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 2011年12月4日 説教要旨
  人間関係の黄金律
マタイ7:12「だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である」

 この言葉は、人間関係における黄金律と呼ばれている。人間関係を良好にする秘訣であると言うのです。 その通りで、わたしたちが相手の立場になり、自分ならこうしてほしいと望んでいる事を、相手にするなら、相手は喜び、関係は非常に良くなるのです。 奥さんが疲れていたら、その事を思い炊事をしてあげ、布団をひいてあげるなら、奥さんは喜びます。きっと、夫婦の関係はいい感じになります。わたしたちはこの聖書の言葉に従って、人との関係ではこのことを忘れずに実践すれば良いのです。

 しかし、それができていないのです。実践しようとする気が無い、したくない、できないといろいろと理由をあげて、自己を中心に行動して不和が満ちています。

 イエス様は、「だから」と言って、今までの話の続きとして語られています。今まで、イエス様はわたしたちの心の性質、自分の姿を教え、正しい心のために求めなさいと良い報いがあると教えてくださいました。 思い返さなければなりません。わたしたちの救いはどこにあり、自分はどう言う者であって、救われているか?わたしたちが神様の素晴らしさを知るなら、イエス様のお力を信じ、彼の救いの道に信頼するなら、この戒めに従う道も明らかにされてきます。次のことが信仰者に問われます。

1)イエス様を知ることを求めていますか?
2)あなたはどう言う者ですか?
3)どれほどの恵みを受けていますか?
そして、あなたの隣人もあなたと同じ者です。罪深い、神様の前に哀れな者で、神様の救いを必要としている、同情を受けるべき愛すべき人です。わたしたちが自己を中心に考えることから解放され、あなたと隣人に対する神様の愛を喜びとするなら、あなたはこの戒めを行う者となるはずなのです。
 2011年11月27日 説教要旨
  求めよ
マタイ7:7-8「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。 すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである」

 わたしたちは非常に確かなこの約束を受けています。「求めよ、そうすれば、与えられる」。わたしたちの未来は、豊な恵みに、保証されているはずなのです。 ところ多くの信仰者は勘違いして、何でも求めるものは与えられると考えて、自分の願いがかなえられないで失望するのです。 何が与えられるのでしょうか? それは、今までイエス様が教えてこられた話から、イエス様が用意して下さっている最高の恵みが、何でも与えられると約束しているのです。

1)決して、肉の欲を満たすものではないようです。
ローマ8:5「肉の思いは死である」とあって、欲望に支配された願いを聞かれることはないのです。神様はわざわざご自分の子が、神様から離れ、死に向かう道に進ませようとはしません。

2)そうではなく、霊的なものです。
ローマ8:5後半「霊の思いは、いのちと平安である」霊的な事がら、信仰的、イエス様の推奨される賜物が最高のものであって、これを求めることをイエスさまは願われています。
 そこで、信仰者である私達に、「あなたはこの霊的なもの、最高の賜物を熱心に求めているか」と言うのです。
 神様は熱心に求めないから与えられないと言います。問題は、私達がこの恵みの必要を深く自覚して、熱心になっていつも求めているか?と言うことなのです。だから、次の質問を私達は問われています。 
 A) あなたは自分が霊的な事がらに欠けていることを悲しみ、霊的に貧しい者であることを嘆いているか? 信仰の無いこと、愛の無いこと、平安、喜びの無いこと、御霊の実と言われるものがないこと、マタイ5章からイエス様が言われた性質を持たないことを悲しみ嘆いているかの問いです。
 B) イエス様にはその一切の恵み満たすことができると信じているか?
私達はイエス様が言われる恵みを目標にして信仰生活を送っているでしょうか?そして、その恵みを熱心に求めているでしょうか?もし、求め続けるなら、必ず、イエス様は満たすと約束して下さっているのです。信仰の道を進みましょう。
2011年11月20日 説教要旨
  人をさばくな
マタイ7:1−2「人をさばくな。自分がさばかれないためである。 あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう」

 「さばく」とは、正誤を分けて、相手に当てはめることです。「あなたは間違っている」と言うなら、それはさばいていることになります。 私達の日常生活でも、家庭等の親しい間柄では、お互にさばきあうことは多いように思います。兄弟、夫婦、親子の間の言い合いなどがあります。

 しかし、すべての「さばき」をしてはいけないと聖書は教えていないようです。この後のマタイ7:6には「聖なるものを犬にやるな」と、イエス様は悔い改めず、聞こうとしない者を犬と軽蔑した言葉を使いました。これはさばいています。 また、聖書は、国のさばく権威を認めています。また、教会のさばく権威も認めています。しかし、これらは秩序を正しく守るためであったり、建徳的、建設的なもの、愛のある行為の場合のようです。
 私達は間違った裁きをしてはいけないと命令されているのです。

 では、この悪いさばく行為とは具体的にどう言うことなのでしょうか。それは、自分と他者を意識する行為です。自分を高めようとする高慢の心から出ている時、相手を低めようとするさばきです。 言い争いはこの心が支配しています。これは悪いさばきです。
 熟慮しない、感情的な、間違ったさばきがあります。相手の立場を考えず、同情の心もなく、言い訳を聞こうとしません。しかも偏見でさばきます。 これらは人の悪い心から出て来る、さばきの心なのです。

 このようなさばくことをしているなら、イエス様は同じように神様にさばかれると警告されたのです。この神様のさばきを恐れよと言うのです。地上においても、天上においても、信仰者へのさばきはあるのです。 わたしたちはまず、自分自身の罪の心を吟味し、自分の内から罪を取り除かなければなりません。そうするなら、謙遜で、同情心を持って、正しい愛のさばきができるようになります。そのさばきは相手を高めるものとなることでしょう。
2011年11月13日 説教要旨
  信仰増進
マタイ6:33「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」

 信仰を増してほしいと願うのは、信仰者の思いです。
イエス様の弟子が、教えを聞いて「わたしたちの信仰を増して下さい」(ルカ17:5)と主に願いました。 なぜなら、イエス様の教えがあまりに程度が高く、このままではできないと思ったからだと思うのです。

 それに対して、イエス様の答えは小さな信仰にも力がある事を伝え、僕の生き方を伝えました。これはどう言う意味だろう?と思ったことでしょう。 イエス様は信仰の成長は、主の僕として忠実に生きる時に、与えられる賜物であることを教えられたと信じます。(ルカ17章)

 イエス様は日常生活の事がらに思いわずらう信仰者に「信仰の薄い者たち」と叱責されました。信仰の薄さ、弱さ、足らなさは、わたしたちの日常生活において主の教えに従えない形で現れます、また、思いわずらう形で現れます。わたしたちは信仰を増していただかなければならないのです。

1)それは神様の業です。
 自分の力で信仰を受け、信仰を増すと考えるのは間違いです。パウロは「成長させて下さるのは神である」と言い、また、「それ(信仰)は、あなたがた自身からでたものではなく、神の賜物である」と言われました。
2)世の人とは全く違った者に生まれたことを自覚する。
 神様を信じ、神様に導かれ、永遠の命を受けた多くの恵みを自覚して、世の人とは違った歩みをすることを思い返しましょう。
3)神様に信頼しましょう。
 「あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとく必要であることをご存じである」
4)神様に目を向けることに熱心になりましょう。
 「まず神の国と神の義とを求めなさい」マタイ6:33 困難を覚える生活を経験するときがあります。その時こそ、信仰によって生きる証のチャンスで、思いわずらわず、主に信頼し、悩みをお委ねして平安をもって、純粋にイエス様に従う生活実践のときです。その時、信仰を増進して下さるのです。思い煩わなくなります。
2011年11月6日 説教要旨
  思い煩わない信仰生活
マタイ6:25「何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか」

 イエス様の教えは深いと思わされる。何度読んでも分かりにくいときがありますが、少し理解が深まり光が見えて来るととても励まされます。

 ここで、イエス様は自分の命のことで、自分の体のことで思い煩うなと言われました。わたしたちは普段、食べ物や着物で考え込むことがありますが、命とからだのことで思い煩うなと言われました。当時は、衣食に人々の関心は向けられていたようです。そしてもっと大切なものとして、命は食物にまさり、からだは着物にまさっているではないかと付け加えられました。しかし、命と身体においても思い煩うなと言われています。 聖書のピリピ4:6「何事も思い煩ってはならない」とあります。

 わたしたちは日常生活に思い煩うことがでてきます。マルタがイエス様と弟子たちのための接待に心を配り、思い煩ったように、決して悪い行為としてではなくても起こることがあります。しかし、イエス様はそのよい行為に見えた接待の思い煩いをもやさしく叱責されました。やはり、思い煩いはよくないと言われたのです。

 信仰を持つ者は、神様の貴い恵みにあずかった者です。それは、わたしたちの誕生と人生においても確かな保証をあたえてくれるものであるのです。 イエス様は、取るに足りない空の鳥と野の花の例をあげて、神様はこれらをも養い、着飾っていると教え、人には尚更よくして下さっていると言われた。 そして、あなたがたはこの神様の神様の愛と確かな導きを信じているかと問われているように思えるのです。だから、マタイ6:30、31「ああ、信仰の薄い者たちよ」と言われ。思いわずらうなと続けて命じられました。

 神様は人に命を与えられる方であり、ならば、その者を育て養うことは当たり前であるとの聖書の教えを思い出します。ローマ8:32 わたしたちは神様に対する確かな信仰をもって、イエス様の導きに従い、この世の物に心が支配され、思い煩う結果にならないように注意しましょう。 悩みに沈むことがないように、感情的になり、間違った行為をすることがないように、何よりも神様とその恵みが頭と心から忘れ去られることがないようにしましょう。神様はわたしたちが主に信頼して、信仰と平安の中を生きることを願われているのです。
2011年10月30日 説教要旨
  神か富か
マタイ6:24「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」

 諺に「二兎追うもの一兎も獲ず」とあります。二つの目標を持って成し遂げることは難しい、結果的に一つさえ手に入れることができない、無益となることを教えていますが、。このことは、信仰生活において同じように言われています。
 わたしたちはイエス・キリストを主と信じて、神様に仕える道を歩み始めた者で、この決心は、主に仕える歩みであることは良く分かっているつもりです。

 しかし、同時に、それが非常に困難であることを分かってきました。
もう一人の主人が心の中にいることに気づかされるのです。それがこの世の富を愛する心で、気づかずに、この世の視点、富の視点に立つことがあるのです。イエス様はまず、「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない」とはっきりと言われました。神様以外に主とするものがあってはいけない、心を占有するものがあってはいけないと言われたのです。

 もし、二つの主を目標として持つなら、一方を愛し、親しみ、他方を憎み、うとんじるようになると言われたのです。続けて「あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」と具体的に指摘されました。
神に仕えようとする者が、この世の富に仕える心を持つなら、この世を愛し親しむようになり、神様を憎み、うとんじるようになると言われたのです。
茨の中にまかれた種のように、実をならすに至らないのです。キリストとその教えを嫌い、教会の交わりから離れて行くようになる危険がとてもあるのです。
2テモテ4:10「デマスはこの世を愛し、わたしを捨ててテサロニケに行ってしまい、クレケンスはガラテヤに、テトスはダルマテヤに行った」パウロのまわりにも起こっていました。

 わたしたちは熱心に神様に仕えなければなりません。そこに真の祝福がある事を悟らなければなりません。この世の物に対する執着は捨てなければなりません
有名な説教家ロイドジョンズが言っています。<信仰者の間の恵みを受ける違いはあまりに大きい。それは、彼らの主に対する姿勢からである>と言っているのです。わたしたちは神に仕える道を熱心に進むことを思いつづけましょう。主に対しては幼子のように、純粋な心で従わなければなりません。
2011年10月23日 説教要旨
  内なる光 知性
マタイ6:22-23 「目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。 しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう」

 人間の心の働きには知性と感情と意志があると言われている。現代は感情に流されている時代ではないだろうか。十分な知識と学びによって計画を立てると言うよりも、感覚に頼って選択し人生を歩いている。
 どうも、人はいろいろな情に征服されている。欲望、感情、願望・・・知的と言うより感情的、計画的と言うより刹那的、客観的と言うより主観的になりがちだと思う。しかし、その故に多くの失敗をしてしまう。後悔するが、それでも悔い改めない。

 イエス様は目を身体の明かりと言い、目が澄んでおれば、全身も明るいと言われる。目は外界から光を受けて正しい判断をする。このことは知性、正しい事を判断する能力によって、イエス・キリストから学び、自分の知性とするように言われるのだ。澄んでおればとは、一つであると言う意味で、疑う事なく、二心なく、熱心に教えを学び、受けいれる事を教えている。
 明るい知性をうけるためにどうしたらよいだろうか。
最短最良の方法は何か?

1)今までの生き方をすべて悔い改めて、イエス・キリストの救を信じ、キリストを主と告白し、従う決心をする。そして、キリストから真理の光を受ける。

2)新しい心を得るために、自分を喜んで捨てる。自分の知恵、知識、体験、自我・・・いっさい自分のものに頼らない。

3)聖書を通して、神様の教えをそのままに受けいれる。
 その中にある、深い教えを学び、自分のものとする。キリストの教えは心の目を光らせる。 その時、わたしたちの全身は明るいと言われるようになる。
迷い、不安、不信仰は一切消えて行き、代わりに信仰が強められ、平安、喜び、希望が与えられる。 そして、この知性によって、自分の内の感情をコントロールし、新しい行動によって受けるより高い感情(御霊の実)によって生きるようにする。どれほど喜ばしい事だろう。どれほどわたしたちはこの新しい生き方を望んでいるだろうか。
2011年10月16日 説教要旨
  天に宝をたくわえる生活
マタイ6:19−21「あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。 むしろ自分のため、虫が食わず、さびがつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。 あなたの宝のある所には、心もあるからである。」

 イエス様は、「地上に宝をたくわえるな」と命令されました。実に、これは新しい心をもって、新しい生活をせよとの勧めになります。 なぜなら、わたしたちは今まで地上の宝を望みとして、宝をたくわえる生活を望んできたからです。 しかし、イエス様は地上では「虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出す」と言われたのです。確かに、わたしたちがイエス様の下に行ったのは、このような生活の結果、空しさ、悲しさ、罪に汚れ救われていない自分を見いだして、救われるためにイエス様の下に行きました。

 しかし、この地上のことを望む心は、信仰を持ってからも、自分の内にくすぶりつつけていて、神様の恵みが見えない生活を送っているのではないでしょうか。
1ヨハネ2:15「世と世にあるものとを、愛してはいけない。もし、世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない」と言われているのです。
変わらない神様の恵み、聖霊の賜物を受けて生活していると言うより、自分の思いの中に色あせる思いをもって生きている部分があるのではないでしょうか。

 そこで、イエス様は「自分のために」天に宝をたくわえなさいと言われます。
神様を見て、神様に望みを持つ生活をするように言うのです。もっとも大切なこととしてイエス様の教えに従いなさいと言うのです。
あなたの心がどこにあるか、「あなたの宝のある所には、心もあるからである」と言われいます。

 しかし、今つくづく思うのです。天に宝をたくわえる生活は、今まで学んだ一切を行う生活であって、全く新しい生活だと言うことです。自分を捨てないとできません。キリストを第一とする心に新しくされ、喜んで教えに従える心こそが、求められる生活なのです。日常生活に如何に自分中心な心が多く、イエス様のお心から遠くある事を覚えます。主よ、天に宝をたくわえることを教えてください。
2011年10月2日 説教要旨
  自分を捨てる
ピリピ2:5−8「キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。 キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」

 この聖句は、キリストがご自分を低くして、ご自分の立場を捨て、死に至るまで僕として従順に歩まれたこと、わたしたちも同じ思いを持つように言っています。 クリスチャンのとても大きな目標は、キリストのように自由の心で自分を捨てて生きることです。もっとも信仰者として高いも目標と言えると思われます。

 マタイ5:38−42には、大変困難な教えをイエス様は命令されました。「悪人に手向かうな」「右の頬を打つなら、他の頬も向けてやりなさい」「訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい」「一マイル行かせようとするなら、二マイル行きなさい」「求めるものには与え、借りようとする者を断るな」こんなことをしたら身が滅ぶ、破産してしまうと心配します。

 しかし、これらはただ機械的にそのままに従えと言うのではありません。そうなれば、新約聖書のパリサイ人になります。これらは心を学び、そしてその意味においてしたがえと言われるのです。それは古い自分、自己中心を捨てよと言うのです。確かに、自分を捨てなければ、これらの言葉に従うことはできません。 その行動の意味を知って、キリストを証しする者として従うのです。また、真に愛することとして従うのです。

 イエス様もご自分を捨てることの大切な意味を知って、父の御心に従って十字架に死を受け入れられました。そして、聖句はその故に高くされ、最高の名を賜わったとあります。自分を捨てるならどんなことが起るでしょうか。
1)聖霊の宮として、神様が自由に働かれます。
 自分の内に罪をもつ事がなくなり、聖霊を悲しませることなく、聖霊様が活発に働いて下るでしょう。聖霊様によってなすべきことに導かれ、恵みに導かれます。
2)新しい心となる
 今までになかった心を経験させられ、そして、罪人を義人に造り変えて下さるのです。神様の第一目的、心を新しくすることが完成に進みます。
3)百倍の恵みを受けるのです。
マタイ13:8「ほかの種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった」捨てたいものを百倍にして受けます。
2011年9月25日 説教要旨
  主に従う生活 <罪との戦い>
マタイ5:48「それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」
  わたしたちがイエス様の言われることに完全に従う生活ができるなら、信仰生活の目標ですが、わたしたちは完全な者になると言えるでしょう。

第一に、神様を心から愛する生活です。
 神様を礼拝することを第一にし、日曜の礼拝を心からすすんで守り、日常生活においても神様の言葉を愛し、祈りの生活をします。何をするにも、信仰によって判断し、イエス様が喜ばれることを第一にすることを喜びます。

第二に、隣人を愛する。この事は、生活における戒めを守ることです。教会の中で、家族の中で、仕事場で、学校で、信仰によって自分よりも他者を優先すること、他者の心を大切にし、相手の利害を優先する性格になることです。
 しかし、この愛は、わたしたちの心になかったものです。だから、肉の思いは猛烈に反対するでしょう、自分を愛する心は、いとも簡単にこのイエス様の教えを破ってしまいます。それでも、主の教えに従おう賭する時、信仰者の激しい罪との戦いが起こります。罪は力があり、奥深く心を支配しています。もし罪に屈服するなら、人はイエス様の御心から遠く離れて生きることになり、神様の恵みを味わうことがなく、神の命を失っています。この恐ろしい罪の性質を誰もみな持っているのです。ピリピ2:21「人はみな、自分のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことは求めていない」

 信仰とは、この罪とその性質からわたしたちを救い、神の命を受けるものとなり、イエス様の御心に従う生活ができるようにするものなのです。
あなたは、この義に導こうとする神様の御心を信じているでしょうか? そして、イエス・キリストを信じて、従おうとしていますか? ならば、わたしたちに必要なことは次のことです。
 1)自分を打ち叩いてでも、従おうとする決意
コリント人への第一の手紙 / 9章 27節「すなわち、自分のからだを打ちたたいて服従させるのである。」 わたしたちはこの罪との戦いを避けることはできないのです。罪の力、その巧妙さ、奥深さを、自分の力のなさを経験されましたか。そして主に頼らざるを得ないことを知りましたか。戦いをあきらめてはいけません。
 2)主に頼り続ける時に勝利があります。
結論は、信仰によって主に信頼し、主に従いつづけ、罪に戦い続けなければならないのです。その時、主は勝利を与えて下さるのです。
2011年9月18日 説教要旨
  律法と信仰(律法の大切さ)
マタイ5:17、18「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。 よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである」

 律法と呼ばれる神様からの人への命令は、人が律法に従えないことを悟り、イエス様を信じるようになるためだけにあると理解するときがありました。そして、その時、律法について特に大事であるとは思わなかったのです。 しかし、今日の聖句を通して教えられることは、律法はわたしたちをキリストに導くためにあるだけではなく、後の信仰生活においての大切な目標なんだと言うことです。聖書に書かれてある十戒や、道徳上の教えについて、また、イエス様の教えを心にしっかりと貯え、生活の目標にしなければならないことです。

1)律法の意味を学ぶ
 その為には、神様の命令は形式的に従うことを求めているのではなく、心で正しく理解しなければなりません。例えば、21節から「殺してはならない」と言う言い伝えがある事について、イエス様は「怒る者」「ばかと言う者」争いの原因についても、罪であり裁きがあると言われました。心から出て来る罪に少しでも従おうとするなら、神様のさばきがあると言われたのです。律法の戒めは、心の段階にまで問いかけられているのです。律法は心が正しくなることを求めているのです。

2)律法はわたしたちの進む方向を教えてくれる。
 神様の律法は、わたしたちがどの方向へ進むべきかを教えてくれるのです。
第一に、正しく生きることについて、自分にはその力がなく、自分には頼れないことを教えてくれます。
第二に、イエス・キリストの救いにしか、望みがないことを教えてくれます。
第三に、信仰により心を新しくされることによって、律法の教えを進んで全うする道を歩むことを進めてくれます。
 わたしたちは、旧約聖書の中にある十戒や道徳に関する律法をただしく理解して、心に正しく従う目標としてとどめていなければなりません。
 また、その事は、イエス・キリストの愛の律法をいつも心にとどめておくことにほかなりません。イエス・キリストに対する信仰によって、律法に関するこれらを受け入れ、神様の戒めを喜び、イエス様のように従っていける者になりたいものです。心から律法を理解し、喜んで従う信仰者の生き方こそが、神様の栄光を現すことであり、信仰者の祝福となります。神様の教えを忘れないようにしましょう。
2011年9月4日 説教要旨
  地の塩
マタイによる福音書 / 5章 13-16節「あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。」

 地の塩、世の光・・・なんと素晴らしいネーミングだと思う。イエス様が「あなたがたは地の塩」と言って下さった感謝は、イエス様に対する知識も行いもない時に、ただ従ってくる弟子たちに向かって語りかけられたことがあげられる。
 私達はどんなに不十分であっても、「地の塩」と命名して下さる。其の意味は何だろうか?

1)信仰者は世に役立つ者である
 イエス様は信仰者は世に役立つと言われたのです。「地」とは、この地、この世界のことで、その地であなたがたはとても有用な者となると言われたのです。

2)世と違いがあって役立つ者である。
 その有用さは、どのように現されるか?信仰者として世の考えとの違いによって生まれるのです。信仰者の特徴によって、世の人との違いによって、この世に役立つと言われています。あなたが信仰者としてまっすぐに生きるなら、それだけで良い働きとなると言われているのです。

3)塩のように役立つのである。
 その違いによる働きは何か?塩の優れた性質を私達に当てはめられました。
 A)腐敗防止
 塩の働きは、昔から物を腐らせない性質があります。この世の中が、罪に満ち、神様から離れた歩みをしている中で、塩は罪を増やさず、蔓延を押しとどめるのです。キリスト者は、その人がそこに居るだけで、皆の心を悪から遠ざけるのです。
 B)味わい深さがあります。
 塩は少量でも、なくてならない味があり、栄養素です。信仰者がキリストにまっすぐに従い進むなら、世の人がうらやみ、あのようになりたいと思う味わいが生まれるのです。美穂姉はテレビで「大草原の小さな家」を見て、あのような家族を望んだと証しています。
 地の塩の働きをすることによって、何がうまれるのでしょうか。私達が経験したように、地上に救いの喜びがうまれ、人々がもっと多く救われることを主は望んでおられるのです。この目標はなまぬるい信仰生活には期待できません。しかし、私達が主に信頼して、心から従う生活を送るなら、私達が実現できる希望なのです。
2011年8月28日 説教要旨
キリストの教え幸福6 義のために迫害されている人
マタイ5:9「義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである。天国は彼らのものである」

 義のために、言い換えればキリストのために迫害されてきた人は、さいわいであると言います。このことは、もっとも真実なキリスト者の証明であるのです。 私達の日常はこの反対を生きているのではないでしょうか。 自分のために生き、できれば信仰のための迫害は避けたいと願っているのではないでしょうか。周りの声を気にして、義の道を曲げ、迫害のない道を選んでいないでしょうか。 確かに、信仰に熱心でなければこの迫害を受けませんが、キリストに熱心であろうとするなら、何かの迫害は覚悟しなければなりません。

 迫害はどうしてあるのでしょうか。
1)周りの人の思いとは違う道を歩むからです。 迫害は、信仰者の歩みが、周りの人の歩みと違っているからです。世の流れに同調し、妥協しないからです。
2)キリストを第一に愛するからです。
マタイ10:37「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこ娘を愛する者は、わたしにふさわしくない」とイエス様は言われています。 私達はキリストを第一に愛するから、迫害を受けるのです。なによりもまず神を愛することが信仰であるのです。世はそのことを嫌うのです。

 迫害を受ける人は、
1) イエス・キリストを主と告白している人です。
2) イエス・キリストの教えに従う人です。
しかし、イエス様の教えは、迫害と主の祝福が共にあると教えます。 マタイ10:29、30「だれでもわたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、もしくは畑を捨てた者は、必ずその百倍を受ける。すなわち、今この時代では、家、兄弟、姉妹、母、子および畑を迫害と共にうけ・・・」
3)天国を慕っている人です。「天国は彼らのものです」とありますが、迫害に耐える人は、イエス様が招かれている天国を目ざしている人です。そういう人が迫害を耐える人です。 迫害は嫌なものです。しかし、義のために迫害を受けることは、私達は正しい道を歩んでいる証明です。その時、迫害よりもキリストとその祝福を見て忍耐します。
2011年8月14日 説教要旨
 キリストの教え幸福4 あわれみ
マタイ5:7「あわれみ深い人たちは、さいわいである。彼らはあわれみを受けるであろう」

 あわれみはとても大切な信仰者の性質と教えられます。イエス様は言われました、「律法の中でもっとも重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。・・・これも見のがしてはならない」マタイ23:23「あわれみを行わなかった者に対しては、仮借のないさばきが下される」ヤコブ2:13
 聖書は、あわれみは見のがしてはならない、あわれみを行わないものにはさばきが下されると警告します。あわれみは信仰者が当然に行使するものなのです。 あわれみは単に感情ではなく、行いです。あわれみは愛の一つの形で、特に悲惨な人、困っている人に対する同情であり、その行いなのです。聖書は飢えている者に言葉だけでどうして意味があろうと教えます。あわれみは同情することと共に、行いが伴うものなのです。自分の犠牲を思わないこゝろであり、ささげることを喜ぶこゝろです。

 あわれみは信仰者の性質となるべきものです。言い換えるなら、あわれみがあるかどうかで、私達は自分の信仰者の成長を吟味することができ、時には、救を吟味させられます。

1)神様からあわれみを受けた。
信仰者は、神様から大きなあわれみを受け、あわれみの中に生かされていることを自覚しています。自分の罪深さ、自分の内には良きものがないことを悟らされ、神様の恵みに頼っていることを自覚しているのです。罪のゆるし、罪からの解放、永遠の命、どれをとっても神様のあわれみだけなのです。

2)あわれみを行うものとなる。
自分の内に守るべき良いものがないと自覚し、神のあわれみにより救われたと自覚する者は、自分を見なくなったものです。いつも神様の恵みを喜び、さらに期待します。そして、自分ではなく他者に対する愛が豊かにされます。 困っている人、苦しんでいる人を見たなら、放っておけなくなるのです。相手に関わりなく、損得を思わず、助けたいと願うこゝろを持つのです。これは非常に大切な、神様のご性質です。

3)あわれみを受ける。
 あわれみ深いものは、さいわいであると言われ、更にあわれみを受けると言います。あわれみ深いものは、すでにあわれみを受けているのであり、更に、神様のあわれみを受けるのです。どんな時にも、神様のあわれみの中にあり、あわれみを受けて救われるのです。あわれみ深くある事を求めましょう。あわれみを行う機会があるなら、報いを思わず、進んで、喜んで行いましょう。
2011年8月7日 説教要旨
   義に飢え渇く
マタイ5:6「義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう」
 この聖句は、信仰者になった私達の生活の姿勢を180度変えてくれて、安心のある生き方を教えてくれています。それまでは、何を選択し、何を大切にしたら良いのか、こゝろは迷い、揺れ動くことは多く、不安や空しさを感じる時を多く持ちました。特に、人と関わりのある場面においてです。 イエス・キリストを信じる者となり、キリストの教えに従う中に、大きな変化を経験することができましたが、それがこのお言からなのです。

 私の理解は、何よりも先に、正しいことを求めるこゝろが大事であり、そうすることにより、様々な迷いから解放され、結果として良い人間関係、良い結果に至ると信じています。  それまでは、人と良い関係を持ちたいために(人によく思われたいと言う自分の願いのため)、人の気持を気遣ってサービスし、ストレス一杯の生活をすることが多くあったのです。しかし、その結果は決して思いどおりではなく、今度は「こんなにしてあげたのに」と考えるのです。ある人が、自分の幸福を直接求めても、幸福にはなれないと言いました。その通りです。

 イエス・キリストは言われました、「義に飢えかわいている人たちは、さいわいである」。私達は自分の幸福のために、何かをすることを求めるよりも、義、正しいことを熱心に求める時に、幸福がやってくることを教えられているのです。 そこには、次のことが含まれています。

1)自分の罪、悪がある事を認める。
 義を求めるのは、自分の内に罪がある事を自覚するからです。イエス様は私達が正しいこゝろの思いから離れ、悪に満ちた歩みをしていることを教えます。 そして、その罪を自覚するようにまず言われているのです。

2)義(正しさ)を求めるものになるように言われます。
 人生の大問題として、義を追い求める者になるように、いつまでも止めることなく義を求めるように言われるのです。そこに幸いがあると言われます。

3)キリストを信じることから。
まず、罪を自覚しているなら、罪からの赦しのために、救主イエス・キリストを信 じなければなりません。キリストはあなたの罪の身代わりに死なれました。

4)生活の中に、さらに罪からはなれることを心から求める。この心の姿勢こそ、人を幸福にする道であると言われます。そうするなら、「飽き足りるようになるであろう」こゝろが神様の恵みに満たされる経験ができるのです。
2011年7月31日 説教要旨
  柔和と平和
マタイ5:5「柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう」
マタイ5:9「平和をつくり出す人たちは、さいわいである。彼らは神の子と呼ばれるであろう」

 イエス様の教えは、すべてあなたが変わることを教えています。他の人に当てはめるのではなく、あなたが変わることによって、あなたが恵みの生活を受けるように言うのです。 その方法は明らかです。「心の貧しい人たちはさいわい」「悲しんでいる人たちはさいわい」とあるように、自分の価値のなさを知って、熱心に求め、イエス・キリストへの信仰、深い信頼に至ることから始まるのです。

 その結果、人は新しい性質を持つようになります。自分の知識や経験に全く頼らない、自分のプライドを見ない、キリストご自身に信頼し、彼の教え、導きをのみ見て正しい判断ができる生き方をするようになるのです。
 その性質を聖書は「柔和」と呼んでいます。その人は、人との関係で正しい選択をすることができるようになります。なぜなら、自分を傷つけられたと思うことが無くなり、行動の規範は常にキリストの教えにつながっているからです。

 私達の日常生活上の争いは、精神的苦痛の原因となります。それは不和、怒り、自己否定など生み出し、自分のプライドが傷つけられることから来ます。しかし、イエス・キリストによって新しい心を持ち、新しい生き方をしようとする者にキリストが期待するのは、自分が傷つかずに他者を気遣う柔和さを持つ者になることです。神様が聖いと言われる性質の最初であると思うのです。
 そして、この性質は当然のこことして平和をもたらすのです。自分の内にある平和です。神様との平和、さらには自分自身が迷い苦しむことからの解放、悪い感情からの解放である平和を得るのです。つづいて、隣人との平和を見いだすようになるのです。争いの原因が消滅します。自分を弁護しようとしないなら、他者との良い関係を築くのは容易です。

 この道は容易な道でないことも明らかです。多くの信仰者は道を踏み間違い、違う道に迷うことも多く、イエス様や多くの主にある預言者の道を見いだせない者も多いように思います。しかし、何度となく失敗の経験をしながら、信仰者は柔和さに成長するのです。信仰者は必ず道を見いだし、平和をつくり出す者になることを信じます。マタイ7:14「命にいたる門は狭く、その道は狭い」 キリストの知識と忍耐が必要ですが、この道はキリストのよって豊かな恵みが備えられている道なのです。
2011年7月24日 説教要旨 
  自分に頼らず、キリストに信頼する
 マタイ5:3、4「心の貧しい人たちは、さいわいである。天国は彼らのものである。 悲しんでいる人たちは、さいわいである。彼らは慰められるであろう」
 
 キリストはハッキリと大胆に人の道を語りました。その毅然とした態度は、私達にイエス様の強いメッセージを感じるのです。

1)人は間違った考えに生きている。
 その一つが、人の考えや思いは、真理とはかけ離れ間違っていると言うメッセージです。人は幸福をどう考えているかと問われています。
 自分の喜びを大事にこと。
 人の評判を大事にすること。
 お金や物を大事にすること。
 自分の喜びの感情、評判、お金や物は人にとって大事なものです。しかし、もっと先に大事なものがあることを人は知らないのです。人は迷っているのです。

2)イエス様は、ご自分の教えに従う時に幸福があると言われました。
マタイ5章には八つの幸福の話があります。イエス様の考えがあり、こう言う者が幸福であると言われました。

3)信仰に導く初めの二つ
 「心の貧しい人たちは、さいわいである」
 「悲しんでいる人たちは、さいわいである」

 わたしたちは心の落胆と悲しみを嫌います。喜びこそが幸福と思います。しかし、イエス様は反対を言われたのです。
なぜなら、落胆と悲しみは、ただしく導かれるなら信仰へと私達を導きます。自分の考えではなく、キリストを信頼し、キリストの言葉に従う心を与えてくれます。だから、幸いであると言われました。

 私達は何かの悩みを持っているものですが、自分に落胆し悲しみを覚えている時はさいわいを見いだすチャンスなのです。なぜなら、その時こそ、イエス様を信じ、深く信頼し、信仰を持ち、信頼を強めることができるかもしれないのです。 聖書は「天国は彼らのもの」「彼らは慰められる」と言っています。自分ではなく、神様に信頼するとき、人からではなく、人にはできない、神様の祝福を受ける約束があるのです。私達は自分の殻の中にあるのではなく、神様に信頼して幸福を見いださなければならないのです。
2011年7月10日 説教要旨 
  罪に打ち勝つ恵みの生活
マタイ4:1−3「さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。 そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。 すると試みる者(悪魔)がきて言った」

 イエス様はバプテスマを受けられてから、まずされたことが、聖霊に導かれて荒野に向かい、四十日四十夜の断食と悪魔の誘惑に合われることでした。 どうして、イエス・キリストが悪魔の誘惑にあわなければならないのか?それはどうしてバプテスマを受けなければならないのか?と言う質問に重なります。 イエス様は「ただしいことをすることは、われわれに相応しいことです」と誘惑にも合われたのです。

 それは、人の生活には必ず悪魔の誘惑があり、罪への誘惑があるからです。イエス様は「あなたがたは、この世ではなやみがある」(ヨハネ16:33)と言われましたが、この世でどのように生きるかと問いかけて下さるのです。
 なやみがある中で、あなたはどのように罪から離れて、誘惑に打ち勝って生きて行けますか?その事を問いかけるように、イエス様は断食と空腹の中に悪魔の誘惑に合われました。

 しかし、罪に打ち勝つ信仰生活こそ、私達の恵みに満ちた生活であることを思うのです。イエス様が悪魔に打ち勝つと、悪魔はキリストから離れ去り、御使いたちがキリストに仕え、聖霊様に満たされたのです。 同じことが私達にも言えます。私達が罪に打ち勝つ生活が増えれば増えるほど、私達は聖霊様による力強い御力を受け、恵みの生活を歩む者になるです。ですから、罪の誘惑のある時、それは恵みの時でもあるのです。キリストは私達に悪魔の誘惑を受けた時、つまり罪の誘惑を受けた時、どのように誘惑に対処し、打ち勝つべきかを教えてくださいました。

1)御言を知る。
誘惑は常に、私達が正しいことについて曖昧な理解と態度をしている時にあります。もし、私達が神様の御言の意味を正しく、確かに知るなら、イエス様のように罪に対して戦うことができるのです。

2)罪を犯すことを恐れる。
罪と悪魔は、私達に甘い言葉で誘惑します。罪を犯すことが軽いことであると思わせようとします。私達は神様の御言の通りに、罪の報いは恐ろしいものであることをハッキリと知っていなければなりません。
2011年7月3日 説教要旨 
  キリストの紹介
ヨハネ1:33−34「 わたしはこの人を知らなかった。しかし、水でバプテスマを授けるようにと、わたしをおつかわしになったそのかたが、わたしに言われた、「ある人の上に、御霊が下ってとどまるのを見たら、その人こそは、御霊によってバプテスマを授けるかたである」。 わたしはそれを見たので、このかたこそ神の子であると、あかしをしたのである」」

 イエス・キリストほど持ち上げられ、落され、激動の歩みをされた人はいないでしょう。しかし、彼ほど心を揺り動かされなかった方もいないのです。 わたしたちも彼のような安定した歩みを願います。 彼は初め、バプテスマのヨハネによって紹介されました。

1)世の罪を取り除く神の子羊
 天からの示しによって、ヨハネは救主が来られることと、そのために悔い改めと水のバプテスマを授けていました。 人々が真にイエス・キリストを信じるために、人々の道の備えをしていたのです。 そしてキリストにお会いした時、「世の罪を取り除く神の子羊」と叫び、紹介したのです。 キリストの最も大切な使命と苦しみと喜びの合わさった紹介です。 キリストは十字架の苦しみの時、父の御心がなされるように祈り、従いました。

2)御霊によってバプテスマを授ける方
 悔い改めと水のバプテスマを教え、授けていたヨハネは、神の御霊によるバプテスマをする方がキリストであると紹介しました。 実に、信仰者の本質、救いの源、新しい命、新しい生き方は、このイエス・キリストから来ると宣言されたのです。 

3)正しいことを求めるキリスト
 そして、彼はまずヨハネから水のバプテスマを受けました。ヨハネは困惑したのですが、イエス様は言われました。 マタイ3:15「このように、すべての正しいことを成就するのは、われわれにふさわしいことである」と言われ、受けられました。すると天から御霊がはとのように下り、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」と声がしたのです。苦難や励まし、いろいろなことが彼を襲いますが、彼は動かされることはありませんでした。なぜなら、イエス・キリストはいつも父の御心を求め、父が喜ばれることを願い、正しいことをすることに心を向けていたからです。
2011年6月19日 説教要旨
  熱心さはキリスト者の特徴
黙示録3:19「すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい」
 
 ラオデキヤにある教会にイエス様は「なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう」と言われました。(16節)これは教会へのイエス様の非常に強い警告です。 神様は「なまぬるい」信仰生活を送るのを非常に嫌われています。 「なまぬるい」信仰生活とは、真面目に信仰の歩みをしようとする成長段階のことではなく、なまぬるく落ち着いていて、その中に「これでいいんだ」と安住しているのです。

 イエス様はどうして「なまぬるさ」に怒られるのか? それはご自身が犠牲を捧げられ、命と恵みを与えられた救を軽んじ、神とその恵みを求めることを止めているからであろうと思うのです。 信仰による救は、人の考えを遥かに越えて価値があり、力があり、わたしたちを熱心にするのに十分に尊いものだからです。 もし、その価値あるものを得ていないなら、得よと言います。
黙示録3:18「そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい」

 信仰は、「火で精錬された金」と表現される価値があり、罪と恥をおおう「白い衣」であり、神とその恵みを見えるようにする薬であると言います。

 わたしたちが熱心な信仰を得る方法は、なんでもイエス様が言われることを聞き従おうとすることです。19節「熱心になって悔い改めなさい」とあるように、今までの心を新しく代えて、イエス様の言葉に従おうとすることです。悔い改めて従うことこそが、わたしたちに最も必要な行動です。

 イエス様はいつも20節「わたしは戸の外に立って、たたいている」と言われるのです。イエス様を心に受け入れ、共に生きようとする人に、神の祝福が共にあるのです。

 キリストを求める熱心さは、キリスト者の性質でなければなりません。もし、自分の内に「なまぬるさ」を感じているなら、そこに留まりつづけてはいけません。クリスチャンはどんなことにおいても、イエス様に従おうとする者、どんなことよりもイエス様を一番にする者なのです。 以上です。
2011年6月12日 説教要旨
  キリストの門
黙示録3:7、8 「ヒラデルヒヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。「聖なる者、まことなる者、ダビデのかぎを持つ者、開けばだれにも閉じられることがなく、閉じればだれにも開かれることのない者が、次のように言われる。 わたしは、あなたのわざを知っている。見よ、わたしは、あなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた」

 門は新しい世界への入り口をさします。学校や企業にはいるには、試験があります。結婚はこれはと言う出会いが必要です。門を通ってその特別な世界に入っていくものです。
 イエス・キリストはご自分を「門」と呼ばれ、「鍵を持つ者」、ご自分だけが門を開け、閉じる権威があると言われました。このように言える方は神様だけです。イエス様の偉大さを思います。ノアの方舟の戸が閉じられるとき、「主は彼のうしろの戸を閉ざされた」とあります。イエス様が閉じられたのです。
 今はどう言うときでしょうか。今は門が開かれているときです。
「見よ、わたしは、あなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた」とあるとおりです。

1)救いの門
 ヨハネ10:8「わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう」 誰でも、今、イエス・キリストを信じ、救いの門を通るなら救われるのです。 2コリント6:2「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である」

2)伝道の門
 救いの門が開かれている以上、キリストは伝道の門も開かれているのです。 コリント人への第一の手紙 / 16章 8節[しかし五旬節までは、エペソに滞在するつもりだ。というのは、有力な働きの門がわたしのために大きく開かれている」

3)試練からの救出の門
 主に従う者に、イエス様は試練からの守りを約束してくれています。 黙示録3:10「忍耐についてのわたしの言葉をあなたが守ったから、わたしも、地上に住む者たちをためすために、全世界に臨もうとしている試練の時に、あなたを防ぎ守ろう」この門は、恐ろしい試練からの救出の門です。
 私達はもうキリストの救いの門をくぐったでしょうか。 伝道の門をたたいて前に進もうとしているでしょうか。救出の門を信じているでしょうか。キリストの門を素直に信じる時に、神様の祝福はあります。
2011年6月5日 説教要旨
 生きるとは
使徒行伝 / 2章 25〜26節「ダビデはイエスについてこう言っている、/『わたしは常に目の前に主を見た。主は、わたしが動かされないため、/わたしの右にいて下さるからである。それゆえ、わたしの心は楽しみ、/わたしの舌はよろこび歌った。わたしの肉体もまた、望みに生きるであろう。」

 東日本大震災は人々から多くのもの奪いました。現代社会は失望している人が多いように思います。こう言う時代だからこそ、「生きる」と言う言葉はとても大切であることが分かるし、希望を与えてくれるのです。黙示録3章のサルデスの教会に、イエス様は「あなたは、生きているのは名だけで、実は死んでいる」と厳しく戒めました。「死んでいる」とは、「生きる」の反対の言葉ですから、恐ろしい響きがあります。 イエス様がこれほどに厳しい言葉で伝えたのは、信仰者は「生きている」ことが、特権であり、特徴であるものだからです。彼らはそれを失っていたのです。

聖書には、「生きる」と言う言葉が出てきます。
 A) キリストの声を聞く者は生きる(ヨハネ5:25)、
 B) 信じる者は生きる(ヨハネ6:51、ローマ1:17)、
 C) キリストと共に歩む者は生きる(ローマ6:8)、
 D) そう言う人は望みに生きる(使徒2:26-26)と教えているのです。

 信仰とは、この約束を信じてイエス・キリストを信じ、従って行くことです。
朝日新聞の中で、長谷川と言う有名な俳人は、自分の師を持った時に、次のように考えたとありますす。 <習うと言うことは自分を捨てること> <いちいち違和感を持っていたら、何も変わらない。自分を捨て、飴山になりきってやれ> <大震災に飴山なら、どう対応するだろう。事あるごとに「師なら」と考えるのが長谷川の常だ>

 私達は生きるために、イエス・キリストを信じ、キリストを主、師と仰いで信仰生活を送っているのです。 イエス・キリストを信じ、その教えを聞き、従う信仰生活を送るなら、人は生きると約束されています。その時、神様は私達が生きていると言う証を下さるのです。生かされている恵みに満たして下さるのです。
2011年5月22日 説教要旨
 ただしく報いられるキリスト テアテラの教会(黙示録2:18−29)
黙示録2:23「こうしてすべての教会は、わたしが人の心の奥底までも探り知る者であることを悟るであろう。そしてわたしは、あなたがたひとりびとりのわざに応じて報いよう」 

 わたしを愛し、親しくして下さっている神が、日々の歩みを知られ、その苦悩を理解して下さっていると信じる時、またその時期も神様の最善のご計画の中にあると信じる時、私の心は深い安心を持ち、後ろの荒波を見ずに、今の苦悩を苦悩と思わずに前に進む明るい心になれます。

 イエス・キリストはそのような方です。 テアテラの教会に伝言を伝えたキリストは、ご自分を「燃える炎のような目と光り輝くしんちゅうのような足とを持った神の子が」とご説明されました。それは第一に、正しい目、しかも強い目を持つことを言われました。聖書はいつも神は人の心の一切見られていることを教えます。しかも熱い聖なる目で見られ、誰も、神から隠れることが出来ないのです。その目は、私達の気付かない心さえも見抜くと言うのです。

 エレミヤ17:9、10「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。 主であるわたしは心を探り、思いを試みる。おのおのに、その道にしたがい、その行いの実によって報いをするためである」」

 第二に、エレミヤも言うように、正しい認識の上に、正しい報いを与えると言います。上記、黙示録聖句には、「あなたがたにひとりびとりのわざに応じて報いよう」とあるように、正しく報われる神です。仕事場の良い上司は、まず部下をよく知ることが大事です。ひとりひとりをどれほど正しい目で評価できるか、そして、それにあった報いを与えるなら、部下の人たちは非常にやる気を与えられるのです。前向きな心を持つことができます。親が子供を良く知り、正しい報いを与える良い子育てと同じです。

 このような私達の主に、私達は全き信頼をし、一切の歩みをお委ねするなら、私達の心は軽くなり、主が示される希望を持ち、道を歩む力を受けるのです。また、時に厳しい報いを受けることがあったなら、私達は自分の歩みを振り返り、もし自分の内の罪に気付くなら、すぐに悔い改めて心を改め、主が示される安心の道に進むことができます。主が与えて下さる報いは、もっとも素晴らしいものであり、私達の心は清められて、信仰者としてもっとも安心と希望のある道を進むのです。
2011年5月15日 説教要旨
 純粋な信仰 ペルガモの教会(黙示録2:12−17)
ローマ12:2「あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである」

 信仰者は信仰があるだけでは十分でないことを教えられます。エペソの教会は「初めの愛」を失ったことが責められ、ペルガモの教会は「純粋さ」を失ったことを戒められています。信仰者にとって「純粋さ」「誠実さ」「忠実」はとても重要な性質です。信仰者は世に対しては寛容さを持って福音を伝えなければなりませんが、教会の中で罪に寛容であることは良くないのです。純粋な信仰生活は、最初の信仰をしっかりと持つことから始まります。

1)ハッキリとした悔い改め
 心の中に以前の生き方の罪がハッキリと自覚され、神を見て、ハッキリとして悔い改めの心が重要です。人はザアカイのように、ハッキリ神の姿を見る時に、心に真の悔い改めの変化が起こるのです。それは心に生き方を変えたいと言うハッキリとした決意となって現れます。

2)キリストに対する信仰
 そして、イエス・キリストをハッキリと主と告白する信仰が大事です。あなたは、「わたしは一生涯、いつまでもイエス様を主と信じ、従って参ります」と心に確信しておられるでしょうか。もしかすると、離れるかも知れないなどと不信仰な心のままではありませんか。そうであってはなりません。キリストをハッキリと告白して下さい。

3)純粋さを失う危険
 ペルガモの教会は、都会の多くの誘惑の中で、罪に寛容な教えがある一部の人たちによって広まる危険がありました。バラム教え、ニコライ宗の教えとあります。 有名なソロモン王も晩年、異邦の女性を迎え入れて、彼女たちにより偶像崇拝の罪をおかしたとあります。教会は罪に対しては注意深くないといけないのです。

4)純粋な信仰生活を願う
 私達は純粋であられたイエス・キリストを思い、罪のない、純粋で忠実な信仰生活を願うのです。
1コリント5:8「ゆえに、わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭りをしようではないか」
2011年5月8日 説教要旨
  母の日 確かな人生
ヨハネ黙示録2:9−10「わたしは、あなたの苦難や、貧しさを知っている(しかし実際は、あなたは富んでいるのだ)。・・・サタンの会堂に属する者たちにそしられていることも、わたしは知っている。あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない」

 クリスチャンの生きて行く道は決して試練のない生活ではありません。この聖句の教会はイエス様に「あなたの苦難や、貧しさを知っている」と言われました。日常生活が思いどおりにいかない、精一杯生きているのに周りの人からの非難があったり、生活は貧しいままであることはあるのです。しかし、信仰生活とは周りがどのように荒れていても、ペテロが荒海の中でイエス様のもとに歩もうとしたように、信仰によって主に守られ信仰の平安の中を歩み続けられることこそ信仰者の確かな生活なのです。

 そういう苦難の中でも、イエス様は続けて「あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない」と言われました。 母の日、頑張るお母さんにこの言葉を贈ります。「恐れてはならない」父親の立場から、母は本当に良く頑張っています。彼女は限られた時間の多くを、家族のため、特に子供たちにさきます。一所懸命に出産し、家事にはげみ、その上にある人は仕事も忙しいのです。多くの責任をその身に負い、心配事、思い煩いをすることは多いと想像するのです。だから、神様を信頼し、荷をお委ねして、恐れないでいてほしいのです。

 神様はその苦しみ、貧しさを知っていて下さっているからです。「わたしはあなたの苦難や、貧しさを知っている』9節とあります。神様に知られていることは、人にとってどれほどの励ましとなることでしょう。あなたの仕事の苦しさ、貧しさの不安、これらをすべて知って下さっているのです。それは正しく生きようとする者を励まします。私達の心は目の前のことに縛られて、神様のことを思い返すことが出来ないときがあっても、神様がすべてを知られ、親のように見守って下さっているのです。

 母の日は、お母さんの愛と頑張りに感謝をささげる日です。普段気付かず、忘れている感謝を表わす絶好のチャンスなのです。また、私達は全員、神様に知られ守られていることを認め、神様に心からの感謝を現しましょう。わたしたちの信仰生活は、人生の荒波の中にあっても、主に愛され、知られていることを知って、確かな歩みを続けるのです。
2011年4月24日 説教要旨
  教会と復活のキリスト
黙示録1:17-18「恐れるな。わたしは初めであり、終りであり、 また、生きている者である。わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。そして、死と黄泉とのかぎを持っている」
 イエス・キリストの復活は、とても大事な福音のわざです。復活は、キリストの十字架の死と同じ価値と意味を持つものとパウロは言いました。1コリント15:3

1)主の日 キリストの復活は教会では集会を持つ日として大切に定められました。日曜日です。神様は世界中が日曜日は休みとなり、信仰者が礼拝を持ちやすいように定めて下さっています。感謝です。私達は日曜日の礼拝を守り続けなければなりません。ヘブル10:24、25

2)教会と復活のキリスト
 A) 復活のキリストは、常に教会を見守り、御言葉をもって導かれています。ヨハネに語りかけたキリストは、七つの金の燭台(教会の象徴)の間にたち、教会の指導者に伝言するようにヨハネに命じました。教会はいつもキリストの前にあり、彼は教会を指導しようとしています。大事なことは、教会の御使と呼ばれている牧師がキリストの言に敏感でなければならないし、教会は牧師の言に忠実に従わなければならないことを学びます。1ペテロ5:1-5
 B)復活のキリストは神の栄光を身にまとっています。ヨハネ黙示録1:14-16キリストの姿を見たヨハネは、「その足もとに倒れ死人のようになった」とあります、イエス様は「恐れるな」と元気づけられるほどに、ヨハネはキリストの威厳にショックを受け恐れたのです。もうキリストは肉体の弱さを持たず、栄光の姿となられていたのです。2コリント13:4、ヨハネ17:5 彼は今や、栄光の王、すべての支配と権威のかしら、大いなる神、力ある神、神の力と呼ばれるに相応しい方なのです。

3)義によるさばき主なるキリストに、安心を持って従う。
コリント人への第一の手紙 / 15章 55−58節「「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。死のとげは罪である。罪の力は律法である。しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。」私達は復活により、死にさえ勝利をされたキリストに信頼して、安心の信仰生活をするべきなのです。
2011年4月17日 説教要旨
  終りの時のそなえ
ヨハネ黙示録1:3「この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて、その中に書かれていることを守る者たちとは、さいわいである。時が近づいているからである」

1)時が近づいている
 聖書を学ぶ時、神様のさばきの時が近づいていることを理解し、その時、多くの煩いが人の心を支配するようになるのです。いろいろな心配があり、自分たちのことで精一杯のことが起っています。しかし、どう言う状況であろうと、神様に信頼し平安の生活を送らなければなりません。 詩篇 / 37篇 3節「主に信頼して善を行え。そうすればあなたはこの国に住んで、安きを得る」
 聖書は、「「今は恵みの時、今は救の日である」といいます。今はキリストによる恵みの時、救いの日なのです。しかし、今を過ぎると、キリストによるさばきの時がきて、救われた者と滅びの者とが区別されるさばきが行われます。その時が近づいていると警告しています。

2)信仰者の忍耐が必要です。
マタイ24:13「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」
 信仰者は信仰に生きるために忍耐が必要です。日曜礼拝を守るために、神様を第一にするために時に忍耐が必要です。教会の子供たちの中に、学校に行くと仲の良い友達同士が日曜日に遊びに行った話題を出して、とても悲しい気持になります。 信仰者のゆえに、世の人の楽しみに加われないことが多くあります。しかし、神様との交わりを選ぶ私達は、彼らが受けることの出来ない救いを受け、永遠の命を受けているのです。このことを理解されるように祈ります。

3)どんな供えをすべきなのでしょうか。
 A) 救われることです。
使徒行伝 / 17章 30節「今はどこにおる人でも、みな悔い改めなければならないことを命じておられる。」自分中心の今までの生き方を止め、神様のお心中心に悔い改めることです。神様はあなたを救って下さいます。
 B) 平安の生活を送るのです。
思い煩いの生活ではなく、神様に信頼し、心配をお委ねする生活です。
 C) 福音を伝えましょう。
一人でも多くの人が救われて、キリストのさばきにあうことがないように、福音を伝えましょう。私達が信じたように、信じて救われる人を願うのです。
2011年4月10日 説教要旨
  終りの時の信仰
 ユダの手紙 20-21節「しかし、愛する者たちよ。あなたがたは、最も神聖な信仰の上に自らを築き上げ、聖霊によって祈り、神の愛の中に自らを保ち、永遠のいのちを目あてとして、わたしたちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい 」

 昔から、神様を信じる集まりが、神様により災にあい荒廃することはありました。ユダの手紙は、昔からの罪をあげ、様々な罪への堕落と滅びを警告し、災の時にも信仰と愛に生きるように勧めています。 18節には「終りの時には、あざける者たちがあらわれて、自分の不信心な欲のままに生活するであろう」と預言しています。

1)世の終りのときの苦悩
 今は、終りの時代に突入しています。そういう時代は、民衆にとって生活の困難、苦悩がおとずれるのです。東日本大震災の被災者は大変な苦難を経験されています、今は多くの愛と援助がささげられていますが、終末には誰も他の人を同情できる状況ではなく、争いが起こり、奪い合いがあり、愛が冷めると言います。信仰ではなく、自分の利益を最優先する信仰者の堕落が起こります。

2)信仰による生活
 「しかし、愛する者たちよ。あなたがたは、最も神聖な信仰の上に自らを築き上げ」とあるように、私達は自分の信仰生活を吟味しなければなりません。信仰は「最も神聖な」と呼ばれています。信仰は「なくてはならないもの」であり、心を清め、永遠の希望を与え、神に向くまっすぐな心を与えてくれます。生活の中で信仰的でないものはすぐに止め、信仰的であると理解するなら心がどう言おうと実践しようと努力するのです。

3)神の愛の中に自らを保つ
 更に、愛を加えます。「神の愛の中に自らを保つ」とは、二つのことがいえます。
 A) 神様の愛を信じる。ヨハネ15:9、10
 イエス様は父なる神が御子を愛する愛で愛すると言われました。人が思うことが出来ない、完全な愛を信仰者は受けています。その愛の中におるのです。
 B) 神を愛する
 イエス様に従うことによって、私達は神様を愛することを確信するのです。信仰も愛も実践することに深い意味があります。人の成長はそこに現れます。
 これらの信仰の態度は、神様に頼ることによって可能になります。「聖霊によって祈り」とあるように、神様に全き信頼する生活の中に達成されるのです。
2011年4月3日 説教要旨
  真理の内を歩く
ヨハネ第三 4節「わたしの子供たちが真理のうちを歩いていることを聞く以上に、大きい喜びはない」
 
 聖書は私達に真理を知り、真理の内を歩くように、つまり生きるように勧めている。真理って何だろうか? 真理とは正しい事実であり、正しい教えであります。私達は真理を求め、真理を知ることから始めなければならない。それはどう言う生活なのでしょうか。

1)一心に真理を求める態度です。
 私達の通常の態度は、生活のことばかりを考えています。目に見えることばかりを気にしています。しかし、真理を求めるとき、次の言葉を思います。 「世と世にあるものを、愛してはいけない。もし、世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない」ヨハネ第一2:15 世のことを求めるよりも先に、正しいことを優先する態度です。

2)真理とは
 真理とは、目に見えないものであり、正しいものであり、変わることのないものです。それは何か?聖書は何と言っているか?
 A) イエス・キリストです。
 歴史上、人は真理を求めても見いだせなかったのです。しかし、「わたしは道であり、真理であり、命です」と言われたイエス・キリストにお会いする時、この方によってのみ、真理を悟り満足するのです。
 B) 神の御言
 聖書の言葉が真理だと言います。 ヨハネ17:17「真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります」 神の御言によって、私達は正しくされるのです。
 C) 真理の御霊
 神様は御言とともに働いて、真理を悟らせて下さるのです。

3)真理の内を歩む
 真理のうちを歩むとき、聖書は祝福を約束しています。その真理のうちに歩む姿は、イエス・キリストに従い、彼の教えに歩み、特に愛の賜物において豊かな歩みをするのです。また、「真理は自由を得させる」とあるように、その歩みはキリストの心の自由を受けた歩みとなります。
2011年3月27日 説教要旨
  キリストとのつながり
ヨハネ10:27-28「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。 わたしは、彼らに永遠の命を与える。だから、彼らはいつまでも滅びることがなく、また、彼らをわたしの手から奪い去る者はない」
 信仰者のキリストとのつながりは強いものです。誰も離すことが出来ない強固なものであると聖書は教えています。キリストとの特別な関係に入っているのです。

1)キリストを主として従うものです。
 信仰者はキリストを主、救主として、完全な従順に向かっている者です。「わたしの羊はわたしの声に聞き従う」とあります。まだ、羊飼を良く知らない幼い羊は、戸惑うこともおおいでしょうが、その信頼関係は強められて行きます。そして、成長し喜んで従う者になるのです。

2)キリストに愛され、神の子とされています。
 それは人なるキリストを、模範者なる長子(長男)として、その模範に従う神の家族の一員とせられるのです。 ローマ人への手紙 / 8章 29節「神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。」

3)キリストの永遠の命を受けた者です。
 信仰者は神から出る永遠の命を受けるのです。 ヨハネ1:4「この言に命があった。そしてこの命は人の光であった」人を真に生かすのは、神のこの永遠の命です。キリストを持っている者には人の光なる命があるのです。生き生きとした人生の源なのです。

4)キリストとけっして離れることがないのです。
 信仰者の安心は、このキリストと決して離されることがないことです。「彼らをわたしの手から奪い去る者はない」わたしたちはキリストを失うことがないし、人の光、永遠の命を奪われることがないのです。わたしたちは告白するべきです。「わたしはキリストから離れない」この信仰の告白をイエス様は守って下さいます。
 信仰者の特徴って何だろう?いろいろな表現があるが、ここではキリストとのつながりであると言います。ロープにつながれる、束縛によることのない、自由のある真に愛に守られている関係です。そのつながりは強く、わたしたちはキリストに従い、神に愛され、永遠の命を受けて最後まで守られる。わたしたちは信仰をもって主に従って行きます。
2011年3月20日
  実を結ぶ信仰
ルカ8:15「良い地におちたのは、御言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである」

 福島原発での放水作業は、おおくのボランティアによる支援と同様に、わたしたちに感動を与えてくれました。まだ、終わったわけではありませんが、悲しい出来事だけではなく、おおくの感動も与えてくれています。
 わたしたちの信仰も大きな試練に立ち向かい、耐え忍んで実を結ぶものでありたいと願うのです。

1)信仰の目で試練を見る。
 死は最もおおきな試練ですが、弟子の兄弟が死んだ時に次のように言いました。 ヨハネ11:4「イエスはそれを聞いて言われた、「この病気は死ぬほどのものではない。それは神の栄光のため、また、神の子がそれによって栄光を受けるためのものである」」そして、兄弟ラザロはよみがえりました。イエス様は一切を信じることを教えようとされました。わたしたちが試練に直面した時、わたしたちを守られる主を信じるように言われたのです。安心しなさいと言われたのです。

2)聖書の御言葉に対する信仰。
一人の信仰を褒められた男性がいました。 マタイ8:8、9「そこで百卒長は答えて言った、「主よ、わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります。 わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりの者に「行け」と言えば行き、ほかの者に「こい」と言えばきますし、また、僕に「これをせよ」と言えば、してくれるのです」
 イエス様は彼を「これほどの信仰を見たことがない」と褒めました。彼はイエス様のお言葉の権威、力を信じたのです。

3)実を結ぶ信仰
 実を結ぶ信仰とは、イエス様の御言に対する信仰であり、行動です。「良い地におちたのは、御言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである」
 わたしたちはイエス様の言葉、聖書の言葉を信じて、正しい良い心でしっかりと守る者になるのです。その道は忍耐がいると書いてあります。しかし、イエス様に従って行くなら、必ず実を結ぶのです。イエス様なしでは、決して実を結ぶことができず、良いものを得ることができないのです。感動の信仰生活を送りたいものです。
2011年3月13日
  信仰のそなえ
イザヤ45:22「地の果てなるもろもろの人よ、わたしを仰ぎのぞめ、そうすれば救われる。わたしは神であって、ほかに神はないからである

 3/11金曜日午後、東日本大震災が発生しました。何気なく見た地震速報に驚く光景が飛び込みました。地震も震度7と未経験な揺れに加えて、インドネシアで起こった津波と同じような映像。おおくの方が被災され、数千人の方の命が失われたと聞いています。人には解決できない、逃れる事が出来ない事実があることに恐れました。人には一秒先がわからない事、必ず死ぬこと。人は無力であること。人には助け合う心、おなじ思いになれる素晴らしい愛の支援が広がっていることに励まされますが、それ以上に空しさ、悲しみを覚えます。

 このような無力さ、恐れがあることに知っていますが、わたしたちにに関しては信仰の素晴らしさをそれ以上に心に感じ、神様に感謝する思いも溢れてきます。それは、わたしたちが神様から離れていた事を悔い改めて、イエス・キリストを信じて救っていただいた事です。わたしたちは救われていると信じているのです。

 信仰とは、目に見えない事を信じることで、信仰をもっていなかった頃の日常生活とは全く違う神の導きに向かうことです。信仰を持つ前の生活は、目に見える事によって喜びや悲しみを感じ、それを土台にして生きてきました。目に見える事を一番信頼していたのですが、信仰生活とは目に見えない事を信じ、見えないすばらしものを求める生活なのです。 2コリント4:18「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである」目に見えない神様を信じ、求め、目に見えない希望を持って、目に見えない愛の心を求めるのです。

 世の人はこう言う生活を愚かと言うかもしれません。
しかし、信仰を持った生き方こそ、どんな環境変化があろうともびくともしない、安定した歩みをする備えなのです。信仰による歩みは、誰からも邪魔される事なく、奪われる事がなく、失わないので、いつまでも無くす事がありません。

 わたしたちは悔い改めの心をもって、イエス・キリストを信じなければなりません。そうするならば救われ、安心のある生活を送れるのです。神を信じないままに、命を落とすなら恐ろしいことですが、信仰によるそなえをして災にあったとしても、神様の救を受けているので、安心と希望があります。
2011年3月6日
  恵みのわざ
2コリント8:7「さて、あなたがたがあらゆる事がらについて富んでいるように、すなわち、信仰にも言意も知識にも、あらゆる熱情にも、また、あなたたに対するわたしたちの愛にも富んでいるように、この恵みのわざにも富んでほしい」

 神様の恵みはすべて良く調和していると感じます。愛について、柔和について、謙遜について、罪を認めることについて、救について・・・どんな恵みも奥は深く、わたしたちの能力では理解しつくす事ができないほど深いのですが、すべてが通じていて、矛盾がなく、共鳴し合うのは、説教をする者にとると不思議で驚くべきことです。ですから、聖書を深く学ぶ時は、他の教えに矛盾がないか、協調しているかどうかを確認しながらすすめるのです。そこで、いっさいは素晴らしい神様の恵みであることに気付かされるのです。わたしたちは神様の恵みによって信仰生活がある事を理解しているでしょうか。素晴らしい恵みを分かっていますか。

1)恵みは自分の考えや思いによらない。
 つい、生活上の事を自分で考えてしまいます。しかし、神様の恵みによる信仰生活とは、イエス様が必ずそこにいて下さらなければなりません。恵みは自分から出るものではなく、神様が下さるものですから、聖書に学ばなければなりません。

2)恵みは生活のいっさいであると考えます。
 主婦は大根や人参にも捨てるものがないと考えます。自然界には不必要なものはないとも言えるのです。それは特に、信仰者にとって、生活の一切は神様の恵みから離れたものはなく、すべてを受け入れ、すべての意味を知ることが大事です。

3)神様の恵みをどれほど知っているでしょうか。
 救主イエス様を、自分にとって一番大事な神様からの恵みと分かっているでしょうか。イエス様によって人は救われ、イエス様が語られる教え一切が恵みなのです。聖書の教えはすべてが恵みであり、その教えには深い意味があり、あなたに幸いをもたらす神様からの恵みが詰まっています。

4)信仰生活とは、その恵みを信じ、受け入れ、恵みによって行動するものです。
 上記聖句には、「この恵みのわざにも富んでほしい」とあります。この恵みのわざの具体的な意味は、困窮している離れたクリスチャンへの金銭的支援のことを意味しています。それが恵みのわざと言っていますが、イエス様の教え、命令に従ういっさいを恵みのわざと言うのです。わたしたちは神から愛を受けました。 2コリント8:9では「キリストの恵み」と言っています。その恵みにより、他の人の恵みとなる行為が恵みのわざ。神様はわたしたちが豊かに恵みを受けて、恵みのわざに熱心になり、恵みに富む者となる事を願われています。
2011年2月27日
  恵みによって
 コリント人への第一の手紙 / 15章 10節「しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。そして、わたしに賜わった神の恵みはむだにならず、むしろ、わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきた。しかしそれは、わたし自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである。」

 パウロのこの告白からも分かることは、信仰者は神様の恵みによって生きると言うことです。まさに、わたしたちの今も将来も、一切は神様の恵みによっていると言うのです。その恵みの生活の具体的な事がらは、

1)罪とそのいろいろな束縛から救われていることです。
 イエス様を信じるなら救われると信じて、信仰を告白しました。救われていることの恵みは、信仰者の当然持つべき確信です。

2)新しい価値観
 次の恵みは、新しい価値観を持ったことです。イエス様を主と告白した以上、イエス様の教え、その価値を第一にすることは当たり前です。イエス様は「もっとも大いなるものは愛である」と言われましたが、その通りです。

3)新しい目標
 そして、人生に迷っている者が、キリストを通して永遠につづく目標をいただいたのです。わたしたちの心の目の向きに、確固とした目標を見いだしているでしょうか。神様の恵みは、希望の目標を下さいました。 パウロは、イエス様を信じ、神様の恵みにより、これらの具体的な心と考えの新生を経験し、生活に実践したのです。
 しかし、彼は自分の内に新しい生活の障害を経験し、苦しみました。 ローマ7:24「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう」彼は苦しみましたが、その苦しみの中に沈み、思い悩むことなく、神様の恵みを見ることを止めなかったのです。このどんな時にも神様の恵みに目を向ける心の姿勢が大事なのです。

 恵みによる信仰生活とは、どんな生活でしょうか?
1)今の自分を思いわずらわない生活です。
自分の惨めな内面を見つづけることをせず、神様の恵みによって解決する生活。
2)将来を思いわずらわない生活。
3)自分は恵みに満たされているので、神と隣人を大切にする生活。恵みによる生活は、わたしたちの心に豊かさをもたらします。救いの喜びを教えてくれます、恵みによる生活を、もっと深めることを求めましょう。
2011年2月20日
 恵みの支配
  ローマ5:21「それは、罪が死によって支配するに至ったように、恵みもまた義によって支配し、わたしたちの主イエス・キリストにより、永遠のいのちを得させるためである」

 神様を信じ、イエス様を信じることは、罪の支配から恵の支配の中に入ることだと聖書は教えます。信仰生活は、恵が溢れていることを覚え、恵を求める生活でなければなりませんん。しかし、その恵がどう言うものであるか?と言うことを、信仰者は良く知らなければならないのです。

1)恵は神様から一方的にいただくものです。
 神様から恵を受けることは、すべての人の特権であります。その時、わたしたちの心は自分の現実を振り返ることなく、神様の恵を一心にみて進むべきものです。

2)恵に支配されています。信仰者はみんな神様の恵を受け、更に受ける立場におかれています。イエス・キリストの十字架により、罪の支配ではなく、恵の支配の中に入れられたのです。わたしたちの罪は赦され、豊かな恵を受けています。しかし、さらに神様はわたしたちを恵の座に導こうとされています。

3)恵みは神様の恵みの奉仕者になるためです。
心が整えられ、イエス様に似た者とされ、この地上でイエス様の御心の働きをなすために、恵みは受ける者です。心が整えられた者が、初めて具体的なイエス様の働きの恵みをいただけるのです。

3)恵はわたしたちを義に向かわす。
わたしたちが受けようとしている恵は、神様の義にわたしたちを導こうとするものです。神様が正しいとする道、神様がよしとする道に、導こうとされることです。平和をつくり出す道であり、キリストを世に伝える道です。わたしたちはこの恵みを受けることを心から願わなければなりません。
2011年2月13日
  謙遜と恵み
 ヤコブ4:6、7「しかし神は、いや増しに恵みを賜う。であるから、「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う」とある。 そういうわけだから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、彼はあなたがたから逃げ去るであろう

 わたしたちの日常生活の争いなどの不幸は、悪魔の計画に誘惑されているからだと聖書は教えます。恵みのない生活の闇に悪魔がいると言うのです。
 イエス・キリストを信じたわたしたちは神の恵みの中に導き入れられた者です。しかも豊かな恵みの中に招かれているのです。しかし、聖書のある恵みは受けていると言えても、あまり確信のないわたしたちは更に高い恵みの頂きにはいないのです。聖書は「神は、いや増しに恵みを賜う」と言います。新改訳聖書では、「神は、さらに豊かに恵みを与えて下さいます」と訳されています。わたしたちにはもっと恵み豊かな信仰生活があるのです。そのために、神は「高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う」のです。わたしたちはへりくだる生活、謙遜な生活を心がけなければなりません。

 謙遜とはどう言うことでしょうか?
聖書から実例で考えるなら、ノア、アブラハム、モーセ、ダビデ、イザヤなどの預言者、模範者イエス・キリストとその弟子たちがおられます。彼らは皆、特別な恵みを受け、神様に豊かに用いられ、決して楽な道ではありませんでしたが、人の思いを越した平安と恵みの中に生きた人々です。

 彼らは自分の弱さを知り、神様に頼った人々です。また、神に聞き従った人々です。謙遜とは、自分の弱さ足らなさを知り、自分を考えやプライドを捨て、神と人に聞ける者のことです。上記聖句に「そういうわけだから、神に従いなさい」と言います。また、恵みを受けるために、1ペテロ5:5「同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。また、みな互に謙遜を身につけなさい。神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜うからである」(長老とは、牧師のことです) わたしたちはもっと恵みの高き嶺を求め、神と人に聞き、信仰によって謙遜に従う者になりましょう。神様の豊かな恵みを経験することを祈りましょう。
2011年2月6日
  神の恵みによって生きる
テモテへの第二の手紙 / 2章 1節「そこで、わたしの子よ。あなたはキリスト・イエスにある恵みによって、強くなりなさい。」
ヘブル人への手紙 / 13章 9節「食物によらず、恵みによって、心を強くするがよい。食物によって歩いた者は、益を得ることがなかった。」
 
 信仰生活は、神様の豊かな恵みの中にあることを認める生活です。恵みがどれほど分かり、恵みによって生活することを学ぶことが大事なのです。パウロは彼の手紙の中にいつも次のような言葉を入れています。ローマ1:7「わたしたちの父なる神およびイエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように」

 恵みとは、神様からの愛のこもった贈り物です。自然の恵みがあり、聖書に現された神様からの多種の恵みがあります。地に下られたイエス・キリストも聖霊も聖書もそうだと言えるのです。

 そこで、恵みによりイエス・キリストを信じて救われた者は、神様の恵みを豊かに受け、その中に囲まれて信仰生活を送っていることを悟ることが重要なのです。

1)神様の恵みはわたしたちの内面に聖霊の実として現れます。
最も大事な恵みは、わたしたち自身の心が新しく変えられ、イエス・キリストに似た者に変えられて行くことであり、神様のみ心を喜んで行える人となることです。

2)キリストの力が宿るのです。
また、神様の恵みは、キリストの力がわたしたちの力となることです。聖書は「わたしの子よ。あなたはキリスト・イエスにある恵みによって、強くなりなさい。」と言います。わたしたちは自分の弱さが、イエス様の力が変わることを信じているのです。なぜなら、神様に心から頼ることをするので、困難な問題を覚える時、イエス様が力となって助けて下さることを信じているからです。イエス様はわたしたちの力となって、支え、励まし、忍耐強く進ませ、道を開いて下さるのです。わたしたちは、多くの恵みに囲まれていて、恵みによって成長し、強められて信仰生活を送ることを信じています。

 わたしたちは一切のことを神様の恵みと受けとめ、恵みと言う信仰の中に信仰生活を送ります。聖書もキリストも家族も子どもも仕事も祈りも伝道も・・・苦しい時にも恵みと信じて、忍耐強く歩む時に、キリストとその力を経験するのです。
2011年1月30日
 信仰と行う人
ヤコブの手紙 / 1章 25節「これに反して、完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される」
 
 わたしたちの信仰生活は、何よりも信仰を第一に求めるものです。神様に救われるには、行いではなく信仰によることを知っています。自分の行いによらず、神は信じる者に何ものにもまさる優れた良い贈り物を下さる方であることを信じるのです。そして、神様はわたしたちのこの信仰を一番喜んで下さいます。

 しかし、ヤコブの手紙から更に分かるのは、その信仰はわたしたちの良い行いにつながるものであると言うことです。行いを伴わない信仰は空しく、口先だけで、真心からの信仰ではないのです。信じたと言いながら、神様が言われることに背を向け、以前の罪の生活をそのままに続けているのは、その人の信仰が死んだものなのです。 ヤコブ2:28「行いのない信仰も死んだものなのである」 ですから、わたしたちがイエス・キリストを信じる信仰生活に入ったなら、わたしたちの生活には良い、神様に喜ばれる行動の変化があるべきなのです。

 そこで、わたしたちは信仰によって、行動の目標を立てましょう。わたしは何を目標に一日を送るべきなのか?神様が願われていることを定めましょう。イエス様は「わたしに学びなさい」(マタイ11:29)と言われました。イエス様があなたに教えられることを学ぶのです。
 わたしたちはイエス様が父なる神に従い信仰的に歩み、隣人を愛したことを思います。言葉は温かく、弱い人を思いやりがありました。あなたは何をすることを心に思い浮かべられるでしょうか。そして、忘れないで実践しましょう。

そこに祝福があると言います。
ヤコブの手紙 / 1章 25節「聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される」 どんな祝福があるでしょう。わたしたちがキリストに似た良い性格に代わり、良い人間関係を築き、周りの人に福音の幸いを伝えるものとなれるのです。また、わたしたちの思いを越えた祝福を期待するのです。
2011年1月23日
 神に信頼し、安心をもつ生活
詩篇 / 16篇 8−9節「わたしは常に主をわたしの前に置く。主がわたしの右にいますゆえ、わたしは動かされることはない。 このゆえに、わたしの心は楽しみ、わたしの魂は喜ぶ。わたしの身もまた安らかである」

 信仰生活とは、神様に対する全き信頼と、主からの全き平安のある生活が目標であると言えます。わたしたちの日常生活は、ありとあらゆるストレスや望まないこと、思いもよらない出来事があるものです。その目の前の出来事に恐れ、不安を持つことが多々あるのです。
 しかし、信仰生活とはすべての事を知られ、信仰者を支え守って下さる主なる神を信じる生活です。つまり、全き信頼をもつ生活を目標としているのです。

1)主はわたしの前におられる
「わたしは常に主をわたしの前に置く」ダビデ王は常に、主を前に置いた告白しています。彼の前を主イエス様が進まれるのだ、進んでいただくのだと考えていました。彼は主に従う生活の中に、主に対する信頼を証したのです。

2)主はわたしの右におられる
 「主がわたしの右にいますゆえ」わたしの力は神様の力によると言うのです。少年ダビデがゴリアテと戦う時、「この戦いは主の戦いであって、主がわれわれの手におまえたちを渡されるからである」と言ったのです。わたしたちも困難な働きの前には「主よ助けて下さい」と祈って臨むのです。

3)主が守って下さる。
その時、「わたしは動かされることはない」とあるように、主が共にある信仰は、主の守りがわたしたちと共にあるのです。

4)安心と安全がある。
 「このゆえに、わたしの心は楽しみ、わたしの魂は喜ぶ。わたしの身もまた安らかである」わたしたちがこのように主に信頼する時、わたしたちの心は楽しみ、喜び、平安を経験するのです。ダビデが多くの試練の中で、この様な証をしたように、わたしたちもどんな環境、境遇の中に閉じ込められたとしても、主に信頼する時、そこには心の喜びと安心があるのです。また、主は力のある確かな方ですから、わたしたちを勝利に導き、祝福をもたらして下さるのです。そう信じることが信仰です。兄弟姉妹、主に真心から信頼しましょう。主にお委ねし、安心のある生活をしましょう。
2011年1月16日
 戒めを愛し、守る生活
詩篇 / 119篇 97-100節「いかにわたしはあなたのおきてを愛することでしょう。わたしはひねもすこれを深く思います。あなたの戒めは常にわたしと共にあるので、わたしをわが敵にまさって賢くします。わたしはあなたのあかしを深く思うので、わがすべての師にまさって知恵があります。わたしはあなたのさとしを守るので、老いた者にまさって事をわきまえます。」

 神様をほめたたえる生活は、心から主の戒めを守ろうとする生活であると言えます。1ヨハネ5:3「神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。」とヨハネは語りましたが、戒めを守ることは信仰者が第一にするべきことです。

1)戒めとは
神様がわたしたちに命じていることはどんなことがあるのでしょうか。詩篇の著者は「あなたの戒めは常にわたしと共にあるので」と言われたように、聖書を読み、学ぶことを通して戒めを知ることは重要です。
 神を愛せよとあります。隣り人を愛せよとあります。罪を犯さず、人をさばくなとあります。忠実さ、従順さ、忍耐強さ、勤勉・・・いろいろな戒めがあります。

2)自分にとって具体的に戒めとは何か?と考える。
「わたしはあなたのあかしを深く思うので」と続けて告白しています。わたしたちの生活の場面に、戒めを思い返し、適用することをします。戒めを愛しているので、戒めの良い事を知っているので決して苦ではありません。

3)戒めを実践する。
「わたしはあなたのさとしを守るので」その意味のある戒めを行うことは喜びです。それによって、祝福があります。ヤコブ1:25「これに反して、完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される」

 戒めの実践には祝福があります。
詩篇の著者はここに「人にまさって賢く、知恵があり、事をわきまえる」と言っています。 わたしたちは日常生活に、救われていることを自覚し、恵みの中にあることを喜び、神の戒めを実践する決意、意識を強くもとうではありませんか。その為にも、聖書を学び、忘れることなく深く思い、実践するどりょくをしようではないかと思うのです。そして、戒めを愛する者になりましょう。ならば戒めを行える人になるでしょう。
2011年1月9日
 神をほめたたえる生活 2
詩篇 / 145篇 1、2節「わが神、王よ、わたしはあなたをあがめ、世々かぎりなくみ名をほめまつります。わたしは日ごとにあなたをほめ、世々かぎりなくみ名をほめたたえます。」

 神様をほめたたえる生活とは、どう言う生活を言うのでしょうか?それは神様がいつも主として、心から離れず、どんな時にも、どんな状況にも、神として主としてあがめられる生活と言えるでしょう。
 わたしたちがそんな生活は窮屈だ、めんどくさいと思えるとするなら、その時、まだ神を主としてあがめていることにおいて未熟であると言えるでしょう。確かに、自分の今までの生活の中に、神様よりも上位にある嗜好があったり、心が捕われている何かがあるのです。また、神様に対する信頼が薄いのです。

 そういう生活に、信仰の実を期待することはできません。 ヤコブの手紙 / 1章 6−8節「ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい。疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている。そういう人は、主から何かをいただけるもののように思うべきではない。そんな人間は、二心の者であって、そのすべての行動に安定がない。」

 信仰とは、イエス・キリストを信じ、自分中心の生活から、神様中心の生活に変わることであり、心から神様をほめたたえる生活をする者になることを目標にしています。 そういう生活には、どの様な結果が現れるのでしょうか。聖書に出て来る信仰者を見るなら、わたしたちは知ることができます。彼らは神様に真心から信頼しているゆえに、素晴らしい性質を持って地上人生を生きているのです。アブラハム、モーセ、ダビデ・・多くの預言者たちの生き方は、時に過ちも犯しましたが、彼らの人生は筋が通った恵まれた生活を送っています。

1)安定しています。
自分の心の居場所が分かっていて、迷うことがなく、揺れることなく、安定しています。

2)正直で誠実な歩みをしています。
彼らは自分を偽ることなく、ありのままに神様の前に正直に誠実でした。

3)神をほめたたえ、自分は謙遜にあゆみます。
わたしたちの信仰生活は、心から神様をあがめ、ほめたたえる道なのです。
2011年1月2日
  神をほめたたえる生活
コロサイ人への手紙 / 3章 16節「キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。」 
 
 今年のテーマを「神をほめたたえる生活」といたしました。 信仰が表面的なものではなく、心の奥底にあって、どんな時も神様に頼り、神様中心に思い行動できる者となり、心の奥底から恵みに感謝する生活を目標としています。
 今まで、礼拝のときは信仰的に感じれても、家に帰ると全くイエス様を思い出さない生活、仕事場では一人孤独に頑張る生活だった方も、どんな時もイエス様を中心にその恵みの中を生きる生活を出来るようになることを願うのです。

 神様をほめたたえるとは、どんな時もイエス様のことを思い、全き信頼を持って生活することです。時に、賛美が口から溢れ、御言を思うことが多く、試練のときはいつもイエス様のお守りを信じて、主に感謝する生活です。
 その土台となるものが教会生活であるのです。次のようにパウロは言いました。 エペソ1:23「この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない」

イエス・キリストを主と告白した者が、主をほめたたえる時、その中心になるべきところが教会なのです。
1)教会の礼拝を忠実に守る。
 日曜の教会の礼拝は何のためにあるのでしょうか。主をほめたたえるためにあります。礼拝こそ、わたしたちが具体的に主の栄光をほめたたえる場なのです。自分のためだけにあるのでなく、それ以上に、兄弟姉妹と心を一つにし、神への忠実さ、信仰の告白、賛美をささげる場なのです。この一年、さらに教会の礼拝が恵まれ、祝されるように祈りましょう。

2)同時に神様の恵みの栄光をほめたたえる。
 わたしたちはまず、神様の恵みを感謝し、ほめたたえます。イエス・キリストによる罪のゆるし、神の国の子となり、永遠の命を受けたことをほめたたえます。わたしたちの生活一切が神様の恵みの中にあることを理解し、さらに、万物を創造された神を無条件にほめたたえる者となるのです。