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2012年12月30日 説教要旨
  信仰は必ず勝利に導く
 1ヨハネ5:3、4「神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない。なぜなら、すべて神から生まれた者は、世に勝つからである。そして、わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である」

 2012年ももうすぐ終り、新しく2013年が始まります。ますますイエス様がこの世に来られる祝福の時が近づいています。 私達は心の備えを良くして一日一日を賢明に生きて行きましょう。
 今年一年をどう振り返りましょう。
まず、感謝を神様にお捧げしましょう。理由として、
@ この一年も信仰を守って下さいました。
A 今に至るまで、共に歩んで下さいました。
B 私達を新しく成長させて下さいました。
C 私達の希望を更に明らかにして下さいました。
D そして、新しく信仰のお友達も与えられています。

反省点はあるでしょうか。
反省しなければならない事を数えるなら、やはり多くあります。その中で最も悔い改めなければならない事は、主に対する信頼がまだ足りない事でしょう。 イエス様に「信仰の薄い者たちよ」と、もっと信頼するように励まされているのです。私達は自分に頼って信仰生活をするのではなく、イエス様に全く頼って、心からの信仰による生活をするように勧められています。 神様はご自身が確かにおられることと、求める者に報いを必ず下さる事を信じる者を喜ばれるのです。

 2013年、私達は救いの確信と信仰の成長を求めます。そして、私達の実生活が信仰の祝福の証に満ちたものとなることを祷ります。周りの人に福音の光が届きますように。
@ 周りの人に信仰の証をしましょう。
A 周りの人にキリストの光がとどく生活を心がけましょう。
B 教会に新しい方が集い、救われる一年を願いましょう。
 聖書から、今は終わりの時代です。自分の救いを確信して、隣りにいるまだ信仰を持たない人たちのために祈り、救われることを求める一年でありますように。
2012年12月16日 説教要旨 
  神様の教えを信じる
詩篇119:105「あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です
 
 信仰とは、父と子と聖霊なる神様とその偉大なる本性とお働きに心からの信頼を置くことであります。そして、神様の教えと教えのお力に心から信頼することなのです。私達は同じ信仰を持たなければなりません。エペソ4:5「信仰は一つ」

1)聖書の基本的教えを信じます。
 教会には信仰箇条と言う条文があります。わたしたちの教会では、こう信じていると言う20箇条の信仰の文章であり、その教えを信じ、その教理を中心にして聖書を學んでいます。 聖書について、神様について,人間について、救いについて,教会について・・・學べば學ぶほどに、真理であることを確信します。

2)祷る力を信じます.
 わたしたちは人格をもたれる神様に対して、祷ることに積極的であることを努め、その祈りの力を信じています。祈りの信仰は、信仰的・霊的である証です。

3)救われたことを信じます。
 神様の御言によって、悔い改めて信仰を持っている者として、救われていることを信じています。わたしの心が揺らいでも、救いから落ちるいことを信じます。

4)イエス様の十分な恵みを信じています。
 神様は全てを知られて、わたしたちに対して十分な恵みを与えて下さっていることを信じています。不平不満は必要ないことを信じています。

5)どんな困難も成功に至ることを信じています。
 神様を信じる者と共にいて下さる救主は、わたしたちが全てにおいて勝利に終るように定めてあることを信じています。日常生活の困難も主に頼りつつあるなら必ず益となる結果に至ることを信じています。

6)この福音はどんな者をも救う神様の力であると信じています。
 この信仰は、私達の心にどのように働くのでしょうか。
1)神様への確かな信仰は、人間への強い信頼、依存から解放します。
 何よりも第一のつながりが神様とのつながりとなり、神様との関係を優先するようになります。
2)真の信仰は、どんな状況でも勇気を与えます。
3)真の信仰は、神様に喜ばれる良い業を行う者とします。
 この他にも様々な祝福があります。信仰とは、私達を新しい者とするのです。
2012年12月2日 説教要旨
  キリストの大宣教命令
マタイ28:19ー20「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。 それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、 あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである」

 イエス様が私達に命じられている働きにおいて、宣教命令はもっとも重要な命令であると言えるでしょう。
なぜなら、永遠の命のための働きであり、すべての人が救われる働きだからです。救われるとは、地獄から救われて天国へ、神様と共に生きる神様の国にはいることであり,地上生活においても確信と平安の生活が保障されています。

 イエス様は次のように命じられました。

1)すべての国民を弟子とせよ
 私達は相手を選ばずに,すべての人にイエス様の福音を伝え、イエス様を信じる人のために働かなければなりません。 今までの罪を悔い改めて、イエス様を信じ,従う生き方がどれほど素晴らしいものであるかを証しなければなりません。神様がその人を救って下さいます。

2)父と子と聖霊との名によってバプテスマを施す。
 神様が私達に命じられた大事な儀式として、バプテスマを施せと言われます。バプテスマは信仰の証を公にすることであり、罪に死に義に生きる新しい生き方の信仰の儀式です。すべての人は信仰の告白とともにバプテスマを受けます。

3)命じられたことを教える。
 更に、イエス様が教えられること一切を信仰を持っている者に教えます。聖書の教えは非常に高く、広く、長く、奥深いものです。その一つ一にの教えには神様からの新しい生き方が教えられていて、真理を悟り人を幸福に導きます。

 人は迷っています。生きる意味が分からず、行き先を知らず、神様と共に生きる真の平安を知らずにいます。 主を信じた私達は、このイエス様の宣教の命令に従わなければなりません。それは私達の信仰者としての様々な成長につながっていますが、同時に,それ以上におおくの人が地獄から天国へ行く、救のためにあるのです。信仰と確信を持って、主の宣教命令に積極的に従いましょう。自分のできることで忠実に従いましょう。
2012年11月11日 説教要旨
  聞く人になる
1サムエル上3:9「そしてエリはサムエルに言った、「行って寝なさい。もしあなたを呼ばれたら、「しもべは聞きます。主よ、お話ください」と言いなさい」

 聞くと言う行為には、三つほどの分け方があるように思います。
第一は、神様に聞き、そして従う態度です。それはサムエルが「しもべは聴きます。主よ、お語りください」と答えているようにです。
 第二は、地上の指導者に聴く態度です。
神様に対する態度とは明らかに違っても,誠実に聞き従います。
 第三に、隣人の声に耳を傾けることです。相手の言いたいことを聞こうとする態度は平和をつくり出す最高の態度です。互に分かり合う一歩となります。

 この聞く態度には次の二つの心掛けが必要です。
1)自分の意見,考えをすぐに言わない。
まずは、自分の考えを言わず、よく傾聴することが大事です。
ヤコブ1:19「愛する兄弟たちよ。このことを知っておきなさい。人はすべて、聞くに早く、語るにおそく、怒るにおそくあるべきである」
 つい自分の意見を言いたくなるのですが、それはできるだけ「おそく」することが重要なのです。更に、「怒る」ことはもっと遅くせよと言います。

2)心から聞く
聞く時には、心から聞こうとすることです。傾聴と言いますが,聞く時には誰に対しても良く聞こうとすることです。

 特に神様のお言には静まって心から聞こうとしなければなりません。
それが私達の祝福になります。なぜなら、
1)神様は私達に伝えようとする言があるからです。
 聖書は人への〔ラブレター」と言われます。表面的でなく、その中にある愛と真実なるものを得るように願われています。
1テモテ2:4「神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる」
2)聞く時に祝福があると約束されているからです。
主に忠実であるなら、祝福の実を何倍にもして実らせて下さると約束があります。
2012年10月28日 説教要旨
  十字架前の三つの言葉
マタイ26:26〜28「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「取って食べよ、これはわたしのからだである」。また杯を取り、感謝して彼らに与えて言われた、「みな、この杯から飲め。これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である」

 イエス様は群衆に捕えられ、一方的な裁判によって、次の日、十字架につけられるのです。あっと言う間に死刑が実行されてしまいました。そして十字架の死の前日、キリストは最後に弟子たちに三つの言葉を残しています。

 第一が上記聖句。
イエス様は弟子たちに晩餐のパンとブドウ酒をとって、「わたしのからだだ食べよ」「わたしの契約の血だ飲め」と命じられました。
ご自分に対する信仰をキリストのからだを食べる、その流す血を飲むことだと象徴されたのです。食べる事、飲む事は、飢えを満たし、渇きを潤し、栄養となって、そして身体の中で、血となり肉となって、人を生かすのです。
 信仰は心に信じなけらばなりません、その為、心から悔い改め、キリストを受けいれる準備をし、心に信じるのです。そして、私達の思いではなく神様によって、内におられるキリストによって、永遠の命や良い実を結ぶのです。

 第二が、弟子たちがつまずく預言です。
マタイ26:31、32  キリストが群衆に捕えられて、弟子たちは逃げ去り、離れて行ったのです。
 その理由は、イエス様から、一切の誉が取り去られたからです。奇跡のキリスト、雄弁なキリスト、あわれみ深くほどこすキリストではなく、一切の誉を取去られ、イザヤが「彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない」と言われたキリストにつまずいたのです。キリストは栄光を捨て、人の罪の身代わりに辱めの僕となられたのです。

 第三が、キリストの苦しみの告白です。マタイ26:38「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである」とありのままに苦しみを告白されました。
 十字架につかれる前、イエス様は、人の救のための十字架の意味、キリストが受ける苦悩が語られたのです。私達はパウロの次の告白を読む時に、キリストの愛とその苦悩を思い出さなければなりません。
ガラテヤ6:14「しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇りとするものは、断じてあってはならない」
2012年10月21日 説教要旨
  女の記念とされた行為
マタイ26:12、13「この女がわたしのからだにこの香油を注いだのは、わたしの葬りの用意をするためである。よく聞きなさい。全世界のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」
 
 ひとりの女性がイエス様に非常に高価な香油を注いだことがあり、弟子たちは「なんの為にムダ遣いをするのか」と責めたのです。 その香油は非常に高価で貧しい人たちを助けることができるものでした。女性は何とも困惑したようです。 イエス様は彼女を擁護して、「なぜ、女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。」と言われ、上記の説明をされたのです。

 実は、この女性だけが、イエス様のお言をそのままに信じ、彼女のできる最高のささげ物をしたのでした。イエス様はこの行為の前に次のように語っていました。 マタイ26:2「あなたがたが知っているとおり、ふつかの後には過越の祭になるが、人の子は十字架につけられるために引き渡される」

 彼女は、このイエス様のお言を、自分の思いを挟む事なしに、受け止め、自分の出来る最善は何かと考えて行動したのでしょう。 そして、イエス様は彼女の行為を弁護し、「この女のした事も記念として語られる」と最高のお言を残されたのです。

1)イエス様のお言を、大変大事な事として受けとめる。
 女性の信仰のように、イエス様が語られるお言(聖書の教え)を、何一つ軽んじる事なく、深い意味、価値のあるものとして心にハッキリと書きしるすべきです。 2コリント3: 3「そして、あなたがたは自分自身が、わたしたちから送られたキリストの手紙であって、墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心の板に書かれたものであることを、はっきりとあらわしている。」

2)最高のものをキリストにささげる信仰生活を生きるべきです。
 彼女がキリストのお言葉に従って、彼女の最高のささげものをしたように、私達自身もいつも最高のものをキリストにささげる行動を心がけるべきです。 ローマ12:1「神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい」

 イエス様が記念となると言われた行為の価値をハッキリと認識しましょう。
2012年10月7日 説教要旨
  目をさましていなさい
マタイ24:だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである」
 
 マタイ25章は、「目をさましている」信仰生活を、二つの点で教えています。
1)聖霊様による信仰生活
 この譬えで思慮深い乙女は、ランプとともに油を入れた容器をもっている人たち、後の5人は思慮浅く、ランプしか持っていない人たちです。天国へ入れるのはランプと共に油を持つ者だと教えています。ランプは外側の信仰者の証、油は聖霊をさし、聖霊様を内に持つ信仰生活を教えています。 そうでないと、イエス様に「はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない」と言われるのです。聖霊様を内に持つ人は、どう言う人なのでしょうか。それは悔い改めと信仰により聖霊様を受けている人です。自分の神様への罪を認め、その罪を止め、新しく生きる決心をして、イエス様を信じ、従おうとしているかどうかなのです。それは、自分勝手な考えではなく、御言に従おうとする願う生活です。

2)任された奉仕
 もう一つの譬えは、主がその人に任された働きを第一とする信仰生活です。信仰者と言いながら、主が示す働きをせず自分の考えに生きる者は、主に信頼しない者と言われています。 5タラント、2タラント任された僕は忠実に働き、主人に喜んで報告しました。これが人と神様との関係です。しかし、最後の1タラントを任された人は、それを隠してそのタラントを用い働かなかったとあります。その理由を、彼は「ご主人様、わたしはあなたが、まかない所から刈り、散らなさい所から集める酷な人であることを承知していました」と言ったのです。これは信じていないと言っているのです。私達がこの世界で信仰があると言いながら、主に喜ばれることをしない者は、神様に対する信頼がないのです。そのお言を信じていないのです。気をつけなければならないことは、その者に主人は「この役に立たない僕を外の暗いところに追い出すがよい。彼は、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう」と警告されていることです。

 終わりのとき、神様は人を選り分けられるのです。その時の条件は、人の内に聖霊様がおられ、忠実にタラントを用いる信仰があるかどうかなのです。 目をさましているとは、主の教えに忠実に従うこう言う信仰生活を送ることなのです。
2012年9月23日 説教要旨
  キリストにより内を清める
マタイ23:26「盲目なパリサイ人よ。まず、杯の内側をきょめるがよい。そうすれば、外側も清くなるであろう」

 神様は人の内側こそが重要であると教えます。
人は心の生き物であり、心こそがその人の真の価値をもたらすと神様は考えられています。
サムエル上16:7「わたしの見るところは人と異なる。人は外の顔かたちを見、主は心をみる」 素晴らしいお言を下さっています。
外見上の立派さよりも、心の美しさをみられるのです。

1)信仰生活は、人の目を気にする生活ではないのです。
 人を気にする人は、自我が強く自意識の強い人です。そういう人は心にストレスを持ち、様々なことに悩むことが多くなるように思います。しかし、信仰生活とは、人も自分も気にすると言うよりは、神様を何よりも気にする生き方です。

2)外ではなく、内を意識する生き方
 わたしたちは外よりも内、心を意識する生活をするべきです。しかし、それは神様との関わりにおける内側、心を意識するのです。人との関わりにおいて内を意識するなら、間違ってしまいます。

3)うちを清める生き方
 内を清めることを求めるのです。どうやってか、ここでも間違ってはいけないのです。それはイエス・キリストを信じることによって清める生き方を歩むのです。 罪の悔い改めること、イエス・キリストを救主として信じるのです。 信仰者の一切の行動の動機は、キリストを信じる者として忠実であることなのです。

4)外側も清くなる。
 内側が清くなって、初めて真に外側が聖い行動へと変わるのです。
人は霊と精神と肉体によると考えるなら、信仰による救は人の霊を生かすのです。そして、聖霊様とともに霊が生きるなら、精神、心が清められて来るのです。物事の考え方、視点が変えられ、性質が変えられて来るのです。そして、肉体の行動へと外側が清められます。
 信仰生活は救を受け、信仰生活の経験とともに、少しずつ全体が清められていく生活なのです。非常に霊的な生活とは、まさにイエス・キリストに目を注ぎつづけ、目に見えない方に信頼して確信を持って歩む生活なのです。
2012年9月16日 説教要旨
  愛
マタイ22:36〜39「「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。イエスは言われた、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ 」」

 神様が一番大切であると考えていることは、人が神を心から愛する者になることだと言います。神様の願いは「わたしを愛する者になってほしい」と言うのです。
互いに愛し合う関係になりたいのです。

1)神様には人を深く愛する愛がある。
 愛はまず神様によって現され
1ヨハネ4:19「わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである
ヨハネ3:16「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。」

2)愛は新しく心に生まれるものである。
この愛を人間の愛の延長線上にあると考えてはいけないのです。人間の愛は自己中心の愛です。相手によって愛したり、愛さなかったり、憎んだりするのです。
神の愛は、神様によって心の中に造り出していただく性質のものです。
@ 自分の頑張りで受けるものと考えることは誤りです。愛だけを目標にして愛を受けることはできません。
A イエス様を目標にして、忠実に生きる時に、神様が愛を心に生まれさせて下さるものです。
愛の性質を受けることは、真にキリストに似た者となることです。ですから、イエス様はどう言う方、どう言う心で生活をされたか思うことは重要です。

 私達は何人かの忠実なクリスチャンを知っています。彼らは確かに誰に対しても柔和な対応をされ、愛があることを知ります。1コリント13章の愛の性質をそこに見ることが出来ます。雷の子と言われたヨハネが愛の人にされました。
どうして、人は愛の性質を受けることが出来るのでしょうか。
次のことを注意すべきと思います。
 自分自身にハッキリとした悔い改めの心があり、イエス様への信仰があるか。
 自分の考え、思い、計画を捨て、キリストの教えに心から柔順であろうとしているか。 「愛を追い求めなさい」1コリント14:1
2012年9月9日 説教要旨
  復活について
マタイ22:30、31「復活の時には、彼らはめとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである。 また、死人の復活については、神があなたがたに言われた言葉を読んだことがないのか。「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と書いてある。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」
 
 聖書は死んだ後の身体の復活を教えています。 現代において、聖書を信じない人のほぼ100%は復活を信じないでしょう。イエス様の時代、ユダヤ教を信じるユダヤ人の中にも信じない人たちがおり、サドカイ派、サドカイ人とよばれていました。

 彼らはイエス様の語る永遠の命、復活に関することに気を苛立てていましたから、イエス様を律法の教えをよって言い負かせてやろうと考えたのです。

 それは、申命記25章に、妻をもつ兄弟がいて死んだなら、一緒に住むその兄弟がその妻をめとり、子孫を絶やさないようにしなければならないとの教えでした。サドカイ人の言い分は、その教えに従って七人の兄弟の妻となった時、復活したら誰の妻になるのか、と言う問いです。皆が復活した時、二人が一つとなる結婚の教えに、ひとりの女が七人の妻になるのはおかしいと言うのです。

 その時、イエス様は復活の時には、人は結婚関係を持たない、天使のような存在になると、人が誰も知らない真理を答えられたのです。また、律法の中で神様ご自身が「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」とのお言を例に上げて、彼らは神と共に生きている。なぜなら、神様は存在しないものの神とは言わず、生きて存在する者の神であるからと答えました。その答えに、サドカイ人は黙ったのです。私達はこれらの話、教えを通して、次のことを學びます。

1)霊魂は永遠である。

2)復活とは朽ちない身体の復活である。

3)復活によって救われた者は天使のような新しい性格を受ける。

4)神様から離れた魂とその身体の復活は、恐ろしい神様のさばきの前に立つ。
 全く新しい世界を人は経験すると教えています。想定外のことを体験することが多くなった現代ですが、もっとも驚かされる神様のご計画があるのです。私達はその世界が恐れではなく、希望となる生き方をしなければなりません。
2012年9月2日 説教要旨
  神のもの 人のもの
マタイ22:20、21「そこでイエスは言われた、「これは、だれの肖像、だれの記号か」。 彼らは「カイザルのです」と答えた。するとイエスは言われた、「それでは、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」」

 このとき、考え方で敵対する者同士がキリストを貶めるために協力し合うのです。人間の恐ろしい罪の性質だと思いますし、現代のいじめに共通しています。彼らは言葉の罠にかけようとしました。どう答えようと、責める口実にするつもりだったのです。
 神の子として自分を言い表し、真実の行動しか出来ず、人を見て遠慮しないキリストなら、ハッキリと反体制的な答えをすることを期待したのです。 なぜなら、神を信じず、神の教えを否定し、ローマ皇帝こそが絶対的に第一人者であることを宣言する者たちの味方をするかと言う問題なのです。彼らに税を納めることは、神様を第一にすることに背くことではないかと言うのです。

 イエス様は非常に賢い答えをしたのです。貨幣を見せてもらい、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」

1)あなたの判断のままに
 第一に思うことは、その判断はあなたに任せられていると言われたように思います。彼らの罠に対する最も賢い答えのようです。偽善者に対する答えですし、私達自身が正しい判断が出来る者にならなければならないことを學びます。

2)権威に従うべき
 イエス様は権威に従うべきことを教えられたのです。信仰者には二つの権威の中にいます。一つはこの世の権威、二つ目が神の権威です。この世では親・学校・仕事場・県、国の施政者・法律・・・これらの権威にありますが、イエス様は従うことを教えられたのです。その時、神様の権威との関わりが問われているのです。
 @協調しあえるものがある。 ローマ13:1
  信仰者は平和的であるべきですし、一切は神様のご計画、ご支配の中にあるので、安心して従うことを勧めます。
 A混同しては行けない。
  しかし、この二つは決して同じものではなく、全く違った性質のものです。神様を第一として、御心してこの世の権威に従います。

3)私達自身は、全く神様のものです。
2012年8月19日 説教要旨
  創造主とわたしたち
マタイ21:33「もう一つの譬を聞きなさい。ある所に、ひとりの家の主人がいたが、ぶどう園を造り、かきをめぐらし、その中に酒ぶねの穴を掘り、やぐらを立て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた」

 私達の社会は、ほぼ無神論です。人はどこかの家族に生れ、運と努力によって未来を切り開くと考えます。幸福は自分で勝ち取るものであり、社会の底辺にいる人たちは、不運で富も能力もない不幸は可愛そうな人たちと思われがちなのです。そこには神様がおらず、自分が中心の自分だけの人生なのです。

 しかし、聖書は万物を創造された神様がいると言い、教えは人の常識を覆します。その教えは人の思いを遥かに越えて、信仰を持って聖書を読まなければ理解できません。聖書からその創造主なる神様と私達の関わりをイエス様から學びます。

1)神様は一切を創造され、一切を準備してくださっている。
 上記聖句の「ひとりの家の主人」は、ぶどう園を造り、かきをめぐらし、酒ぶねの穴を掘り、やぐらを立ててから、農夫に貸しています。
この事は、一切の周りにあるもの、自分の内にある一切のものは神様によって準備されていると言うのです。

2)私達は委ねられている。
 そして、これらを委ねられているのです。そこで、人生は自分の勝手にできるものではないと考えるべきです。神様に一切のものを委ねられている人生とは、つまり、自分の喜びのために働くのではなく、神様の御心に沿って受けているものを用いる生活、忠実であることが大事なのです。

3)自分のためだけに生きている。
 注意すべき事は、私達は自分のために生きている事です。農夫たちは主人の遣わしてきた僕たちを袋だたきにし、殺したと言うのです。人は神様の伝言を聞かず、無視してしまっています。ついに、イエス・キリストを自分の罪のゆえに殺してしまったのです。私達の罪がキリストを十字架に張り付けています。

4)神の国は「実を結ぶ異邦人」に与えられた。
 私たちは神を知らず、自分本位に生きる者でした。しかし、イエス・キリストが十字架で身代わりに死んで下さった事により、救が私達に提供されているのです。罪を悔い改めて、イエス様を信じるなら、真実に神の御心に歩み、実を結ぶ者になり、神の国に入ると言ってくださっています。
 私達の信仰生活は、創造主を意識し、その御心に歩む事を第一にする者でなければなりません。一切を備えてくださっている方に柔順に従う生き方です。
2012年8月5日 説教要旨
  信じる信仰
マタイ21:21、22「もしあなたがたが信じて疑わないならば、このいちじくにあったようなことが、できるばかりでなく、この山にむかって、動き出して海の中にはいれと言っても、そのとおりになるでろう。 また、祈りのとき、信じて求めるものは、みな与えられるであろう」
 
 信じることについて書かれています。
この言の前に、イエス様は実をつけていないイチジクに、「今から後いつまでも、おまえには実がならないように」と言われたのです。イチジクが実をならす季節ではなかったにもかかわらずです。
 わたしたちはここから、信じることについて掘り下げて学ぶことが出来ます。

1)神様のお言は常に正しい。
 信仰において、私達は完全な御言に対する信仰、信頼を持っていなければなりません。イエス様のお言正しいと言う信仰です。そこに自分の考えを入れないことが大事なのです。なぜなら、人の思いと神様の思いとは違い間違うものだからです。 イザヤ55:8「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり」と言われるのです。

2)神様のお言は必ず成就すること。
 イチジクは次の日には根から枯れていたとあります。(マルコ11:20)神様の御心は必ず成就する、正しいことが証明されるのです。これはイエス様を主として従う私達には大きな励ましとなります。

3)信仰の力
 <山が動き出して海の中に入る>とは不可能に思えることですが、信仰は可能にすると言われました。

4)イエス様のわたしたちに対する御心を信じる。
 私達が信ずべきことは、神様のわたしたちに対するあわれみ深い約束であり、従うときの成就です。信仰に従おうとする時、イエス様があなたにとってどれほど身近な方であるかが問われていると思うのです。自分をどのように見てくださっているか。 あわれみ深く、目をとめてくださる最高の主として見ているでしょうか。

 その時、私達の信仰はより積極的で確信に満ちたものとなると信じています。どんな状況にも信仰に立って、答えを得る信仰生活が出来るのです。 タラントの譬え(マタイ25章)で、怠惰な僕は、主人を「酷な人」と承知していたと言いました。イエス様を心にどう描いているかは大事なのです。そして、変わらず信じるのです。多くの失敗は信じることを止めた結果なのです
2012年7月29日 説教要旨
  子ロバにのられるキリスト
マタイ21:5「すなち、「シオンの娘に告げよ、見よ、あなたの王がおいでになる、柔和なおかたで、ろばに乗って、くびきを負うろばの子に乗って」」
 
 イエス様がエルサレムの町に入られることは、特別なことでした。そこは神の家であり、捕えられ十字架につく場でもあったのです。 イエス様の救の業の完成のためにエルサレムに入られるのであり、その特別なとき、イエス様はロバの子にのって都に入場されたのです。 どうして?誰もが思うのです。昔の預言の成就であると言う答えがありますが、同時に、イエス様の内面、イエス様の思い、御心が現れていると思うのです。

 なぜ?ロバを選ばれたのか。 ロバは荷物運びの動物です。「くびきを負う」とは荷物運びのためであり、イエス様は荷物運びのロバに乗られたのです。 イエス様は威風堂々とした馬ではなく、汚れ、我慢強いロバを選ばれたのは、ご自分の謙遜と忍耐と従順を示されるためであると思うのです。

 更に、ロバの子をあえて選ばれて乗られました。子は未熟を意味します。マルコは「人の乗ったことのない」と書かれています。 なぜ?とまた思うのです。イエス様は未熟なロバを用いられたことを學びます。

 イエス様は外見を重要視されません。実際、バプテスマのヨハネはらくだの毛衣を来て、野で生活され、イエス様は大工の子として家畜小屋で生れ、飼葉桶に寝かされたのです。また、わたしたちを外見や能力で判断されないのです。 イエス様に従順であるなら、仕える者として未熟な者をも神の栄光として用いてくださるのです。

 ところが、宮に入られるとイエス様は商売人を追い出し、その用具をひっくり返されたのです。「わたしの家は祈りの家ととなえられるべきである」と言われ。神に対する罪に対しては権威をもって厳しい対処をされました。これがイエス様です。イエス様は私たちにとると非常に温和で愛に満ちた方です。救われるためには、真心から心の中の罪を悔い改めて、イエス様を信じれば良いのです。しかし、信仰によって神の宮とされたなら、一生懸命に罪を清める信仰生活を願わなければなりません。イエス様によって救われ、清められるのです。
2012年7月22日 説教要旨
  仕える人
マタイ20:26、27「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、 あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない」

 この時、イエス様の弟子たちは誰がいちばん偉くなるかと言う名誉にとても興味があったようです。彼らはイエス様の右と左に座りたいと願っていたました。 イエス様は弟子たちの考え違いを指摘されました。

1)仕える人となる
 偉くなりたいと願う人は、仕える人になりなさい。それは上から指導すると言うものではなく、僕のように仕える人が偉いと言われたのです。

2)理由
その訳は、イエス様も仕える者として世に来られたことと同じだと言われました。 マタイ20:28「それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」 神様自身が仕えることを恥とせず、尊いこととして見ておられるのです。

 罪人のわたしたちが仕えることを学ぶことは至難です。それは自己主張を止めることであり、他者を尊ぶ愛の心がなければ出来ません。その尊い生き方を教え、その道に招かれるのがイエス・キリスト様です。 わたしたちはイエス様を信じて、初めて真に仕えることを学ぶのです。

1)神に仕えることを学ぶ。
 第一に、わたしたちは神様に心から仕えることを学ばなければなりません。 イエス様の尊い救を見て、自分の罪を悔い改めて、信仰を持って救われることによって、主を信頼し、仕える者となるのです。それは主を誇る生き方なのです。 2コリント10:17、18「誇る者は主を誇るべきである。 自分で自分を推選する人ではなく、主に推薦される人こそ、確かな人なのである」

2)神様の恵みに満たされていることを知る。
 イエス様によって、わたしたちが神に近い者とされたこと、罪をゆるされ、永遠の命を受けたこと、種々の神様の恵みに満たされていることを知るのです。信仰とは心の満たしを経験します。平安、喜び、安心、感謝となってあらわれます。

3)他者に仕える生き方をするのです。
 イエス様の弟子として、わたしたちはイエス様が歩まれたように、隣人に仕える道を進むのです。決して恥ずかしい事ではなく、損でもなく、尊い態度であり、多くの恵みを得る最善の道であることを学ぶのです。神と隣人に仕える心を持ちましょう。主の祝福がそこにあります。
2012年7月1日 説教要旨
 ゆるす事について
マタイ18:21−22「そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。 イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい」

 自分に対して不快なこと、傷つくことをされた場合、イエス様はゆるしなさいと命じられました。神様に対して罪を犯した場合、聖書は悔い改めるよう助言せよと言いますが、自分に対する罪は全くゆるしなさいと命じているのです。

 実際、日常生活には、ゆるさなければ平安な生活ができない場合が数多くあります。親子の関係、夫婦の関係、仕事場での関係、友人知人・・・いつもゆるすことを試される機会が起こっているのです。わたしたちは、いつもゆるす心の態度を持ち合わせていなければなりません。

 聖書の「ゆるす」と言う単語は、「解き放つ」と言う意味があり、忘れることを意味しているようです。忘れるほどにゆるすことが本当のゆるしです。そうでないと、なにかの時に、前の責める思いが口から出るのです。つまり、ゆるしてなかったと言われてしまいます。

 ゆるせないことは、心の中のプライドや価値感を傷つけられた場合にあるので、心の中心の問題だと思うのです。つまり、心の中から出てくる憎しみ、怒りに蓋をせよ、忘れてしまうことであるので、非常に難しいことであって、とても出来ない事とも思えるのです。ゆるせと言われるとき、実に、ゆるしとは、神様によって教えられ、与えられるものでなければ、自分では不可能なのです。

 ですから、イエス様は王に一万タラント(返済不可能な額)の負債のある人の譬えを話され、しかも、必ず返さなければならないものと言われました。ゆるしてもらうしか方法がない状況なのです。王(神様)は哀れに思ってゆるされたとあります。この話は、人はみな神様にゆるしをうけなけばならない者であることを教えています。わたしたちは罪を悔い改めてイエス様を信じました。そして、罪をゆるされ救われているのです。

 人は神様への罪の自覚と、キリストの十字架によって受けるゆるしをよくよく確信しなければならないのです。わたしたちはキリストの苦しみの身代わりの十字架により、悔い改めと信仰によって救われたとハッキリと信じるのです。その救の自覚、喜び、平安が、人をゆるす動機、力となって、人をゆるすことができるようになると教えてくださっています。 キリストと救の信仰によって、わたしたちは人をゆるすことを學んでいくのです。
2012年6月24日 説教要旨
  心を合わせる
マタイ18:19−20「また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。ふたりまたは三人が、わたしの名によって集っている所には、わたしもその中にいるのである」

 信仰生活は孤独な修行生活ではありません。一人の信仰生活と言うのは聖書的ではなく、心を合わせて生きることが信仰的なのです。なぜなら、聖書が第一に教える愛は、相手があって始めて愛することができるのですし、また、人は共に生きるように創造されたのです。
創世記 / 2章 18節「また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」」。

 教会とは<集り>の意味の言葉で、クリスチャンの集りを教会と呼んでいます。教会で大事なことが「心を合わせる」ことなのです。
ペテロは、「心をひとつにし」なさいと命じました。
1ペテロ3:8「最後に言う、あなたがたは皆、心をひとつにし、同情し合い、兄弟愛をもち、あわれみ深くあり、謙虚でありなさい」
 人は生まれながらに自己中心に生まれてきていて、大人になるにしたがって、より自己の満足のために生き、他者に対する不信も持つようになってきていると思うのです。そして、人になかなか心を開かなくなります。

 しかし、イエス・キリストが望まれているのは、そう言う争いの社会に、信仰者が平和をつくり出し、神様中心の心を合わせる集りをつくりあげることなのです。それが教会です。そして、世にいる多くの生きることに迷い、罪の中に滅びに向かう人々を救いに導く働きを任せているのです。
 イエス様は心を合わせる兄弟姉妹の願いには、神様は答えてくださると言われました。「地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。・・・わたしもその中にいるのである」と約束してくださっています。

 わたしたちは心を合わせる教会を目ざさなければなりません。同じ理解と望みと願いを持つ関係に近づかなければなりません。
その為に、1)聖書を學びます。神様の御心にあってひとつ思いになるために、真理なる御言の理解で一致が必要なのです。
2)同じ願いをもとうではありませんか。同じ願い、目標を持ち、心を合わせて熱心に祈る教会が必要なのです。兄弟姉妹、主の為に、心を一つにすることを求めましょう。きっと神様のお力を受け、信頼と平安と喜びの信仰生活があります。
2012年6月17日 説教要旨
  キリストの幼な子
マタイ18:3、4「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである」

 イエス様は私達に幼な子であれと勧めています。
幼な子とは、どう言う者のことをいっているのでしょうか。どうある者なのでしょうか。「幼な子」とは、小さい者、未熟な者と言う意味を持っています。イエス様は未熟な者が持つ心を持つように言われているのです。ここではそれを「自分を低くする者」と表現されました。 マタイ18:4「この幼な子のように自分を低くする者」 ところが、これこそが信仰者の立ち向かうべき大きな目標、つまり努力と継続が必要な目標なのです。

 大人となった私達は非常に自己中心の性格を持ってしまっていて、信仰と自分の利得を同じように見てしまっていて、どんな事も、自分にとって利益があるかどうかで判断をしてしまう罪の性質があるのです。
 しかし、そう言うわたしたにイエス様は
マタイ18:3「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ」とハッキリとした悔い改めの必要を命じているのです。
 心を入れ替えることは、自己中心の性質に満ちた私達には、自分の努力ではどうしようもないものなので、ただ、悔い改めの決心とイエス様を信じる信仰とにより、神様の聖霊を受けて、神様の助けによって可能なのです。ローマ8:14ー16

 感謝なことは、そのような心をいれかえ、幼な子の信仰を持ったクリスチャンを、神様は非常に愛して下さると言う宣言があります。
@ 砕かれた魂を大切にしてくださる。 詩篇51:17
A 神の幼な子に御使いが仕えてくださる。 マタイ18:10
B つまずかせる者に、恐ろしいさばきの宣告がある。 マタイ18:6
C 一人の神に帰る小さい者に、天で大きな喜びがある。 マタイ18:12ー14

 私達はどう言う信仰生活を目ざせばよいのでしょうか。
それはただ、イエス様に従順であることであります。イエス様に従順である心を育て、その為の努力でなければならないのです。幼な子は、自分の能力を評価する者ではなく、ただただ、信頼と従順の性質を持った者なのです。信仰の最初から最後まで、初心者のような謙遜な心をもって、イエス様に対する従順さを尊ぶ心によって、キリストに従うことを目標に、幼な子の心で信仰生活を歩みましょう。
2012年6月10日 説教要旨
  からし種の信仰
マタイ17:20「するとイエスは言われた、「あなたがたの信仰が足りないからである。よく言い聞かせておくが、もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって「ここからあそこに移れ」と言えば、移るであろう。このように、あなたがたにできない事は、何もないであろう」」

 信仰の力について、わたしたちは期待しなくなる危険があります。思いどおりにならない生活があるとき、信仰的熱心についても自分に欠けがあることに気付き、信仰に期待することを止めてしまうのです。しかし、止めてしまうことこそが信仰的ではありませんし、どうも、考え違いをしているのではと気付かされます。

 ここで、イエス様は小さいとされる信仰にも、大きな力があると言われました。「からし種一粒ほどの信仰があるなら、山を移すことができる」と言われたのです。ただ驚きと、どう言う意味があるのだろうと不思議に思うのです。
次のことを教えられるのです。

1)信仰には不可能と思うものを成就する力がある。
 私達の願いです。信仰者は世では不可能と思っていることを成し遂げることをイエス様から受けているはずです。それは信仰によるはずです。

2)信仰について、考え違いをしている。自分に期待しては行けない。
 この聖句を読む時に、信仰についてもう一度考えさせられます。信仰とは、自分の力に頼るものではなく、イエス様に全く頼るものです。自分に足りないのは当たり前、なのについ、自分に足りないことばかりに目が行き、努力しなければ、頑張らなければと思いながら、変わらない自分に落胆してしまうことが多いのです。

3)信仰とは神様に期待すること。
 もう一度思い返すと、信仰とは自分ではなく、神様に期待することです。自分は全くの罪人、間違いの道を歩みつづけた者。そして、悔い改めて、イエス様を信じる者になったのです。カルバンと言う人が次のように言っています。
<パウロは「信仰」を定義して、「福音に対してなされる従順である」と言う>とキリスト教鋼要で書いています。
からし種の信仰とは、自分の不足を十分に知った者が、イエス様を信じ、その教える道に服従することなんだろうと思うのです。自分を見て落胆してはいけないのです。それはもうすでに分かり切ったことです。ただ、キリストによって前を向き、信じて服従する時に、大きな事がらをも達成する力がある、できるのです
2012年6月3日 説教要旨
  命について、それを見いだすこと
マタイ16:24、25「それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう」

 自殺者増加や大震災などの恐ろしい災害から、命について考えさせられることが多くなっています。日常生活では目先のことにあくせくして、命について忘れてしまいがちですが。最も大事なことなのです。 マタイ16:28「たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか」 命のことを考えるとは、死について考えることでもあります。 マタイ16:26「また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか」 この聖句の意味は、死について、払うべき代価は大きく人は人を救えない、人には手の施しようがないというのです。死んでいる人の命を買いもどすことは出来ないのです。

 命には、二つの命があります。同様に、死にも二つの死があります。
第一は、肉体の命です。だれもが知っている有限の命。ヤコブは ヤコブ4:14「あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない」と言いました。人がすべてと考える肉の命は、一瞬の命であり、たちまち消えてしまう死が来ると言うのです。これから逃れることは出来ません。

第二に、霊的命です。聖書が教える命であり、永遠の命と言われるものです。
この命について、人はすでに死んでいると言われています。 黙示録2:1「あなたがたは生きていると言うのは名だけで、実は死んでいる」 人が罪の中に生きている時、聖書は霊的には死んでいると言います。罪が死をその人にもたらしているのです。(ローマ6:23)そして、その死からも、人は人を救い出すことが出来ないと言っているのです。

 しかし、イエス・キリストだけが人を罪と死から買いもどし、救うことがおできになることが福音であり、聖書の教えです。ヨハネ3:16 この救いの道は、イエス・キリストを信じ、従う道なのです。その信仰の道は、世の人には出来ない険しい道に見えるかもしれません。しかし、主に信頼する者には決して耐えられない道ではなく、神の恵み、神の命を見いだす道なのです。イエス様を信じるなら、イエス様が助け、導いてくださる幸いな命の道です。
2012年5月27日 説教要旨
   神のことを思う
マタイ16:23 「イエスは振り向いて、ペテロに言われた、「サタンよ、引き下がれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」

 私達は、イエス様が言われるように、神さまのことを忘れ、人のことで頭がいっぱいになってしまって、その結果、悪い心の状態になることがあるのです。 ペテロはイエス様の言葉に、つい自分の立場を越えて、自分の考えを口にしたのです。イエス様が今後、ご自分に起こることを示しはじめられていた時でした。
マタイ16:21「この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえることを、弟子たちに示しはじめられた

 ペテロはイエス様の王として成功することを信じて、イエス様の苦しみと死についてのお言を否定したのです。苦しみ、殺されるなどとあってはならないことと考えたのでしょう。そう言う考えは心に一つもなかったのです。 私達も、つい神様のご計画、教えに従うことを考える前に、自分や人のことを気にして考え、行動することがあります。

 時に、大切な人のゆえに、神様をお心を思わず、人を恐れたり、人を喜ばそうしたりすることを優先してしまうのです。しかし、そう言う態度、心をイエス様は叱責されました。どんな大切なことよりも、神様を優先しなければなりません。
 家族のことを神様より優先していませんか?
 仕事の上司を神様より優先していませんか?
聖書は次のように言います。 箴言 / 29章 25節「人を恐れると、わなに陥る、主に信頼する者は安らかである」 「わなに陥る」と聖書は教えます。 人を優先すると、人が真に持つべき、心の方向が間違っているのです。 その思いは、神様の教えからすぐにずれてしまいます。 心に神様からの恵みを受ける道にありません。

 神様のことを思う生活とは、神様に信頼し、第一に御言に従う生活。神様に信頼し、希望を持つ生活です。その時、人は初めて不平不満のない、信頼と安心のある日常を送ることができるのです。神様はもっとも大切な方なのです。
2012年5月20日 説教要旨
  さいわいな告白
マタイ16:15〜17 「そこでイエスは彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。 シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。すると、イエスは彼にむかって言われた、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである」

 このペテロの告白が非常に重要であることは、イエス様の前後のお言でよく分かります。イエス様は弟子たちが自分をどう理解しているかがとても気になっていました。なぜなら、それこそが福音(良き訪れ)であり、罪人の救いにつながっているからです。わたしたちも、信仰の真髄にイエス様はどう言う方かとの、ハッキリとした答えを持っていなければならないのです。

 人々はどう言っていたか?悪意のある人々の中には、「悪霊の仲間」と言う者もいました。おおくの人は預言者の一人と言いました。「バプテスマのヨハネ」「エリヤ」「エレミヤ」と思う人が多かったのです。それほどに不思議な業を行い、力ある言葉をイエス様は語っていました。

 ところが、イエス様はそれらを否定されて、弟子たちに問うと、ペテロが「あなたこそ、生ける神の子キリスト」ですと答えました。
この告白の第一の大切な点は、

1)信仰の対象
「生ける神の子」とは、人なる預言者ではない、信仰の対象である神であることを暗示しています。

2)キリストとは
キリストとは、本来の意味は「油注がれた者」と言う意味があり、旧約の時代では「王』「祭司」「預言者」がその職務に任命される時に油を注がれたのです。しかし、イエス様は油注がれたダビデ王の子であることを否定しました。マタイ22:45 それを越して、ダビデが主と呼んでいることを示したのです。 また、キリストは、ただ一人の教師であると説明しました。(マタイ23:10)

3)特別な方
キリストは、人を超越され、神としてのご自分を現された。コロサイ1:15〜17

4)この告白の上に、神様の恵みがあるのです。マタイ16:18〜19
この告白をしたペテロは、神様のお言を任され語り、戒め、そして教会が建てられました。この告白が如何に、重要であるかが分かります。
2012年5月6日 説教要旨
  聖書のことば
コロサイ3:16「キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい」

 聖書のお言葉を神様のお言葉として信じることは、信仰の最初にあるべきものです。私達の教会の信仰箇条の最初にその事が書かれていて、そこから信仰が始まると言って過言ではありません。なぜなら、信仰はキリストから来るものであり、キリストは聖書の中に示されています。

 マタイ15章にあるイエス様のお言葉は、神様のお言葉に対する人の心の態度の間違いについてハッキリと語っています。

1)何よりも神様の言葉は優先されるべき
彼らは先祖からの言い伝えを神様の御言と同列におき、いや、従うことにおいてはその上にしていました。人の言い伝えによって、神様のお言葉が見えなくしていたのです。何よりもまず、神様の御言を第一に考えるようにしなければなりません。

2)神様のお言葉をただしく理解しなければなりません。
次の問題として、御言を正しく理解していないことです。イエス様は人を汚すのは食べる物ではなく、その人の心から出てくる悪い思いであって、その罪がその人を汚すと言いました。

 私達が注意深くなければならないことは、外にあるのではなく、自分の内にある心なのです。そして、ついにはイエス様の元に、救を求めて行くようにならなければならないのです。罪のゆるし、清め、救が彼とともにあるからです。

 そこで、信仰者として生きる今、第一に求めなければならないことは、聖書のお言葉なのです。熱心に求める心が大事なのです。1ペテロ1:1、2「だから、あらゆる悪意、あらゆる偽善、そねみ、いっさいの悪口を捨てて、今生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち、救に入るようになるためである」

 第二に、ただしく理解することが重要です。聖書のお言葉には、私達の理解を遥かに超えた恵みがあります。その恵みの理解が大切なのです。詩篇119:97〜101「いかにわたしはあなたのおきてを愛することでしょう。わたしはひねもすこれを深く思います。あなたの戒めは常にわたしと共にあるので、わたしはわが敵にまさって賢くします。 わたしはあなたのあかしを深く思うので、わがすべての師にまさって知恵があります。 わたしはあなたのさとしを守るので、老いた者にまさって事をわきまえます。 わたしはみ言葉を守るために、わが足をとどめて、すべての悪い道に行かせません」
2012年4月22日 説教要旨
  試練の中の信仰の教え
2テモテ2:1、8「そこで、わたしの子よ。あなたはキリスト・イエスにある恵みによって、強くなりなさい」 「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえられたイエス・キリストを、いつも思っていなさい」

 弟子たちが湖の上で暴風にあえぎ、苦戦する話が二度福音書に出てきます。一度目にはイエス様が舟の後で寝ていて、弟子たちの怯えに信仰の不足を責められた話がありました。二度目は、イエス様の命令で、今度は弟子たちだけで湖を渡っている時でした、イエス様は少しずつ状況を変えて、訓練しておられます。

 二度目の特徴は、イエス様が目の前におられなかったことです。そう言う時でも、私達は、心にイエス様を忘れず思っていなければなりません。

 訓練は一度限りではなく、くり返しあるものです。その訳は、霊的に未熟な者が、真に信仰の深さを理解するようになるためで、同じような悩みをいつもしていると、進歩のないことを嘆く必要ありません。少しづつ状況が変わってきていて、これらの試練を通して意味ある学びをしているのです。毎日のくり返しこそ、最高の訓練の場です。

 弟子たちは嵐の中で舟を前進させて早く対岸に着こうと一晩中苦闘していました。その忍耐も信仰のなせる業なのですが、そう言う時、私達の心はその苦闘の一点に支配されて、イエス様のことを忘れることがあるのです。その労働は忍耐を必要とする尊いものであっても、イエス様のことを忘れては霊的な大事な祝福を見いだせなくなります。ですから、弟子たちはイエス様が水の上を歩いてこられるのを見て、マタイ14:26「弟子たちは、イエスが海の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと言っておじ惑い、恐怖のあまり叫び声をあげた」と、信仰のない者のように心の動揺を示しました。イエス様を思うことを忘れていたからです。
仕事、家庭、娯楽であろうと、いつもイエス様を忘れてはならないのです。

 また、イエス様はマルコ6:48「そばを通り過ぎようとされた」とすぐ側を通り過ぎようとされる不思議なことが書かれています。なぜと思うのです。 私達は、信仰とは私達がイエス様に求めるものであることを学びます。イエス様の方から強引に介入されるのではなく、私達の方からイエス様に助けを求めることをしなければなりません。「求めよ」「捜せ」「たたけ」と言われています。

 何度もある訓練の時、私達はイエス様のことをいつも思い、そこにある学びを理解して、知恵あるものになり、成長する者でなければなりません。イエス様にある一切の恵みによって強くなる経験をしなければなりません、したいものです。 
2012年4月22日 説教要旨
  信仰を教える
コロサイ3:17「そして、あなたのすることはすべて、言葉によるとわざによるとを問わず、いっさい主イエスの名によってなし、彼によって神に感謝しなさい」

 イエス様のお言意は、私達の未熟さのゆえに、すぐに理解出来ないことがあります。マタイ14:13〜21に、イエス様の後に従う群衆、男の人で5000人、全体では10000人を越したであろう人々にパンと魚を与えた話があります。
その中で、最初、弟子たちに「あなたがたの手で食物をやりなさい」と命じながら、その後で、子供の持っていた5つのパンと魚二匹を「それをここにもってきなさい」と言われたこともその一つです。

 私達はこの話の中にも、信仰とはどう言うものか?との答えを教えようとされたのではないかと思います。。
1)信仰とは、イエス様のお言葉を信じること。
つまり、イエス様の言葉を信じて、従うことです。弟子たちは全く不可能と考えたのですが、イエス様は「あなたがたの手でやりなさい」と命じられました。
信仰とは、このイエス様の言葉を信じ、従うことであると思うのです。

2)信仰とは、イエス様のお力を信じること。
イエス様は「それをここにもってきなさい」と命じられました。信仰とは、イエス様がなし遂げて下さることを信じるのです。事実、すべての事は神様のご計画と承認の中にあって、進められているのです。ですから、どんなに上手い状況になっても高ぶることなく、失敗だと思うことがあっても落胆しないように。すべては神様のご計画の中にあって、万事が益となると信じることも信仰です。

3)その結果、多くの人々が満腹したとあります。結果は、すべて神様の栄光となるのです。私達が神様の素晴らしさ、恵みの大きさを知るためにも、神様の御心を受け入れ、信じ、従わなければなりません。

 私達の日常生活の一切において、信仰によって考え、判断し、行動しなければなりません。 その心の態度が安心となり、喜びとなり、結果は自分の思いを遥かに越えた祝福となる。そう言う信仰生活を目標にしましょう。           
2012年4月15日 説教要旨
  天国を思う
ヘブル11:13〜16「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものを受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。 そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示してる。 もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。 しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである」

 天国のことを思う人は、それに反比例して地上のことで思うのです。つまり、天国の祝福を信じている人は、地上の災に動揺することが少なくなると言うことです。そういう人は、自分を「地上では旅人、寄留者」と自認しています。
 聖書は天国を「天にあるふるさと」とよんでいます。地上のふるさとは、変わってきたと言わざるを得ませんが、天のふるさとは永遠に変わることがありません。 信仰者がいつまでも喜びの場、慰めの場、希望の場として持っているのです。

1)クリスチャンはハッキリと心にもっていなければなりません。
 天のふるさとは、私達の心にハッキリと持っていなければなりません。その詳細について知らないことは山ほどあります。しかし、望みの場として、休みの場として心の中にしっかりとあるものなのです。地上のものは移ろい変わりますが、天の希望はさらに心の中に明らかにされてくるものです。

2)どうして受けたかを忘れてはならない。
 私達が天のふるさとを受けたことについて、何一つ忘れてはならないのです。 どこから、どうして受けたか?あくまでも神様の恵みであって、私達の行いではないことを忘れてはなりません。謙そんに神の愛を忘れてはなりません。父なる神はそれを計画され、私達は、御子キリストの愛と犠牲によって受けたのです。 ヨハネ3:16 わたしたちに求められていることは、真実な悔い改めと信仰です。

3)天国は非常によいところで、最も幸いなところです。
 天国をどうとらえたら良いでしょうか。そこに入る人は、天国を求めている人です。熱心にもとめて入るのです。また、イエス・キリストによって罪から解放された人たちです。また、イエス・キリストに心から従うことを喜ぶ人たちなのです。ですから、そこに入る人は最高の幸いな所を得たことになります。天国の望みがあって、私達は本当の意味で信仰者の証ができる人になります。真実に悔い改めイエス・キリストの救を求め、常に天のふるさとを期待するものでありましょう。
2012年4月8日 説教要旨
  キリストの復活
ヨハネ20:27-29「それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じないい者にならないで、信じる者になりなさい」。 トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。 イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」」

 イエス様は十字架につけられ、墓に葬られ、三日目によみがえられました。これが最も大事な信じなければならない福音であるとパウロは教えています。ただ、復活こそ人にとって最も信じることが困難な出来事であることも確かなのです。 十字架につけられる前から、キリストは十字架と復活を預言していました。しかし、弟子たちは誰も本当には信じることができなかった。十字架の死を目撃した時、預言の通りだと、死も復活も言われていた通りだと信じれなかった。

 ここに出て来るトマスも同じく、人の復活などありえないと言う自分の思いによって仲間の言葉を拒んでしまっていました。 しかし、復活を信じる大事な意味はここに暗示されているとおり。つまり、神様を信じるとは、自分の考えによらず、神様の偉大なお力を信じることであり、信仰とは、神様に不可能はないと言う確信を持つことなのです。パウロの語る救いの条件に ローマ10:9「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる」と救われる条件に「キリストの復活」を信じることが含まれているのです。

 トマスが復活のキリストに出会った時の態度を見てみましょう。キリストに出会って感動のままに告白しています。「わが主よ、わが神よ」 彼は復活のキリストを見て、真実として復活を信じ、キリストを主、神と信じたのです。そのトマスの告白を見、イエす様は「あなたはわたしを見たので信じたのか。」と言われました。信仰とはキリストの復活を真実として信じることなのです。 私達に問われる二つの言葉があります。 @「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」 A「見ないで信じる者は、さいわいである」
私達は感謝なことに、直接目で見ないで、復活のキリストを信じている。これはイエス様の命令に従うものであり、さいわいな道を進んでいることになるのです。 信仰によって生きている証拠なのです。復活を心に鮮やかに信じている信仰者に不安はないのです。死からよみがえられたキリストをハッキリと信じよう。あなたの信仰の力となります。
2012年4月1日 説教要旨
  種蒔きの譬え
マタイ13:23「良い地にまかれたものとは、御言を聞いて悟る人のことであって、そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである」

 イエス様は譬えで多くのことを語られました。 マタイ13:34「イエスはこれらのことをすべて、譬で群衆に語られた。譬によらないでは何事も彼らに語られなかった」

 人に知られない神様の奥義を語るとき、イエス様はたとえでのみ話をされたと言います。ここでは種蒔きの譬えで、どのような信仰生活に神様の祝福があるか、ないかを教えられたのです。 たとえ話で話すのには、二つの理由があるようです。

 一つは、人の知らない真理を分かりやすくするため、また心に残るようにするためです。その為に、伝えようとする一つのテーマにあわせて、譬えを語ります。

 この種蒔きの譬え話では、信仰生活は心の目を見、耳で良く聞かなければならないこと、その為には忍耐が必要であり、さまざまな誘惑に勝たなければならないことを教えようとされています。そして熱心に御言を学び行おうと求めるなら神様の恵みが確かに与えられ、そうでないなら一切を失うことをと教えようとしているようです。そのままに語ることは難しいですし、複雑で混乱しそうです。しかし、この種蒔きの譬えによって、単純な農作業に譬えて語り、複雑そうな教えが、まとめられ心に残るのではないでしょうか。

 二つ目は、譬えで話すことによって、真実に求めようとしない人たちには神様の奥義が分からないように譬えで語ると言いました。神様の奥義はキリストを求める弟子たちにのみ理解するように語ることが御心なのです。信仰のない人たちには、まず悔い改めと信仰の勧めが語られるべきなのです。
 
 私達はこの神様のお心を知るなら、イエス様の話されることを聞こうとしない、目を向けようとしない、熱心に学ぼうとしない態度は決してとってはいけないことに気づくのです。
 種蒔きの譬えで言うなら、自分の心が良い地でなければならない、良い地になりたいと熱心に願う信仰生活でなければならないのです。
確かに、イエス様は求めるなら与えられると言われているのです。御言を悟る者になり、それを実践する者になって、神様の下さる恵み、イエス様によって明らかにされた恵みを豊かに受けるものにならなければならないのです。 
2012年3月25日 説教要旨
  神の家族の恵み
マタイ12:49ー50「そして、弟子たちの方に手をさし伸べて言われた、「ごらんなさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。 天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」

 イエス様は実の家族を差し置いて、弟子たちをご自分の親密な家族であると言われました。私達であれば躊躇する言葉ですが、神の御子、救主イエス・キリスト様であればこそ、とても大切な真実を伝えようとされたのです。

 私達は神様との密接な家族の関係があると言われるのです。 以前、神様のご存在を信じなかった私達には思いもよらないことですが、とても大きな幸いが目の前にあると教えてくださっています。

1)キリストの十字架の死によって始まりました。
 この関係は、イエス・キリストが罪人のために身代わりに十字架で死んで下さったことによって始まりした。 ローマ5:8「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである」 この特別な神様の愛こそが、この家族のつながりのきずななのです。

2)弟子にたいして語られました。
 イエス様がついてきていた弟子たちに対して語られました。彼らはこの一二年の間の関係です。しかも、彼らの多くは、罪人と見られていた人たち、何の取り柄のない者たちと自覚している人たちでした。神の家族としての特権は、ただイエス・キリストを信じる者たちに向けられている価値のない者に向けられているのです。しかも、他に比較できないほどの恵みある立場にされるのです。

3)私達はどう生活するべきでしょうか。
 a)神の家族の一員になることです。
 b)悔い改めと信仰こそが、その方法です。
 c)神の御心を熱心に求めるべきです。
 d)信仰を持ってからも、日々、悔い改めと信仰の生活を続けるべきです。 イエス様との親密な関わりは、私達の最も大切な祝福なのです。
2012年3月11日 説教要旨
  のぞみのキリスト
マタイ12:20、21「彼が正義に勝ちを得させる時まで、いためられた葦を折ることがなく、煙っている燈心を消すこともない。 異邦人は彼の名に望みを置くであろう」

 イエス・キリストについて、聖書は「その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って・・・」とイエス様の計り知れないご性質を伝えています。また、マタイ11章にも「子を知る者は父のほかにはなく」と 奥深いイエス様のご性質を暗示しています。

 私達は聖書を読むとき、理解できていないイエス様がまだまだあることを意識して注意深く、聖霊様に助けられて学ばなければなりません。 福音書の中で、弟子たちはイエス様の高さ、深さを常に学んでいます。 マタイ12:6節でイエス様の高さを「宮よりも大いなる者がここにいる」とご自分を説明しました。また、8節「人の子は安息日の主である」とも説明されました。 宮は神がそこにおられる聖なる場所であり、安息日は神をあがめ、礼拝するためにある日であって、人々には畏れ多い場所であり日であったのです。ところが、イエス様はご自分をそれよりも「大いなる者」と呼び、「安息日の主である」と驚く言葉を宣言されたのです。そこにいた人々は皆、大いに驚き恐れたことでしょう。

 弟子たちもまた驚きと恐れともに、深い安心を持ったのではないでしょうか。なぜなら、主イエス様は神様と同じ立場を主張され、権威を語られたのですから、主の大きさのゆえに、自分たちの置かれている立場の確かさに安心したと思うのです。キリスト者はイエス様を理解すればするほど平安に満たされるのです。

 又、続くイエス様の行動と彼についての預言者の言葉にも私達は励まされるのです。それは、誰に対しても示されるイエス様のやさしさです。策略を持って殺そうと企む人たちから去ろうとしていた時にも、集る病人たちを皆癒されたやさしさです。15節 預言者は次ぎように言いました。マタイ12:20、21「彼が正義に勝ちを得させる時まで、いためられた葦を折ることがなく、煙っている灯心を消すこともない。 異邦人は彼の名に望みを置くであろう」 「いためられた葦」とは役に立たず邪魔になるだけのもの、「煙っている灯心」も光を放つことがなく、臭く煙い嫌なものです。しかし、イエス様はそのままに受け入れ、答えて下さるのです。イエス様は愛のある方、やさしさに満たされた方であるのです。わたしたちはこの偉大なお力をもち、愛に富むイエス様に何ができるでしょうか。聖書は「異邦人は彼の名に望みを置くであろう」と言います。
2012年3月4日 説教要旨
  幼子の心
マタイ11:25、26「そのときイエスは声をあげて言われた、「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。 父よ、これはまことにみこころにかなった事でした」
 
 イエス様は幼な子に神の福音を表わしたと言われた。幼子とは、知恵のない者、愚かな者として語られたようで、おそらく未熟な者であるが、素直に受けいれる者を象徴して用いられたようです。 ルカ18:17「だれでも幼な子のように神に国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」 この聖句は、幼子は受けいれる者と言われています。

 ここで神様について、イエス様については素直に受けいれることが大事なのだと教えられているのです。神様の前では、自己主張をしたり、疑う心を持つことは不信仰で良くないのです。 知恵があり、賢いと自覚している人は、自分で一切を理解しようとして、自分の無知を思わないないで、神様の語られることを判断できると考えているのです。 そして、理解出来ないので受け入れないのです。 イエス様のこと、成されたこと、教えられたことを、人が経験を通して、知恵を通して理解することは不可能なのです。

 ですから、この幼な子の心がなければ、神の国に入ることが出来ないとイエス様は言われたのだと思います。 キリストの十字架が自分の罪の身代わりだった、キリストは死人からよみがえられ、そして信じるなら永遠の命が与えられ神の国に入る、このキリストのすべての言葉は真理である・・・これらの聖書の教えを信じれることが幼子であると言われているように思います。イエス様を信じれることが、幼子の心で信じているのであり、この信仰は、聖霊様のお働きである言えるのです。

 更に信仰者は前に進む者でなければなりません。私達は信仰を持ったと言っても、まだまだ未熟な者で、心の中をよく探れば、肉の思いの虜になっていることがわかるのです。心の中にこの世の物を求める心、また自分のプライド、自己中心な思いがあることに気づかされるのです。ですから、信仰生活とは神様、イエス様のみ前に徹底的に幼子として謙そんになり、イエス様を信頼し、共に歩む決心が大事になります。
2012年2月26日 説教要旨
  神様のさばき、天国
マタイ11:12「バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている
マタイ11:24「しかし、あなたがたに言う。さばきの日には、ソドムの地の方がおまえよりは耐えやすいであろう
 
 聖書の信仰者は、我々よりももっと天国に向き、神様のさばきを見ていました。神様のご存在をもっと身近に感じていたのです。 しかし、現代は見えるものこそが真理であって、見えないものへの畏敬は薄れてしまい、この世の罪と悩みの奴隷となっています。 イエス様はそのような盲目となった世界に、光として降りてきて下さって、元凶である罪の問題を解決して、私達に真理を見せ、教えてださり、道を示し、いのちを与えて下さったのです。

 そして、私達に目に見えないものに注意し、目を注ぐように言われたのです。特に、天国と神様のさばきについて、マタイは注意を促しているのです。 天国は、マタイによる福音書に出てくる言葉です。他の箇所では、「神の国」と言われています。

 イエス様は「バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている」と言われました。おおくの人が、悔い改めと信仰に導かれ、救を見いだしている、熱心に求めていると言われたのです。天国こそ、目に見えないところですが、熱心に求め、心の目をとめておくべきところです。永遠の時に、自分がそこにいることを望みとする所です。 なぜなら、誰もが行ける所ではなく、求めて行く所だからです。その道は、一つしかなく、真実な罪の悔い改めと信仰によるものだからです。

 また、イエス様は同時に、神様のさばきについても語りました。救主イエス・キリストを知って、なお拒むものへは、神様の裁きは恐ろしいと警告されました。 また、信仰者であっても罪を恐れよと言われています。

 私達の信仰生活の中で、目に見ることができない天国、神様のさばきを心に思っていることを教えて下さっているのです。そして、イエス様の教えられている道を熱心に進むことが、天国への道であり、祝福のある道であることを教えています。
私達は目に見えない事がら、天国と神様のさばきを忘れることなく、天国を希望として、道から外れることを恐れて、真摯な信仰生活を送りたいものです。
2012年2月19日 説教要旨 
  キリストの名
マタイ10:32「だから人の前でわたしを受けいれる者を、わたしもまた、天にいますわたしの父の前で受けいれるであろう」

 キリストを受け入れ、キリストの名を公に語ることは多くの国で困難があります。イエス様の時代もこの章が表わしているようにそうでありました。 イエス様はそのことを「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである」と言われたのです。 当然、この剣は信仰者が振り回すのではなく、基本的に無抵抗なクリスチャンを迫害する敵となる人の敵意のことです。しかも、その敵が家族ともなると言ったのです。確かに、信仰持つと多くの場合まず一番近い家族から反対が出てくるのです。

 その時、イエス様は私達にどう言う行動をするように教えているでしょうか。何が大事なのでしょうか。その時こそ、人はキリストの名をどう思っているかが現れるのです。

1)キリストを人の前で、受けいれよと命じています。
 心の中で信じていると思うことは容易です。何の迫害も起こらず、犠牲を払うこともありません、しかし、本当の信仰があることを証明しないのです。信仰の成長を期待することも出来ません。 やはり、人の前で信仰は公言される必要があります。「自分の口で、イエスが主であると告白し・・・救われる」と信仰の始まりから告白するとあるとおりです。

2)自分の十字架をとって
また「自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない」と言われましたが、十字架を荷なって、ゴルゴタの丘に向かわれたキリスト、また苦しみを荷ないながら歩まれたキリストのことを思うのです。信仰者はキリストの名のゆえに、希望と喜びを持って苦しみを荷なって歩む者です。自分のおかれている所から逃げ出さないで、キリストと共に歩むのです。

3)キリストの名のゆえに祝福があります。
キリストの名を第一にする祝福の大きさを思うのです。3つの聖句があります。
「わたしもまた、天にいますわたしの父の前で受けいれるであろう」32節
「わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう」39節
「私の弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない」
キリストの弟子に対する小さな善意にも報いがあるように、キリストの名をあがめる行為には、どんな小さなことでも祝福があるのです。 
2012年2月12日 説教要旨
  最後まで耐え忍ぶ信仰
マタイ10:22「またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」

1・羊をおおかみの中に送る。
 イエス様は弟子たちを伝道に送るとき、「羊をおおかみの中に送るようなものだ」と言われました。事実、彼らは周りから恐ろしい迫害を受けたのです。 今、ある程度聖書が知られ、民主主義が理解されている日本では、当時の迫害はないのです。しかし、外からの少しの迫害と共に、自由なゆえに内面の戦い、世の誘惑は、私達にはとても強く感じられるのです。
 昔と変わらず自己中心と欲望、そこに不信仰な様々な誘惑の情報は氾濫していて、私達はこのような信仰を攻撃するおおかみの中で信仰生活を送っていることを自覚しなければなりません。

2・賢さと素直さを持って立ち向かう
 イエス様はまず弟子たちに「へびのように賢く、はとのように素直であれ」と命じられました。おおかみの中にあるからこそ、賢さと素直さが必要だと言われたのです。
 へびは音もなく現れ、去っていきます。エジプトの象形文字ではヘビは知恵をあらわすそうです。彼らは危険を避けるのにさといのです。信仰生活において、不必要な争いに巻き込まれないよう、無益な言動の危険をさとり、静かに避けるべきです。そこに災がある事を知って、知恵深く人の前に立たなければなりません。
 さらに、ただクールであっては不十分で、はとのように素直であれと言われました。素直さ、純粋さ、平和を求める心こそ信仰的です。ヘビは嫌われますが、ハトは受け入れられます。キリストの福音を持って、この世に受け入れられたいです。

3・最後まで耐え忍ぶ
 信仰をもって人生をまっすぐに最後まで生きることは、この世での最も大切な私達の使命です。その為に、賢さと素直さは信仰生活に必要なのです。
 また、信仰とは恐れをもたらす世の出来事にも、神様こそが恐れるべき方であることを悟ること、主に信頼することなのです。そしてこの世には恐るべきものはないと信じることが、神様に対する素直さでもあるのです。 信仰生活は単に苦しみに耐えるものと考えるのではなく、神様にこそ一切の権威があり、安心があると確信し、イエス様のお言葉に平安を持って従うことが信仰生活なのです。そして、まっすぐに最後まで信仰者として生きることが使命です。
2012年2月5日 説教要旨
 主の平安を伝える
マタイ10:12、13「その家にはいったなら、平安を祈ってあげなさい。 もし平安を受けるにふさわしい家であれば、あなたがたの祈る平安はその家に来るであろう。もしふさわしくなければ、その平安はあなたがたに帰って来るであろう」

エレミヤ29:11「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである」

 平安とはどういうものか?  
イエス・キリストを通して受ける恵みによる心の平安です。ライルと言う聖書注解者は<心、良心、内なる人の平安、罪のゆるし、生ける救主、天にあるふるさとを認識しているところから来る平安>と言いました。 
             
1・ 聖書の平安には、次の特徴があります。
1)神から来る
 この平安は人の努力で受けるものではなく、御霊の実と呼ばれ、神様から受けるものです。
2)キリストが残していかれた平安です。
 この平安はイエス・キリストによってこの世にもたらして下さった平安です。そして、キリストが天にあがるとき、私達のためこの地に残して行かれました。  
3)この世の悩みに勝つ力となるのです。
ヨハネ16:33「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世にあってはなやみがある。しかし勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」

2・平安を受ける方法
1)信仰によって受ける。ローマ15:13
2)試練による訓練の結果として受ける。 ヘブル12:11
3)正しい心によって祈ることによって受ける。 ピリピ4:6、7
4)正しい思いと行動によって受ける。 ローマ8:6 

 この平安を世の人に伝えるのが福音の伝道です。同時に、私達自身がこの平安の中に生きているとき、相手にこの平安を伝えることが出来るのです。 キリストの平安を思い、心から平安の福音を伝えましょう。 
2012年1月29日 説教要旨
  福音を伝える
マタイ9:35−38「イエスは、すべての町々村々を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。 また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた。 そして弟子たちに言われた、「収穫は多いが、働き人が少ない。 だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい」

 イエス・キリストは私達の主であられて、最高の人生の模範者です。わたしたちがキリストに似た歩みが出来るなら、その程度に応じて、より優れた人の生き方を経験することになるのです。キリストに従うとは、主がなされた福音伝道の働きを荷なうことも含まれるのです。 イエス様の福音伝道には、次の三つの働きがあったとここに書かれています。

1)諸会堂で教え
 聖書の深い意味を教えることです。聖書に書かれていることは、人に非常に価値があり有益なものだけです。それは神様の御心であり、真に人を幸せにするものです。私達は生活の証、言葉、すべてをもって神様の御心のすばらしさを伝えていくのです。

2)御国の福音を宣べ伝え
 永遠の神の国がある事、その国に入ることを伝えます。実に、神の国にはいること、永遠の命を受けることが最も大事なことです。神の国に入れなくしているものが罪であり、キリストはそのために十字架で、私達の罪のあがないの為に死なれ、そしてよみがえられたのです。御国はすべての人の希望であります。

3)病の癒し
 キリストの伝道には、奇跡がともなっていました。それは病人の苦しみをあわれまれたからであり、キリストこそが神様からの救主であることを示し、イエス様が神様のお力がある事を伝え、キリストを信じるように導かれたのです。
 私達は今、何をするるべきでしょうか?この救主イエス・キリストをこの世の人たちに伝えることが、私達の使命です。奇跡を行うことは出来ませんが、救われた者として教えの素晴らしさを証し、救いの道を示し、この世のはかなさを嘆く人たちに、神の国の素晴らしさを伝えて行くのです。私たちは皆、この働き人なのです。
 「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」マルコ16章
2012年1月22日 説教要旨
 信仰者の努力
コリント人への第一の手紙 / 15章 58節「だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。」
テモテへの第一の手紙 / 4章 15節「すべての事にあなたの進歩があらわれるため、これらの事を実行し、それを励みなさい。」

 信仰者も努力するように言われていますが、世の中で言われるほど、努力することを何よりも大切とは言わないかもしれません。やはり信仰を第一に言います。 私達は最初、イエス様の元に来るのは休みを受けるためでありました。
マタイ11:28「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」
しかしその後は、何もしないで休むこととは言わず、労するように教えています。
マタイ11:29−30「わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」

 イエス様の休みは、何もしないところから来るのではなく、イエス様のくびきを負うて労するところにあると言うのです。 クリスチャン生活は、自分中心からキリストを中心にする生き方に変えることであり、イエス様の元で軽くて負いやすい荷を負う生活をするように言われています。

 信仰者の労苦、努力はどう言うものなのでしょうか。大切なことを学びます。
1)目標をハッキリと持つ。
 世の中においても、信仰生活においてもハッキリとした目標を持つことが大事であります。ただ、目標が違い。イエス様の御心に沿った目標を持つのです。
2)信仰によって努力する。
 信仰者の目標に向かう姿勢は、信仰を持って努力するのです。その労苦は神様の栄光のためであり、神様に頼って、助けを信じて、助けを受けて努力するのです。 だから、信仰によって荷は負いやすく、荷は軽いものでなければならないのです。
3)必ず報いのある努力なのです。
 神様は信仰者の労苦に、必ず報いを与えてくれます。報いが地上か、天上であるかは分かりませんが、確かな報いがあることが神様の約束なのです。
 私達は信仰者としてハッキリとした、世の目標とは違う永遠にかちのある目標を定めなければなりません。あなたは持っていますか?そして、その道に励むのです。必ず進歩が現れるのです。
2012年1月8日 説教要旨
 信仰を見て
マタイ9:2「人々が中風の者を床の上に寝かせたままでみもとに運んできた。イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に、「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪はゆるされたのだ」と言われた」

 信仰には大きな恵みがともなっています。人の思いをはるかに越えて、心を新しくし、いのちのある生き方に導かれるのです。 ほんの小さな信仰を見て下さって、イエス様は大きな祝福を下さるのです。
 一人の身体が不自由で寝たきりの人、中風の人を隣人が床に乗せてイエス様の前に連れてきました。その有様は、周りの人には異様に見えたでしょうが、イエス様には信仰の輝きと見えたのです。

 イエス様の家は遠くからイエス様のわざを見ようと人でいっぱいでした。その中には、エルサレムから熱心なパリサイ人、律法学者も来ていて、食い入るように厳しい目で見つめていたので、部屋は緊張感がただよっていたでしょう。 彼らは中に入れないので、家の屋上に上がり、屋根をはがして病人を群衆の真ん中、イエス様の真ん前に下ろしたというのです。 部屋の中はうるさい音とホコリがまったことでしょう。誰もが、イエス様のお話を聞くどころではありません。不快に思う人もいたはずです。
 しかしこの時、イエス様が見ていたのは「彼らの信仰」だったのです。彼ら自身、屋上の弁償を覚悟し、あわれみを信じて、信仰によって病人を下ろしたのでした。私達はこのイエス様を信じて、私達の歩みは外側ではなく、内側によって生きるべきことを教えられます。

1)神は心を見られる。
聖書は神様は人の内側を見られるとあります。「わたしの見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る」
2)神は信仰を見る。
更に、心の中で、良い性質を見るというより、信仰を見られるのです。人の内に信仰があるかどうか見られるのです。
 イエス様は信仰を見て、「あなたの罪はゆるされた」と言われました。
「神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった。わたしたちは、この御子によってあがない、すなわち、罪のゆるしを受けているのである」コロサイ1:13、14 この故に、私達は今から永遠に至るまで、信仰によって生きることを願うのです。
2012年1月1日 説教要旨
新年、開けましておめでとうございます。
  信仰生活
マタイ8:10「イエスはこれを聞いて非常に感心され、ついてきた人々に言われた、「よく聞きなさい。イスラエル人の中にも、これほどの信仰を見たことがない」

 信仰生活とは信仰によって生きる生活です。ただ信仰告白者の生活ではなく、信仰とその実践の生活なのであり、信仰に生きるのでなければ、聖書が約束する信仰の祝福はないのです。 

 イエス様の前に現れた二人の信仰告白を学びます。
1人のライ病の人は次のように告白しました。 「主よ、みこころでしたら、きよめていただけるのですが」 彼はイエス様が心に正しいと思われるなら、その通りになると信じていたのです。 私の病が癒されることを心に思って下さるなら、そのとおりになる。

 もう一人の百卒長(100人の兵隊の指揮官)は、「主よ、わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります」 彼の信仰に「これほどの信仰を見たことがない」とイエス様は最高の賛辞を与えました。 私達も彼らのような信仰持ち、彼らのように、イエス様の祝福を得たいものです。どう言う信仰なのでしょうか、
1)彼らはイエス様の前に徹底的に身を低くしていました。
 彼らは自分が罪人であることを認めていました。イエス様の前にひれ伏し、家に招くことさえ畏れ多いことと思うほどでした。
2)キリストを主と告白していました。
 彼らはキリストを主と告白し、自分をキリストの僕として,服従する者と自覚していました。
3)イエス様の偉大なお力を信じていました。
 イエス様の御心だけがなると信じ、お言葉だけで癒されると信じていました。彼らはキリストには神の力があると信じていたのです。その信仰をイエス様はほめられたのです。
 私達も彼らと同じ信仰を求めるのです。心の中に不信仰の思いがあっても、それを捨てて、信仰の心を持つのです。確かな全き信仰を持つのです。