えてくれます。罪を解決するなら、幸いな信仰生活があります。

1・信仰とは何か?
信仰とは、生きておられる神様の存在を信じることです。
1)すべての存在の源なる全能の神様を信じる。
ヘブル11:3「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出たものではないことを、悟るのである」
2)神様に求めるなら、答えがあり報いて下さると信じる。

2・信仰とは、行動させるもの。
信仰とは、行動の原動力となるものです。それを邪魔するのが罪ですから、罪から解放され、内面において信仰を第一とする心となるなら、行動する者となります。昔の信仰者は、
1)祈る者
2)神様の言葉に聞き従う者
3)行動を恐れない者でした。
私たちは、信仰によって行動する者になることを祈り願う者です。

3・神様の恵みとは
私たちは、信仰の恵みを毎日の生活が幸福になることだと考えがちです。しかし、もっと違う恵みがあります。
1)義とされること。
昔の信仰者たちは、神様に「義」と認められることを、心からの願いとしていたのです。愛する方、敬愛してやまない方に「義」と認められることは,最高の誉と考えていました。
2)神様の恐ろしい裁きから救われる
神は聖なる方ですから、罪の裁きは恐ろしいことなのです。しかし、信仰はそのさばきから救われるのです。
3)神の国に入る望みがある
信仰は、信じるすべての人に永遠の命を与え、天国に入れてくれるのです。
2008年10月26日
信仰によって生きる
ヘブル10:38、39 「「わが義人は、信仰によって生きる。もし信仰を捨てるなら、わたしのたましいはこれを喜ばない。」 しかしわたしたちは、信仰を捨てて滅びる者ではなく、信仰に立って、いのちを得る者である」

信仰によって、神様に喜ばれる選択と行動が出来、信仰によって神様の恵みと祝福を受けた信仰者が紹介されています。聖書がかたり、彼らが教えてくれるのは、信仰的な生き方は、一時的ではなく,永続的なよりよい道を歩むことが出来るようにしてくれることです。

1)特別な生き方ではない。
信仰によって生きた人の中には、アベルやエノクのように、その行動が少ししか紹介されていない人もいます。しかし、信仰的でより良い生き方は、決して人に目立つ,特別な生き方によらないのです。私たちの普通の生活に、その祝福は溢れ、その人は喜ぶのです。

2)神様の前に平安な生き方です。
信仰による生き方の、もっとも良い影響は、日々の生活に安心、平安があることです。後悔ではなく,心落ち着く日々があります。どうしてか?神様のゆるしと承認が常にあるからです。 ヘブル13:6「主はわたしの助け主である。わたしには恐れはない。人は、わたしに何ができようか」

3)しかし、信仰によって生きる時に、自分の罪や弱さを発見させられる。
信仰によって生きることは,決して平坦な道であるとは言えないのです。なぜなら、その道を歩む時に、必ず罪深さ,弱さを示されるのです。イエス様の模範は高いので、自分の足らなさを教えられます。しかし、その弱さを信仰をもって知り、悲しむ中に、私たちは成長させられるのです。 ヘブル11:33、34『彼らは信仰によって、・・弱いものは強くされ・・」

3)信仰に立たせて下さる。
「しかしわたしたちは、信仰を捨てて滅びる者ではなく、信仰に立って、いのちを得る者である」神様は最後まで、私たちを支えて下さいます。信仰を決して捨てないように固く守り、信仰に立って生きるようにして下さいます。

4)永遠のいのちの約束。
そして、神様と共に生きる恵みを受け、それに相応しい者へと成長させて下さるのです。なんと、信仰によって生きるとは、感謝なことではないでしょうか。
2008年10月19日
信仰は神に近づくこと ヘブル10:19-25
信仰を持つとは、神様から遠く離れていた者が、神様の近くで、罪を清められ、愛の保護を受け、永遠の祝福の約束の中に、神様のみそば近くに生きることです。

1・信仰は神に近づかせる
ヘブル10:19-20「兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道をとおって、はいって行くことができるのであり、」イエス・キリストを通して、人は神様の近くに自分が移されたことを知ります。それは、一方的な恵みとその信仰によるのですが、想像を絶する親しい神様との係わりの中に、素晴らしい特権を受けることなのです。

2・神様に近くある心
ヘブル9:21、22「さらに、神の家を治める大いなる祭司があるのだから、心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか」
信仰者生活は、自己の罪を深く知り、神のあわれみに知り、頼る信仰を持つことによって、良心的に神様に近づけます。心は常に救いの確信に満たされて、神様の近くにある平安の中におることが出来ます。
詩篇34:18「主は心の砕けた者に近く、たましいの悔いくずおれた者を救われる」

3・神に近くある生活
ヘブル10:23-25「また、約束をして下さったのは忠実なかたであるから、わたしたちの告白する望みを、動くことなくしっかりと持ち続け、 愛と善行とを励むように互に努め、 ある人たちがしているように、集会をやめることはしないで互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではないか」
そして、イエス・キリストと共なる生活を送るのです。イエス様は父を愛し,兄弟姉妹を愛されたように、私たちも個としてではなく、互に主の道を歩むように励まし合い,声を掛け合い、主の歩まれた道を進み、ますます互の交わりに心を向けるなら、神様の祝福を経験できるのです。なぜなら、それが神様の願いであり、集会出席は、互いが愛し合い、励まし合う最高の場であり、神に近く歩むことなのです。兄弟に励むことは、教会の恵みです。
2008年10月12日
信仰は良心をきよめる
ヘブル9:14、15「永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き,生ける神に仕える者としないであろうか。」
 
 先週と同じ聖句から、キリストの血によって罪から救われた後のことを学びます。はっきりとした罪の自覚を持ち、心から悔い改めて、救主としてイエス様を信じたなら、聖書は大きな心と行動の変化をその人に下さると教えています。

1)動因は「傷なき者として神にささげられたキリストの血」と言います。イエス様がご自分から進んで、傷のない正しい道を生きられた命を、人の罪の身代わりに神に捧げらました。この尊い犠牲が、私たちを清めるのです。私たちは,この愛を知り,この大きな犠牲と偉大なる計画に喜んで従う力を身に受けるのです。

2)良心をきよめて
良心は、わたしたちの心に力強く、「これが道だ」と語りかける声です。しかし、人の良心は衰え,語らなくなり、また道が分からなくなって、人は自分に都合の良い選択をする様になります。しかし、キリストに対する信仰は、「良心をきよめ」とあるように私たちに新しい道を示し、語りかけるようになります。 イザヤ30:21「また、あなたが右に行き、あるいは左に行く時、そのうしろで「これは道だ、これに歩め」と言う言葉を耳に聞く」 更に、私たちの心が二つに分かれることなく、神様の言われる道を求めるようになります。

3)死んだわざを取り除き
その結果、私たちの行動が変化すると言います。神様の喜ばれない行動から,神様が喜ばれる行動が行えるようになるのです。人の自分の力は、本当に弱く、肉の誘惑に負けてしまいがちですが、イエス・キリストに従う時に、後で後悔する死んだわざを捨てることが出来るのです。

4)生ける神に仕える者となる
この生活こそが神様を喜ばせる生きた供え物としての生き方です。私たちは生ける神に仕えることを願いとしています。
2008年10月5日
神の救いと罪の意識
ヘブル9:14、15「永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き,生ける神に仕える者としないであろうか。」

 神様の救いを経験するには、私たちが自分の罪を認識する必要があります。信仰者として深く罪を自覚し、悔いる時、その貧しさを愛とゆるしによって埋めて下さいます。そして、深く神を知る者とされていくのですが、残念なことに私たちは自分の罪には寛容であり、鈍感で,なおさら罪を愛する者ではないでしょうか。 しかし、「ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は」とあるように、イエス・キリスト様は私たちのこの罪の身代わりに死なれました。 さらに、マタイ9:13「わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」とのイエス様の言葉は、これをハッキリと言います。私たちは自分が罪人であることを認めることがなければ、イエス様の救いを受けることが出来ない事を知ります。どんな時に、自分の罪や欠けを見いだすのでしょうか

1)大きな試練
あの放蕩息子は、余りの苦しの時に父親を思い出しました。このように、人は大きな試練に会った時、自分の歩みを悔い、神様に立ち帰る心が持てる機会が与えられます。痛みがなければ分からないのです。

2)聖書の言葉によって
また、聖書の言葉を真剣に聞き,従おうとする時に、私たちは自分の罪を認めさせられます。ローマ3:20「律法によっては、罪の自覚が生じるのみである」

3)神様のお働きによって
ヨハネ16:8「それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう」また、神様に忠実に生きる時に、罪を深く悟らされます。私たちはこの罪が何であるかを知ることによって、神様の救いを身近に体験するようになります。なぜなら、その人は信仰を必要とするからです。イエス様が唯一、私たちを救う方であるとハッキリと認識できるからです。
ローマ5:20「律法がはいり込んできたのは、罪過の増し加わるためである。しかし、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた」私たちは罪の自覚を恐れる必要はありません。罪は避けるべきですが、自覚させられた時は、真に悔い改め,救われ、神に近く歩むチャンスなのです。
2008年09月28日
神を知る恵み

ヘブル8:11「彼らは、それぞれ、その同胞に、また、それぞれ、その兄弟に、主を知れ、と言って教えることはなくなる。なぜなら、大なる者から小なる者に至るまで、彼らはことごとく、わたしを知るようになるからである」

 イエス様が与えて下さった新しい契約は、神様を個人的に知るようになると言うものでした。自ら進んで自発的に内面から神様を知るようになると言うことです。

1)神様を知らない社会は,真実を求めず,愛情がない
ホセア4:1「主はこの地に住む者と争われる。この地には真実がなく,愛情がなく、また神を知ることもないからである」
読売新聞世論調査において、88%が自分を幸福と思っている結果が出たと言う。10人に9人が幸せと感じていることに驚いたが、幸福とは?の質問に、第1が健康,第2がしあわせな家庭生活、第3が良い友人がいるとの答えだった。なるほどと思う。「自分だけが幸せなら良いと考える人が多い」には、『そう思う」に72%が答え、真実に生きる、他者に対する愛情には興味がない結果ではないか。あまりに浅い幸福感に空しく思う。

2)神様を知る恵み
ところが、神様を知るなら、主の導きがあり、私たちの内面が変化し、この空しい世界が真実と愛の世界に変わると教えている。これがキリストの福音。「雷の人」と言われたヨハネは、「愛の人」と呼ばれるようになり、迫害者パウロはキリストのための殉教者になった。彼らは自分を遥かに越えた神を知り、自分が変わった。 私たちもイエス・キリストを通して、奥深く神様を知り,その交わりに喜びを持って生きることが出来ます。深い幸福を味わうことが出来ます。

3)個人的に知る道が開かれた
人は、真実に神様を信じることが出来ないように思う。なぜなら、自分のために生きる性質、罪が根深くあるから邪魔をする。ところが、イエス・キリストの福音により、罪から解放され、キリストに真実に従う心を受ける道が開かれました。今、私たちは個人的に、神様を知り、神様と交わりを深めることができます。どこにいても祈り、神様と交わり、神様のみ業を見ることが出来ます。「大なる者から小なる者に至るまで」とあるように、誰にも神様を知る特権の扉はイエス・キリストを通して開かれています。信仰によって、神様を真実に知る救いの道が開かれています。
2008年9月21日
心に書き付けられる神の言

ヘブル8:10 「わたしが、それらの日の後、イスラエルの家と立てようとする契約はこれである、と主が言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつけよう。こうして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう。」

 神様はわたしたちに素晴らしい約束を下さいました.それは,神様の教えを私たちの思いの中に入れ,心に書きつけて下さるという約束です。この約束のゆえに、私たちは神様の教えを実行できる恵みを受けているのです。イエス様は十字架によって、私たちの罪を赦して下さり、神の霊の宮としてくださいました。聖霊が私たちに宿られています。そして、私たちが御言に従える者と成長させてくださるのです。

1)自発的に聖書を学びましょう。
私たちが真心から神様のお言葉に聞くなら、私たちはその意味を悟り,御言を実行できる者としてくださいます。やる気、忍耐を与えてくださいます。イエス様を愛する者には、彼の言を守る力を与えてくださるのです。

2)性格をつくりかえてくれます。
御言に従おうする時、神様は私たちの生活にも手をつけれ下さり、愛のない者には愛を増し加え、忍耐、自制の御霊の実を与えてくれます。 私たちが聖書の言葉に親しむとき、同時に私たちの内面は少しずつ御言に従って変えられて行きます。良い地にまかれた種は,実を豊かに結ばせるからです。そして、私たちの主は喜んでくださり,その交わりは,更に祝福されることでしょう。(ヨハネ14:23、24)
2008.09.14
大祭司イエス様の元に行こう

ヘブル7:24、25「しかし彼は,永遠にいますかたであるので、変わらない祭司の務めを持ちつづけておられるのである。 そこでまた、彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである」

聖書は,大祭司イエス様の元に行くように強く勧めています。そこは恵みの御座だと言っています。私たちはイエす様によって、神様の元に行くことが出来,いつも救われると約束を受けています。

1)私たちは神様から遠く離れた者でした。
私たちは罪人として、神様から離れた者でした.神の栄光を受けることが出来ず、迷っている羊のように、さまよう者でした。そこには救いはなかったのです。

2)キリストは救いの道を開いて下さった。
ところが、神の御子イエス様は人にまで身を低くして下さり、しかも罪の犠牲として十字架にご自身をささげて下さったのです。それは、キリストが人の罪の身代わりとなり、人に完全な救いを与え、彼を信じる者を救われる道を開いて下さったのです。そして、今、この救いのとはいつも開かれていると宣言されています。

3)更に、大祭司イエス様は救われた者を,最後まで守って下さるのです。
イエス様は,彼を信じる者の信仰を守り,罪を常に許し,神様との交わりに継続し,完全な救いに導いて下さるのです。 その恵みのゆえに、神様は私たちにこの方に全き信頼し、彼の恵みの座に近づき、常に彼と生きよと勧めておられるのです。私たちは救いを受け、更に恵みを体験し、つづけてあなたが、イエス様のような素晴らしい執りなし手と成長されることを願われているのです。
2008.09.07
神の約束を望みとし、主に忍耐して従う

ヘブル6:15「このようにして、アブラハムは忍耐強く待ったの で、約束のものを得たのである」
ヘブル 10:36「 神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要な のは、忍耐である。」


私たちは生まれたとき、何の努力もした覚えがない。家族に守られて、安心の中に成長させてくれたことを思うと感謝しなければならない。ただ、その後の人生はどうだろうか? 自分がどう生きるかによって、多くは決まるのではないか。聖書に、「まちがってはいけない。神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。」(ガラ6:7)とある。信仰生活も、イエス様に対する信仰によって救われ、新しい生き方をどう生きるかによって、刈り取る祝福が違ってくると教えている。

神は確かな祝福の約束を持って、御旨を行うことを忍耐せよと言っている。私たちに祝福を受けるのに必要なことは、忍耐だと教えてくれている。人は皆、神様の素晴らしい約束の中に生かされている。神様はイエス・キリストを信じるなら、罪をゆるし,永遠の命に救うと約束された。信じた者には、私の言葉に従うなら,祝福を与えると約束されている。

しかし、神様は信仰をもって従うには、忍耐が必要であることを知っておられ、また約束を受けるための忍耐を私たちに求められている。その学んだことを行い続ける忍耐のことなのだ。神様が言われるので、忍耐は非常に良いものであることが分かる。私たちも忍耐を良いものとして、神様の御旨に忍耐を持って歩みましょう。
2008 8/31
深い信仰に生きよう。

ヘブル5章7節「キリストは、その肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈と願いをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである」

イエス様の歩まれた道は、すべて私たちの模範です、またそのようにイエス様は歩まれました。
今日の言葉の中に、「その深い信仰のゆえに聞き入れられた」とあります。私たちが今、教えられる必要のある事柄は、「深い信仰」を求めることです。「深い信仰」の原語の意味は、「恐れかしこむこと」とありますが、イエス様は主の御心に恐れの心をもって従ったのです。全き服従です。

深い信仰とは、次の三つの要素があります。
1)正しい知識の信仰です。
2)御心を拒むことに対する恐れを持つ信仰です。
3)神様との交わりを積極的にする信仰です。

私たちは安易に主のみ教えを拒み、主を恐れることのない信仰に歩みがちです。しかし、その為に祈りの聞かれない、恵みの少ない信仰生活を送っているのです。 私たちの様々な信仰生活の中で、時に迫害があり、祈りの聞かれない待つ時があり、勇気が必要な時があります。そんな時にも、主を恐れ、服従する信仰を持ちたいのです。

イエス様に対して、父なる神は「その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである」と言われています。私たちに求められていることは、恐れの心をもって、神様の言葉に従おうとする心の姿勢ではないでしょうか。
2008 8/24
大祭司イエス・キリスト

ヘブル人への手紙4章14節「さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。」

旧約の時代、神はイスラエル民族のために大祭司を定められていました。彼らはアロンの子孫から選ばれ、民の罪のために神の前に犠牲をささげる働きを任されていたのです。
 ところが、イエス・キリストは全世界の,すべての人々の大祭司となってくださり、すべての人の救いの道が開かれました。2000年前、罪なきキリストが、罪人として十字架につけられ死なれ、私たちの罪のゆるしとなって下さったからです。私たちは彼を信じることによって罪をゆるされ,救われるのです。

大祭司キリストの他にない秀でた特徴は、
1)人の弱さを知っておられる。
彼は神であられましたが、人として生まれ、私たちと全く同じ弱さを身に受けて下さいました。だから、私たちの弱さを知って下さり、分かって下さっています。

2)完全な救主となって下さった。
私たちがキリストを信じるなら、過去、現在,未来の罪が赦される恵みを受けるのです。完全なゆるしを下さり、神の子とせられ,永遠の命を与えられます。

こんなに素晴らしい賜物を下さるのですから、私たちは 第1にキリストを信じなければなりません。 第2に、素晴らしい模範者主に学ばなければなりません。そこに、輝かしいキリストに似る祝福を受けるのです。私たちには、こんなに素晴らしい大祭司なるキリストがおられるのです。私たちはこの方に常に頼り、救いを願うのです。
2008 8/17
バプテスマ感謝
マタイ28:19、20「それゆえに、あなたがたは行って、全ての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によってバプテスマを施し、あなたがたに命じておいた一切のことを守るように教えよ」

本日、バプテスマ希望者がおられます。心から感謝です。

1)バプテスマ受けられる方のために、神様に感謝です。バプテスマは、信仰を持ち、主に従おうとする者が最初に決心をする行動です。素晴らしい神様の御心にそった祝福ですから感謝です。 ルカ 7:30「しかし、パリサイ人と律法学者たちとは彼からバプテスマを受けないで、自分たちに対する神のみこころを無にした。」バプテスマは神様の御心です。神様に従うのですから、神様の祝福がこれから豊かにあることを信じます。

2)教会の働きのために、神様に感謝です。バプテスマを授けることは、教会にとってとても大きな感謝です。なぜなら、聖句にある通りに、神様が私たちに委ねられている働きの実を見るからです。 教会には、福音を伝え信仰者が起こるために働き、バプテスマを授け、神様のみ言葉による信仰者の成長と教会形成を願っています。ですから、バプテスマがあることは、教会の大きな喜びです。

3)仲間が増えることのゆえに感謝です。
使徒2:41、、42「そこで、彼の勧めの言葉を受け入れた者たちは、バプテスマを受けたが,その日、仲間に加わったものが三千人ほどあった」真実の仲間は、すべての点で分かり合い、人生を共有するものです。小さなことにつまずかず、同じ方向に進む仲間として助け合うものです。真実な仲間が与えられましたから、感謝です。
2008 8/10
ヴィラット・ポンサバン兄、のぞみ姉 ご結婚おめでとうございます。
エペソ5:22「妻たる者よ。主に仕えるように自分の夫に仕えなさい。」 エペソ5:25「夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい」

お二人のご結婚を心からお祝い申し上げます。お二人の努力と周りの人たちの助けによって、昨日の結婚式、披露宴は大変恵まれました。お二人の喜ばれている笑顔が何よりも、『良かった』と思わされました。ご両親や、親族の方,ご友人も共に喜んで下さいました。

ところで、これからが新しい喜びとあたらしい訓練の成長の時に入ったのだと思います。今まで通りに、自分一人では人生を決められないのです。
世の中で一番罪を犯す関係が夫婦ではないかと思います。時に、意見の違いが起こり、ちょっとした争い,聖書の言葉に従えないと思わされるのではないでしょうか。
しかし、そんな時もクリスチャンはますます恵みを受けるのです。なぜなら、聖書の言葉が罪を示すとき、同時に恵みに導かれると聖書にあります
。どう対応するかで、恵みともなり、更に悪性の罪ともなります。人格の最も強烈な訓練だとわたしは考えています。 ローマ5:20「しかし、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた」とあります。
ヴィラット・のぞみご夫妻。これから生涯、私たちの生きる基準は自分ではなく、聖書です。もし、御言に従えない罪が見えたら、すぐに自分の罪を認め、主イエス様に悔い改めの祈りをし、古い自分から解放される道を選んで下さい。そして、主に喜ばれる、幸いな家庭を目ざして、まっしぐらに進んで下さい。
2008 08 03 自発的な信仰
ローマ10:9「すなわち、自分の口で,イエスは主であると告白し,自分の心で,神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる」

 人は皆自発的信仰によって救われる。ここに「自分の口で・・告白し」「自分の心で・・信じるなら」とあるとおり、他人の口でも心でもなく、自分の口と心で自発的である必要がある。自発的とは、「進んでする」ことであり、「(他に影響されることなく)自然にする」と言う意味がある。信仰とは、神様によって導かれているのであるが、同時に私たち自身が自分でイエス様を信じる決心をしたことを忘れてはならない。また決心に続いて、信仰生活も自発的でありたい。

ピレモン14節「しかし、わたしは、あなたの承諾なしに何もしたくない。あなたが強制されて良い行いをするのではなく、自発的にすることを願っている」 神様は私たちが信仰的行動を自発的にすることを願っています。人に言われたからよりも、自分が正しいと認めているから,進んで,喜んで行動するなら神様に喜ばれ、幸いであり、私たちの心は明るくなります。
 援助の献金の勧めでも、同じことが言われている。
1コリント9:7「各自は惜しむ心からでなく、また、しいられてでもなく、自ら心で決めたとおりにすべきである。神は喜んで施す人を愛して下さるのである」

自発的行動には次の良い心の態度が伴います。
1)やる気が出ます。 2)目的意識、希望があります。 3)創造的になります。次の発展を探る心が起こります。 4)完成に向けて忍耐強くなります。私たちは自発的態度で信仰に歩みましょう
2008.07.27 信じている者は、安息にはいる
ヘブル4:2、3「というのは、彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである。しかし、その聞いた御言は,彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。 ところが、わたしたち信じている者は、安息にはいることができる」

 神様は人に完全な休息と平安を与えようとしています。
1)この社会は悩み多く、休みがない
競争によって、人は幸福をつかもうとします。誰かが幸福になれば,誰かが犠牲を被る社会です。入試、就職、結婚、仕事・・・どれもに競争があり、人はせかされ続け,疲れています。これが人間の歴史ではないでしょうか。

2)神様の安息がある
神様は人に、疲れや束縛から解放される安息を約束し、それをイエス・キリストによって完成されました。私たちに安息を味わい、完全な安息にはいる望みがあることは素晴らしいことではないでしょうか。

3)御言と信仰による
安息にはいる方法は、聖書の言(御言)と信仰によると聖書が言います。まずは、聖書の内にある言を知らなければなりません。そして、信じるのです。しかし、もし人が信じなければ無益であると言います。神様の御言(聖書の言葉)を信じましょう。「わたしたち信じている者は、安息にはいることができる」神様の安息を体験し、将来をのぞむことが信仰生活の喜びとなります。
2008.07.20 神の道を認める。
ヘブル3:10「しかも、40年の間わたしのわざを見たのである。だから、わたしはその時代の人々に対して、いきどおって言った、彼らの心は、いつも迷っており、彼らは、わたしの道を認めなかった」

 神様の道があると言います。ここでは人々が神様の道を認めず、いつも迷っていたいと言うのです。そして、安息に入れなかったと言うのです。

1)人の道
「マイウェイ」と言う歌がありましたが、その歌詞に書かれている内容は、自分の思う道、好きな道を後悔しないで、全力で生きると言うものです。多くの人は感動して、私も自分の道を探そうとする訳です。 しかし、人の願うその道は迷っているんだと聖書は言います。 イザヤ53:6「われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った」 人は迷って、バラバラの道を生きていると言うのです。

2)神様の道
「わたしの道」とは、神様が示す道のことです。 神様は私たちに,私たちが信じ、生きるべき道があると言います。そこにこそ、本来の人としての幸いな道があると言うのです。 イエス・キリストの救いの道、平和の道、命の道と言います。

3)私たちは岐路に立っている
私たちはどちらを選ぶのでしょうか。 すべての人はその岐路に立っているのです。 それは神様を信じるか,信じないかと言う分かれ道であり、イエス・キリストが私のために死なれてか、死なれなかったのかと言う分かれ道です。 神様の道を選び、その道にまっすぐに生きるとき、私たちは真の心の平安のある喜びの道を見いだします。
 2008.07.13 罪人を愛し,目を留められる神
ヘブル2:6「聖書はある箇所で、こうあかししている。『人間が何者だから、これを御心に留められるのだろうか。人の子が何者だから、これをかえりみられるのだろうか』」

 この聖書の言は、人が特別に愛されていることを教えてくれている。この告白には、三つの信仰の思いが現されている。
1)神様は、本当に素晴らしい方
 信仰者は信仰生活において、神様のご存在の素晴らしさを全身全霊で褒め称える者になることが目標です。しかし、罪は私たちに神様を軽んじ,小さく見るように誘い、私たちは多くの時に神様を軽んじているのではないでしょうか。私たちの神は、すべてをはるかに越えて素晴らしい方です。私たちは神様の素晴らしさを良く理解するようにしましょう。
2)自分の罪深さを知る
 また、一方で、信仰者は自分の罪深さを更に深く知る者になることであります。聖書のみ言葉は、私たちに到底越えることの出来ないハードルを見せてくれます、これが神様の義のハードルだと。私たちはイエす様によって救われていますが、このハードルも越えたいのですが、ただ、自分の罪深さを示され,信仰によって神様に頼ることを教えられます。
3)罪人の私を赦し,愛し、いつも目を留めていて下さることを喜ぶのです。
 しかし、私たちの心の思いは、神が私たちを「御心に留め、かえり見て下さっている」と言う恵みを信じています。信仰者は、素晴らしい神様によって愛され、罪赦されたことを喜ぶのです。そこには将来の心配はお委ねしてなくなり、祝福の希望があるだけなのです。そして、また告白するのです。「『人間が何者だから、これを御心に留められるのだろうか。人の子が何者だから、これをかえりみられるのだろうか』」と。
 2008 7/6 死の恐怖からの解放者キリスト
ヘブル2:14〜15「このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、 死の恐怖のために一生涯,奴隷となっていた者たちを、解き放つためである。」

 イエス・キリスト様が人となられた理由には、恐ろしい死の深みに陥っている人類を救い出すためでした。神様の御心は、人を死を持って滅ぼしてしまう為ではなく、祝された永遠の愛の交わりをする為でした。しかし、人は悪魔の罠に陥り、罪を犯し,罪を持ち、悪魔と同じ滅びに向かう者となったのです。今、私たちが神を神としない生活を送っているのは,その結果なのです。そして、神様と断絶している為、その先は永遠の滅び、地獄に向かっています。

 しかし、神は人を愛し,人を救うために、御子イエス・キリストをこの地上に人としてつかわされたのです。それは、御子イエス・キリストが罪の身代わりの死の苦しみを味わい、悪魔と死を滅ぼす為でした。御子は十字架の上で、罪の刑罰を受ける者として見捨てられ、血を流されました。しかし、その傷、その血、死によって、私たちは死の恐れから解放され、癒されたのです。

 今、私たちはこのイエス・キリストを救主と信じる時に、私たちはすべての罪をゆるされ、永遠の滅びから解放され、自由の中に解き放たれて神と共に生きる者にされたのです。もう、恐れではなく、命を受けた喜びの中を、神と共に生きるためです。
 2008 6/29 神様の時を信じて!
伝道の書3:11「神のなさることは皆その時にかなって美しい」
ローマ8:28「神を愛する人々、・・・人々の為には、神がすべ てのことを働かせて益として下さることを、私たちは知っている」

 突然に大変重要な用件が入る場合がありますが、今回、ある建物の起工式を行うよう依頼されました。教会の集会と重なる時間帯だったのですが、その日だけは、聖書のお話をある姉妹に前もってお任せしていたのです。神様は最善に計画して下さっていると心から感謝しました。 振り返ると、主は何度も助けて下さり,導いて下さいました。

1)一昨年、大木牧師が高知を訪問して下さり、弟子訓練とカウンセリングの学びをしてくださった時、その数ヶ月後にその教会出身の清水姉妹親子が高知に導かれ、お会いすることが出来ました。また、学んだことが生かされ、牧師の訪問が神の時にかなっていたことを教えられました。
2)今年の夏、港北ニュータウンの青年たちが訪問して下さることになりましたが、その週に、打ち合わせなくのぞみ姉(青年たちと親しい関係にある)の結婚式が決まり、最善の環境が与えられました。神様の粋な取り計らいです。
3)そして、今回も神様は最善に導いて下さいました。

 思い出せば、主はいつも私たちを時にかなって守って下さっています。今思い出すだけで、教会経済において、牧師ガス欠災難の解決、洪水による外泊事件,京都からの帰省のときの助け、いつも神様の不思議な助けがありました。 これからも主は私たちを守り導いて下さいますでしょう。ですから、私たちはすべてをご支配されている主に信頼し、主に思いわずらいをお委ねして堅い信仰をもって歩みたいものです。主に感謝!
2008 6/22 イエス・キリストはどういう方か?
ヘブル1:2-3
「この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた。 御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる。そして罪のきよめのわざをなし終えてから、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれたのである」

 私たちはイエス・キリストを信じクリスチャンとなりました。それでも、赤ちゃんのようで、神様のことを少ししか知らないものです。ですから、神様に愛され、愛する者になった者として、神様について、イエス様について、少しずつ深く知りたいと願っています。そして、分かったことは従いたいと願っています。
まず、イエス様はどういう方か?学びましょう。
1)イエス様は万物の所有者であられ、その創造者です。
 私たちの信じる、私たちの身代わりに十字架で死なれたイエス・キリスト様は、私たちの真の所有者であられ、創造者なる方です。罪は、その方と教えから離れることであり、信仰とは、そのご支配の下に帰ることです。
2)イエス様は神様のすべての性質をお持ちです。
 イエス様は、私たちと全く変わらない肉体をとられ、人となられましたが、その本質は神様そのものです。人となられイエス様は、その内に神様のご性質を持たれ、愛に富み、真実であられ、謙遜な方であることを知りました。人には、この方に似ると言う畏れ多い祝福の道が求められています。
3)人間の罪の解決を完成し、そして、元の天の地位に帰られました。
 私たちはこのイエス様を罪の悔い改めの心をもって信じなければなりません。そして、神の恵みを受け、永遠の命をいただいて、従っていくのです。
2008 6/15 自発的に生きる
ピレモンへの手紙14-17「しかし、わたしは、あなたの承諾なしには何もしたくない。あなたが強制されて良い行いをするのではなく、自発的にすることを願っている。」

 私たちは自分に都合の良いことには積極的ですが、神様が教えてくださる良いことには,非常に消極的です。 しかし、人が本当に喜べるのは、神様が教える良いことを自発的にできるようになることです。 ここで言う、「自発的にする」とは次の二つの重要点があります。
1)神様の言われることを正しいと認める。
自発的な行動には、動機が必要です。その動機を、神様の言におくことが重要なのです。信仰があると言っても、聖書の教えに真心から同意できていないなら、その人の行動は不安定です。まず、聖書の教えは神様のお言葉であり、全く正しいものであることを認めましょう。
2)従う決心をしましょう。
神様のお言葉に従う決心をしましょう。真心から従う決心が出来るように、私たちを助けて下さいます。素晴らしい神様のお言葉があるのですから、従う決心をしましょう。 信仰とは、自発的な心を大切にしています。なぜなら、イエす様は私たちに自由に正しい道を選ぶことが出来るように願っています。

ガラテヤ5:1「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放してくださったのである」
 自発的な信仰生活には多くの祝福があります。 心が明るくなり、良い関係が出来上がり、信仰が成長し,自分の人生に納得がいきます。その良い生活は長く続くようになります。
2008 6 /8 人の思いを越えた神の救
テトス3:4-5「ところが、わたしたちの救主なる神の慈悲と博愛とが現れたとき わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである」

聖書は、「わたしたちは救われた」と救の完成を教えている。
人は生活の変化に目を留めがちだから,信仰はあるけれども、自分は救われているのか?と考える人は多いと思う。
神はどう言っているか?
 ・神はすべての人が罪のゆえに恐ろしい裁きではなく、イエス・キリストによって永遠の命が与えられると約束し、すべてに救われる事を教えている。
人は何を願っているか?
 ・人は見ることの出来ない永遠よりも、今の生活の幸福を救として願っている。しかし、神様の救は、人間が望むものを遥かに越えた恵みなのです。神様の救は、永遠の命からはじまって、日用のすべてにまで及びます。神様の思いとご計画は、私たちの考えを遥かに越えて測りがたいものなのです。

ローマ11:33「ああ深いかな、神の知恵と知識の富は.その裁きは窮めがたく、その道は測りがたい」
だから、信仰とは、自分の考えに頼らず、見えるものではなく、見えないものに目を注ぐことであり、神様と神様の言葉(聖書)に信頼することです。
私たちは神様の言葉に深く信頼し、信仰によって、救を確信して生きることを教えられています。
1)神様の救を確信していますか。
2)そのお言葉の真理とお力に、どれほど信頼し頼っているでしょうか。
6/1 人を救う神の恵み
テトス2:11-12 「すべての人を救う神の恵みが現れた。 そして、わたしたちを導き、不信心とこの世の情欲とを捨てて、慎み深く,正しく、信心深くこの世で生活し、 祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神、わたしたちの救主キリスト・イエスの栄光の出現を待ち望むようにと、教えている。」

多くの人は何事でも、自分で頑張らないといけないと考えてきたと思うのです。
誰にも頼ってはいけないし、頼れないものと考え来られたと思うのです。だから、「恵み」と言う言葉は、物乞いのようで、日本人はあまり好きでないと思っているように感じます。 しかし、人は自分で頑張って生きてきたものの、思いどおりの人生ではなく、心に真の喜びはなく、ただ疲れた心だけが残っている人は多いのではないでしょうか。

聖書は何と言っているか? 「人を救う神の恵みが現れた」と言うのです。神様は、私たちに次の事を教えてくださっているのです。
1)誰でも、すべての人は、この神の恵みを頼り、信じてよい。
2)この恵みにより、人は救われる。
3)あなたはこの恵みに頼る事により、新しい生活をする力が与えられる。

神様は、私たちにこの恵みを信じるように言います。

そして、この恵みとは、イエス・キリストのことです。この方の下に恵みがあると言います。イエス・キリストを信頼し、彼の業を信じ、彼に従う事により、あなたは神の恵みを知り,恵みの中に生きる事が出来ると言うのです。 神様の与えて下さった恵みを信じませんか。
5/25 健全さを求めて
テトス 2:1 「しかし、あなたは、健全な教にかなうことを語りなさい。」
 健全な教えがあり言葉があり、それは教会では語られなければならないとあります。一方で、健全でない教えもあるのです。私たちは聖書が語る正しい教えを熱心に求め、その健全さによって養われ、神様の前に喜ばれる信仰生活を送れることが目標です。
1)私たちは罪深い者です。
 ところが、私たちは神様の願いから遠く離れた罪人であり、神の戒めに従い得ない弱さを覚える者です。しかし、神様は、私たちが聖書の戒めにより罪を示され、悔い改めの心が与えられることを願っておられます。
2)私たちにはイエス様が必要
 ルカ5:31、32「イエスは答えて言われた、「健康な人には医者はいらない。いるのは病人である。 わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」
 感謝なことに、イエス様は罪人を救うために来られたのです。私たちを悔い改めに導き、救を下さるために、また、健全な信仰生活に導くためにです。私たちは御言を受けいれ、御子イエス・キリストに対する信仰によって、救われ、聖く変えられるのです。
3)健全を求めて。
私たちは熱心になって、健全な信仰生活を送りたいものです。そのために
a )神の御言(聖書)をよく理解しなければなりません。
b )神の御言(聖書)を真理として受けいれ、従う願いを持ちましょう。
健全な信仰生活の中に、私たちは良い実を自分の内に実らせるのです。
5/18 信仰を強め、真理の知識を得るように。
テトス1:1-2「神の僕、イエス・キリストの使徒パウロから--わたしが使徒とされたのは、神に選ばれた者たちの信仰を強め、また、信心にかなう真理の知識を彼らに得させるためであり、 偽りのない神の永遠の昔に約束された永遠のいのちの望みに基づくのである」

 パウロは信仰者の祝福のために、信仰生活の二つのテーマを教えている。私たちが信仰者として、神様に喜ばれ、恵みの中に生きるために必要な重要な事柄です。
1)信仰を強める
信仰については、聖書は<ある、なし>、<強い、弱い><大きい,小さい><多い、少ない>などと状態を表現しているが、ここでパウロは、信仰を強めよと言う。
信仰者の神様に対する信頼,御言葉に対する確信を強めることが自分の働きだというのです。パウロは御言によって励まし続けたのです。
2)真理の知識を得る
また、信仰者が、確固として信仰の上に、聖書の確信ある知識をもつ事を、パウロは自分に与えられた務めと言います。これは聖書の学び、研究、個人的学びを通して、聖書の正しい知識を得る言うことです。この知識は、神、人、罪、救と共に、生活の全般にわたる聖書の知識を言っていて、誰もがこの知識を増すなら、その人のクリスチャン生活が良く変わるのです。だから、熱心になって、聖書を学ばなければなりません。
 私たちは神様に対する信仰を確かに持っているだろうか?御言をよく理解しているだろうか?日々、聖書を読み、祈り、御言を黙想する事により、信仰が強められ、真理の知識が増え,信仰生活が祝されるようになる事を願い、祈ります。
5/11 母の日 礼拝 「お母さんの願いをかなえよう」
創世記3:16「つぎに女に言われた、「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」」

 本日は、「母の日」です。教会から始まった祝日ですが、その意味は、お母さんに感謝しようと言うのです。母をもつ私たちは、母の願いに注目して、その願いに協力しなければならないのです。では、何がお母さんの願いだろうか?聖書は、愛に包まれた温かい家庭を築き上げることだと言います。その為に母は、
1)忍耐強いのです。
2)家族の関係を大切にする心があるのです。

では、どうやってこの願いを叶える努力が出来るでしょうか?
1)この母の願いが神様の御心であることを認めることです。
2)そして、御言に従い、夫は母であり、妻である女性を愛し、子供は母に従うようにすることです。
 これこそ、母の日に最高の決心であり、行動ではないでしょうか。
 しかし、ここに困難があります。
それは、夫も妻も子供も、皆が罪人であり、自分のことが一番に思う性質があることです。だから、私たちはイエスさまを愛し、イエスさまに頼るのです。イエスさまはこの罪のために十字架で死なれました。
 そして、私たちがこの罪に勝利し、乗り越えて、神の御心を成す者になるように導かれているのです。母の日、私たちは神様に頼り、信仰によって、家族の一致、愛の喜びに向かう決心をしましょう。これこそ、お母さんの願いではないですか?