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2009年12月20日
 御言に従う生き方
ヨハネ1:14「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちは その栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまことと に満ちていた」
ヨハネ1:17『律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたのである」


 クリスマスは私達が信じるべき神にお会いした日です。預言者たちが心待ちにしていた時でした。彼がこの世に来られたとき、彼によって恵みとまこと(真理)が来たと言っています。神の恵みであり、神の真理です。
1)恵みはキリストから来る。
 キリストに恵みが満ちていた、キリストを通して恵みが来たと言います。
@ 恵みは神様からの一方的な贈物。
 受けるに値しない者に、与えて下さる一方的な神様からの良い贈り物です。これは私達が何か良い所がないとしても、与えて下さる贈物なのです。
A 信仰のみによって受ける神様からの恵みです。
 その恵みはただイエス・キリストを信じることによって受けるものであって、信仰以外の何も必要ないのです。言い方を変えると、信仰こそが人にとってとても大事な行為なのです。
B イエス・キリスト様が言われたこと、なされたこと、されていることをすべて含んでいます。私達がイエス様に信頼して生きるなら、その周りのすべては神様からの恵みであることに気付かされるようになります。
2)まこと(真理)はキリストから来る。
@ 真理とは神様に関わることであり、すべてをイエス様を通して悟らされるようになります。万物の創造、自分の命、良いもの、悪いもの、真理、偽り、愛、罪・・・これら一切は、イエス様を通して理解できるようにして下さいます。

クリスマスを私達は祝いますが、本当のクリスマスは、私達に恵みとまこととを持ってきて下さったイエス・キリストを喜び、感謝する日です。
2009年12月13日
 クリスマス 伝道する心
使徒26:27-29
「「アグリッパ王よ、あなたは預言者を信じますか。信じておられると思います」。アグリッパがパウロに言った、「おまえは少し説いただけで、わたしをクリスチャンにしようとしている」。 パウロが言った、「説くことが少しであろうと、多くであろうと、わたしが神に祈るのは、ただあなただけでなく、きょう、わたしの言葉を聞いた人もみな、わたしのようになって下さることです。このような鎖は別ですが」。」

 クリスマス、それは世界中の教会で最も伝道に熱心になる時です。しかし、日本では騒ぎはしますが、伝道は控えめです。私達はなぜ伝道することが良いのでしょうか。
1)イエス様が福音を伝えよと命じておられるからです。
2)私達は伝えられて信じたから、伝えようとするのです。
 もし、誰もイエス様の救を伝えようとしないなら、信仰による救の経験をする人が誰もいなくなります。同じ信仰の友もいなくなります。
3)多くの人が苦しみの中、救を求めておられるからです。
4)信仰者が成長し、愛が深まるからです。
 イエス様を伝える行為は、私達がイエス様に似るようになります。また、同じ働きをすることにより、兄弟姉妹の愛が深まります。
 以前、私達がそうであったように、多くの人が悩みの中に救を求めています。私達が考える以上に、人は人生に悩み、新しい解決を欲しがっています。神の恵みを差し伸べられないでしょうか。

 私達は人がどう思うか恐れないで、伝えたいものです。なぜなら、聖書に「信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか」と伝えることが重要だとあります。 私達の目の前に自分で解決できない苦しみをもつ隣人がいます。その人は本当の救をほしいと願っているかもしれません。もし、私達が口をつぐみ続けたなら、その人は一生涯、イエス様による解決を手入れられず、罪のゆるし、慰め、励まし、希望、永遠の命を手に入れることが出来ないかもしれません。
 あなたはパウロのように、「あなたもわたしのようになって下さることです」とは言えないでしょうか。私達がイエス様の元に導き、人々が神様の喜びを見いだしたらまことに嬉しいとではないでしょうか。
2009年12月6日
 クリスマス 不思議な出来事を伝える時
マタイ1:23「「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。 その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。これは、『神われら と共にいます」という意味である」

 12月に入り、クリスマスももうすぐそこに来ました。しかし、預言者たちはクリスマスを次のように預言しました。
使徒 13:41 『見よ、侮る者たちよ。驚け、そして滅び去れ。わたしは、あなたがたの時代に一つの事をする。それは、人がどんなに説明して聞かせても、あなたがたのとうてい信じないような事なのである」
 イエス・キリストの出来事は、ある人には「人がどんなに説明して聞かせても、あなたがたのとうてい信じなようような事なのである」と預言したのです。信じない人たちには、おかしなこと、愚かなことに思えても、信じない事は恐れるべきことだと言うのです。
 おとめマリヤが身ごもり、一人の男の子を産む事によってクリスマスは始まりました。しかし、多くの人は世の救主がお生まれになったこの話を信じようとしないのです。神は不思議な出来事として、大切な一つのしるしを現され、信じることによって、人の思いをはるかに越えて素晴らしい救いを与えて下さったのです。

 私達は、この世に生を受けてからどれほど多くの落胆を経験した事でしょうか。希望を持って生まれたとしても、この世は、嫌なこと、辛いことを多く経験し、罪の中を歩き、あきらめを学び、最後は死と言う避けて通れない絶望の中に落ち込むと考えているのです。日々、何かの恐れに追われているのではないでしょうか。
 しかし、イエス・キリストがこの世に救主として現れて下さり、私達は神を信じる者になったのです。私達を深く愛し、私達を救おうとされている神様。罪をゆるし、新しい命を人に与え、信仰・希望・愛のある信仰生活に招いて下さっている神様です。聖句には、イエス・キリストは「インマヌエルと呼ばれるであろう」と預言され、それは、「神われらと共にいます」と言う意味だと説明されています。
 クリスマス、それは神様が不思議を持ってこの世に来られた恵みの始まりの日です。私達はこの方を信じ、罪をゆるされ、神様と共に生きる新しい人生に招かれました。その結果は、人が到底信じる事ができない恵みに続いているのです。
 そして、神様の願いはこの福音をより広く、周りの方々に、世界中に伝える事を願い命じています。クリスマスに向かって、手を尽くして、この福音を世の人に伝える努力をしなければなりません。喜んでできる者になりたいものです。
2009年11月29日
 豊かにまく人生(信仰の力)
2コリント9:6-9 「わたしの考えはこうである。少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる。 各自は惜しむ心からではなく、また、しいられてでもなく、自ら心で決めたとおりにすべきである。神は喜んで施す人を愛して下さるのである。」

 私達は「豊かにまく人生」を歩み、「豊かに刈り取る」経験をしたいものです。「まく」とはどう言う意味なのでしょう。そのままの意味は種をまくことですが、ここでは困難の中にある兄弟姉妹を支えるための献金をすること、つまり良い行動をすることを言っていますが、もっと広く、愛する行為をすることです。イエス様がされたような与えることを喜ぶ生活、それがクリスチャンの豊かにまく人生ではないでしょうか。どんな行動があるのでしょうか。聖書の中から見ると、

1)教会での奉仕、献金をする。 2)周りに福音を伝える。 3)神様が喜ばれる愛する行動をすると言うことです。
 誰に対してか?それは、まず隣人から始まり、地の果てまで、すべての人に対してと言いますが、家族、兄弟姉妹、隣人に対して始めるべきことです。

2)豊かに刈り取ることになる。
 私達はその結果、心豊かで、満たされる人生があると約束されています。様々な所で、主が守り、支え、恵みを与えて下さるのです。ルカ 6:38 「与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから」

3)注意点
 @ 自ら心で決めて行動しなければなりません。
 A 喜んで行動できるようになりましょう。

4)この行動は信仰の力によるのです。
これらの行動を自分の力に頼ってするものと考えてはなりません。
2コリント9:9「神はあなたがたにあらゆる恵みを豊かに与え、あなたがたを常にすべてのことに満ち足らせ、すべての良いわざに富ませる力のあるかたなのである」
 @ 神は豊かに祝福で満たして下さるからと言う信仰をもって行動しましょう。
 A 神は良いわざをすることを可能にして下さる力があると信じましょう。
2009年11月22日
 信仰の力
1ヨハネ5:1「すべてイエスのキリストであることを信じる者」
1ヨハネ5:3-5「神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない。 なぜなら、すべて神から生まれた者は、世に勝つからである。そして、わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか」


 先週、信仰とは、イエス・キリストを主と信じること、その救いのみ業を信じることであると学びました。更に、今日の聖句では、信仰とは、イエス様をキリスト(救主)と信じること、また神の子と信じることであるとあります。
1)イエス様がキリスト(救主)であると言う信仰
 イエス様がわたしの救主、どんな状況でも救って下さる方と信じる。だからイエス・キリストと呼ばれます。救いを求めるならそこにイエス様がおられるのです。
2)イエス様は神の子(全能のお力をもつ方)だと信じます。
 イエス様には神のお力があり、どんな状況でも救って下さると信じます。そこで、信仰者はこの方に何を期待するのか?考えてみましょう。信仰によって多くの人は棚ぼた式に祝福が来る、神に従わなくても幸福が与えられるように待っています。しかし、ただ幸福を願う人は失望しています。
 信仰生活は神様のみ言葉、戒めを守れる者になることを求めるべきなのです。「まず神の国と神の義とを求めなさい」とあります。神を愛し、隣人を喜んで愛せる者になる。心はイエス様により自由にされ、正しい選択ができる者になる。次のことを覚えておきましょう。
1)戒めを守ることが神様を愛することなのだ。
 イエス様の教えにしたがっている時、それは神様を愛している行動をしていることなんだと言うのです。1ヨハネ5:3
2)戒めを守れるようになれる。
1ヨハネ5:3「その戒めはむずかしいものではない」とあります。
3)その力が信仰から出ると言うのです。
1ヨハネ5:4、5「わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。 世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか」信仰の祝福を目に見えない救いだけに限定するのではなく、実生活における罪に対する勝利の人生であることを理解しましょう。
2009年11月15日
 信仰の土台
ヘブル10:39「しかしわたしたちは、信仰を捨てて滅びる者ではなく、信仰に立って、いのちを得る者である」

 私達は何かに対する信頼の上に、人生を建て上げて行きます。岩の上に家を建てた人は、岩は洪水が押し寄せても流されないと言う信頼の上に安心して家を建てます。クリスチャンはイエス・キリストを土台とし、彼に信頼して信仰生活を築いて行きます。1コリント 3:11 「なぜなら、すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもできない。そして、この土台はイエス・キリストである。」数週間前から、悔い改めと信仰、信仰者の自由、愛を追い求める学びをしてきましたので、再び信仰についての学びに戻ります。信仰を次のように分類できるかと思います。

1)イエス・キリストに対する信仰
この信仰は、信仰者の生涯にわたって重要な信仰の土台です。イエス様ご自身を主と信じ、イエス様の十字架の意味、復活を信じる事です。

2)イエス・キリストの言葉(聖書)に対する信仰
ヘブル11:1「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認する事である。」私達は霧に包まれた中に歩む者ではありません。信仰者の人生の歩みは、確信に満ちているものです。この聖句は、この事を教えてくれます。続けてヘブル11章につづいて出て来る信仰者たちの決心とその行動の中に、この実践を見るのです。
 アベルはいけにえをささげる時、神様が喜ばれる捧げ物を確信してささげました。 ノアは神様の言葉を信じて、確信を持って巨大な箱船を造りました。アブラハムは信仰によって知らない地に確信を持って出て行きました。彼等は、神様の言葉を信頼し、その土台の上に進んだのです。どんな場面でも信仰によって、正しい道をえらび、信じて進んだのです。そして、大きな祝福を経験しました。

 しかし、この信仰の道は決して広い、安逸な思いで歩めるものではないようです。門は狭く、道は細いと言われるので、イエス様に対する信仰をいつも確かめ、その教えの中に生きなければならないのです。マタイ7:14「命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。」
2009年11月8日
  神の愛に生きる
エペソ 3:17 -19「また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、 すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、 また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。」

 愛はキリスト者が身につけるものです。この愛を得る方法を考えてみましょう。
1ヨハネ4:16「わたしたちは、神がわたしたちに対して持っておられる愛を知り、かつ信じている。神は愛である」

1)神の愛を知ることから
神の愛を知らなければなりません。信仰を持ったときは、キリストを信じる事だけに心がありましたが、次にどれほど神様が愛して下さっているかを知るように聖書は言います。

2)神の愛を信じなければなりません。
この愛を信じます。「神は愛である」とあるように、神様の変わらない愛が私に向けられている事を信じるように神様は願っています。そこで自分の思いに関わらず、愛を信じます。

3)神の愛の性質
エレミヤ31:3「わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。」 神様の私達に対する愛は限りが無く、いつも私達に注がれていると言うのです。暗く重苦しい時であろうと、天から神様は見て下さり救を用意して下さっています。その愛の深さは、神の御子イエス・キリストが苦しまれ身代わりに死なれるほどだと言うのです。

4)キリスト者はこの愛に気付いた者です。
クリスチャンはこの愛に気付き、信じた者です。信仰は私達を神の子とし、新しくし、愛されている者である事を信じるのです。

5)愛の中に生きる時に、愛が生まれる。
「キリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように」 この愛を信じて、その愛の中に安心し、喜びを持って生きる時に、神様は私達の心に愛の実を実らせて下さるのです。

6)愛を行動する者となる。
そして、私達はこの愛を神様と共に、隣り人に向かって用いるのです。あなたと関わりのある方に、特に主にある家族の中で、教会の中で、仕事場で実践しましょう。
2009年11月1日
真の自由はキリストに満たされる時

ガラテヤ5:1「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない」
ルカ15:11-24(放蕩息子)


 自由なクリスチャンとは、どう言う人か? それは自分や他の人の考えに束縛されることなく、どんな事がらにもイエス・キリストの視点を持っている人と言えるのではないかと思う。私が信仰を持った当初、ある人が「私には自由がない」と言った。それは多分、何かの点で、この世の尺度でものごとを見、語り、行動していたからだと思う。 確かに、その時のことを思い返すと、自由がなかったと思う。今では、自由とは本当に何事にも束縛される事無く、ただイエス・キリストの視点(正しいと確信している)で見、行動する事だと信じている。この自由の特徴を考えてみよう。

@ 罪人の自覚があり、自分の愚かさもよく理解し知っている。
A 罪のゆるしの確信がある。
B キリストの元にのみ、人の道があり、真理があり、命があると信じている。
C 心はイエス・キリストに満たされている。
このように言えるのではないだろうか?

 そして、ここにキリストに満たされて生きるために、一つの提案をしたい。それは日常生活で、時に目を閉じた時、信仰が教えてくれる良い事を常に思い浮かべるように心がけようではないかと言うことです。何気なく目を閉じた時に、何が心に浮かぶか?自分で調べてみたら、良い思い(願い)が出てこないことが多いのではないかと思うからです。私は数日前、このことを思いつき実行すると、無意味な想像が出てきただけだったのです。目を開くと、キリスト者としての世界なのに、目を閉じると混沌の世界があるように思えたのです。

 そこで、目を閉じた時に、心に思う事がらをすべて希望とすることがらを思うようにしたいのです。つまり、未来の素晴らしい望みの世界です。祈る時には、誰かの救われた姿を思い浮かべ、家族の幸せな団らんを思い、仕事は順調になることを思い、私は成長したクリスチャンになっている事を思うのです。信仰者の夢です。 この望みも、キリストの望まれる世界ですから、キリストに満たされる事と信じます。 ローマ8:28「万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている」私達のすべてがキリストに満たされたいのです。
2009年10月25日
神の愛を信じる。
1ヨハネ4:16「わたしたちは、神がわたしたちに対して持っておられる愛を知り、かつ信じている。神は愛である」

 信仰のテーマは「愛である」と言えるのではないでしょうか。イエス様は私達に愛を教えるために来られた、そして、十字架はその愛の表現であると。その愛は、罪をゆるし私達に永遠の命を与えたいのです。
 この愛は、まず神様から受けるものでした。だから、「神がわたしたちに対して持っておられる愛を知り」と言うのです。そして、愛を知り、愛を信じ、愛する者になる、この愛に生きる者になることをイエス様は願っておられます。

 しかし、愛を受けることと愛を行えるものになるのには、大きな隔たりがあります。愛は与えるものです。そして信仰者としての成長が必要なのです。使徒 20:35 「わたしは、あなたがたもこのように働いて、弱い者を助けなければならないこと、また『受けるよりは与える方が、さいわいである』と言われた主イエスの言葉を記憶しているべきことを、万事について教え示したのである」 ルカ6:38「与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう」 聖書は「与えよ」、それは「愛せよ」と言われているのです。その為に、二つの事を教えています。

1)愛を知ることから
 この愛は、私達が肉体が求める愛とは違うものです。ですから、イエス様の行動、教えからよく知らなければなりません。その愛はキリストの行動、特にキリストの十字架の中にハッキリとあらわされていると言います。

2)愛を信じる
 更に、信じなければなりません。信じるとは単に知識ではなく、自分との関わりの中に信じるのです。神の自分への愛を信じるのです。確かで、永遠に変わらない愛を信じるのです。また、その愛はすべての人にも向けられているものです。

3)愛の実践。
 この愛を受けていると信じたなら、神様に対して、隣人に対して実践する事が大事です。その時に、愛の広さ、高さ、深さを理解するものとなり、御言の理解がより深められます。そして、愛は自分の人格にまで高められて行きます。1ヨハネ5:3「神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである」
2009年10月18日
 愛を追い求めよう
1コリント13:13、14:1 「このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。 愛を追い求めなさい」

 私達の世界に、神の愛は大切です。人は、愛を受けて生き甲斐を見いだし、安心と幸せを見つけられるからです。しかし、私達の心をさぐるなら、愛はないことに気付きます。人を大切にする心よりも、自分の欲望、思いが大事なのです。その結果は災です。だから、神様に助けられて愛を追い求める者になることが大事なのではないでしょうか。

1)聖書は愛がいちばん大切だと言います。
 『愛がいちばん』と悟っているでしょうか。神様が「このうちで最も大いなるものは、愛である」と言われたことは、そこに大きな恵みがあり、祝福があるのは明らかなのです。愛を求めるなら祝福があり、神様が喜ばれるのです。

2)人の価値を認めることです。
 愛するとは、兄姉を無条件に高く評価することです。神様を愛するとは、最高の方として認めること、人を愛するとは、兄姉を自分よりも尊く見る心です。愛するとは、その人の存在価値を認め、大切に思うことから始まるのです。

3)愛は問題を解決します。
@愛されている自覚は、その人の心を安定させます。
A愛することが出来た時、その人は達成感を持ち、心から喜べます。
B愛する時、その人を真に理解できます。
その結果、私達は人間関係のほどけない問題を解決できるのです。

4)この愛をイエス・キリストから学ぶ
 イエス様をありのままに知る時、キリストの愛を学びます。私達自身が、信仰によってキリストに癒され、励まされ、その愛を心に受けるのです。「わたしたちは、さらに彼(キリスト)により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、・・・希望をもって喜んでいる」ローマ5:2 「聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである』ロマ5:5

あなたにとってイエス様はどのような方ですか。
<あなたを愛し、見捨てず、いつまでも共にいて救ってくださる方>ですか? 私達は、イエス・キリストを通して、この神の愛を追い求めなければなりません。
2009年10月11日
 キリストの自由3 <愛を追い求める>
1コリント13:13、14:1「このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。 愛を追い求めなさい」
ガラテヤ 5:13「兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。」


キリスト者は、キリストの自由を理解して、自由を得る者にならなければなりません。聖書は「自由を得るために、キリストはわたしたちを解放して下さった」とあるからです。そして、その自由をもって愛を追い求めることに用いるのです。それは、何かを行うと言うよりも先に、愛の賜物、愛の性質を求める事だと思うのです。

1)愛を追い求めることは、神様の命令です。
愛を求めるのは、愛が素晴らしいからだけではなく、神様の命令だからです。

2)愛とは、神様の働きによって受ける愛の性質(1コリント13章、御霊の実)私達が自分自身を、神様に委ねる事によって、神様が私たちの内で働いて下さって愛の性質を心に実らせて下さるのです。

3)キリストの自由こそが、愛を求める方向へ進めます。
ですから、罪を捨て、束縛を捨て、神の霊が私達のうちでよく働いて下さるように、キリストを第一にする信仰生活を確立する事から始まります。主に忠実に従い、愛を追い求めることによって受けます。

4)愛の結果
@ 罪のゆるしにあふれた交わりがあります。
A 罪が次第に減って行きます。
B 私達の交わりが,最高の喜びとなります。

 教会の目標の大事な一つが、信仰者がキリストの自由を知ることです。二つが、自由によって愛の性質を求め、愛を実践できる者となることです。
2009年10月4日
キリストの自由 2
マルコ 10:29、30「イエスは言われた、「よく聞いておくがよい。だれでもわたしのために、また福音のために、家,兄弟、姉妹、母、父、子、もしくは畑を捨てた者は、  必ずその百倍を受ける。すなわち、今この時代では家、兄弟、姉妹、母、子および畑を迫害と共に受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受ける。」
 
 私たちはキリストの自由なるものを得る為に、二番目のステップに向かいます。一番目は、罪の真剣な悔い改めと信仰でした。そして、二番目は古いと言われるものを捨てることです。

1・周りの圧迫を恐れない。
 マタイ10:34-36「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである」信仰は最初周りの反対を受けます。しかし、恐れるな、相手の要求に合わせてはならないと言うのです。原因は、宗教の違いであったり、習慣の違いからです。しかし、主に従う時に、必ず良いものが現れて来ます、主は支えて下さるのですから、周りではなく、主を恐れるのです。

2・自分を捨てよ
 マタイ16:24「それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」」
1)自分の大事なものよりもキリストを一番にする
 マルコ 10:29、30「イエスは言われた、「よく聞いておくがよい。だれでもわたしのために、また福音のために、家,兄弟、姉妹、母、父、子、もしくは畑を捨てた者は、 必ずその百倍を受ける」 家、兄弟、姉妹、母、父、子,畑は大事なものです。しかし、キリストを一番にすることを言います。その結果、もっと良いもの、良い関係を受けるのです。
2)自分の思い,考えよりも、キリストの教えを第一にする。
 マタイ16:24「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」

3・自由の中に新しい歩みが始まる。
この戒めに忠実に歩む時に、人はキリストにある自由を得、新しい生き方が始まるのです。そして、その時、以前の悩みは消え去っている事に気付くのです。
2009年9月27日
 キリストの自由 1
ガラテヤ5:1
「自由を得るために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない」


 ここで言われる自由こそが、私たちの心の不安、迷い、苦しみを解決できた心の状態であります。何かに束縛されて,ストレスを感じながら、不安のある生活ではない、キリストが心に持たれていたであろう同じ自由を持つ事です。どんな状況にも平安と自由がある心。キリストの十字架の死は、私たちを罪の奴隷から解放し、救いと自由のある生活をさせるためだと言って良いと思うのです。それを得る為に、何が必要か? 真剣な悔い改めと心からの信仰です。

1・真剣な悔い改め
1)罪の自覚
 私たちの悩みの問題(色々な悩みがあるでしょう)は、自分の内にあり、すべて自分の罪から出ている事を理解し認めることです。悪い思い、不信仰、過度の欲望・・これらから不幸が出ていると、分かること、自覚することが大事です。
2)危機感を持つ
 その解決がなければ、将来がない、祝福を失い,滅びがあると言う危機感を持つ事です。このままではいけないと言う自覚が重要です。そして、罪を止める真剣な決心です。この悔い改めがとても大事です。

2・ 続いて、イエス・キリストへの信仰が求められる。
 私たちはこの信仰を軽んじてはなりません。罪を愛すると言う退路が断たれたなら、前に進む道がなければなりません。その時、キリストの十字架の意味、復活を信じて、キリストを『真理・道・命」として仰ぐのです。例え、罪を悔い改めたとしても真理の道がなければ人はまた同じ罪の道に返ります。2ペテロ 2:22 「ことわざに、「犬は自分の吐いた物に帰り、豚は洗われても、また、どろの中にころがって行く」とあるが、彼らの身に起ったことは、そのとおりである。」
 信仰は私たちを神の子として下さり、元の罪に戻らないように導いてくれます。キリストの自由とは、私たちを罪の奴隷(不幸)から救い出して、新しい道に、信仰をもって、自発的に、真理に向けて生きる力となります。心にはゆとりなり、試練に立ち向かう力となります。(次週につづく)
2009年9月20日
神のみ前に安んじる生活
1ヨハネ3:19「それによって、わたしたちが真理から出たものであることがわかる。そして、神のみまえに心を安んじていよう」

 周りの多くの方々を見ても、人にとって心を安らかにして生きることは、とても重要なことであることを教えられます。カウンセリングについてネットで調べると、277の悩みからあなたの悩みを見つけるようにとあり、多くの悩みが世の中にはあることが分かります。恋愛、夫婦、家族、仕事、健康、経済・・・私たちの心には、常に悩みの種があるのです。そして、次から次へと芽が出て,人を悩ましています。しかし、イエス様はご自身によって、その救いの道を示して下さっています。

1)真の安らぎは神から来る。
「そして、神のみまえに心を安んじていよう」とあるように、私たちの心の安らぎは神の元にあるように言います。私たちはあちこちの救いを探しまわりました。しかし、結果、その救い、やすらぎは神の元にあることを知ったのです。
a ) 神以外には真の安らぎはない。この心の落ち着きは、イエス様の他にはないと言います。使徒4:12「この人による以外に救はない」とあり、それ以外のもの、他の人、趣味、お金、名誉・・その他どんなものにも、真の安心はないのです。
b ) どんなものも,この安らぎを取り去ることはない。この安らぎの本質は、神の愛にあります。そして、その愛を私たちから奪い去る者はないとあります。ローマ 8:39 「高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。」信仰者の素晴らしさは、イエス様とともにあって、どんな状況にあっても、主の愛と主の守りの中に平安をもつことが出来ることです。そしてこの祝福は、信仰と従順にあります。
2)主の戒めに従うことが、その祝福を豊かにしてくれる。
 私たちが動くことのない安心にあるためには、主の戒めに歩み、そこから来る祝福を豊かに味わい、真理であることを悟る中に受けるものです。神と人、互に愛し合う関係の中に、神から来る安心が私たちを包みます。
 私たちは、世のものに期待し、世の考えによって歩むのではなく、主の救いの中を、主に信頼し,主の教えに従う時に、真の平安を受け続けるのです。
2009年9月13日
 罪を除くことを願われるキリスト
1ヨハネ3:5「あなたがたが知っているとおり、彼は罪をとり除くために現れたのであって、彼にはなんらの罪がない」

キリストにみる人の罪を除く歩み
1・愛の実践
 イエス様は愛を通して、私たちの罪を除こうとされた。弟子たちの間違いを正し、正しい教えを与え、いつも自分の側におるようにされたが、その上に、イエス様との愛の交わりの中に、彼らがきよく成長するのをみておられた。イエス様に赦され,やさしく招かれる時、私たちは成長する。1ペテロ 4:8 「何よりもまず、互の愛を熱く保ちなさい。愛は多くの罪をおおうものである。」神の愛の中に生きる時、私たちは罪を犯さない者と成長する。

2・罪の身代わりの十字架
 そして、私たちの罪のゆるしのため、愛の犠牲を,ご自分の身体を持ってささげられた。その時は、誰もイエス様のされたことが分からなかった。聖書は「私たちが罪人であった時に、キリストが死んで下さったこと」と教えている。しかし、この十字架は、イエス様が地上に生きておられたときだけではなく、人類のすべての時に罪のゆるしを宣言している。彼を信じる時,人は罪を犯さない歩みに導かれる。昔も今も、このイエス・キリストを信じることによって、罪のゆるしが与えられ、罪からの解放が与えられる。

3・罪に勝利する力を下さる復活
 そして、人々が主に従い,罪に勝利して、神と共に生きる力を受けるために復活された。私たちは復活のキリストにより、すべてに勝利があること、罪からの勝利があることを信じる。ローマ1:4「聖なる霊によれば、死人からの復活により、御力をもって神の御子と定められた」
 今、私たちの罪との戦いの時、生きておられるイエス・キリストを見上げることにより、励まされ、力を受けて勝利の道を歩むことが出来る。このキリストを見上げ、キリストにならい、信仰によって生きる時に、キリストの願われた罪からはなれることが出来ると信じる。
2009年9月6日
 キリストの戒めを守る意味
1ヨハネ2:5、6「しかし、彼の御言を守る者があれば,その人のうちに、神の愛が真に全うされるのである。それによって、わたしたちが彼にあることを知るのである。 『彼におる』と言う者は、彼が歩かれたように、その人自身も歩くべきである」

 <戒めを守る>ことを、心から求める意味を学びます。
それは、私たちの生活の中にイエス様が具体的に入ってこられることであり、信仰が心の中の一部分にあるのではなく、信仰が心全部に働くことなのです。パウロは本当の神様がイエス様であることが分かった時、彼は「主よ、わたしは何をしたらよいでしょうか」と問いかけました。

 神様の戒めを学ぶ時、古い戒めからも学ぶことが出来ます。その内容というより、その態度に教えられることがあります。十戒を思い出して下さい。その中の八つは、「〜してはならない」と言う消極的な命令でした。それは、罪を犯してはならないと言う命令です。まず、私たちは罪を犯さないように心がけます。
@ 悪いと分かったことを止めることは、行いやすいのです。<争いの言葉を止める>  <人を裁く言葉を止める> <罪の行為を止める>
これらは愛すると言う積極的なイエス様の戒めより、従いやすいことなのです。

イエス様は、積極的に愛することを求めています。
A 新しい戒めを守るとは、積極的に愛することです。
私たちが成長しなければならない理由として、より積極的に人を愛するためと言う理由があります。自分を犠牲にして、誰かを愛するイエス様に近づくことです。私たちが熱心になって、主の戒めを守ろうと心に願いましょう。

 もし、私たちがこの戒めに歩もうとするなら、私たちは中途半端な態度であるべきでありません。この生き方は,非常に価値のある,意味のある、重要な目標です。その為には、他のものに目を向けている怠惰な態度、ぼんやり考える余裕はないのです。ですから言います。1ヨハネ2:15「世と世にあるものとを、愛してはいけない。もし、世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない。」
それほどに、一生懸命に主の戒めを知り、従おうと心がけたいものです。
2009年8月30日
 光の中を歩く
1ヨハネ1:7「しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである」

 信仰者は「光の中を歩く」とは、どう言う生活のし方だろう?考える。
ハッキリ分かる事は、闇の中を歩いていないことである。闇の中を歩いているとは、ここで11節に「兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩くのであって」とあり、神様の教えを平然と破り、悔いる事なくいる者のように思う。御心から反れているのに、分かっているのに、悔い改めない心に注意しなければならない。
 また、「光の中を歩く」とは、罪を全く犯さないと言う意味でもない。罪を犯さない事は命じられているが、8節「もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない」とあり、また、2章1節「もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる」とあるように、神様は,私たちが罪に弱い事を知っておられ、その解決する道を示されている。
 そこで「光の中を歩く」とは、まさに私たちの心が真実に,自分の罪を悔い、イエス・キリストを信じ、躓きながらも、主に道を求めて生きる姿であると信じる。 私たちは神様の御言(聖書)に常に道を示され良心的に生きなければならない。その時、上記聖句から、次の祝福があると教えている。

1)私たちは神と教会の兄弟姉妹たちと,真の心の交わりを持つ。
 真の互の交わりは、光の中を歩く者同士が受ける神様の祝福である。教会の交わりが祝福されるためにも、闇からはなれ、光の中を歩かなければならない。
2)罪のゆるしを確信する。
 9節にあるように、光の中を歩く者(悔い改める者)は、神から罪のゆるしを受け、心に平安を受けて生活できる。罪のゆるしの確信は、私たちが明るく前向きに生きる土台となる。
3)人格と生活全体が,清められて行く。
「すべての罪からわたしたちをきよめる」とあるように、罪から離れた者となる。90才後半になられたクリスチャン医師日野原重明さんは、今をありのままに道理に背く事なく生きると言われた。清めとは、心から罪の性質が除かれるのである。
2009年8月23日
 教会の独立
エペソ2:19-22
「そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。 またあなたがたは、使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって、キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である。 このキリストにあって、建物全体が組み合わされ,主にある聖なる宮に成長し、 そしてあなたがたも、主にあって共に建てられて,霊なる神のすまいとなるのである」

 伝道所がその母教会から離れて独立する時が来ました。家族においでも、子は成人し、導かれた伴侶と結婚すると、それまで養育してくれた父母を離れ新しい家庭を持ちます。神様は教会をそのように増やされてきました。教会の独立とは、どう言うものでしょうか?
 それはイエス・キリストの働きをする組織として、他に頼ることなく自存し、イエス・キリストの働きをする組織に成長する第一歩のです。

1・他の教えに吹き惑わされることのない、信仰の基礎を持っていなければなりません。 イエス様のお働きを継承するために、揺れ動かされない聖書真理を持っていなければなりません。牧師の働きですが、教会も同じ理解が必要です。

2・霊なる神の住まいとしての主にある組織でなければなりません。教会はキリストの身体として、おのおの各人は、教会に自分の働きを持ち,全体として一つでなければなりません。信仰の一致と、愛の帯に結ばれ、ある人は教師、執事、伝道などの働けるものとなっていなければなりません。

3・経済においても自分たちで教会を支えることが求められます。独立とは、教会員が教会の集まりを支えるために、経済的犠牲をも喜んでささげる意志が必要になります。そして、教会経済が支えられる必要があります。

 現在、私たちはこれらの必要に十分答えられているとは言えません。しかし、信仰をもって、前に進む努力がなければ、私たちに更なる信仰的成長、教会成長はないのです。全世界には、すばらし交わりをもち,主の働きを進めている教会が多くあります。私たちもその一歩を踏み出すのです。
2009年8月16日
 コイノーニア 交わり
1ヨハネ1:3、4「すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。 これを書きおくるのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるためである」

 イエス様が教えられる「神様との交わり」「兄弟姉妹との交わり」は非常に深く重要な意味があります。原語のコイノーニアには、密接な結合と言う意味があり、軽い関わり以上のものなのです。教会は神様との交わりの場であり、兄弟姉妹の愛の交わりの場であります。世の人が知りえない関わりを持つ所であることを知らなければなりません。

 初期のクリスチャンたちは、使徒行伝2:44-47「信者たちはみな一緒にいて、いっさいの物を共有にし、資産や持ち物を売っては、必要に応じてみんなの者に分け与えた。そして日々心を一つにして、絶えず宮もうでをなし、家ではパンをさき、よろこびと、まごころとをもって、食事を共にし、神をさんびし、すべての人に好意を持たれていた」と書かれています。この表現をそのままに受けいれるなら、私たちには出来ないと思う人も多いでしょう。しかし、心において、兄弟姉妹と共に生きる、一緒に生きたんだと思うと、こう言う心を持ちたい,目標にしたいと願います。
 ここにある教会の兄弟姉妹は、肉の家族以上の関わりを持っていたのです。そこには次の要素がありました。

1)神との交わりに入っていた。
「わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである」とあるように、信仰によって神との深く強い交わりをもっていたのです。

2)兄弟姉妹との深い信頼と交わりに入っていたのです。
彼らは互に信頼し,愛し合い、家族のように生きていました。

 この変化は驚くべきことでした。自分からは出来ない、神様の業なのです。教会の交わりは、愛の交わりであり,誰もが自分よりも神様、自分よりも隣人のことを思うようになることを目ざしています。イエス様が歩まれたように歩むことであり、そのご性質に近づけることです。
2009年8月9日
 終末と神の国
2ペテロ3:10-13「しかし、主の日が盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。 このように、これらはみなくずれ落ちていくものであるから、神の日の到来を熱心に待ち望んでいるあなたがたは、 極力、きよく信心深い行いをしていなければならない。その日には,天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう。 しかし、わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる」

 日食は、驚くべき偶然の産物と科学者は言います。その訳は、太陽と月の大きさが1/400であり、地球と太陽、地球と月との距離が1/400であり、丁度地球、月,太陽が一直線に並ぶから、日食が起こるというのです。しかし、地球のすべて、自然はさまざまな点で奇跡的な構成をしていて、それらをすべて偶然で片付けることは出来ません。イエス様が十字架につけられた時、全地は暗闇になりましたが、神様のご計画の一つなのです。

 そして、聖書は、この宇宙が神様のご計画として、突然に終焉を迎えると予言しています。太陽も星も焼け崩れ,消え去ると言うのです。それは、科学者が言うように、遠い先のことではなく、近い将来に突然に起こると予言されています。
 また、この時、同時に人類は恐ろしい破滅の現実に直面すると預言しています。それは、時が満ちて、神様が人の罪を裁かれる時だからです。神様の恵みのときが終り、裁きの時が来るからです。
2コリント6:2「神はこう言われる、「わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ,救いの日にあなたを助けた」。見よ、今は恵みの時,見よ、今は救いの日である」

 この恵みの時、救いの日が終わる時、この世の物質は終りを迎え、そして、新しい天と地、神の国が私たちの目の前に現れます。クリスチャンは祝福の国に住み,この神の国を待ち望んでいます。
 この預言を知っている私たちは、神の国をどんな試練をも乗り越える望みとし、また新しい心をもって生きることを願いとするべきなのです。
2コリント5:17「だれでもキリストにあるならば,その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った,見よ、すべてが新しくなったのである。」

 私たちは,信仰と忠実さの中に生活し、神様によって新しい性質を心に生まれさせていただくのです。主に従う歩みの中に,主は良い実をならして下さるのです。
2009年8月2日
 神様に与えられている時間を生かす
2ペテロ3:8、9「愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。」

 神様は私たちに生きる時間を与えてくれています。そして、私たちがその時間をどう生きるか見ておられます。私たちがもし、人生を自分のためのものと考えるなら、神様は悲しまれます。自分中心の、愛のない神様が喜ばれない生き方をするからです。私たちは神様の完全生を知って、神様に生きる道を学ばなければなりません。
1)神様に信頼する。ヨブ42:2
 神様はすべての時を最善にされる。「主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである」とは、神は私たちの思いを遥かに越えて、時間に左右されず、またミスを犯されない、信頼できる方だと分かるのです。私たちは時を生かす人生のために、まず、万物を創造され、その頂点に人を創造された神を認め、信頼することから始まります。
2)神様の御旨を知る
 エペソ5:15-17「そこで、あなたがたの歩きかたによく注意して、賢くない者のようにではなく、賢い者のように歩き、 今の時を生かして用いなさい。今は悪い時代なのである。 だから、愚かな者にならないで、主の御旨がなんであるかを悟りなさい」そして、主の御旨が何であるか悟るように教えています。私たちはその行為が神様を喜ばす御旨であるかと言う基準で行動します。それが今の時を生かすことです。
3)時を生かす最高の行動は何か?
@救われること ヨハネ3:16
 それはまず、自分が救われることであり、周りの人が救われることです。時間とは命があって,意味があるものであり、主から永遠の命を受けます。
A御心に生きる
 主の御旨を深く悟り、その道に生きることです。これがクリスチャン生活です。
B神様の栄光を現す ピリピ2:10、11
 その最終的目標は、神様の栄光、素晴らしさを人が現すことと教えています。
2009年7月26日
 聖書に親しむ
2ペテロ1:19「こうして、預言の言葉は、わたしたちにいっそう確実なものになった。あなたがたも、夜が明け,明星がのぼって、あなたがたの心の中を照らすまで、この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい」

 イエス様の弟子たちは、最初から優れた信仰者ではありませんでした。私たちと同じ、身分は高くなく、特に優れた点を持つ事もない、庶民でした。イエス様の一番弟子だったペテロでさえ、怒りっぽく,間違いを犯すものであり、ついには人前でイエス様を知らないと嘘をつき、信仰を否定する行為をしたのでした。しかし、イエス様は彼らの信仰を守られて、将来のクリスチャン指導者とされたのです。
 ペテロたちは重大なつまずきを経験しながらも、しかし、とても大切な点において成長していった事がありました。それが、イエス様の言葉、御言葉に対する確信とみ言葉中心に生きたことです。

1)聖書の言葉への確信
 「こうして、預言の言葉は、わたしたちにいっそう確実なものになった」 聖書の言葉は真実であるとの確信は、信仰者の成長に取って、最も大切なことであると信じています。順風のときも、逆境の時も、『御言にこう書いてある」と言えて道を歩む事が出来るようになることです。御言に対する確信を持てている時に言える事です。主は、その歩みの確かな事を教えて下さり、私たちの信仰は更に強められ成長します。

2)聖書の言葉に目ととどめ続ける。
 そして、今日の聖句では、「この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい」神様の御心から離れているこの世の中で、道に迷うことなく、希望を持って生きるために,聖書の言葉に目をとめていなさいと言うのです。

 私たちが聖書の言うことに確信を持ち、目をとめて学ぶことは、神様の助けなくしては出来ない事なのです。御言の真実を信じ、信頼して読み,学ぶことは、まさに信仰の証であり、霊の糧なのです。より熱心に聖書に親しみましょう。
2009年7月19日
 神の恵みと平安に満たされた生活
2ペテロ1:2「神とわたしたちの主イエスとを知ることによって、恵みと平安とが、あなたがたに豊かに加わるように」

 神様の恵みとは、多岐にわたり、平安は深いものです。しかし、深く恵みを受けていると言える人は少ないのです。最初の罪のゆるし、救いの恵み恵みを受けて、イエス様の広さ、長さ、高さ、深さを理解するほどには成長していないようなのです。エペソ3:17
 私たちはもっと励んで、信仰に深く生きる生活を求めるべきなのです。もし、私たちの信仰生活に不満を感じているなら、まだ神と主イエス様をよく知っていないからです。聖書に『知ることによって、恵みと平安とが、あなたがたに豊かに加わるように」とあります。

1)神様の恵みと平安は与えられている。
 神様からの良いものは、すでに与えられています。聖書に2ペテロ1:3「いのちと信心とにかかわるすべてのことは、主イエスの神聖な力によって、わたしたちに与えられている」とあります。
 神様の恵みは、すでに与えられているものです。イエス様の救いもすべての人に提供されているように、主の恵みは信仰者にすでに与えられています。ですから、私たちはそれを得るように求めなければならないのです。

2)それは豊かに加えられるもの。
そして、それは豊かに私たちに加えられるものなのです。
2ペテロ1:2「恵みと平安とが、豊かに加わるように」
2ペテロ1:5「力の限りをつくして、・・加え、・・加えなさい」
2ペテロ1:8「いよいよ豊かになるならば」
 主の恵みが私たちに豊かに加えられたなら、私たちはどんな信仰生活を送れるのでしょうか。大きな喜びであり、希望です。
 
聖書は2ペテロ1:10「ますます励んで、あなたがたの受けた召しを選びを確かなものとしなさい」
ヤコブの言葉を思い出します。「あなたがたは、求めないから得られないのだ」熱心になって、主の恵みを豊かに受けるものとなることを願いましょう。
2009年7月12日
 いっさい神にゆだねる。

1ペテロ5:8「神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい」

 信仰者の人生に、肉体の苦しみは有意義だと学びました。イエス様と共に苦しみに立ち向かうことは、その人を成長させます。しかし、それは苦しみを重い悩みとせず、肉の苦しみから逃げることなく、前向きに立ち向かう事なのです。 しかし、人は経済の事,家庭の事,仕事の事・・・それらに神様なしに、一人で悩み、心の混乱へと落ちて行く事が多いのです。これは良くない事なのです。
 そこで、人は苦しみにまっすぐに立ち向かうために、神様に思いわずらいをゆだねなければならないのです。聖書は次のように言います。
ピリピ4:6「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに,感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい」
 この神様にゆだねた良い例を、サムエル上1章に出る女性ハンナに見ます。彼女は、子どもを産めず、周りから傷つく言葉を受け、悩んでいたのです。彼女は信仰があり、祈ったようです、しかし、心の苦しみはなくならなかったのです。辛い毎日だったことでしょう。ある時、彼女は神殿で自分の悩みを神様に注ぎ出しました。その悩みの深さを祭司エリに、「積る憂いと悩みのゆえに、わたしは今まで物を言っていたのです」と答えたほどです。祭司エリの答えが彼女を助けました。「安心して行きなさい。どうかイスラエルの神があなたの求める願いを聞きとどけられるように」。彼女はその時から,自分の悩みを神様にゆだねることが出来ました。彼女は、「その顔は、もはや悲しげではなくなった」とあります。
 彼女は問題と悩みを神様におゆだねできたのです。現実は何も代わらないのですが、悩む事を止める事が出来,悩み悲しむ心を克服できたのです。
 神様にゆだねるとは、神様の導きに信頼し、思いわずらいをすべて神様にゆだねて、その悩みの種で悩まなくなることです。そこに次のことがあります。
@ 自分には解決する能力がない事を認め
A 神様のあわれみに信頼し、神様におまかせする。
B ゆだねる結果、心の悩みが和らぎ、逃げるのではなく立ち向かえます。
神様にゆだねることを学ぶことは、信仰者としてとても重要です。そして、いっさいの心の中の思いわずらいをゆだねる事が求めましょう。
2009年7月5日
 苦しみに向かう
ペテロ4:1、2「このように、キリストは肉において苦しまれたのであるから、あなたがたも同じ覚悟で心の武装をしなさい。肉において苦しんだ人は、それによって罪からのがれたのである。それは、肉における残りの生涯を、もはや人間の欲情によらず、神の御旨によって過ごすためである。」

 苦しみは悪いものだろうか?
誰もが、苦しみたくないと思います。苦しみを経験するとき,悪いことのように考えているのではないでしょうか。しかし、聖書は苦しみをより積極的に、必要なものとして,苦しみに立ち向かうことを教えています。ダビデも告白しています。詩篇119:67「わたしは苦しまない前には迷いました。しかし今はみ言葉を守ります」 詩篇119:71「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました」

1)私たちの模範者イエス・キリストは、私たちのために肉において苦しまれた
イエス様自身、正しいことのために苦しまれる歩みをされたのです。義のために肉の心と身体は苦しみを経験されたのです。その苦しみ受け入れ、立ち向かわれました。

2)同じように、苦しむことに立ち向かえと言います。
イエス様に従い、神様に従う苦しみに、前向きに立ち向かうように言います。
 ・悪い考え,罪の行動を止める苦しみに立ち向かうことです。
 ・他者のために、キリストのように苦しむことを積極的に受けいれる事です。この苦しみに対処する方法を、信仰を土台とし、真理を求めることを第一とし、正義を求め、平和を求め、救いの確信を持って,み言葉に頼りなさいと言います。心の武装が必要なのです。神と深く交わり、信仰の武装をして、その上で誰かのために、祈り、手足を動かし、声をかけ、時に苦しみを覚悟して、善のために苦しむことを勧めています。苦しみは行動に伴うものです。信じて従う時に、肉の苦しみは伴い、それに立ち向かうように言います。

3)その結果、罪からのがれ、神の御旨によって生きるようになると言います。
苦しみに積極的に向かう生活は、私たちを罪から解放し、神の御旨に知った生き方に導き、そこにキリストに似た、愛と信仰に歩む自分を見つけるのです。
2009年6月28日
 死と救いを表わすバプテスマ
1ペテロ3:21「この水はバプテスマを象徴するものであって、今やあなたがたをも救うものである。それは、イエス・キリストの復活によるのであって、からだの汚れを除くことではなく、明らかな良心を神に願い求めることである」

 大昔に、地球は大洪水にあいました。人がまだ全地に増え広がる前の事で、それ以後一度もないような、天からも地からも水が溢れ、大地殻変動が共に起こった大洪水だと考えられています。その時、ノアの家族と動物達が箱船に入って救われ、その他の人たちは溺れ死んだのでした。そこにいた人たちには、死と命の選択がありましたが、神様によるノアの忠告に聞かなかったのです。神様に聞く信仰がなく、雨も降らず、海もないところで、洪水の警告と大きな箱の形の舟を造る信じられない命令だったからです。しかし、聞かなかった人々は皆、水の中に沈み、死にました。 そして今、神は聖書によって、イエス・キリストを信じることによって罪の滅びから救われるように、私たちに命令しているのです。キリストは、彼を信じた人は,バプテスマの儀式を受けるように命じているのですが、そのバプテスマをノアの洪水が象徴しているとペテロは言います。

1)水は死を表わす。
 洪水の時、水の中に沈んだ者は皆死にました。水は死を表わします。バプテスマにおいて、信仰を告白をした者は、水の中に身を沈めます。これはキリストの身代わりの死を表わし,私たち自身も信仰によって罪に死ぬことを表わします。

2)水から上がることにより、キリストの復活と私たちの救いを表わしている。
 バプテスマは、すぐに身体を水の中から上げられ、神による死からの救いを表わしてます。それは、イエス・キリストの復活によって、信じる者の救いを表わしているのです。

 バプテスマとは,このキリストを信じる者の救いの信仰の告白です。しかも、大切なことは、外面的なことではなく、良心において、確かに真心から信じたことを神様に証をするものなのです。信仰者は,特に、この真心から従おうとする心が大切です。 
2009年6月21日
   父の日
エペソ 6:4 「父たる者よ。「子供をおこらせないで、主の薫陶と訓戒とによって、彼らを育てなさい。」
コロサイ 3:21 「父たる者よ、子供をいらだたせてはいけない。心がいじけるかも知れないから。」

※父の日の起源(インターネット上の説明)
<「父の日」の存在の大切さを提唱したジョン・ブルース・ドット夫人はアメリカ北西部開拓者一家の少女でした。(今から100年以上前の話です。) ゆったりと風に波打つ大草原に6人兄弟(男5人、女1人)の中で育ったのです。ドット夫人のお父さんは北軍の軍曹で、南北戦争の英雄「ウイリアム・ジャクソン・スマート氏」です。(南北戦争 1861年 - 1865年) 「ドット夫人」の「お母さん」は、夫の「ウイリアム氏」が北軍に召されている間、女で一つで働きながら一家を支えてきました。そのためお母さんはすっかり体をこわしてしまい、お父さんの復員後、間もなく亡くなられていますので、終戦後「男手一つで6人の子どもたちを立派に育てた」のでした。再婚もせず、6人の子供たちを立派に成人させた後、病を経て天に召されたのです。子どもたちは、このお父さんを心から愛し、尊敬していました。 1909年(明治42年)ドット夫人は「父親を尊敬し、称え祝う日」をアメリカ合衆国として設けるよう「聖職者同盟(牧師協会)」に嘆願したのです。 前年(1908年 明治41年)に「母の日」が制定されたばかりでしたので、当然「父の日」もあるべきと思ったのでした。そして、7年後の1916年、第28代ウイルソン大統領によって「父の日」が認可されたのでした。>

 聖書は、子どもたちは両親を敬うように命令し、そうするなら、子どもたちは幸福になると教えています。父として愛する子どもたちを思う時に、敬われる自分自身のここち良さより、子どもたちが親を敬い、幸福な人生を送れるように教育をしなさいと言っているようです。子どもたちが敬いやすい親になることが大切なのではないでしょうか。「父の日」の起源となった父親像の中に秘訣を見る時、

@ 彼の生き方は、はっきりしていました。正しいと信じる信念を持って行動した ことです。私たちは,子供達にも分かる良心的真理に従う決心が望まれます。

A 彼は自分の欲望の願いよりも、子どもたちを愛そうとしたのでした。 子どもたちは聖書の教えと父親の歩んだ姿を見て、彼を敬いました。そして、両親を敬う子どもたちも神様の祝福を受けます。私たちは両親を敬うこと、また敬われる親になろうではありませんか。
2009年6月14日
   主の平安を求めて
1ペテロ3:15
「ただ、心の中でキリストを主とあがめなさい」


 ある方が、他に何もいらないけれど「心の安らぎが欲しい」と答えられ、本当にその通りだと相づちしました。心が安らかであれば、きっと毎日の生活が明るく、楽しくなることでしょう。 私たちが信仰を持つ時,信仰によって心の平安を受けると聖書は教えます。とても重要です。平安は、イエス様が信仰者に残されたものなのです。

1)悩みや苦しみの多い生活。
 私たちが心の安らぎを求めるのは、世の中に悩みが多いからです。経済的問題,人間関係の問題,将来の不安・・・常に何かが私たちの心を悩ませています。ペテロは信仰のゆえにはく害を受ける信仰者に、そんな時、「ただ、心の中でキリストを主とあがめなさい」と言いました。そうすれば、主の平安が戻るのです。

2)イエス・キリストは私たちの平安の源。
 私たち人は、イエス・キリストによってのみ、真の平安を受けるのです。ヨハネ14:27「 わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。」

3)ただ、心の中で
 真の平安には、どんな苦難のときも、ただ一つ、キリストの元にのみあるのです。そして、心の中でキリストを思います。どんな苦難、試練が襲ってきても、心は自由なのです。そしていつも、どこでも自由にキリストを見上げることが出来ます。パウロたちは牢屋の中でも,平安に満たされていました。なぜなら、心は自由にキリストの元にあるからです。

5)キリストを主とあがめます。
そして、心の中で、キリストを主とあがめます。真の主は、自分の上司でもないし、牧師でも、他の誰でもなく、自分自身でもなく、主イエス様なのです。その時に、私たちは誰にも破られることのない、主の平安の元に憩うことが出来ます。私たちの心は天の主の元にまで上げられます。
2009年6月7日
   神の祝福を受け継ぐ
1ペテロ3:8、9「最後に言う。あなたがたは皆、心をひとつにし、同情し合い、兄弟愛をもち、あわれみ深くあり、謙虚でありなさい。 悪をもって悪に報いず、悪口をもって悪口に報いず、かえって、祝福をもって報いなさい。あなたがたが召されたのは、祝福を受け継ぐためなのである」

 聖書は信仰者に、立場も心も全く新しくなった者として生きることを勧めています。それはキリストに似ることであり、神の祝福を受け継ぐことだと言います。 この祝福を子孫の数が増え,食べ物などが豊かに与えられること言う場合もありますが、ペテロは、自分の満足のためではなく、神様中心に,御言に従い、他者中心に生きる中にある祝福だと教えているようようです。
 誰に対しても、謙虚に,愛の態度を持ち。悪に悪を持って報いないように,善をもって祝福しなさいと言います。しかし、この行為は、心が新しくならなければ出来ない事です。
 実に、新約聖書における祝福は、私たちの心の性質が変わることを教えています。イエス様が歩まれたように愛に生きる,その無条件の愛の心が内に生まれることです。
確かに、ガラテヤ5:22には「御霊の実は、愛、喜び,平和、寛容、慈愛、善意、忠実,柔和、自制であって、これらを否定する律法はない」と心の変化を神様の祝福と言っています。
 どうしたら、この祝福を味わうことが出来るでしょうか?それは、私たちの心が神様によって新しくされ、その心の変化に気付き、喜ぶようになることからではないでしょうか。
 今までは、自分中心に生きてきて、多くの失敗をした人が、悔い改めて、神様中心に生き、他の人を敬って生きることが喜び、争いが少なく,心の動揺もなくなり、人との関係が改善されて行くなら、それこそが祝福を受け継いでいると言えると思うのです。 その為に、
1)新しく生きる者であることを自覚することが大切です。
2)新しい心を知り,新しい心が育つことを祈りもとめます。
 私たちは、今,信仰を持つことが出来、その祝福の約束の中に生きていることを喜びます。そして、いつまでもその信仰の創始者であるイエス様から目を離すことなく生きます。そして、いつの日か、他の人たちにも祝福をお分けしていけるようになることを信じています。
2009年5月31日
   神の僕にふさわしい
1ペテロ 2:16 ,17「自由人にふさわしく行動しなさい。ただし、自由をば悪を行う口実として用いず、神の僕にふさわしく行動しなさい。すべての人をうやまい、兄弟たちを愛し、神をおそれ、王を尊びなさい」

 聖書は、私たちは完全な自由人であり,同時に,主の僕だと言います。自由とは、神の御心から引き離す罪と裁きから、キリストに身代わりの十字架によりゆるされた者、その執着、恐れの束縛から自由にされた者だと言うことです。
 同時に、クリスチャンは『神の僕」と言います。それは自由人が、自らすすんで正しい道,罪と戦う義の道を選び、主に僕として従う者となったと言うです。聖書は、その僕としての歩みの中に、豊かな祝福があると教えています。

1)主を信じたときから始まる。
 聖書に、ローマ10:9「すなわち、自分の口でイエスが主であると告白し」とあります。神の僕は、自分が中心である生き方が罪であることを認め、キリストを中心にして生きることを決心し、従うところから始まるのです。
2)その従順は神様が正しく,信頼に足る方であることを認めたからです。
3)主のお力に支えられるのが僕です。
 僕はもはや自分の力に頼りません。主の力に頼ります。だから、自分の身分を振り返ることなく、どんなところにも出て行くことが出来るのです。私たちは自分の弱さを認め、主に頼ること、主を見続けることを学んだのです。そして、主の完全な力に頼っています。
4)イエス様の模範から学ぶことが出来ます。
@無条件に僕として、善を追い求めます。
 イエス様の態度は、時が良くても悪くても変わりませんでした。自分の内側を見ず、父なる神に従うことだけを見ていました。それが生き方でした。
Aいっさいを神に委ねていた。
 その過程に、どの様なことがあろうと、結果がどのようであろうと、御自分の身体のことは振り返らず、一切を父にお委ねし、ただ御心を求めて十字架の死にまで忠実であられたのです。
 その僕としての歩みには,常に主の平安があり、望みを失う事がなく、最善の道でした。愛は「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み,すべてを耐える」とあるように、神の僕に相応しい心と行動でした。その跡を歩みましょう。
2009年5月24日
   自由人にふさわしく
1ペテロ 2:16 ,17「自由人にふさわしく行動しなさい。ただし、自由をば悪を行う口実として用いず、神の僕にふさわしく行動しなさい。すべての人をうやまい、兄弟たちを愛し、神をおそれ、王を尊びなさい」

 自由気ままに生きることを、聖書は罪の奴隷として生きていると言う。神様が言う本当の自由とは、この節には4つの具体的例が書かれている。
@すべての人をうやまい
A兄弟たちを愛し
B神をおそれ
C王を尊びなさい 自由人として、この行為を選べというのです。
 これがバランスのとれた自由人クリスチャンであり、神様の人への望みです。ところが、人はこの反対を歩み、自分が中心で、神をおそれず、社会の秩序を尊びません。その結果が、争いが満ちて、人の心から愛と喜びを奪っています。この状態を、聖書は罪の奴隷と言います。
 では、自由とはどういうものか?
@欲望からの自由。  世にあるものに執着しないことです。
A恐れからの自由。  世のものにおそれず、神にある安心があることです。
B良心的自由。  悪を捨て、善を愛し,正しい事を行うことを喜ぶ心です。
 そして、キリスト者はこの自由を受け,自由人になったと言います。つまり,以前は出来なかったが、出来る道が開かれた,その自由を受けたと言うのです。キリストを信じた者は、この自由に生きる心を受けました。罪の性質が消え去ったわけではありませんが、罪から解放される自由が与えられ、正しい生き方を選ぶことが出来るようになったのです。だから、「自由人にふさわしく行動しなさい」と言います。

 そして、この自由は罪からの解放によって受けるものです。これが福音です。それはイエス・キリストを信じ、キリストの十字架の死が、わたしの罪の身代わりであることを信じ、キリストの復活を確かな保証として信じる者に与えられます。

 私たちはこの自由を受けて、自由人として平安と望みのあるキリスト者の道を歩むべきなのです。自由にキリストが示された正しい道に歩むことを意識すべきなのです。その方法は、ただキリストを見続けることだと聖書は教えています。
2009年5月17日
   今、新しくされている
1ペテロ2:9〜10
「しかし、あなたがたは、選ばれた種族,祭司の国,聖なる国民、神につける民である。それによって、暗闇から驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのにわざを、あなたがたが語り伝えるためである。 あなたがたは、以前は神の民でなかったが、いまは神の民であり、以前は、あわれみを受けたことのない者であったが、いまは、あわれみを受けた者となっている」

 
 クリスチャンは、今この時、自身が神様によって新しくされ,神様の恵みの中に生かされていると自覚するように教えられています。
1)今は、第一に過去に縛られてはならないことを教えます。
過去は、神様がなく、真の喜び、真の自由がない人生だったのです。
@ 「以前は神の民でなかった」10節
A 「以前は、あわれみを受けたことのない者であった」10節
 クリスチャンにとって、過去は神を信じない空しさを教えるものであって、今後二度と元の不信仰に帰ってはならないことを教えるものです。しかし、過去に縛られ、悩み,恐れ,苦しめられるものであってはならないのです。
2)今は、新しく生きている自覚をもつことです。
イエス・キリストを信じたならば、信仰を土台として、新しく生きることを選ぶ者でなければなりません。それが、神様によって魂の平安を受け、神様の祝福を受ける方法なのです。
@ 「今は神の民であり
「あなたがたは選ばれた種族,祭司の国,聖なる国民、神につける民である。」この言葉は旧約のイスラエルの民に語られるべき名称でしたが、今、私たちの呼び名になっています。私たちは神の民であることを信じるべきです。
A 「今はあわれみう受けた者となっている
私たちは神の憐れみを受け、恵みを受けていることを信じなければなりません。
 
 信仰者は二つの選択をします。1)自分の経験や感情を信じる。2)神の言を信じる。 私たちは神の言を信じることを常に選ぶものでなければなりません。また、信仰生活とは、その訓練を受けているのです。私たちは後ろのものを忘れ、神の約束を信じ、新しい命を求める信仰生活を生きるのです。その時に、私たちの心の向きは新しくなります。
2009年5月10日
   神によって新しく生まれる
1ペテロ1:22−23
「あなたがたは、真理に従うことによって、たましいをきよめ、偽りのない兄弟愛を抱くに至ったのであるから、互に心から厚く愛し合いなさい。 あなたがたが新たに生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生ける御言によったのである」

 
 本日は母の日、母さんに感謝する日です。聖書にも母はよく出てくるのですが、神様は父として語られています。しかし、上の聖句にもありますが、私たちは神様から生まれたのだと教えているのです。神様の愛、優しさを考えても、やはり神様は私たちの母親であるとも言えるように思います。

1)神様により、新しく生まれることによって、本当の喜びの生き方が分かる。
人生をはかないと思っておられる方は多いでしょう。若くして悩みの中にある方、暴力や拒絶を受けた人たち、また何か満たされない人は多いのです。聖書に、「人はみな草のごとく、・・草は枯れ、花は散る」と人の空しさを言います。 しかし、誰でも神様を知るなら,その人は全く新しい恵み、喜びを見い出せるようになるのです。新しく生まれることを願いましょう。
2)イエス様に従うことによって
 それは、「真理に従うことによって」と表現されています。イエス・キリストを知り,信じ、従おうとする時に、と言う意味です。その時に、私たちは神様によって新しく生まれる経験をし、恵みを受け,新しい心を見い出します。
3)心をきよめられる人生にはいる
「真理に従うことによって、たましいをきよめ」とは、心の奥底から清められたと言う意味です。それは具体的に彼らが、今までに持たなかった思い「兄弟愛」を持つようになったのです。自分中心だった人の心に、兄弟姉妹を思う心が芽生えてくる。それは、イエス様を信じ,新しく生まれた結果だと言うのです。自分にしか関心のなかった人が,他の人を大事にする心が出てくる.素晴らしい変化です。
4)新しい心を育てる。
 そして、続いて「・・のであるから、互に心から厚く愛し合いなさい」とあるように、その心を生かす生活によって、私たちは新しい心の果実をならすことが出来ます。今までしなかった愛の行動をしましょう。人をゆるし、敬い,愛することをつづけるなら、私たちは新しい心(御霊の実)を受けるようになります。
2009年5月3日
   空しさからの救
1ペテロ1:18、19
「あなたがたのよく知っているとおり、あなたがたが先祖伝来の空疎な生活からあがない出されたのは、銀や金のような朽ちる物によったのではなく、 きずも、しみもない子羊ようなきリストの尊い血によったのである」


 先祖伝来と言うとき、「人には罪の性質が遺伝している」ことを思い出します。また、私たちが苦しみ,心の罪深さを思う時も、自分の親,先祖も同じ悩み道を歩み、時に解決のない空しさを覚えたこともあっただろうと想像します。人は皆、心に取りのけられない重たいものを担い、空虚な生活を経験してきたんだと残念に思う。その重荷を聖書は罪と読んでいます。
 しかし、感謝であることは、ペテロが言うように、信仰によって、私たちはそう言う重く,暗く、空しいものから解放され、今は罪の責め,悔いを後にして、希望と望みを持てていることです。「あなたがたのよく知っているとおり、あなたがたが先祖伝来の空疎な生活からあがないだされた」
 これらの救はすべてイエス・キリストによるあがない、彼の尊い血によるのだと聖書は言っています。
1)銀や金のような朽ちる物によったのではなく
 私たちがよく知っていなければならないことは、私たちの心は決して物によっては、本当には清められ,救われないことです。この世の物に救を求めても、結局は、決して真の平安を得ることがなく失望に終わるのです。
2)キリストの尊い血によるのです。
 わたしの経験では、時にイエス様のことを忘れて,自分の思いで行動してしまうことがありますが、その結果、その時も後にも喜びはなく、平安がないことです。 いつも大事なことは、イエス・キリストから目を離さない、イエス様の尊い血によって救われたことを忘れないことです。そこに信仰があります。イエス様は私たちの救の為に聖い血を流し、命を持って救って下さったのです。
3)信仰的な生活
 世の中の悩みにストレスを感じ、希望を失わない為にも、この方に対する信仰こそが重要であることを忘れてはなりません。イエス・キリストが常に救主であることを忘れず、心はいつもイエス様から目を離さず、イエス様中心でありましょう。
その時、私たちは空しさの生活ではなく、信仰的、充実した生活に導かれます。
2009年4月26日
   恐れない信仰生活
1ペテロ1:5「あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救にあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである」

 すべての兄姉の信仰生活が安心に満たされることを願っています。しかし、信仰者となって何の試練もないとは聖書は教えていません。そうではなく、どんな試練の中にあっても、心はキリストによって満たされているのが、真に信仰者らしいと教えていると思うのです。
 私たちの日常生活はどうでしょうか?心配、不安で、心が暗くなってないませんか?恐れの奴隷になっていないか?主は私たちを守って下さると言っているのに、恐れに不安になってないか?安心につながる信仰生活について学びます。

1)恐れにも意味がある。
 神様が与えて下さっているものには、ほとんどに意味があります。恐れも、私たちが災に遭う前の警告ととらえるなら、有用なのです。
しかし、その恐れが私たちの心を支配し、継続的に悩まされるなら、神様の御心から離れ、悪となっていきます。信仰は恐れるべき者を恐れ,不必要な恐れを恐れない生活に導いてくれます。
2)恐れに束縛されず、よい行為をする原動力とするなら,祝福となります。
 大事な事は、恐れを適当に用いて、罪の危険を避け、日常生活をよりよくすることが出来るようになることです。
3)恐れへの正しい対処
 恐れに支配されない為に。
@ 恐れの中にもキリストはおられ,働かれる事を信じる。
 恐れを克服しようとする時、その恐れに焦点をあて自分で対処しようとすることは、恐れが更に深まる結果につながります。そうではなく、信仰によって、そこにキリストがおられ、この恐れにも神様の深い意味がある事を認めるのです。
Aそこで、恐れを見続けるのではなく、キリストとその教えに焦点を当てる努力をします。すると、神様は私たちの心を守り、恐れから解放し,信仰的になります。
B 正しい信仰を持つ。
1ヨハネ4:18「愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである」
キリストに対する愛と信頼が増すなら,恐れは消えて行くのです。
2009年4月19日
祈りのすすめ
ヤコブ5:13「あなたがたの中に、苦しんでいる者があるか。その人は、祈るがよい。喜んでいる者があるか。その人は、さんびするがよい。」

 祈ることは、簡単なようで、継続することは困難があるのではないでしょうか。
しかし、祈りを大切にし、祈り深い生活を送ることが勧められています。祈りが信仰生活を充実させることは多くの先輩クリスチャンが証言しています。
1・祈ることを強く勧められている。
 祈ることは、聖書を読むことに等しい、信仰生活に不可欠の土台です。
1)まず、信仰がなければ、祈ることが出来ません。
祈りは信仰によるものです。私たちは、神様の報いを信じて祈るからです。
ヘブル 11:6 「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自分を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。」
2)私たちは祈りを強く勧められている。
1テサロニケ5:17「絶えず祈りなさい」
聖書は祈りを強く勧めています。それは、私たちが祈ることに慣れてなく、信仰生活には祈りは不可欠だからです。
3)自分のために祈ります。
祈りの生活は、私たちに恵みをもたらし、祈らない生活は損をしているのです。祈る人は、恵みを受け,有意義な生き方をしているのです。だから、神様は私たちに祈ることを強く勧めています。

2・祈りの良さ
1)祈りは、心を満たしてくれます。祈らないことは空虚です。
2)祈りの祝福を教えてくれます。
祈りの結果の恵みを見つけることが出来るならどれほど幸いでしょう。ヤコブは祈りには恵みが伴うことを強調しています。(エリヤの例)

3・祈り方
@ 神の御心に沿った祈りが大切(エリヤの例:列王記18:1)
A 忍耐強く祈ることが大切(エリヤは7度も祈りの確認をした)
是非、今日から祈りに時間を使い、祈りの素晴らしさを求めましょう。
2009年4月12日
キリストの復活と神の恵み
1コリント15:10「しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。そして、わたしに賜わった神の恵みはむだにならず、むしろ、わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきた。しかしそれは、わたし自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである」

 コリント人第一の手紙15章は、イエス様の復活のことが中心になっています。そして、パウロは信仰者のだれよりも多く働けてきたのは、自分自身からではなく、共にあった神様の恵みによるのだと言いました。神様に栄光を帰していますが、事実彼はそのように、信仰の恵みに頼って生きたのでしょう。 私たちはここに、クリスチャンのイエス様だけを見て、恵みを信じ生きる道を教えられます。私たちもイエス様をいつも見上げ、すべては神様の恵みだと信じて、どんな時も信仰的に前向きに生きることができると信じるのです。

 パウロは,どういう信仰をもって信仰生活を歩んだのでしょうか。
1)信仰に立っていた。
@イエス・キリストを主とした。
Aイエス・キリストの十字架が、自分とすべての人の罪のためだったと信じた。
B死の中にいたイエス・キリストが三日目によみがえられたことを信じた。
Cそして、主とともに勝利の道を歩む者と信じていた。

2)自分には良いものがないと悟らされていた。
 自分の経験,考えに一切頼らなくなった。なぜなら、あまりにキリストの恵みは大きく、自分自身は邪魔であることを悟るようになった。

3)神様の恵みを信じ、恵みの中を生きる決心をしていた。
 上記聖句に、パウロは神の恵みに生きていることを述べている。もはや、進む道を自分で判断せず、主の御心の光によって判断し、すべてを恵みと信じて生きたのではないかと思うのです。自分の頭で考え,過去の経験に頼ることをせず,一切自分に頼る思い・願いを捨て去ったのだろうと思う。
 そして、信仰者の歩みの中で起こることを、すべて神様のご計画の中にある恵みと信じて生きた。
 キリストの復活は,私たちの常識を超え,思いを越えて働かれる神様のご存在を教えてくれる。死に対する勝利である復活は、私たちの信仰の歩みが、すべて恵みに至ることの保証であると信じさせてくれるのではないか。
2009年4月5日
キリストの誓い
ヤコブ5:12
「さて、わたしの兄弟たちよ。何はともあれ,誓いをしてはならない。天をさしても、地をさしても、あるいは、そのほかどんな誓いによっても、いっさい誓ってはならない。」

 誓いとは、神様や人に対する固い約束をすることです。聖書の時代には、その人より上のものをさして誓ったようです。しかし、イエス様もヤコブも「いっさい誓ってはならない」と言いました。 誓いとは、約束ですから、空約束をしてはならない、嘘を約束してはならないのです。十戒の中「偽証してはならない」の戒めに背くと同等の罪です。
1)ペテロの失敗
彼はイエス様がご自分の十字架を教えたとき、「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」と言いました。 しかし、イエス様が捕まり、イエス様に従っていた弟子たちに目が向けられれると「しかし、彼(ペテロ)は「あなたがたの話しているその人のことは何も知らない」と言い張って,激しく誓いはじめた。」とあります。自分に都合が悪くなると、安易に偽りのことを誓いました。
2)信頼関係を壊します。
偽の誓いは、信頼関係を壊します。あの人の言うことはもう信じないとなります。神様の望みは、「愛」ですが、愛が育つ土台を壊します。
3)厳粛な生活をなくします。
私たちの生活には、必ず守らなければならない厳粛な誓いがあります。偽りの誓いはそれらを軽んじることになります。 信仰告白、バプテスマ、結婚、その他の誓い・・・ 信仰生活において、神様は正しさ,誠実を求めておられる厳粛な事がらがあるのです。優柔不断ではすまされないことがあるのです。
3)イエス様の誓い
ルカ12:50「しかし、わたしには受けねばならないバプテスマがある。そして、それを受けてしまうまでは、わたしはどんなにか苦しい思いをすることであろう」
 イエス様は十字架と復活の誓いをされました。これは私たちの救いにかかわる最も厳粛なことです。そして、この誓いは確かなものでした。
@ その誓いの通りに、十字架にかけられ,葬られ,復活されました。
A そのキリストを信じることにより、罪人は完全な救いを得ました。
私たちには,偽りの誓いを捨て、真に誓うべき厳粛な守るべきことがあります。
2009年3月29日 
主の来臨まで耐え忍べ
ヤコブ5:7-8
「だから、兄弟たちよ。主の来臨の時まで耐え忍びなさい。見よ、農夫は、地の尊い実りを,前の雨と後の雨とがあるまで、耐え忍んで待っている。 あなたがたも、主の来臨が近づいているから、耐え忍びなさい。心を強くしていなさい」

 今の時代をどう見ますか?
金融不安から始まった不況は高知にも悪い影響を与えているようです。世界を見るなら、アメリカの弱体化、ロシア、中国の台頭は、世界的不安材料になりそうです。資源の枯渇、異常気象,温暖化は今後どの様な影響を世界にもたらすか推測は困難、未来に対する不安材料は事欠きません。
 しかし、信仰者は世の中がどのように移り変わろうと、恐れることなく、希望を持って歩むことが出来ます。この救こそが、イエス様が下さったものです。
1)希望を持っている。
「見よ、農夫は、地の尊い実りを,前の雨と後の雨とがあるまで、耐え忍んで待っている」農家の望みは、作物の収穫の時です.その為に、暑い日も寒い時にも、水やり、肥料を与え,草取りなどの苦労を忍耐します。私たちは、希望を持って,今の時を忍耐します。それは主イエス様が再び私たちを救うために来られるからです。
2)耐え忍ぶことがある。
 私たちは主の教えに従う時に,忍耐しなければなりません。
信仰に立ち続けるために、主の教えの実践のために.草を抜き、水やりを続けるようにこつこつと働かなければなりません。どんな試練が,私たちをかこもうとも、イエす様に信頼し,主に祈り求めることを止めてはならないのです。不平不満の虜にならず、主の愛を信じて生活します。心を強くします。
3)主の祝福を期待する。
ヨブは恐ろしい試練をくぐり抜けなければなりませんでしたが、その終りには主の祝福を見たのです。主の憐れみの確かさを教えられたのです。 主の来臨、つまり、イエス様が再びこの世に来て下さると言います。例え,この世が戦争と恐ろしい状況に陥ったとしても、イエス様が、試練に耐え忍んだ私たちを約束どおりに救って下さることを信じています。感謝。
2009年3月22日
主の御心を求めるように生き方を変える
ヤコブ4:14-16
「あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ。あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない。 むしろ、あなたがたは「主のみこころであれば、わたしは生きながらえもし、あの事この事もしよう」と言うべきである。 ところが、あなたがたは誇り高ぶっている。」


 私たちは当然のごとく,自分の欲望を満足するために、自分のため生きてきた。しかし、そこに真に喜べるものを見いだせなかった、反対に自分を苦しめる不満がいっぱいになったことを覚えている。そこには絶望の壁があった。
その苦しみのとき、私たちはイエス様の元に行き、今までの自己中心の罪を悔いて、イエス様を信じ、従う決心をしたのです。
1)私たちの誇り高ぶり
 しかし、イエス様を主と信じた後も、まだ、心に自分中心の心があることに日々気づかされる。いつのまにかイエス様を忘れ,自分の願いだけを考えている。そのことを聖書は「あなたがたは誇り高ぶっている」と言っているようだ。聖書は私たちが神様を忘れ、自分の願いのままに生きている時、誇り高ぶる者だと言うのです。「あなたがたは誇り高ぶっている」
「ああ、この心が神様の前に自分を誇っている罪なんだ」と教えられます。
2)主の御心を求めて生きるようになる勧め
 聖書は、私たちに言います。「「主のみこころであれば、わたしは生きながらえもし、あの事この事もしよう」と言うべきである。」
神様は、私たちに心の方向を変えるように命令しています。自分の願いではなく、神様の御心を行う方向に、自分の意志を向けよと言うのです。
イエス様が言われることに心を向けて受け入れ、それを実践することに熱心になりなさいと。どんな状況でも,いつもイエス様の言われることを思い出すことは大事なことなのです。
3)そこに人の本当の道と祝福があるから
 その訳は、その時に、私たちは真の幸せ、達成感、充実した毎日を送ることが出来るからです。また、永遠においても、大きな期待を持って待ち望むことが出来るからです。私たちは目標を変えなければなりません。
そう言う生き方こそ、神様からの光が降り注ぐ世界なのです。
2009年3月15日
悪い言葉を避ける祝福
ヤコブ4:11「兄弟たちよ.互に悪口を言い合ってはならない」
 私たちは1日にどれほど口を動かしていることだろう。
語ることは日常生活に非常に重要な行為であるが、 それによる弊害も多い。
語ることをコントロールすることは難しい。 
喋らないことも良くないし、
喋り過ぎることも良くなさそうだし、 
相手が喜ぶことは非常に良い場合が多いが、悪い言葉を言わないでおくことは難しいように思う。
 しかし、イエス様は私たちが語ることをコントロールすることによって、日々の生活が良く変えられることを教えてくれていると思う。 
だから、ヤコブは『悪口」に関する注意を与えている。
1)語る言葉はできるだけコントロールすべきです。
箴言10:19「自分のくちびるを制する者は知恵がある。」
制するとは、適切な言葉を語り、不適切な言葉を語らず、語る言葉に注意することです。良い言葉か悪い言葉か、そしてどちらを選ぶか?
2)子供たちの会話に学ぶ。
子供たちは、争いの会話を何度注意しても止めません、分かってないのです。パウロは次のように言いました。
1コリント13:11「私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。」
私たちは子供たちを見て、大人となった今も、同じ失敗をしていないでしょうか。
3)悪い言葉を止めて,止めることに祝福があることを見つけましょう。
語ることは難しいことなんだけど、そこで悪い言葉を止め、良い言葉を増やすならどれほど祝された関係が築かれるかを悟りたいものです。きっと、素晴らしい結果が待っています。
4)神様に頼り、心を少しずつ神様によって変えていただく。
これが出来るようになるのは、神様の働きです。新しくされることによるのです。だから、御言に学び,祈り,主に従うことに熱心でなければなりません。
5)私たちの決意です。
同時に、私たちも悪い言葉を使わない決意するのです。信仰者の歩みは、常にイエス様と私たちの共同作業なのですから、悪い言葉を止める決意が重要です。
2009年3月8日
主によって弱さからの解放
ヤコブ4:10「主のみまえにへりくだれ、そうすれば、主は、あなたを高くして下さるであろう」

 現代は、自分の弱さの中に、意気消沈し、何事にもやる気が出ない人が大ぜいおられるようです。それが進むと、鬱病と診断されています。 心が閉ざされると、その心に神様も人も入るのが困難になります。心の病と言われと同時に、効果的な薬もあるようで、脳の病気とも言われています。

1・心が塞ぐことは多い。
 憂鬱の原因は、身の回りにあり、意気消沈させる状況は多くなっています。
1)他の人に厳しく、やさしさのない社会になって、ストレスを感じています。
2)尊敬されることがなくなり、自己肯定が難しくなりました。
3)生き甲斐、働きの意味が見えなくなっています。

2・信仰者も例外ではない。エリヤのような勇気ある信仰者も、気落ちしました。 あるクリスチャン医師は、心の病をすべて信仰の問題とは考えません。

3・人は互の心の交わりを大切にするべき。
 神様が私たちが豊かな心の交わりの中に生きるように定められました。あるカウンセラーは、心の病は、他者との関係の喪失が原因と言います。心の関係病だと。また、心の関係を回復することによって癒されるのだと。つまり、心の良い関係は、人が持つ本来の喜びにつながっているのです。

4・信仰による、関係の回復こそが解決につながっている。
1)神様との関係回復が第一。
2コリント5:18「神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の福音をゆだねられたのである」
 私たちがどんな時にも、神様に信頼し、神様との交わりをもち続けるなら、大きな励ましを常に受けているのです。自分の弱さを認識し、神様に頼ることが『主のみまえにへりくだる』ことです。そうするなら、私たちの心は高慢になるのではなく、平安と安心のある、神様に近い高いものとされます。
2)教会において、交わりの解決がある。
 私たちも、兄弟姉妹の交わりを大切にし、神様の救を信じて、そのお言葉の通りに、互に愛し合い,尊敬し合う生き方をします。それが、多くの人の心を励まし、守ることになるのです。教会がすべての救の場となりたいものです。
2009年3月1日
 争いから平和へ
ヤコブ3:2「わたしたちは皆、多くのあやまちを犯すものである。もし、言葉の上であやまちのない人があれば、そういう人は、全身をも制御することのできる完全な人なのである」
マタイ5:9「平和をつくり出す人たちは、さいわいである。彼らは神の子と呼ばれるであろう」

 私たちは日々あやまちを犯す様な罪人であり,欠けの多い者です。しかし、その結果、争いがその人の周りに起こってきます。ヤコブはその主な原因を「舌」の責任と言っているようです。語る言葉によって、人との関係が悪くなったり,良くなったりします。イエス様は平和をつくり出すのが神様の子の性質だと言いましたから、この点においても成長したいのです。あのヨハネは最初、雷の子と呼ばれましたが、後に愛の人と言われました。

なぜ、怒り,争いがまかれるのか?その原因は、
1)思い通りに行かない欲求不満が原因と言います。ヤコブ4:1
2)イライラを自制ができなくて(しないで)感情的に悪い言葉を出してしまう。
 この争いの原因を解決する方法はあるでしょうか。 怒りと攻撃的な言葉には,多くの場合、自分の思いを分かってほしいと言う願いがあります。分かってくれないと言う不満があるのです。そこで、
1)互に話し合う機会を持ち、相手の気持ちを理解する努力をことです。
 その話し合いでは,決して相手の意見を非難したり,反論をしないようにします。相手の話を確認し、質問し、相手の考えを明確にすること、分かることです。 少しでも相手の気持ちが分かり合えば、心の嵐はある程度はおさまるでしょう。
2)信仰により、神様に悪い否定的な感情を良く変えていただくことです。
 争いの原因を相手に求めず、自分の内に見つけ、解決しましょう。
a )イエス様は、私たちの心に休みを与えて下さいます。マタイ11:28
この世の争いから離れて、イエス様の元に行くことです。イエス様は慰め,励まし,私たちの視点を変えて下さいます。
b )自分の状況を悪く考えないで、神様の導きの確かさを信じるのです。
 なぜなら、思い通りにいっていないと思うことが怒りとなりますから。
c )自分の思いから離れ、神様の御心に従って祈り、答えを頂くことです。
 その時、神様は祈りに答えて下さいます。ヤコブ4:2、3
神様は私たちにイエス様に従うように示され、私たちが平和を愛し平和をつくり出す者となる,成長したクリスチャンになることを願われています。
 2009年2月22日
信仰によって行動する
ヤコブの手紙2章18節 「「しかし、ある人には信仰があり,また他の人には行いがある」と言う者があろう。それなら、行いのないあなたの信仰なるものを見せてほしい。そうしたら、わたしの行いによって信仰を見せてあげよう」

 私たち自身の生活が良く変わるためには、神様によって変えられた心と、神様の教えに従う行動が必要であります。信仰は私たちの魂を,永遠の命に救ってくれましたが,更にこの地上生活において,より力強く生きる道が教えられています。

1)神様により心が変わることによって生活は良くなります。
 信仰は少しずつ私たちの心をよく整えてくれます。愛について,希望について・・それらは、私たちを励まし、安心を与え、生活を良くしてくれます。

2)神様の教えを行動することによって良くなります。
 私たちは一人で生活するなら、自分の心が満たされておれば、ほとんど問題が起こらず幸いに過ごせるでしょう。ところが、二人、三人,家族となり、教会となり,職場など、多くの人との交わりが増えるに従って、より良い関係を作ることは実際の行動が必要であり、難しくなります。

 そう言う環境で、私たちは信仰によって、より良い行いをしたいと願います。信仰は、私を正しい道に導き、イエス様のように、自分を犠牲にする愛の行動をする力を与えてくれると信じているからです。
パウロは、ピリピ4:13「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」と言いました。 信仰は,人に神様に従う良い行動させないではおかないはずです。アブラハムや聖書の信仰者は、無条件で神様に従いました。 私たちにも、信仰を行動に移す心の決意が求められています。

信仰による行いとは,どういうものでしょうか。
1)聖書の教えに従う行動。
 聖書を良く学ぶなら、私たちの生活で行動すべきことが徐々に明らかになります。そして、それを実践することです。
2)神様に頼ってする行動。
そして、その行動をイエス様に頼り、一歩ずつ行動することではないでしょうか。
2009年2月15日
     神の公平
ヤコブ2:1 「わたしの兄弟たちよ。わたしたちの栄光の主イエス・キリス トへの信仰を守るのに、分け隔てをしてはならない」
詩篇 33:5 「主は正義と公平とを愛される。地は主のいつくしみで満ちている。」

 私たちの神は公平を愛される方です。誰をも偏り見ることがありません。聖書に出てくる偉人,私たちの周りにいる信仰的な尊敬できる方がたと同じように、私たちも同じ目で見て下さっているのです。 あの人は私と比べて恵まれている、私は神様に見捨てられているのか?などと思う必要はないのです。 なぜなら、神様は公平を愛される方であり、同じように恵みを下さるからです。

 世の中にも公平はあります。スポーツ、試験、仕事・・ しかし、これらは公平な競走によって成り立っていますが、結果は格差社会、南北問題とよばれ、大きく違って人々は不公平を感じています。結果の取り返しが難しいのです。

 信仰生活においても、神様にどれほど忠実に歩めたかで恵みの結果が違ってきますが、不公平感を持たないことが大切です。神様は常に公平ですから、いつでも恵みを下さるからです。

 神様は私たち自身が公平な心を持って生きるようにように望まれています。人を偏り見てはいけないこと。ヤコブ2章では、富んでいる人と貧しい人に対してえこひいきした問題が問われています。信仰者はそう言う態度をとってはいけないこと、それは罪であると言います。
 もっと進んで、私たちは心からすべての人に対して公平であるべきなのです。
ヤコブ 2:8 「しかし、もしあなたがたが、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」という聖書の言葉に従って、このきわめて尊い律法を守るならば、それは良いことである。」
ピリピ 2:3 「何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。」

 神様は、自分と他の人においても分け隔てをしない心を命令しています。これこそが信仰者の本当の目標愛の実践です。更に、他者を自分よりもすぐれた者と思いなさいと言います。神様は完全な公平とそれ以上の愛を望まれています。
2009年2月8日
 上から来る、あらゆる贈り物、完全な賜物
ヤコブ1:17、18「あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下ってくる。父には、変化とか回転の影とかいうものはない。 父は、わたしたちを、いわば被造物の初穂とするために、真理の言葉によって御旨のままに、生み出して下さったのである」
 
 私たちの神様は、あらゆる良い物をもって、私たちを支え、励まし、導いて下さる神です。この信仰が、私たちの歩みを霊的、信仰的にし、安心と平安のある生活へと導かれます。

1)上から来る物は、地上の物とは全く違う。
しかし、上から来る物とは、地上生活に求める物質とは違うと心得るべきです。多くの場合、信仰を持って自分の必要ばかりを求めるクリスチャンは失望させられます。神様は生活が快適になることだけを考える信仰者を喜ばれません。神様との親しい交わりを喜ぶ信仰者になってほしいのです。パウロは、ピリピ3:8「わたしは、更に進んで、わたしたちの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている」と言いました。彼は神様が下さる贈り物がどれほど素晴らしいかを分かっていたのです。
地上ものに目が向くことを損と言ったのです。

2)新しく生まれることによって受ける賜物です。
神様の贈り物を受けることは、私たちが新しく生まれることによって受ける経験だと言うのです。私たちがイエス様を信じることにより、新しく生まれた者として受けるものです。

3)良い贈り物の例(贈り物、賜物を同一に考えます)
神様からのあらゆる良い贈り物はどんなものがあるのでしょう。
ヤコブ1章の中にある贈り物は。
a ) 知恵 ヤコブ1:5 私たちが生活上により良い選択をするには、机上の知識だけではなく、実践的なバランスのある適切に知識を用いる知恵が必要です。
b ) 神の子としての特権 ヤコブ1:9 神様の下に来る人は、皆尊ばれる存在とされるのです。また、人格的に尊い徳、謙遜を身につけます。これは喜びです。
c ) いのちの冠 ヤコブ1:12 永遠の命の約束があります。

私たちは、信仰生活に、あらゆる良い贈り物を上からいただく旅をしているのです。毎日、どんな贈り物が届くか楽しみにして、主に従い、求めるものです。 
2009年2月1日
  忍耐できる人になる
ヤコブ 1:2-4「 わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試練に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。あなたがたの知っているとおり、信仰がためされることによって、忍耐が生み出されるからである。だから、なんら欠点のない、完全な、でき上がった人となるように、その忍耐力を十分に働かせるがよい。」
 
 聖書は、私たちが信仰により忍耐の出来る人になるように教えています。
2テサロニケ 3:5 「どうか、主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐とを持たせて下さるように。」
 私たちの世界には悩みが多くあり、忍耐が必要です。イエス様は

ヨハネ16:33「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい」と言われました。
仕事場、家庭、友人関係、教会の中にも・・・様々な事がらに人間関係、健康,種々の悩みがあり、よりよくするために乗り越えるために忍耐が必要なのです。今は神様の国ではないので、快適な生活は望めないのです。
 そして、この状況で成長し、イエス・キリスト様のように清く、忍耐強くなるように勧められています。イエス様は感情的に怒る事なく,声を荒げる事なく,自身に不利、不利益な状況をも受け入れられ、十字架の死にまで忍耐を通されました。なぜ私たちにこの忍耐が求められているのでしょうか。

1)私たちの成長のため
「だから、なんら欠点のない、完全な、でき上がった人となるように、その忍耐力を十分に働かせるがよい。」とあるように、完全な人格に近づくためです。
2)主の約束を得るため
ヘブル 10:36 「神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である。」主の約束は、忍耐を通して与えられるのです。

 振り返ると、私たちはなんと忍耐強くないかと反省させられます。つい怒り,腹を立て、口は災を語ります。そこで、この性質を悔い改め、キリストの忍耐を得るために、日常生活の中に小さな忍耐の実践をしようと願うのです。聖書を読む事,祈る事,家族との関わり,仕事場で・・・色々な所で、私たちは常に信仰の忍耐を試されています。(信仰によって歩もうとしているからです)私たちは信仰によって、キリストの思いを持ち、忍耐強く考え、行動し,主に喜ばれる者になろうではありませんか。
2009年1月18日
  主の御旨を知ろう
エペソ5:16、17「今は悪い時代だからです。ですから、愚かなものにならないで、主のみこころは何であるか、よく悟りなさい」
ホセア6:3「私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう」


 私たちは主の御心を求めるようになったでしょうか。それは私たちが安心と平安の信仰生活を送る秘けつとなります。
 ある姉妹は、娘さんの非行で悩みました。しかし、その悩みによって,彼女はハッキリと自分の罪を示され、キリストの十字架に頼る事を教えられ、幾つかの困難を乗り越えてバプテスマを受ける決心に導かれたのです。彼女は十字架の賛美の時に何度も涙するほどでした。そして、主に悩みを委ね,主に信頼する信仰生活に導かれたのです。主の御旨を知り,自身を御旨に委ねる生活を歩まれ始めたのです。
ローマ8:28「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」
 その後どうなられたのでしょうか。最近は、いつも喜ばれています。娘さんが落ち着き、家族は暖かい雰囲気の中に感謝されています。 主の御心を知り、御旨に生きることは素晴らしいのです。では、どうやって御旨を知るのでしょうか。

1)聖書の御言葉から学ぶ
 それは聖書にすべてがあります。聖書からどれだけ御心をあなたが学ぶ事が出来るかにかかっています。聖書の権威を認め,真剣に聞き,読み,継続し,内容を研究する事です。そして、心にとどめます。

2)御心を悟れるように祈り、御心に従って祈り求めます。
 すべては主のお働きによりますから、私たちは主に祈らなければなりません。御心を悟らして下さい、知らせて下さいと祈りもとめ、分かったならその恵みを与えて下さるように祈ります。
ヨハネの第一の手紙 5章14節 『わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さる』
 御旨を知り,生きる時から、私たちの信仰生活は祝福へと変わります。
2009年1月11日
  主の御旨に生きる熱望
ヘブル13:20、21「永遠の契約の血による大牧者、わたしたちの主イエスを、死人の中から引き上げられた平和の神が、 イエス・キリストによって、みこころにかなうことをわたしたちにして下さり、あなたがたが御旨を行うために、すべての良きものを備えて下さるようにこい願う.栄光が、世々限りなく神にあるように、アアメン。」

 私たちはイエス様のように、「神様、わたしをあなたの思いのままにして下さい」 「その御旨を行えるように、わたしを整えて下さい」と神様に祈っているだろうか? この願いが私たちの心にあるだろうか? この切なる願いが、信仰生活を充実させる秘けつなのです。
1ヨハネ 5:14 『わたしたちが神に対していだいている確信は、こうである。すなわち、わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さるということである。』

 私たちが主の御旨に従って生きたいと言う願いは、主が喜ばれる事であり、神様は聞きいれて下さると言います。誰も神様の喜ばれる姿にどんどん変えられて行くと約束して下さっているのです。私たちが気づかなくても、主は心の内で、私たちを成長へと働いて下さっておられます。
1コリント3:6「わたしは植え,アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である」とあります。 私たちの問題は、いつも自分の願いがかなえられる事を願っていることです。だから、祈りが聞かれないと失望します。しかし、神様の御心に生きることが最善である事を悟ったなら、私たちの人生は良く変えられるのではないでしょうか。

 そして、私たちはこの最善の出来事を楽しみにして、信仰生活を送っているのです。主に従って歩む時に、いつの間にか、以前の自己中心な自分ではなくなっている。 もう過去の思いに支配される事がなく、神に喜ばれ、人を愛し,愛される歩みをしていることに気づく。イエス様に少し近づけた。 神様に愛され喜ばれ、イエス様と共に主の働きのために歩むのです。
 御旨を知ることがどれほど素晴らしいものであるか,心に期待して、神様のお力の現されることを望んで, 主の御旨に生きることを熱心に望むのです。『もっと知りたい、もっと変えられたい』『もっと主のために生きたい』
2009年1月4日
  主の御旨を深く知る一年
ヘブル13:20、21「永遠の契約の血による大牧者、わたしたちの主イエスを、死人の中から引き上げられた平和の神が、 イエス・キリストによって、みこころにかなうことをわたしたちにして下さり、あなたがたが御旨を行うために、すべての良きものを備えて下さるようにこい願う.栄光が、世々限りなく神にあるように、アアメン。」

 この著者は、人々が主の御心を知り、イエス・キリストの助けにより、私たちの内を新しく良く造りかえられて、神様の御旨を行うことができるようになる事を願い祈っています。私たちもここで言われるように、御旨に従える事を願うのです。 この歩みには、二つの段階があるように思われます。

1)良きものを備え、心の準備ができる段階(新しい変化)
 私たちの心が、自分の罪や弱さ愚かさを自覚し、信仰により神様を愛する心、謙遜な心、神様に頼り、言われることを喜ぶようになる心の変化です。悔い改めと信仰とから生まれる神様からの霊的賜物です。

2)神様に喜ばれる実践の願いが起されることです。
 心の変化に従い、私たちが御旨、つまり主の喜ばれる目標を持つ事です。「わたしに対する神様の願いは、これこれをすることだ。」と言うビジョンです。自分の思い,考えが一番ではなく、神様のお心が一番であり、それを実践したい熱望が来るのです。具体的には、聖書が教える教会の働きの色々な奉仕です。 これは、次の聖句においても言われています。
ピリピ2:13「あなたがたの働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである」

 そして、もう一つの大切な教えは、この心の変化と御旨への熱望はすべて神様の働きかけによると言うことです。 私たちがイエス様により信仰に導かれ、心を変えられ,主の喜ばれる善を行うようになる時、その前からも,その時も、その先においても、イエス様と共に、神様の確かな働きかけの中にあって出来ていると言うことです。

 新年の一月、三回の礼拝において、「神様の御旨」について学びます。この年が、御旨を深く知り、熱心になって御旨を行動する年となりますように。そして、この一年が神様の恵みに満たされ、喜びに満ちた一年となりますように。