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2010年12月26日
  心の大掃除
詩篇68:19「日々にわれらの荷を負われる主はほむべきかな。神はわれらの救である」
ヘブル12:1「いさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか」
 
 わたしたちの理想とする信仰生活は、どんな状況でも神様に信頼し、重い荷をおまかせして、信仰的で、心平静、安心の生活を送ることです。詩篇の著者は「日々にわれらの荷を負われる主はほむべきかな」と言いました。こういう神様に頼る心の信仰生活こそ、わたしたちが真に神を喜び、信頼し、褒め称える生活とさせるのです。わたしたちはこの一年、毎日主に荷をおゆだねして、信仰的で安心に満ちた生活を送れたでしょうか。 一年の終りに、心の中を見回して、不必要な重荷はないか、心の大掃除ができればと願います。

1)一人で悩んでいる重荷ありませんか?
 わたしたちが心の中で注意しなければならないことは、鉛のように重い荷を、一人で荷なっていないかと言うことです。それは信仰的ではありません。信仰生活とは主イエス様と共に生きることであり、イエス様のお言葉に従う生活です。 マタイ11:28「すべて重荷を負うて苦労しているものは、わたしのもとにきなさい。・・・わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい」 もし、あなたの心に隠してある重荷があるなら、それをすぐに神様のおゆだねしましょう。自分の荷を分かち合ってもらいましょう。

2)捨てることです。
 「いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて」とあります。大掃除のいちばん大事なことは捨てることです。捨てることによって、部屋は整理が進み、シンプルになりまとまり、新しいものをおくスペースも生まれます。わたしたちの内にある自己中心の古い性質を捨て、習慣となっている罪を捨てることが大事です。わたしたちの信仰生活を邪魔するものはなんでも捨てて良いのです。

3)そして前に進みましょう。
 あなたがイエス・キリストの信仰に立っているなら、あなたの心を悩ます過去のことを忘れ、すべての出来事の意味を見いだし、感謝を神様にささげましょう。そして、いつもイエス・キリストを見上げて、信仰をもって、あたらしい信仰生活を神様に創造していただきましょう。
2010年12月19日
  クリスマスの喜びをあなたに
ルカ2:10、11「御使は言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。」」

 町では、聖書とは関わりのないクリスマスが盛大に祝われています。教会では、世の中にイエス様をお伝えしたいと強く願っている時期でもあります。なぜなら、神様から「おおきな喜び」のお告げがあったからです。
 イエス様誕生のお話には、二組の人たちが出てまいります、羊飼たちと東から来た博士たちです。彼らが神の救主イエス様誕生の最初の目撃者にされたことは非常に不思議にも思えるのですが、わたしたちに分かることは、神様は神様の言葉を信じ、行動し、喜ぶ人たちを求めておられることです。

1)あなたは神様に救主を期待していますか。喜んでいますか。
 わたしたちは神様に期待すべきです、わたしたちを真に喜ばす神様がおられることをです。羊飼も博士たちも神殿から遠く離れた者たちでしたが、神様に期待する心は祭司たちよりも強かったのではないでしょうか。

2)信じました。
 そして、神様からの言葉を信じました。羊飼たちは、天使が語ったことをそのままに信じました。信じることは誰にでもでき、最高の祝福を受ける方法で、今のわたしたちには、イエス・キリストを主と信じ、聖書の約束を信じることなのです。

3)従いました。
 信じて終わったのではなく、信じて、信仰をもって従いました。羊飼は野に羊を残して、家畜小屋の赤子を探し、東の博士たちは星のしめす導きに長い旅をしていました。わたしたちは信じても、従う努力、求める忍耐をあまりしていません。従うことをしなければ、本当の喜びを期待をできません。

4)喜びました。
 従うなら、必ず祝福があり、恵みがあり、人は喜ぶのです。「おおきな喜び」とは、私たちの想像を絶するおおきなの喜びのことです。 現代においても、未来においても、神様の恵みはかぎりなく、私たちの想像を絶する喜びがあるのです。わたしたちはその喜びを求め続け、受け、喜ぶの者です。
2010年12月12日
  クリスマスの喜び
ヨハネ1:4、5「この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。 光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」 ヨハネ1:9「すべての人を照すまことの光があって、世にきた」
 クリスマスはイエス・キリストが人となられたことをお祝いする日です。キリストが来られた喜びの意味を、聖書はいろいろな表現で語っていますが、キリストを光として語る言葉から学びます。

1・闇を照らすキリスト
キリストは人の闇を照らして、光とするために来られたと言います。
 1)人は闇の中にある
伝道の書1:2、3「伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか」 伝道の書1:8「目に見ることは飽きることがなく、耳に聞くことに満足することはない」 人の心には空しさがあり、この世の物では満たされない闇があるのです。
 2)光なるキリスト
ヨハネ1:4、5「この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。 光はや みの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」 キリストのみが人の闇を照らす光であって、人の心を満たすことができるのです。

2・すべての人を照らすキリスト
ヨハネ1:9「すべての人を照すまことの光があって、世にきた」
 1)すべての人を照らされるので、わたしたちは救われる安心があります。
 2)救われる価値のない者を救って下さるから安心です。
コリント人への第一の手紙 / 1章 28節「無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。」 クリスマスにイエス様にお会いしたのは、貧しい羊飼と異邦人の博士たちでした。この世は人を軽んじますが、神の前にはすべての人は尊いのです。そして、わたしたちはどんな行ないにもよらず、ただ信仰によって救われます。

3・キリストの光は人を造りかえる。
 1)神様の前に特別な立場が与えられます。
キリストの元に来る者は、キリストの光によって、罪を示され、信仰によって罪が赦され、永遠の命を受け、神の子の立場が与えられます。神様だけができる、最高の贈り物です。本当の平安です。
 2)わたしたちの内面が新しく変えられて行きます。
日常生活においても、より良い変化を期待します。そしてできるのです。
2010年11月28日
 生きるとは 永遠の命
1ヨハネ5:11-13「そのあかしとは、神が永遠のいのちをわたしたちに賜わり、かつ、そのいのちが御子のうちにあるということである。 御子を持つ者はいのちを持ち、神の御子を持たない者はいのちを持っていない。 これらのことをあなたがたに書きおくったのは、神の子の御名を信じるあなたがたに、永遠のいのちを持っていることを、悟らせるためである」

1・もっとも大事なもの いのち
マタイによる福音書 / 16章 26節「たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。」
聖書が語り、誰もが思っているように、いのちは最も大事なものです。人は生きていて意味があり、価値があります。
 しかし、聖書には二つの命があると言います。マタイ10章 28節「また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。」
肉体と魂のいのちがあり、聖書は魂のいのちが重要と言うのです。

2・命を持つとは、生きるということ
命を持ち、生きると言うことは、単に意識があると言うのではなく、生きるとは、@喜ぶをもって、A平安の中に B望みを持って生きるこだと、生きることの最良の意味を教えています。。
ローマ人への手紙 / 15章 13節「どうか、望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とを、あなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを、望みにあふれさせて下さるように。」
 そして、神様の福音は、「いのちはキリストの内にある」と宣言しています。いのちはキリストの内にあるのですから、求めるものはイエス・キリストを信じ、いつもそこに留まることを忘れてはならないのです。

3・信仰者は永遠のいのちを持っていることを確信することが大事です。
1ヨハネ5:13「これらのことをあなたがたに書きおくったのは、神の子の御名を信じるあなたがたに、永遠のいのちを持っていることを、悟らせるためである」
信仰生活の核心は、この永遠の命を持つ信仰です。この永遠の命の信仰なくしては、聖書の神様の恵みの多くを喜ぶことはできないでしょう。神の平安が持てないのです。イエス様の永遠のいのちを信じて神の祝福の大きさが分かるのです。
2010年11月21日
 戒めは世に勝つこと
1ヨハネ5:3-5「神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない。 なぜなら、すべて神から生まれた者は、世に勝つからである。そして、わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。 世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか」

 「戒めは世に勝つ」とテーマにしたのは、神の戒めを守ろうと願うことは、世の中の悪い習慣を止め、神の教える良い習慣を身につけると言うことです。

1)戒めを守る者になろうと願うこと
まず、第一に信仰者である私達は、神様の戒めを行なえる者になりたいと願う者にならなければなりません。子どもたちに兄弟が仲良くなることを祈ろうと言うと、「祈りたくない」と答えが返りました。私達も時に、互に愛し合えるように祈ろうとすると、心の中からあの人とは嫌だと言う心の声があったりします。「無理だと」思うのです。しかし、まず、私達は正しいことをそのままに祈る者にならなければならないのです。すべて従えるように祈らなければなりません。

2)むずかしいことではない。
つづけて、この戒めはむずかしいものではないと言うのです。イエス様自身が言われました。マタイ11:30「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」あなたは、わたしに従ってくることは、難しいことではないと言うのです。

3)すべて神から生まれた者は、世に勝つ。
イエス・キリストを信じて、新しく神によって生まれた者、つまり、われわれ信仰者は皆、この戒めを守り、世に勝つと言われたのです。良くないと分かっていることを止めることができないのは、世に負けているのです。心に喜びのある生活ができず、いつも後悔ばかりをしているのは、この世の悪の霊の奴隷となっているからなのです。しかし、信仰者はこれらの習慣に勝利し、悪の束縛を断ち切り、神様が喜ばれる愛の習慣をもつ事ができるようになると言ったのです。しかも、信仰者は皆そうなると言っているのです。

4)信仰こそが勝利の力
「わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。 世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか」
イエス・キリストを心から信じているでしょうか?イエス様の約束をそのままに確かであると信じているでしょうか。わたしは悪い習慣に勝利すると信じているでしょうか。この信仰こそが、勝利の力だと言います。信じましょう。
2010年11月14日
愛によって教会が一つとなる
1ヨハネ5:1「すべてイエスのキリストであることを信じる者は、神から生まれた者である。すべて生んで下さったかたを愛する者は、そのかたから生まれた者をも愛するのである」

 教会は私達の考え以上に尊いものなのです。私達が評価する以前に、神様の目に尊いもので、私達はもっと、教会に対して愛着を持ち、高い優先順位を与えるべきであり、その良さを現実とする使命を受けているのです。
エペソ1:23「この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない」
 教会は何か?それは神様が選び、召し出した集まりであり、条件はイエス・キリストを信じ、主に従う者たちの集まりです。世とは一線を画し、キリストを通し神を信じている信仰者の集まりです。具体的に、私達は教会をどのようにイメージしているでしょうか。

1)イエス・キリストがすべての中心です。
 重荷をもち苦労している人が、教会に休息を与えて下さるイエス・キリストを見いだすようになるところです。教会にはキリストの香りが満ちているのです。聖さがあり、真実があり、誠実があり、愛があるのです。

2)互の愛があるところです。
 そして、「すべて生んで下さったかたを愛する者は、そのかたから生まれた者をも愛するのである」とヨハネが言うように、私達はまず教会の中で互に愛することを学び、それが信仰者の性質になると言うのです。
@ 神を愛する。 「神を愛する」とは、神の戒めを守ることと言います。
1ヨハネ5:3「神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。」その戒めを守るとは、具体的には、礼拝を守り、聖書を学び、祈り、教会の交わりを大切にし、福音を伝えることとまとめられるでしょう。このことを、喜んでする時、それこそが神を愛していることなのです。
A互に愛し合うこと。 そして、教会の中で、互に愛し合うことです。
 この愛は、神によって新しく生まれた者の性質となるべきものです。愛し方は、それぞれ方法も質も量も違うかもしれませんが、愛する心を持っていることが大事なのです。私たちにとって、教会はキリストがおられるところでなければならず、キリストの愛が満ちみちているに相応しいところにならなければならないのです。誰もが、そこに罪の重荷を下ろし、罪をゆるされ、救われた喜びがある。そして信仰によって、イエス・キリストと共に愛の実践が豊かにされるところです。
2010年11月7日
  恐れを克服する愛
1ヨハネ4:18「愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである。」

 わたしたちの生活の中で、恐れは随分と悪さをするように思います。恐れによって、備えをすると良い行動につながることもありますが、多くの場合、心を萎縮させ、気落ちさせ、時には怒りを起させることもあるのです。 恐れとは、自分を害することの心配だろうと思います。闇が怖いのは、何があるか分からなくて、どんな危害があるかと想像するからです。

 恐れの解決を、聖書は「愛」だと言いました。これは、神様の愛は、人の恐れをとり除くと言ったのです。
1)信仰がある時
わたしたちが神の全能を信じ、神の約束を信じ、その神の愛を確かに信じるなら、恐れは取り除かれると言えるのではないでしょうか。 ヘブル人への手紙 13章 6節「だから、わたしたちは、はばからずに言おう、「主はわたしの助け主である。わたしには恐れはない。人は、わたしに何ができようか」。」 神の愛は神の言葉の確かさを保証するのです。

2)信仰によって新しくされる時
2テモテ1:7「神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである」 信仰によって受ける神の聖霊は、わたしたちに愛の賜物を下さるのです。それは恐れの心ではなく、神と人を愛する新しい心です。その愛は、神様の愛を信頼し、自分のことを思わない心で、自分が害される心配をしないので、恐れは湧いてこなくなります。その時、信仰者はイエス様のように他者を大切に思う者とされていきます。

 わたしたちはどう言う信仰生活を送るべきなのでしょうか。
1)信仰を第一にするべきです。神様に対する信頼こそが、愛の応答であり、恐れ は取り除かれます。
2)キリストに従い、愛を追い求めるべきです。愛の性質を求めます。
3)神の完全を信じるべきです。
1ヨハネ4:18「愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。」
2010年10月31日
 神との一致 1ヨハネ4:13
「神が御霊をわたしたちに賜わったことによって、わたしたちが神におり、神がわたしたちにいますことを知る」 1ヨハネ4:16「もし人が、イエスを神の子と告白すれば、神はその人のうちにいまし、その人は神のうちにいますのである」
 信仰は、人と神様がつながる道です。その深さを、わたしは十分に説明できないのですが、聖書はハッキリと語っています。それは神様としっかりとした結びをもつことです。このことは、幾つかの別の表現が使われています。神の家族、神の子、ブドウの木と枝の関係、キリストとその肢体・・・

 信仰にどんな恵みを期待することができるのでしょうか。
1)どんなものも切り離すことができない強いつながり
 互の内に住みつづけると書かれていて、水素と酸素で水ができる共有結合のように強い関係です。ローマ8:39「わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである」

2)共に喜ぶ関係です。
 神様は私達がイエス様の元に来ることを非常に強く願っておられます。私達もこの方の元に行くなら、いつも喜ぶことができるのです。ピリピ4:4「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい」神様は私達のこと一切を知られています、また、私達を造られた方として、私たちの幸福の道も知られています。その方の元には喜びがあるのです。

3)このつながりを教えてくれるのは、聖霊様(御霊)です。
 私達がこの関係を知ると言うよりは、神様が教えてくださることのようです。聖書は信仰者のすべての賜物は、神様から来ると言います。私達が自分の手で手に入れると言うよりは、神様に忠実に従う信仰生活の中に、私達の心の奥底の知恵、理解を増し加えて下さるのです。ですから、忠実な信仰者の歩みは祝されているのです。

4)キリストを正しく信じる時に与えられます。
 神様とのこの確かな結びつきは、イエス・キリストを信じることによって与えられます。キリストの神性を信じ、人となられ十字架につかれた愛を信じ、復活されたキリストを主と信じるのです。なぜなら、神様はこの御子を信じる者を救うと定められているからです。そして、その愛を信じ、愛することを目ざして信仰生活を送る時に、更なる信仰者としての成長があります。
2010年10月24日
 信仰とストレス  2コリント4:7−8
「しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。 わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。」

 心を病むことが珍しくなくなった現代社会です。わたしも検査でストレスがパンク寸前、頭は少し堅くさびつていると言われました。ストレスとは、心に負荷を感じている状態のことを言うそうですが、上記の聖句は、パウロの告白です。彼は他に比類できないほどの試練を経験し、重いストレスの中にありましたが、「四方から患難を受けても窮しない」「途方にくれても行き詰まらない」との心強い言葉を語っています。聖書は、多くの信仰者が試練を乗り越え、ストレスの荒波を通ってきたことを伝えています。彼らの信仰が、彼らを支え守ったことを学びます。

1)ストレスについて
ストレスとは、「心に負荷がかかった状態」のことで、人生はいつもストレスの中にあります。ストレスは時に、「頑張るぞ」と人にやる気を出させますが、心身が疲れてしまい、心のひずみが回復できなくなることもあります。

2)受けとめ方が大事
医者は「問題をどう捕えるかによって、悪いストレスは小さくなる」と言われているようです。信仰はこの問題に良い答えをくれます。

3)信仰は土の器の中の宝物  信仰者の力はどこから来るのか?
@土の器
イエス様の教えは、まず自分を「土の器」弱く、壊れやすく、安価なものと自覚することだと言いました。信仰者は高ぶりを捨て、神の声を聞く必要があります。
Aこの器の中に宝がある。
そして、神様がこの土の器の中に、宝として共にいて下さり、それはイエス・キリストであり、キリストから来る力です。この宝に信頼するように言います。

4)信仰によって、ストレスを良いものとする。
私達は@神とキリストのお力に対する信頼 A 兄弟姉妹の互の励まし B永遠の命の希望があります。
 ストレスは、私達を高めるためにあるものと信じます。
詩篇119:71「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました」
2010年10月17日
 神の愛を求める
1ヨハネ4:7−8「愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生まれた者であって、紙を知っている。 愛さない者は、神を知らない。神は愛である。」

 「愛する」ことは、聖書が語る最も尊い美徳のようです。私達は「愛する」ことを求めなければなりませんし、当然、この聖書が語るように熱心に求めている者です。私達は幸福を求めています。それがイエス様の元にあると信じて、信仰を持ち、信仰者として歩んでいます。聖書は二つの対象に対する愛を命じています。マタイ22:36−40「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。イエスは言われた、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」。これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。」

1)神に対する愛
この愛は、信仰から出て、信仰と共にあるものです。1テモテ1:5「わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と偽りのない信仰とから出てくる愛を目標としている」神を愛するとは、神に対する信頼に生きることであり、いつもその約束、教え、その心を忘れないことと思います。日常の楽しい時も、悩める時も、いつも、永遠にまでもイエス様と共にあり、その恵みに満たされていることを信じ、主に従おうと願うことです。愛は、神様の一切の言葉を信じ、神との平和をさらに強固にします。この満たしの中にある時、次のステップ、隣人への愛の力となります。

2)隣人に対する愛
神様に愛されている者として、兄弟姉妹と互に愛する関係を持つように命じられています。私達はできるだけ心を開いて、話をし、助け合いたいものです。目の前に小さな事から、1コリント13:4−7の愛の心で、相手の思いを大切にし、信仰によって愛の行為をしたいものです。時には、ストレスを感じることがあるかもしれません、それでも、愛しつづけ、この愛は、兄弟姉妹との平和を確かなものとします。
2010年10月10日
 神の子
1ヨハネ3:1「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんな大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。わたしたちは、すでに神の子なのである」

 私たちが「神の子」と呼ばれるとするなら驚きです。そんな風に呼ばれる特技も才能も何もありません。しかし、聖書は信仰を持つ者に対して「わたしたちは、すでに神の子なのである」と言います。「神の子」とはいったいどう言うものなのでしょう。単純に考えるなら、それは神様から生まれたと言うことです。確かに次のように言います。「だれでもキリストにあるなら、その人は新しくつくられたものである」聖書は信仰者に、あなたは新しく生まれ変わったと言っているようです。では以前はどうであったのか?これこそ恐ろしいことを言います。悪魔から出た者で、悪魔の子であったと言うのです。神を恐れず、信じることをしないで、罪を犯すことを躊躇せず、自分の思いのままに生きていました。その状態を、悪魔の子であったと言います。悪魔は、神を恐れず、敬い、信じようとしないのです。この様な人はこの世に大ぜいいますが、その最後は、神様の永遠の滅びの裁きがあると警告しています。

 神の子とは、悪魔の思いのままに生きていた者が、心を変えて、悔い改め、イエス・キリストを信じて、新しくされることを言っています。その時、「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんな大きな愛を父から賜わったことか」とあるように、神の御子イエス・キリストの大きな愛の犠牲があるのです。被造物としてこの世に現れ、仕える者として十字架の死を受けられたのです。その結果、神の恵みにより、人は信仰によって罪をゆるされ、また、神の子とされるのです。

 しかし、私たちの生活はまだまだ罪のある生活を送っています。ヨハネは、「すべて神から生まれた者は、罪を犯さない。・・・犯すことができない」と言います。その性質に、私たちはまだまだ遠く離れているのかもしれません。しかし、次の言葉は確かであるはずです。
1ヨハネ3:3「彼についてこの望みをいだいている者は皆、彼がきよくあられるように、自らをきよくする」この願いを持つ物がクリスチャンです。神の子の特徴は、キリストにより罪から離れ、神に喜ばれる道を望んでいる者です。
2010年10月3日
 戒めを守る中にある恵み
1ヨハネ 2:3、4「もし、わたしたちが彼の戒めを守るならば、それによって彼を知っていることを悟るのである。 「彼を知っている」と言いながら、その戒めを守らない者は、偽り者であって、真理はその人のうちにない」」 

クリスチャンは神様の恵の中にあると信じています。恵とは私たちの行ないによらない神の祝福の元にあることです。ところが、同時に、イエス様は戒めを守るように、良い行いをせよと教えます。私たちは恵の中にある信仰生活を信じ、イエス様の戒めを守ることに忍耐強く励むことを理解していなければなりません。考えてみて下さい、私たちは悔い改めて、イエス様の戒めを実践しなければならないとことが多くあるではないですか。日々に、自分の生活を一新すべきことが目の前にあるではないですか。
 結論は、私たちは戒めを守る生活をするなら、私たちはより神の恵の中にあることを悟り、喜びと平安を増し加えられるのです。

戒めを守るとは、神様のみ心を行なうよう努力することです。聖書通読、祈りの継続、礼拝出席、福音を伝える、兄弟姉妹との愛の交わり、信仰者としてのよい証、罪からはなれる・・・なすべきことは多くあります。これらを守ることには神様を愛することであり、神のお言葉への信頼があるのです。同時に、隣人を愛することなのです。戒めの本質は愛の実践です。
 イエス様が嫌ったことに、ただ文字に書かれている通りにすれば、戒めを守っていることになると言う考えがありました。(安息日は良いこともしてはいけないなど)心のこもっていないプレゼントのようなもので、自己満足につながるもので、イエス様は嫌われました。戒めの実践には心が問われているのです。愛です。
 忍耐強く戒めを守ることによって、私たちは信仰が真実であることを悟ります。そして、戒めを守る生活は、神と主イエス様をよく知る者へと導きます。私たちが神を喜んで礼拝する生活を行ない、イエス様のように隣人を愛する行為に歩むなら、私たちを導かれる主がいかに真実な方で、確かな方であるかを学び、共にあることを喜ぶようになるのです。
2ペテロ1:2「神とわたしたちの主イエスとを知ることによって、恵と平安とが、あなたがたに豊かに加わるように」 とペテロの祈りにあるように、私たちは神様の恵の中にあることを実感し、心の平安を経験する者になるのです。喜んで、自発的に主の戒めを守ろうとする者になりましょう。
2010年9月26日
  神様との交わりを求めて
1ヨハネ 1:3 「すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。」

 クリスチャンが幸せであるのは、神様との親しい交わりを持つからです。誰もこの関係を取り去ることはできません。それは神の愛の中に生きることです。ヨハネは伝道する理由を、「あなたがたもこの交わりにあずかるようになるためである」と言い、そして、「父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである」つまり、神様との交わりと言いました。
 これこそ、クリスチャンの特権であるのです。人は夢の話というかもしれませんが、私達はこの交わりを求めるのです。なぜなら、この交わりにこそ、人の最高の祝福があるからです。
ヨハネ15:5「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである」
 神様との交わりんは、祝福が一杯あります。
1)自由があり 2)心の奥底の清め(御霊の実 ガラテヤ5章)
3)喜びがあります。
1ヨハネ1:4「これを書きおくるのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるためである」 神様との交わりを受けるために、どうすればよいでしょう。どう深めたらよいのでしょう。
1)罪を悔い改め、イエス・キリストを信じる。
罪のゆるしを通して、私たちは神様との交わりを回復するのです。
2)御言を信じ、従うのです。罪を指摘されたなら、すぐに悔い改めて、キリストのゆるしを受けるのです。そして、神様の恵みの約束を信じる信仰生活の中に、神様との交わりの確信は深められて行きます。信仰生活は、この交わりを一番大事なものとすることです。自分の他の願いよりも、周りのいろいろな誘惑よりも、つねに一番大事なものとしてもつべきものです。そこに豊かな実が生まれて来ると約束しています。
2010年9月19日
 大角研中国宣教師をお迎えして
テーマ:回復
イザヤ 55:1 「さあ、かわいている者はみな水にきたれ。金のない者もきたれ。来て買い求めて食べよ。あなたがたは来て、金を出さずに、ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ。」

 本日は、中国宣教師大角研宣教師をお迎えしての特別集会です。師は幼い頃から教会に集われ、幾多の試練を経験されながらも、主の召しを確信し、お導きにより宣教師として歩まれています。お話を聞くなら、誰もが驚き、しかも神様の不思議なご配慮を感じ、主の御名を崇められると思います。これからの主のお働きとお導きを心からお祈り致します。

 神様は私たち人を、神様が望まれる尊い立場に招いて下さっています。そのことを和解といい、回復といいます。
1)回復とは、もともと人はとても尊い存在であったのに、空しいものとなっていることを教えてくれます。人は自分や人の尊さを知りません。人の心は傲慢と卑下を往復していて、神様が人を高価で尊いものと言って下さることを信じられないのです。ところが、聖書は人は尊く愛されている存在であることを教えてくれています

2)尊い優れた立場に立ち返ることができることを教えてくれています。 しかし、幸いなのは、神様が人を尊い姿に回復して下さる道を教えてくださっていることです。その為に、神の御子イエス様は人となられてこの世に来られ、ただしく歩まれ、罪人の身代わりに死なれ、更に3日目によみがえられて、約束の確かであることを明らかにして下さいました。そして、誰でも彼を信じる者を、新しく生まれた者として回復して下さると約束して下さいました。

 回復は今、多くの人が求めるものです。主の回復を受け、誰もが新しい幸いな救いの道に歩まれることをお祈り致します。大角先生の語る言葉を通して、私たちがこの回復を信じることができるように、そして、希望を持つことができるように願います。
2010年9月12日
新しい自分を求める
2ペテロ2:22「ことわざに、「犬は自分の吐いた物に帰り、豚は洗われても、また、どろの中にころがって行く」とあるが、彼らの身に起こったことは、そのとおりである

 小中学校のとき、犬を飼っていましたが、嫌だったことが、吐いた物をもう一度食べることでした。豚が泥の中に寝転ぶ映像はよくテレビで見ていました。犬や豚にとると、それが習性なのでしょう。人から見ると、不潔に見えることも、彼らには自然な行為と言えるのでしょう。
 信仰から離れてしまう人がいるとき、聖書は彼らはその元の性質に帰って行ったのだと言います。心の奥底から、信仰によって変えられてはいなかったと言うのです。
 海外では信仰によって救われたクリスチャンを、ボーンアゲインと言うそうです。それは、救いとは新しく生まれることであり、新しい性質を目標とする信仰者のことです。2コリント5:17「誰でもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」この聖書の約束を信じて、自身が全く新しくされたことを喜び、新しい生き方のため、新しい心を求めるべきなのです。

 新しい生き方の為に、聖書があるのです。
2テモテ3:16「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。 それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者となるのである」
 このような成長は、その人の心が新しくなることを意味します。心が変わらなければ、人の行動は変わりません。性質が変わることを願いましょう。心が真実に、新しい生き方を願うものとなるために、何が必要でしょう。
@ 聖書の言葉を正しく理解することです。御言葉には力があります。
A 心から性質が新しくなることを願うことです。
 もう以前の吐いた物に帰らない者に、泥に戻らないようになること、全く新しい生き方を求めるのです。形式的に生きるのではなく、心から良い思いが出て来る人になることを求めましょう。
2010年9月5日
神の性質にあずかる
2ペテロ1:4「また、それらのものによって、尊く、大いなる約束が、わたしたちに与えられている。それは、あなたがたが、世にある欲のために滅びることを免れ、神の性質にあずかる者となるためである。」
 
 この聖句には、私たちが「神の性質にあずかる者となる」と言う大いなる約束があると書かれています。別の聖書箇所では、同じ内容を次のように言っています。
エペソ 3:17-19「 また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。」

 私たちが分かることは、キリスト者はイエス様のご性質をもつ事ができる、似ることができると言うのであり、それが人のこの世での目標になるべきものです。
1)私たちの願い
 私たちの性質がイエス様に近づく、同じになろうとすることが、一番の願いにならなければなりません。高校生のクイズ番組がありました。天才、秀才と言われた人たちが、難問に答えるのですが、彼らの答えに驚かされました。甲子園野球にしても、このクイズ勝ち抜き戦にしても、彼らは毎日の娯楽を犠牲にして驚く努力したのです。彼らがそれを心から願ったからできたのです。私たちも彼らと同じように、神の性質にあずかることを人生の第一の目標だと心から思うなら、奇跡は起こるのではないでしょうか。
2)神の願い
 神は、人の心の性質が高くなることは尊い、大いなる約束だと言いました。私たちへの約束であり、神様の願いなのです。私たちが自分の欲の奴隷にならず、自分を犠牲にしても新しい性質を望むことを神様は喜ばれています。そのことは、愛に富み、聖い神様の栄光を私たちが表わすことなのです。
3)深く神を知ることによって
 具体的には、聖書の知識を豊かにすると共に、生活の中に実践することによって、信仰生活が深められることによってです。
2ペテロ1:5-7<まとめ>私たちにとって何が一番大切なのでしょうか。それは、他の一切を忘れて、信仰によって心から願うことなのです。私たちの日常生活に、聖書の教えを継続する時に、私たちは新しくなるのです。
2010年8月29日
 霊のいけにえ 賛美と感謝
1ペテロ 2:5 「この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。」
 信仰生活は、神様が喜ばれることを、私たちが求めるようになることです。信仰とは、私たちの願望の達成ではなく、神様が願われることに恵みがあり、祝福がある事を信じることでもあります。
「信心を利得と心得る者」になってはならないのです。1テモテ6:5
 聖書は信仰者に次のような生活を送りなさいと言います。
1)生ける石となって、霊の家を築き上げる者になる。
@ 生ける石
前の節では、イエス様が「選ばれた尊い生ける石」と呼ばれた後に、信仰者を「生ける石」と言います。それは神様が喜ばれ、役に立つ信仰のある人のことであります。石のように堅い信仰を持ち、キリストに似た者です。
A 霊の家を築く
そして、神の教会の働きを担う者になるのです。教会は信仰者の集まりと言うだけでなく、神様が特別に計画されている大切な働きをする集まりです。私たちは教会を大切に考えなければなりません。
2)聖なる祭司となって、霊のいけにえをささげる。
祭司の称号もキリストのものです。ヘブル 3:1 「あなたがたは、わたしたちが告白する信仰の使者また大祭司なるイエスを、思いみるべきである。」教会の中で、私たちは神の祭司の働きをする者になります。それは、霊のいけにえを日々ささげる者となることです。
3)私たちがすぐにでもできる二つの霊のいけにえがあります。
@ さんびのいけにえ
ヘブル 13:15「 だから、わたしたちはイエスによって、さんびのいけにえ、すなわち、彼の御名をたたえるくちびるの実を、たえず神にささげようではないか。」
イエス様を賛美し、神様をいつも褒め称えることです。
A  感謝のいけにえ
詩篇 50:23 「感謝のいけにえをささげる者はわたしをあがめる。自分のおこないを慎む者にはわたしは神の救を示す」どんなことも、イエス様の導きを信じて感謝することです。神様は私たち自身をささげるように言われていますが、まずは賛美と感謝を神様にささげることができれば、私たちの生活は格段に神様に喜ばれ、祝福が増えるでしょう。
2010年8月15日
主に委ねる
 詩篇37:5ー6「あなたの道を主にゆだねよ、主に信頼せよ、主はそれをなしとげ、あなたの義を光のように明らかにし、あなたの正しいことを真昼のように明らかにされる。

 不況知らず デイリーブレッドより

 1歴代誌29:11天にあるもの、地にあるものも皆あなたのものです。
 
ジョンハイパーは「景気後退はなんのため?」と題した礼拝メッセージの中で,不況には神の目的がある,と語りました。それは次のようなものです。
  
  1.私達の隠れた罪を明らかにし,私達が悔い改めて聖められるようにする。
  2.経済が常に最悪の状態である発展途上に生きる人たちの悲惨な状況に対し
   て,私達の目を開かせる。
  3.自分の持ち物ではなく神の恵みに,自分のお金ではなく神の憐れみに,世の富ではなく天国の富を頼りにするように,私達の生き方をシフトさせる。
  4.人間んお力が頼りにならないと気こそ福音を伝え,教会を成長させ,神の救のみ業を前進させる。
  5.傷ついた兄弟姉妹のケアをすることによって,神の教会の主にある愛を成長させる。

困難な時代,神はこの他に何を教えようとなさっているのでしょう。神にとって不可能なことは一つもありません(ルカ1:37)神は丘の上に幾千もの家畜を所有されるお方(詩50:10)であり,不況だといって影響を受けられることはありません。神は,私達を捨て去ったりなさいません。(マタイ28:20)
  また、主の宣教の大命令が一時的に執行停止になることもないのです。さあ,世俗的な繁栄にではなく,世界をみ手に治めるお方に望みを託しましょう。                          
                     (Cindy Hess Kasper)    
2010年8月8日
  福音を伝える
 マルコ 16:15 -16「そして彼らに言われた、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。  信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。」
 
 多くの子どもたちがポケットモンスターにはまっています。何か悪い考えが入らないか敬遠していた親でしたが、最近は、一緒になって見ることもあります。見ていて,子どもたちが好きになる理由が分かった気がします。 ポケットモンスターは子どもたちの夢をアニメにしています。大好きなペットがほしい、そのペットと本物の仲良しになりたい、親友がほしいと言う願いです。しかも、その世界には死がありません、一見ポケモンバトルは恐ろしいわざをつかう喧嘩のようですが、決して死ぬことはなく、元にもどります。勝ち負けがあると、一方は高ぶり、負けた方は落胆しそうなのですが、戦いが終わればどちらも仲良しになりますし、負けた方は次ぎに頑張ろうと考えます。これは大人の考えで、今の世の中ではほとんど見られません。

 異次元の話もよくあって、美しい別世界であり,時には神のように、時間さえもコントロールするポケモンも出てきます。私はその場面を見ていて、その世界は少し聖書が語る神の国に似ているように感じました。実はもっと理想的な夢の国なのです。ポケットモンスターは、人の考えた世界ですが、神の国は2000年以上前から聖書の中に語られた救われた神の世界です。

 そして、この神の国にできるだけ多くの人が入るために、2000年も前から福音が世界中に宣べ伝えられているのす。聖書には、その都は透き通った純金で造られ、宝石がちりばめられ、イエス・キリストが光であり,夜はないと言います。涙もなく、病いもなく、死もなく、そこには神様と人の愛の交わりがあると言います。

 しかし、その反対もあると聖書は警告します。永遠の苦しみのある、地獄と言われる火の海があると言うのです。そんなところを誰も願わないでしょうが、神の厳かな罪に対する裁きとして、恐ろしい場所があると警告しています。

 キリストの福音は人が恐ろしいこの裁きの場ではなく、神と共に生きる夢のような神の国に入るように伝えるものなのです。その国は誰もが入れる国で、ただ、罪からの救主,王の王,主の主なるイエス・キリストを信じるように命じているのです。神を信じて、人は救われ、人の本当の尊さを知らなければなりません。
2010年8月1日
 静かに主を待ち望む時を持つ
 詩篇27:14「主を待ち望め,強く、かつ雄々しくあれ。主を待ち望め」
 詩篇46:10「静まって、わたしこそ神であることを知れ」


 夏のキャンプは今年も大変恵まれ、主に感謝しました。子どもたちも楽しかったようで、全員が来年も出席したいと言いましたし、大人の私たちも是非開催しようと思っています。それぞれに決心した事もあったことでしょう。しかし、決心がその時だけの決心で終わっては意味がありません。実生活の中で忘れられる事なく、実践される決心こそ、大事な事です。
 今の時代は、人の心を誘う多くの情報があり,物で溢れています。人は何かの奴隷となって、神様の事を考える時間は本当に少ないのではないでしょうか。その結果、人は神様の恵みを味わう事なく、表面的でむなしさの多い人生を歩んでいるように思います。どうしたらよいのでしょうか?
 神様の前に静まって、祈り,聖書を読む信仰の時間を日々持つ事が大事なのです。毎日、神様の事を思う時を必ず持つ努力をするのです。
1)静まって神に向かう時が大事
 聖書を読んでも頭に入らない、祈れないと思える時もあるかもしれません。しかし、そんな時も神様に向かう時をもつ事が大事なのです。毎日、習慣として聖書を読み,祈る時を持つ、この行動が、私たちの心を信仰的に守ってくれます。
2)何をするか?
キャンプで@祈る A聖書を読む B考える C祈る D従う ことが神様の宝物を探す方法だと学びました。もし、それを邪魔する思いが浮かんだら、それを神様に話し、それから守られるように願い、神様のお力を信じ、従います。
3)神様との平安の交わりを持つ
 静まって神様に向かうとき、私たちの心はこの世から解放されて、信仰的な平安を持つ事ができます。また、色々な信仰的な教えを受ける事ができます。それに従う事は簡単な事ではありませんが、日々、神様に向かう時に、私たちはその意味を理解し,従う心が増してくるのです。

 私たちがこの世の考えと同じように生きたなら、決して神様の救を経験できません。忙しく動きまわっていては、心は信仰的になることはできません。毎日の中に静まって神様に向かう時を持ちましょう。そして、継続する努力をしましょう。
2010年7月25日
  信仰とは
 ヘブル11:1「さて、信仰とは,望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。 昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛された」
 
 信仰とは何だろうか?今までも何度も問いかけてきたが、その都度、いろいろな答えがあったように思う。一言では言えない、深さがある。しかし、その答えにはどれにも意味があり、自覚する事は大切であったと思っている。今日も、共に考えてみましょう。
1)イエス様を見る。
 イエス様を見るなら、私たちのすべての信仰生活の模範を見ることができます。イエス様の信仰のお姿も模範です。
@父なる神様にいつも目を向け、従っていた。
これは信仰の最も大事な姿勢です。神様のみ心を求めることです。
A 具体例
バプテスマ、愛の施し,十字架の死までの従順さは信仰の模範です。

2)私たちにとって、信仰とは?
 @ 自分に必要なものである。
 私たちの信仰は、自分自身の必要から来るものです。つまり、救われたいと願って信仰を告白したのです。自分は、このままでは不幸であることを認めて、救を求めて信じたのです。

 A 信仰とは、更にイエス様にむかって進んで行くことです。
信仰生活とは、イエス様を信じてから、さらに恵みを求めて,信仰に進む生活です。種がまかれたなら、根が出て、芽が出て、上へ上へとのびていき、花を咲かせて,実をならせるまで進みます。

3)信仰とは?まとめ
@ 私たちのためにある信仰です。
A 神様を喜ばせるものです。
ヘブル11:6「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。」
 信仰を自分に必要なものであることを認めて、積極的になりましょう。 ますます、私たちが信仰に進むなら、神様を喜ばせ、私たち自身が更に祝された救いの道を歩むのです。
2010年7月11日
信仰によって前向きに生きる
ルカ 7:47 -50「それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」。そして女に、「あなたの罪はゆるされた」と言われた。すると同席の者たちが心の中で言いはじめた、「罪をゆるすことさえするこの人は、いったい、何者だろう」。しかし、イエスは女にむかって言われた、「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。」

 信仰は、罪人に安心を与えます。そして、信仰によって、より前向きに進むことができるようにしてくれるのです。
上に出て来る女性は、周囲の人たちに<罪の女>と呼ばれ、きっと彼女自身も自分を責めるものだったようです。しかし、彼女は信仰をもってから全く違った生き方を始めただろうと,私たちは信じます。私たち自身が信仰によって,今までと違った心をもつことができたように、彼女はイエス様にこれほどに愛されたことを知ってからは、信仰によって前向きに生きただろうと思うのです。
 私たちも信仰を持った者として、日々に信仰による前向きな生き方をしたいのです。それは信仰によらないとできないことなのです。
1)私たちは全くの罪人だから。
 自分では正しい目標を見つけることができません。生きる道においていつも迷い、後ろ向きになりがちです。本当の生き方はイエス様によって教えられます。
2)肉体は弱いから。
 心の愚かさだけでなく、肉体が弱いので,さらに正しい道に向かうことができません。疲れ,ストレスに弱く、欲望の虜になります。
 しかし、信仰は私たちを全く新しく作り替えようとしています。私たちに大事なことは、信仰を持つこと、そして、さらにキリストに信頼して、信仰によって前に進もうと願うことです。その中で大事なことは?
1)信仰による目標を持つことです。
この目標は,信仰を持つ前に三日坊主だった目標ではありません。キリストが「よし」と言われる目標、神様が喜ばれる正しい目標を持つのです。私たちの生活に、これっと言う目標ができるなら、私たちの生活は大切な方向を見いだしたのです。
2)常に、信仰によってこの目標に向かうことを忘れないことです。
2010年7月4日
 恐れと救を知っている光の子
1テサ 5:5 -6「あなたがたはみな光の子であり、昼の子なのである。わたしたちは、夜の者でもやみの者でもない。だから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして慎んでいよう。

 光は見えないものを見えるように明らかにする。そして、闇夜ではなく,昼歩くなら安心があるように、光の子、クリスチャンは安心がある。光は前にある危険を知らせ、それを避けたり、やり過ごすことを教えてくれる。 イエス様が「あなたがたは、この世では悩みがある。しかし、勇気を出しなさい」と言われたように、私たちの世には問題が多くあり、不安が多くある。しかし、イエス・キリストを信じることによって、神は私たちを光の子と呼ばれ、そられに勝利することをゆだねて下さっている。
 光の子とは、キリストの言葉を知ることによって、恐れを知り、それらを乗り越えることを知った者であると言える。あなたは聖書の言葉によって、どれほど乗り越える道を知っただろうか?聖書は、耐えられない試練にあわせられれないと言っている。

 また、逃れることのできない主の裁きが近づいていることを知っているだろうか?それはすべての人に臨み、行ってはならない恐ろしい永遠の裁きだと聖書は教えてくれている。そこから救われる道を知っているだろうか?
 光の子とは、救を求めてキリストの元に来た、救われる道を知った、救われた者である。光の子とは、罪を悔い改めてイエス・キリストを信じて、無条件に神の恵みである救を受けた者である。そして、キリストの光を受け、内にもち、安心して歩む者である。
 しかし、どうも私たちは、深くイエス様の教えを知らず、また恐れを心に持ちやすい光の子らしからぬ者であることを知っている。エペソ 5:8「あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさい」 だから、心から進んで光の子らしく歩く者でありなさいと命じています。心で決心するのです。
1)罪から離れることを。
2)主と共に生きることを
 光の子とは、主の約束を知り、恐れに勝利し、信仰の道を歩む者です。
2010年6月27日
 キリストを知る知識の価値 スポルジョン説教<朝ごとに夕ごとに>から
ピリピ 3:8-9「 わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。」

 「キリストに関する霊的な知識は個人的な知識である。私は他の人が主を知っているその知識によって主を知ることはできない。否、私は自分自身で主を知らなければならない。それは理知的な知識である。私は幻や夢の中で主を知るのではなく、御言葉が啓示する主を知らねばならない。私は主のご性質、その神性および人生を知らねばならない。私は主の職分--その徳、働き、恥辱、栄光--を知らねばならない。

 私は「すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、また人知をはるかに越えたキリストの愛を知る」に至るまで、主について黙想せねばならない。それは主についての熱愛の知識である。実際、もし私が主を知るならば、私は主を愛せずにはおれない。一オンス(約28g)の心の知識は一トンの頭の知識に価する。主についての私たちの知識は満足を与える知識である。私が救主を知るとき、私の心ははしばしまで満たされる。私は魂があえぎ求めてきたものを得たことを感ずる。同時にそれは刺激的な知識である。私は愛するイエスについて知れば知るほど、私のうちにさらに知りたいという思いが起こる。高く登れば登るほど、私を招く山頂はさらに遠くに見える。多くを得れば得るほど、私はさらに多くを得んことを願うであろう。貪欲な人の貯蓄のように、黄金を得れば得るほどさらに黄金を欲するのである。

 要するにこれは、キリスト・イエスを知る知識が、最上の幸福であるからである。事実この知識は、私を高めて、時にはすべての試練、すべての疑惑、すべての悲哀を完全に超越させる。なおその知識は、私がそれを楽しむとき、私をして「日が短く、悩みに満ちている女から生まれる人』(ヨブ14:1 人間をさしている)以上の何者かにするのである。なぜといえば、それは永遠に生きる救主の不朽のいのちを私のまわりにまき散らし、主の永遠の喜びの金の帯を、私にまとわしめるがためである。わが魂よ、イエスの足もとにすわりて、終日彼より学ぶことをせよ。」』

 ※ スポルジョンは100年以上前のバプテストの説教家として有名です。彼の説教を通して、霊的な信仰生活の深さを学ぶために取り上げました。
2010年6月20日
 信仰者としての努力の大切さ
1コリント 15:58 「だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。」

 私たちはもっと努力することの大切さを悟り、努力する者になりたいと願います。それは目標を持っているからであり、努力することによって得ることが出来ると信じるからです。しかし、それをいつも邪魔するのが怠け心です。 その心によって、私たちは成果のない日々を経験しています。

箴言15:19「なまけ者の道には、いばらがはえしげり」怠けの道には作物が実をならさず、行く道を邪魔する茨が生い茂ります。私たちは適切な目標を持ち、努力を惜しまない者となりたいものです。

 しかし、疲れ果てている人、病気の人はどうですか? そういう時、努力するべきですか? 目標はなにでしょうか?疲れ、病いの時にも努力するべき目標はあります。その目標は回復することであり、ある人には頑張らない生活をこころがけ、止めるべき習慣は止め、肉体機能回復のリハビリをする努力が必要なのです。

 そして、この努力する行為は、習慣により身につく性格となると言えるのです。昔の人は働き者が多いと言います、しかし、彼らは生まれながらに働き者であると言うより、働く習慣を身につけたから働き者になれたのです。怠ける性質が習慣によって身に付くように、努力の性質も習慣によるのです。そうすると、日常に目標を持ち、努力することを心がける生活は、より優れた生活をするために非常に重要なことになります。

1)私たちは信仰者として、努力するべき目標を見いださなければなりません。
 それはイエス・キリストを通して学ぶことです。
2)その目標に向けて、実践する努力をするべきです。
 その時、信仰者は空しい者となることはなく、勝利者としての道を進むのです。
3)神様の報いを望むことが出来ます。
 神様は善の道に励み続けるなら、必ず祝福を下さいます。イエス様の教えに従って惜しみなく努力する心を持ち、するものになりましょう。
2010年6月13日
キリストによって一つになる教会
ヨハネ10:16 「わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう。」

 この社会には、孤独を感じている人が多い。いろいろな立場や地域の中にもいると思う。自分の願いを求めて進んできて,ふと立ち止まると自分の立っている場所が不安定で孤独であることに気付かれる。
 イエス様はそう言う人々をご自分の元に招かれ、導かねばならないと言明している。そう言う人たちは不幸なのだ。教会とはそう言う人たちがイエス様の元に集まり、一つとなって新しい,救われた歩みを始める所と聖書は教えている。そこで、私たちは一つとなることを長い求めなければならない。イエス様の囲いとはどう言うものか?
1)神様の守りがある。
ヨハネ17:15「わたしがお願いするのは、彼らをこの世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守って下さることであります」
2)イエス様の聖さがある。
ヨハネ17:17「真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります。」
3)神様による一致がある。
エペソ 4:1-3「さて、主にある囚人であるわたしは、あなたがたに勧める。あなたがたが召されたその召しにふさわしく歩き、できる限り謙虚で、かつ柔和であり、寛容を示し、愛をもって互に忍びあい、平和のきずなで結ばれて、聖霊による一致を守り続けるように努めなさい。」
 私たちは御言の学びを通して、イエス様の教えに対する一致が必要です。そして、いろいろな違いを持って集まって来る方々と,救われた後には、真心からの一致を求めるようにしたいものです。
1) 愛によって一致を求めましょう。
互に語り合い、思いあい、助け合って、神の家族として深い一致を求めます。
2)教会が多く人たちの励ましの場となりましょう。
教会は弱い者たちが、神と兄弟姉妹との交わりを通して、強くされて行く所です。神様によって一致することは、教会の大切な目標です。
2010年5月30日
 神に生きる 律法からの解放
ガラテヤ2:16「人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである」
ガラテヤ 2:19 「わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。」


信仰生活は、戒めの型に自分をはめ込むことではありません。こうあるべきだ、こうでなければならないと願うことではありません。自分の罪を認め悔い改めと、主が救って下さると言う信仰によってなるものです。自分の間違いを理解したなら、信仰に進むのです。イエス様がわたしの罪の身代わりに十字架で死んでくださったこと、それによって罪のゆるしを受けたと言う信仰です。そして、キリストが復活されたように、自分も罪に死に、新しいいのちに生きる願いを持って生きることです。そして、そこに神様の力が働き、それを喜ぶ生き方です。もし、私たちが今なお、律法の言葉に心を向けて、その完成を見いだそうとするなら、それは神様の御心ではありません。その思いは、自分の救の確信を邪魔し,人を非難する方向へと進みます。そんな平安のない生き方で良いのでしょうか。

パウロは「神に生きるために、律法によって律法に死んだ」といいました。彼は言葉に目を向けるのではなく、イエス・キリストをいつも見るようにし、イエス様に対する信仰によって、その歩みの中に律法が完成させられる、神の子の生きかたがあると言ったのです。

ガラテヤ2:20、21「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって,生きているのである。 わたしは、神の恵みを無にはしない」
いつもイエス様の救を思いましょう。その愛を信じましょう。
2010年5月23日
 救と良い行い
エペソ2:8-10 「あなたがたの救われたのは,実に、恵みにより,信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。 決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。 わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。」

 救はキリスト教の目標です。神様は救をすべての人が受けるように願っています。この救とはいったい何なのでしょうか?
1・救とは?
1)心の変化です。
 @ 不信仰から信仰へ
 A 望みの変化 神様から望みを受け,その望みは広がります。
2)神様との関係の変化
 @ 罪のゆるし
 A 義人とされる
 B 永遠の命、その他

2・恵みと信仰による救
1)神の愛による恵みのプレゼント
2)信仰によって受け取るべきもの

3・救の生活への現れ:良い行いとは?
1)ただ、良い行いと思われるものに向かうのではない
2)心の変化によって、良い行いは求めるもの
3)変えられた心で望み,実行する。

 救とは、滅びから永遠の命への変化です。それは心の変化から始まるものであり、悔い改めと信仰から始まります。これは、神様との関係の変化であり、敵対から和解への変化です。そこで、私たちが第一に求めなければならないことは、神様との関係が良くなることであり、私たちの心が変えられ、その心から出てくる良い行いです。
2010年5月16日
  キリストの手紙
2コリント3:3「そして、あなたがたは自分自身が、わたしたちから送られたキリストの手紙であって、墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心の板に書かれたものであることを、はっきりとあらわしている」

 聖書はクリスチャンである私たちをキリストの手紙であると言っています。その意味は、神はキリストの人に伝えたい事を信仰者が伝えるようにされていることであります。2コリント 5:20 「神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。」とパウロが言ったのと同じ意味だろうと考えます。「キリストの手紙』と言う言葉の中にある意味を考えてみます。

1)私たちにはキリストが主であると言うことです。
 信仰告白の時に口から出た言葉は、私たちを導き,守ってくれます。どんな悲しみも恐れも、キリストが主であられるので柔らぎます。

2)私たちが口や手や足を使ってすることが、キリストの手紙だと言うのです。
 わたしはとても喜びます。 キリストのように人を励ます事,キリストの教えを伝える事、キリスト者として礼拝を守り,祈り,伝道する事。これらすべてがキリストの手紙と言われている事と思う時に、主の働きが出来る事を感謝します。

3)その手紙は、心の板に書かれている。
 人の心にイエス様は手紙を書かれる。私たちがイエス様の教えを心で学び,理解して行くことなのでしょう。それが石の板に墨で書かれたのとの違いは、表面的な理解ではなく、私たちの中心にある心で,知性と感情と意志によって理解することなのです。
 確かに、私たちは心の伴わない表面的、頭のキリスト理解ではなく、全身全霊でイエス・キリストを愛し、キリストに従おうとしています。その心からキリストの賜物である愛が生れ、聖さを求めています。なんと素晴らしい事を主はなさって下さったかと感激するのです。

4)このキリストの下さる恵みを、周りに人に伝えます。

 キリストの十字架と復活、そして私たちの内に住まわれる神の霊は、私たちに聖書の言葉の真理を、心の深いところに留まる理解として与えてくれています。
2010年5月9日
 病と休息
マタイ 11:28、29「 すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。  わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。」

 クリスチャンも心の病にかかることがある。もっとも頼りになる神を信仰する者として励まされていても、余りの心労、過労によって心のバランスを崩すことがある。心と言うよりも脳の病気であるらしいです。友の診断されたとき、私たちはどのように手を差し伸べることが出来るだろうか? 病気の特徴は、やる気がなくなり、突然に心が沈んで行くと言う。理解力、思考力が乏しくなり、生活をするために普段の3の3乗、27倍のエネルギーを必要とすると言う。快方に向かっても2の3乗、8倍のエネルギーがいると言われている。特効薬は何か病の経験者である伝道者に聞いてみた。

1)薬を受けること。
自分で頑張ろうとしないで、病院の診療を受け、薬を飲むこと。

2)十分な休息をすること。
仕事を休み、生活の中の労働を少なくして、出来るだけその人が楽にする生活をするように心がけると言う。例えば、仕事のストレスが病の原因の一つであったとしたら、休暇を取ることは、その問題を取り除くことにもなり、早く快方に向かうと言う。

3)思い煩わない。
病気になってからでは、思い煩わなくすることは困難かと思うが、神により考え方を変え、思い悩まないような生活は、回復後も大事なのです。イエス様も「何事も思い煩ってはならない」と命じている。

 私たちはどういうことが出来るだろうか?
1)孤独にならないように、いつも見守る。
は喜んで見守りたい。出来るなら、手も足も頭も口も使いたい。しかし、相手は疲れ切っているので、疲れさせないようとても賢く注意が必要だそうだ。

2)休息ため、手助けをしよう。
そして、トンネルには必ず光り輝く出口があるように、回復があるので、それまで神の家族として、共に友を助け合って歩きましょう。きっとこの経験が、先に益となって、すべてが良かったと言える日が来ることを信じている。
2010年5月2日
 キリストからの望みと力 聖書の学びの中に実践4

ローマ 15:13 「どうか、望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とを、あなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを、望みにあふれさせて下さるように。」

 私たちは兄姉が気落ちして信仰生活を送ることを喜びません。すべてのクリスチャンが、望みにあふれて生きることを願っています。では、どうすることが大切なのか?聖書を学び、神の御心を知り、自分の望みとすることを学びます。

1)望みとは感情からでるものです。望みとは「こうでなければならない」ではなくて、「こうありたい」と願うことであり、その人の感情から出るべきものであり、喜びに直結しています。

2)何を望むかによって、人生は天と地ほどに変わる。
人が目の前にある衣食だけを望んで生きるのと、将来の目標を望み、努力して生きるのでは、その生き方に大きな違いが出てきます。

3)間違った望みを持っていませんか?
人は感情によって望みを持つのですが、もし、私たちが悪い感情の元に望みを持つなら、私たちの行動は悪に走ります。
例:猿にバナナをと見せると、猿はバナナを欲しがり、ただその望み道具を使ってとろうとします。人も同じように、自分の願望を第一として行動すべきでしょうか。その前に、知性があり、このバナナは食べて良いか、主がよしとするかなどと考えるべきです。

4)イエス様の例
イエス様は誰でも苦しんでいる人をあわれまれる、義なる方でした。彼こそ感情のままに行動して良いと思われるのに、彼は食欲の誘惑に聖書の言葉で答え、十字架の試練の時には、父なる神の御心を第一としました。

5)聖書を通して神の御心を学び、望みとする。
使徒17:11、12「「ここにいるユダヤ人はテサロニケの者たちよりも素直であって、心から教えを受けいれ、果してそのとおりかどうかを知ろうとして、日々聖書を調べていた。 そういうわけで、彼らのうちの多くの者が信者になった」

6)学んだことを、生活の中に実践する。
理解したことを望みとして、生活の中に実践して下さい。どれほど大きな祝福があるかを実践で学びます。神様からの望みは、朽ちず、汚れず、永遠につづき、私たちを望みによって、励ましてくれます。
2010年4月25日
 キリストからの望みと力 生活の中に実践2

ローマ 15:13 「どうか、望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とを、あなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを、望みにあふれさせて下さるように。」
ローマ 8:24 「わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。」


 信仰者の望みについて、もっと理解し、望みの火を心の中に燃やし続けなければなりません。なぜなら、それが神様の私たちに対する願いであり、信仰者は望みによって救われるからであります。私たちが望みとするものは何か?もっとハッキリと認識して、日常生活をより信仰的により充実させたいのです。 聖書に書かれた時代において、人々はそれぞれに癒し,真理,赦し,永遠の命を求めてイエス様の元に行きました。そして、イエス様にお会いし,イエス様を信じてからは,彼らの望みは,新しいものに変えられて行きます。彼等の指導的立場の人々は、自分の願いと言うよりも、
1)イエス様の御心に従うことを第一に願うようになりました。
そう言う望みを持つ信仰者を霊の人と呼びました。

2)望みは広がりました。
もとの願いは解決しました。また、多くの中の一つの願いとなったのです。つまり、彼らにとり、もっと求めるべきものが別に見いだされ、もっと多くの祝福ある望みが彼等の中に溢れてきたのです。

3)求め続けるものでした。
ピリピ 3:13、14「 兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。」

この望みは、神からのものであり、御言の約束です。罪のゆるし、永遠の命、聖霊の賜物、生活のすべてにあるもので、神様の良くして下さる望みです。私たちの信仰生活を最後まで堅く支えてくれるものが望みと呼ばれているのです。
2010年4月18日
 キリストからの望みと力 生活の中に実践
ローマ 15:13 「どうか、望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とを、あなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを、望みにあふれさせて下さるように。」
1コリント1:23「このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、 召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシャ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである」

 
 私たちの日常の生活と信仰との関わりはどうあるべきなのでしょうか。家庭の中での難しい働き、仕事場での忙しさ難しさ,友人との関係などで悩むことは多いのです。その様な状況で、信仰は私たちに何を教えてくれるのでしょうか。そう言う場こそ、もっとも信仰の意味を見いだせるのではないでしょうか。

1)神様と共にあることの自覚
ダビデは自分たちは特別な民であると認めていました。同様に、クリスチャンもイエス様と共にいることをしっかりと自覚することが出来るのです。

1)神様とそのお力に信頼する。
その困難な時に、私たちは神様に対する信頼を思い出しているでしょうか。ダビデは幼い頃から、神様に信頼し、お力に頼っていました。困難を覚える時にこそ、信仰は神に頼らせ、望みを持たせるものです。

3)イエス様を信仰の土台とする。
どんな問題に対処するにも、私たちの土台はイエス様です。キリストの十字架、復活は、私たちに罪のゆるし与えてくれ、神様のお力を望む信仰の土台です。キリストの十字架と復活を信じることは、神様との和解に至らせ。それゆえに、神からの望みを持つことが出来るのです。

4)望みにあふれる生活
私たちがいつも望みにあふれた生活を送ることは、神様の御心です。どの様な状況でも、私たちは神様に望みを持ち、お力に信頼します。そして、恐れや不安を寄せ付けない、信仰の勝利者として辛い生活であっても、忍耐強く、神様の恵みの望みに溢れて生活することが出来るのです。忍耐強く望みを持ち続けることが信仰生活の秘訣なのです。
2010年4月4日
 キリスト復活の意味
1コリント15:58「だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。」

 パウロは最も大事なこととして、キリストの復活を事実として受けいれるように力強く語りました。
1コリント15:4-5「そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、3日目によみがえったこと、ケパに現れ、次に、12人に現れたことである。 そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している」 このパウロの告白には、誰もが納得させられます。

1)事実として受けいれることによって救われる。
ローマ10:9「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえられたと信じるなら、あなたは救われる」 人が救われるため、イエス様が死者の中から神によって救われた事を、事実として信じることが含まれています。

2)神の偉大な力を信じることです。
コロサイ 2:12 「あなたがたはバプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。」
 キリストの復活を信じる事は、人の思いを遥かに越えた神の力を信じる事だと言います。無から有を造り出す神を信じる事なのです。

3)人の永遠の命を信じる事につながっています。
また、キリストの復活は、私たち自身の永遠の命にもつながっていると言います。1テサ 4:14 「わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう」

4)新しい生き方の始まり
 そして、キリストの復活は、新しく生きることを教えてくれます。これらを含むもっと多くの祝福を受ける事によって、全く新しい自分、新しい目的を持って、新しい価値観をもって、新しい性質を目ざして、新しい心で、信仰によって、動かされず,全力で生きることを可能にしてくれているのです。ローマ6:4「それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。」
2010年3月28日
キリストの十字架の死
ローマ5:8-9「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んでくださったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。 わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう」

 およそ2000年前のこの時期、暦で考えるなら今週の金曜日にイエス様は罪人として十字架に張り付けで死なれました。この事件は、今も教会で最も大切な出来事として語り告げられています。その大切な意味を理解しなければなりません。

1)罪を正しく理解する
 現代社会の大きな問題は、人が罪を犯すことを恐れず、罪を認めなくなったことです。また、反対に罪の意識に、自分を責める自己否定の両極端に陥っていることです。神様との正しい関係を失って、罪を正しく理解することを知らないでいます。罪を恐れない結果、この世は神を敬わず、互に傷つけ、不安の中にあるのです。

2)罪への正しい対処
 私たちは悪いこと、罪を犯すことを恐れ、犯した罪を正しく処理しているでしょうか。罪を恐れないなら、人は人の道を見いだせず、秩序のない滅びの道に進むのです。また、罪を恐れていても、罪の解決を知らなければ、人は罪責感に苛まれ、生きる意味を見いだせなくなります。人は人として、自分の犯した罪への対処、罪を犯さない生き方を学ぶのです。

3)神によるキリストによる救
 私たちが罪に対処するために、神は罪の犠牲として御子イエス・キリストをこの世に使わして下さいました。そして、十字架の上で、罪人として死んで下さったのです。
 神は、私たちが罪を恐れ、罪から離れて生きるために、御子イエス様を遣わして下さったのです。そのキリストのなされたことは?
@神は人の罪のゆるしを持って、人を正しく導こうとされました。
Aキリストに従うことによって、正しい道に導こうとされました。
B私たちはただ信仰によって神の恵みを受けることとされました
 私たちはイエス様の十字架の苦しみとその愛を忘れてはならないのです。教会がきよくなり、交わりが祝される秘訣は、私たちがいつも罪とそのためになされたキリストの十字架の犠牲を忘れないことです。彼に信仰を置くことです。
2010年3月21日
 神にこの身をささげる
ローマ6:13「また、あなたがたの肢体を不義の武器として罪にささげてはならない。むしろ、死人の中から生かされた者として、自分自身を神にささげ、自分の肢体を義の武器として神にささげるがよい」

 神様に心をささげ、神様の教えにこの身をささげよと聖書は命じています。それは、身体を罪にささげてはならないとの反対の事です。

1)不信仰のときの生き方
 信仰がなかった時、私たちは自分の思いの中に身をささげていました。しかし、信仰を持った者は、その生き方が決してよい生き方ではなく、悪い結果をもたらすことを知ったのです。不信仰の時、私たちは罪に身をささげていたのです。

2)イエス様を信じる
 そして、その生き方を悔い改めて、イエス様を信じる決心をしました。キリストはわたしの罪の身代わりに、私たちの罪の中に十字架で死なれました。彼は罪ののろいの故に父と隔てられ、十字架の上で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と嘆いたのです。しかし、3日目によみがえられ、人の新しい命の道を開かれました、私たちはこのキリストを信じたのです。

3)神にこの身をささげる
 そこで神様は信仰を持つ私たちに、これからの人生を罪の僕とならず、神に身をささげて義なる生き方をすることを命じているのです。
@ もう罪の中に生きる事を拒みます。
 私たちは再び罪の中に生きる事を拒むのです。すでにキリストの犠牲により救われた私たちは、以前のようにキリストから離れ、彼と共に生きる事を捨てて良いでしょうか? ノーです。 信仰のない時を過ごして良いでしょうか? ノーです。
A では、どう生きるのか?
 それはもう一方の道、神に従う生き方です。その道を望み、その道に生きる決心をして、この身を神にささげる生活をすることを願うのです。

4)神様が喜ばれる。
 そして、私たちがイエス様が教えた道を生きようとするなら、神様がとても喜んで下さるのです。イエス様はこう言う生き方を霊的な礼拝だと言われました。心を神様に捧げ、身体の実践も従わせるなら、それこそ神に喜ばれる礼拝です。 その時に、私たちが神様の祝福を受けるのは当たり前です。一番に霊的祝福を受け、生活の必要さえも供えられるのです。
2010年3月14日
 君は愛されるために生まれた
エレミヤ 31:3 「主は遠くから彼に現れた。わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。それゆえ、わたしは絶えずあなたに真実をつくしてきた。」

 キリスト者の間で非常に広まった賛美の一つです。この言葉には、信仰者をとても励ましてくれるものがあります。

1)愛が与えられる
 愛は誰もがほしいもの。愛される存在であることに、自分の価値をそこに見つけることが出来ます。この愛を人は心から求めています。愛がない,愛が感じられない生活に、多くの人が失望している現実は、人には愛が最も必要だと教えくれます。そして、この愛を受けると言うのです。

2)生まれてきた意味だと言います。
 しかも、私たちがこの世に生まれてきて意味が、そこにあるといいます。多くの人は自分の生きている意味を見いだそうとして、見つけられない人は多いと思うのです。 しかし、人が最も価値があると認める愛を無条件で受けるように、「あなたは愛されるために生まれた」と言ってもらえることはどれほどその人を励ましてくれるでしょうか。私たちが何かをしなければならないとするなら、愛さえも重荷と感じられるかもしれませんが、生まれた意味が「愛されるため」とは、無条件で喜ぶことが出来ます。聖書はそれを恵みと言います。

3)愛が神様の性質だからです。
 どうして、神の完全な愛が自分に向けられていると信じることが出来るか?それは神様が愛だからです。1ヨハネ4:8「神は愛である」と言いますし、更にヨハネは,神を知っている者は必ず愛する者になると言うのです。神の子となる者は、神の性質を幾分かでも必ず受け継ぐはずだからだと言っているようなのです。
 私たちがこの愛を受ける方法は、何かをするのではなく、神様とこの言葉を信じることです。神様の愛を信じ、キリストを信じることです。キリストがすべての行為をしてくれたので、私たちは何もすることなく、この愛を信じるときに、この愛を受け、この意味を理解するものとされるのです。
 この愛は、更に私たちの社会生活を強めてくれます。なぜなら、私たちは神に愛されている者として、なによりも素晴らしいものを受けているからです。
2010年3月7日
 良い習慣を身につける決意
ローマ 12:1 兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。

 私達は神様に喜ばれる聖なるものとなって、神様に自分をささげなさいと命じられています。私達の人生が自分の考えではなく、イエス様を主として、その教えに忠実に生きることを教えているのです。それが形式的でない、霊的な礼拝だと言います。 誰でも、イエス様を信じた当初は、一生懸命にイエス様を知ろうとし、従おうとしたのではないでしょうか。神様に喜ばれる新しい自分になろうとしただろうと思います。私達が神様に喜ばれるために、私達が持つべき一番重要な要素は何だったでしょうか。それは、信仰と従う決意だと思うのです。

1)あなたは新しくなりたいと願われていますか?
 これは非常に重要な問いかけで、質問するのに緊張します。悔い改めが在るか又は無いか?と言う問いなのです。信仰があるならYES!と答えるはずです。もし、NO!なら、その人は悔い改めの心がないので神様の救を受けていません。 ルカ 13:3 「あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう。」

2)新しくなろうとする決意をしましたか。
 私達は新しくなりたいと願うなら、私達自身がより良く変わりたいと願う、ハッキリとした意志を持たなければなりません。マタイ 7:7 「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。」 これは求め続けよ,捜し続けよ、門をたたき続けよと言う意味です。私達は新しい生き方を強い意志を持って求めなければなりません。

3)自分の考え方変えましたか。
 新しい生き方を目ざすとき、自分の生まれながらの考えに影響されず、主の新しい教えを素直に受け入れているでしょうか。神様に喜ばれることが、自分に幸いであることを信じているでしょうか。知恵深く主の教えに従うべきです。

4)どう言う新しい生き方を求めていますか。
 具体的に,どう言う生き方を願い、習慣とすることを目標としていますか?より具体的に身につけるべき事がらを目標としましょう。
2010年2月28日
 悪い習慣に打ち勝つ
エペソ4:22、23「すなわち、あなたがたは、以前の生活に属する,情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、 心の深みまで新たにされて、 真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである」

私達は神様と協力しながら、新しい性質を獲得していく者です。特に、悪い習慣は取り除き、新しい良い習慣を手に入れるのです。習慣とは、その人の人格にかかわるもので、後天的に受けるものであり、その人を新しくするものです。そして、クリスチャンは常に、克服すべき習慣があり、手に入れるべき新しい習慣があるのです。

1)信仰によって目標を定めます。
私達が悪い習慣を捨て、新しい良い習慣を得る動機は、イエス様を信じ、イエス様に従いたい願いから出るのです。自分のためでと言うより、イエス様に従うために行動するのです。信仰は「これぐらいでいいじゃないか」とは言いません、自分には出来ないとも言いません。信仰は無条件に従い、出来ると信じるのです。

2)自分の内に捨てなければならない悪い習慣を見つけます。
すべての人にイエス様に従う新しい習慣が必要です。ヨシュアは年老いた時に神様に言われました。 ヨシュア13:1「さてヨシュアは年が進んで老いたが、主は彼に言われた、「あなたは年が進んで老いたが、取るべき地は、なお多く残っている」 私達は捨て去るべきふるいものを知り、新しく受けるべきものを知らなければなりません。そして、獲得するために行動するのです。

3)神の助けがあります。
イエス様は私達の生活のために、助け主を送ると約束して下さいました。それは真理の御霊、聖霊様です。ヨハネ14:16-17
聖霊様は私達の心に働いて、まずキリストの道に進みたい強い願いを与えてくれます。そして、実現して下さると言うのです。ピリピ2:13「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神の良しとされるところだからである」

 信仰者生活は、自分の喜びのためだけではなく、神様が喜ばれる聖い生活を目ざします。その時、悪い習慣から離れ、良い習慣を身につけることに向かうのです。
2010年2月21日
 励まし
2コリント 13:11 「最後に、兄弟たちよ。いつも喜びなさい。全き者となりなさい。互に励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和に過ごしなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいて下さるであろう。」
詩篇 133:1 「見よ、兄弟が和合して共におるのはいかに麗しく楽しいことであろう。」

 「兄弟が和合」とは、家族のように心が一つになっている,信頼し合い、安心している様子です。それはとてもうらやましい関係であり、楽しい関係なのです。教会は、そのような兄弟姉妹の関係を求めていますが、困難なとき互に励まし合うことが大事なのです。励まし合うとは、どう言うことをすることでしょうか。その意味は、相手の心が希望を持つことができるように願うことであり、心が元気になり、正しい道に行動出来るように導くことです。それは愛から出るものです。そして、信仰者である私達は、神様との愛の関係、信頼関係を無くさないように励ますことをします。

1)落胆の中にある人が,励ましをどう感じるかが大事。
しかし、励ます方法にこれと言う方法はないのではないかと思います。その人が今どのような心の状態かで対応を決めなければならないでしょう。時には、沈黙し見守り、時に御言を語り、時に行動し・・・その人にあった対応が求められ、愛こそがその源です。

2)最も大事な励ましは、神様との希望の関係を持てるよう励ますこと。
人の言葉よりも、神様の恵みと約束によって、友を励ますことは何よりも重要なことです。聖書には素晴らしい約束があり、人は神様の励ましによって希望を持ち、強くなれるからです。また、時に罪の指摘を通して正しい道への励ましもあります。

3)その時、信仰が求められます。
神様の励ましは、信仰者のためにあります。その為、この励ましを受け入れ、希望へと向けられるためには、信仰が求められるのです。信仰者であっても、信仰の目で,神様の恵みの言に目を向けなければなりません。

4)その励ましを祈りを持って受けるのです。
ルカ 18:1 「イエスは失望せずに常に祈るべきことを、人々に譬で教えられた。」私達はこの互の励ましにより、より信仰的、希望のある、愛の交わりをつくりあげていくことが出来ます。それは一人一人の試練を解決し、更なる前進のためにあるのです。励ましの心を忘れないようにしましょう。
2010年2月14日
 キリストの愛
ヨハネ13:1「過越の祭の前に、イエスは,この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。」
ヨハネ13:14「しかし、主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである。」


 本日は、バレンタインデーと言われて、チョコレートを贈物にしていますが、もっと素晴らしい贈物は,その人を愛し仕える心を持つことではないでしょうか。
1)キリストは信仰者を愛し通された。
 イエス様は十字架につれようとしているとき、その苦しみを思いながらも、弟子たちを更に愛そうとされました。「彼らを最後まで愛し通された」とあります。
2)自分の犠牲を見ない愛
 愛には犠牲がともないがちですが、それを気にしないのです。キリストは十字架の苦しみと死を犠牲とされました。しかし、自分を見ないで私達の救にだけ目をとめて下さったのです。
3)苦しい時こそ、真の愛を実践するチャンスです。
 私達自身の犠牲があったとしても、愛の実践を優先する信仰のチャンスです。その実践が信仰者を幸いに導きます。
4)自分の者たちを愛し通された。
 キリストは十字架の死に向けて、信じる者たちを愛し通されたのです。手足が仕える時は、弟子たちの足を洗って、愛によって仕えることを教えました。そして、十字架の上ではご自分の苦しみと死を通して、信仰者の罪をゆるす道を開いて下さいました。キリストはいつも、常に愛することを実践されたのです。
5)私達はこの愛によって仕えることを学ぶのです。
@ 神に、キリストに仕えることを学びます。愛を受けた者として、愛をもって答えるのです。それは仕えることによるのです。
A 兄弟姉妹を愛し仕えることを学びます。
 教会には二通りの人がいます。それは愛され,仕えられる人たちと、愛し,仕える人たちです。私達が成長するとは、自分から進んで、隣人を愛し仕える人になることなのです。
 私達はイエス様の証人です。私達が語るイエス様が本当の素晴らしい愛の救主であることを伝えるためには、私達自身がイエス様の愛の証人として、愛する人、仕える人にならなければなrないのです。
2010年2月7日
 初めの愛を忘れない
黙示録2:4、5「しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。 そこで、あなたはどこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのわざを行いなさい 」
   イエス様は「初めの愛」から離れてはならないと強く言われています。
1・初めの愛とは
 「初めの愛」とはどう言うものか?預言者エレミヤは、若いとき,新婚の時の愛と言いました。エレミヤ2:2「わたしはあなたの若い時の純情、花嫁の時の愛、荒野なる、種まかぬ地でわたしに従ったことを覚えている」
 結婚生活を振り返り、愛は冷める危険があることを知ります。あれほどつくしていた思いは、少しずつ軽くなってきていないか?それではいけないのです。また、夫婦の間だけではなく、親子、友人、兄弟姉妹・・・愛が強くなるのはよくても、色あせてゆき、変化していくのは良くないのです。
2・初めの愛を、神の愛に学びます。
1)神の愛は強いのです。
 ヤコブ 4:5 「それとも、「神は、わたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに愛しておられる」と聖書に書いてあるのは、むなしい言葉だと思うのか。」
2)神の愛は永遠なのです。
3)神の愛は変わらないのです。
この愛は熱く、永遠にまで変わることのない愛なのです。そして、私達もその愛を持つことを神様は願っておられるのです。
3・神への愛は
1)信仰から来た愛です。
 十字架の死から復活されたイエス様は、これからの指導者ペテロに3度「あなたはわたしを愛するか」と尋ねました。イエス様は信仰と共に愛を持つことを願われています。信仰と愛は共にあるべきもの、信仰があるから愛は衰えないのです。
2)神への愛は変わってはならない。
 信仰とともに愛は増えることがあっても、衰え変容してはならないのです。
3)もし、衰え、変容しているなら、悔い改めて初めの愛に帰らなければなりません。悔い改めることは常にできるようにしてくれています。
 私達は神様の愛により救われた者として、初めの愛から離れてはなりません。いつまでも、新鮮な愛の心をもって、主にお仕えしていかなければなりません。
2010年1月31日
 神の愛を信じる。
1ヨハネ4:10「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある」
 私達の信仰は愛に根ざしています。神が私達を愛して下さっていることを信じるところに、信仰があるからです。神と人の関係は愛であり、キリストの十字架は神の愛の現れであり、それを信じるところに救があるのです。
ガラテヤ 5:6 「尊いのは、愛によって働く信仰だけである。」
神の愛を信じる必要について
1)預言から、世の終りの時、人は神の愛に頼らなければなりません。
 ハイチ地震を知る時、最近の大地震,東南海地震の発生予測を聞く時に、イエス様の終末預言を思い出します。これらの地震に警報が出されていたこと、また南海大地震にも警報が出ていることは、よりいっそう危機感を持ちます。今、私達を救ってくれるものは何なのでしょうか。神様以外になく、神様の愛により頼む以外ないのです。
2)神の愛に期待します。
 神様の愛は、聖書から次の性質があります。
@ ご自分の御子を我々の身代わりに十字架につけたほどに深い愛です。
 人の為に自然界創造物を下さっている愛だけでなく、ご自分の御子を犠牲にされる愛だと言うのです。子供のために自分を犠牲にすることはあっても、他者のために自分の子を犠牲にすることはありません。しかし、神の愛はそれ程だと言います。ヨハネ3:16
A 罪人、弱い者に対する愛です。
 神の愛は、弱さを自覚する者、罪深さを認めている者に対する愛です。キリストは「疲れたもの」「罪人」をご自分の元に招いて下さっています。神様は取るに足りない罪人を愛して、ご自分の御子をも犠牲にするほどの人知を越えた愛の方でであるから、人は神を心から頼ることができるのです。
4)この愛に希望を持っているでしょうか。
 人の未来は、このままでは決して明るくなく、恐ろしい結末しかありません。しかし、神は御子を通して、恐れではなく愛と希望を与えて下さっています。この神の愛を信じているでしょうか。あなたの未来がここにあります。1ヨハネ 4:18 「愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである。」
2010年1月24日
 キリストと共に生きる
マタイ28:20「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」
マタイ1:23「「その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。これは、『神われらと共にいます」という意味である」

 
 恵みのある信仰生活は、神と共に生きている信仰の中にあります。そこには神の助けと守りがあり、平安と喜びがあります。
1)神は人が共に生きることを望んでいる。
 空しい人生とは、孤独に生きることではないでしょうか。人の幸福は、神と家族や友と親しく共に生きることです。しかし、現実は孤独な人があまりに多く、心の病を持つ人は、皆寂しさの中に心休まる親しい関係を求めています。
2)キリストは、私達が神様と共にいるために、この世に来て下さった。
 キリストはインマヌエル「神われらと共にいます」と呼ばれると言われています。キリストは罪人と神との和解のために、十字架で死なれ、キリストを信じる者を神様と和解するようにしてくださいました。それによって、人が神と共に生きる道を開いて下さったのです。
3)人はキリストの元に来るように招かれています。
 マタイ11:28「すべて重荷を負うて苦労している者は、わ,たしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」 イエス様はわたしたちをご自身の元に来るように招かれています。
4)教会がその働きを担っています。マタイ28:18-20
 教会はイエス・キリストを伝え、信じる人たちにバプテスマを授け、共にキリストの教えを学び、共に交わり生きる信仰者の集まりです。この交わりをキリストのからだと言います。 エペソ1:23「この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない」
 私達はイエス様を信じ、神様と教会の親しい交わりに招かれています。信仰とは神様と共に生きることです。そこに真の喜び、平安のある生活があるのです。また、信仰者は神と共に生きている信仰をもって、その強いお力の元に守られていることを悟りましょう。
2010年1月17日
 信じた通りになる
マタイ9:28-30「そしてイエスが家にはいられると、盲人たちがみもとにきたので、彼らに「わたしにそれができると信じるか」と言われた。彼らは言った、『主よ、信じます」。そこで、イエスは彼らの目にさわって言われた、「あなたがたの信仰どおり、あなたがたの身になるように」。 すると彼らの目が開かれた。」

 神様のお力が現されるとは、この「あなたがたの信仰どおり、あなたがたの身になるように」と言われたイエス様のお言葉にあるように思います。信じた通りになる、ここに信仰の力があると思えるのです。この御言を学びます。
1)たんなるイメージトレーニングではない。
 良い結果を心の中にイメージし、心に念ずることによって、その通りになると言うのではありません。良い結果をいつも心に思っていることは、明るく生きる良い方法だと思うのですが、ベターであってもベストではありません。
2)イエス様と共にある信仰によるのです。
 信じた通りになるこは、イエス様に対する信仰があるのです。自分の力に頼るのではなく、イエス様に頼り、イエス様と共に求める姿勢が大事なのです。イエス様と共に願いを信じるのです。イエス様のくびきを共にする生き方です。
3)イエス様の御心に従っていることが大事です。
 聖書の御言により、その願いが主の御心に沿ったことであること大事です。なぜなら、イエス様と共に求めるのですから、まず、イエス様の御心に沿ったことでなければなりません。1ヨハネ5:14
4)信じるのです。
 そして、最も重要なことがハッキリと信じることです。
@ 神様にはお出来になるとの信仰
 イエス様は「わたしにそれができると信じるか」と問われました。私達の主は、なんでもおできになると信じていることが重要です。
A 信じますと応答が重要です。
 そして、「主よ、信じます」とハッキリと告白しましょう。

 確かに、私達はこのような明確な信仰が無くても、日々に多くの恵みを受けています。しかし、主の測り知れないお力を知り、証する者となるために、もっと神様のお力が私達に現れることを求めましょう。このような明確な信仰を持つことにより、より充実した信仰生活を送りましょう。
2010年1月10日
 明確な信仰と神様のお力
イザヤ26:3、4「あなたは全き信仰をもってこころざしの堅固なものを守られる。彼はあなたに信頼しているからである。 とこしえに主に信頼せよ.主なる神はとこしえの岩だからである」

 信仰と信仰生活は神様のお力によるものであると認めれていることは、重要で幸いなことです。神様が喜ばれる信仰には三つの要素がありそうです。@神様の前に身を低くする。(悔い改め)A同時に、自分の弱さを認める。B神様の絶大なお力に信頼する。この信仰がその人を更に祝福します。日々にこの信仰の中に生きて、神様のお力があることは幸いなのです。その中にあることを認めましょう。
1)謙遜の中に信仰は強められる。
 神様は私達が高慢であったり、強情であるなら、何の力も現すことができません。イエス様が故郷に帰られたとき、人々は神様に対する高慢のゆえに、イエス様を大工の息子としか見ようとしなかったのです。その結果、マタイ13:58「そして彼らの不信仰のゆえに、そこでは力あるわざを、あまりなさらなかった」とあります。神様の前に身を低くする謙遜は、神様のお力が現されるためにとても重要な要素です。
2)弱さの中に神様は働かれます。
 更に、自分の弱さを自覚する者の上に働かれます。神様の言葉、2コリント12:9「わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。その後で、パウロは言いました、「それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう」
 信仰を持つ人の心の在り方は、神様の前に徹底的に身を低くし、自分の弱さを自覚していることが良いのです。自分の力を見ることなく(自分には力がないことを自覚して)、神様のお力に信頼する心の確固たる姿勢です。
3)神への明確な信仰
 その上で、神様のお力に対する明確な信仰が重要です。預言者イザヤの言葉、イザヤ26:4「とこしえに主に信頼せよ.主なる神はとこしえの岩だからである」神様の偉大なお力に対する確信と信頼です。神様には不可能はない、神様は確かな導きを常に与えてくださる。
 自己に頼らない神様への明確な信仰があるとき、神様は最善のお力をもって私達の上に働いて下さり、私達に主にある真の自由を与えてくれます。何ものにも束縛されない、主にある安心と確信をいただけます。私達は揺れ動かない土台の上に日々あるのです。これが信仰ではないでしょうか。
2010年1月3日
 神のお力を求める一年を
2コリント2:4、5
「そして、わたしの言葉もわたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのである。それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためであった。」


 2010年が始まりました。毎日が新鮮な一日、日々に新しく成長することを信じていますが、お正月にはやはり一年のテーマを持ちましょう。それぞれにビジョン、目標があるでしょうが、教会のテーマとして「神の力を求める」としました。信仰生活に神様のお力を意識し、実生活により良い変化を期待するのです。

 実に、聖書の信仰は、神様のお力によって始まり、信仰生活においても神様のお力の現れを求めるものなのです。もし、神様のお力でないなら、それは人の知恵や考え、力から出たものであり、この世の出来事と変わりません。そして、この世のものと同じように、永遠につづかず、いつか朽ち果ててしまいます。それは神様の栄光にいたらないのです。
 神様のお力の現れとは、聖書はどのように語っているのでしょうか?それはイエス・キリストに向かわせる、私達の内にある聖霊様の働きと言います。
1)悟りの霊です。ヨハネ14:26
2)キリストを証する霊です。ヨハネ15:26
3)キリストに栄光を得させる霊です。ヨハネ16:14
4)罪と義とさばきについて、人の目を開く霊です。ヨハネ16:8
5)人の心を秀でたものにする霊です。ガラテヤ5:22
 聖霊様は、私達の人格を整え、信仰者としてより良い存在となるように働いて下さいます。この新しい変化の素晴らしさを体験するのが信仰者です。
 このお力の現れの結果、私達の必要は満たされ、周りの人間関係は改善され、私達の内の思いにも、喜び、平安、感謝の思いが満ちあふれてきます。私達は、この神様のお力が現れるために、シンプルに、1)イエス・キリストを熱く信じ、2)その教えに従い、3)聖霊様のお働きに協力しましょう。神様のお力をこの身に感じる一年としなければなりません。