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2013年11月17日  説教要旨
 教会の働き
使徒20:26、27「だから、きょう、この日にあなたがたに断言しておく。わつぃは、すべての人の血について、なんら責任がない。 神の御旨を皆あますところなく、あなたがたに伝えておいたからである。 どうか、あなたがた自身に気をつけ、また、すべての群れに気をくばっていただきたい。聖霊は、神が御子の血であがないとられた神の教会を牧させるために、あなたがたをその群れの監督者にお立てになったのである」

 教会は一人一人に様々な賜物が与えられ、職務、働きが与えられており、(1コリント12:4−7)その中で、牧師はこの教会の形成のために働く努めが与えられています。パウロはエペソの教会の長老(牧師)を集めて勧めをしました。それは教会を大切に考えていたからです。

 教会とは。
教会とはイエス・キリストを信じて救われ、神様のもとに集められた信徒の集りです。キリストの血によって永遠の命に与った集りであり、そこにイエス・キリスト様がおられるところです。人数が少なくても、キリストがかしらであられて、キリストを中心にあつまる信徒の集りです。
マタイ18:20「ふたりまたは3人が、わたしの名によって集っているところには、わたしもその中にいるのである」

 ですから、私達は教会を尊ばなければなりません。人は欠けのあるものです。教会に不足があるのはしかたがありません。しかし、不平不満を言ってはいけません。互に尊ぶ愛の教会が目標です。教会はとても素晴らしい神様からの贈り物です。感謝しなければなりません。

 ところで、教会には働きがあり、責任があります。
 パウロは、「血の責任」について語りました。使徒20:26「わたしは、すべての人の血について、なんら責任がない」 それはこの世の人の命について責任があると言うのです。教会は、人が天国に入るか、地獄に行くかの、福音の使命を受けていると言うのです。 私達はある人が救われる、滅びることを断言することは出来ませんし、救われる責任があるとも言えません。

 しかし、福音を語る使命があるのです。あますところなくこの世の人に福音を語る責任があるのです。主イエス様と御言にはひとを救う力があります。使徒20:32 教会の働きは、よく備えをして、この福音を語り続けることです。
2013年9月29日  説教要旨
  創造の神を知る
使徒17:22、24「アテネの人たちよ、あなたがたは、あらゆる点において、すこぶる宗教心に富んでおられると、わたしは見ている。 実は、わたしが道を通りながら、あなたがたの拝むいろいろなものを、よく見ているうちに、「知られない神に」と刻まれた祭壇もあるのに気がついた。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、いま知らせてあげよう。 この世界と、その中にある万物を造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない」

 パウロはユダヤ人とアテネの人たちでは、福音の伝え方が違っています。ユダヤ人たちには,直接イエス・キリストについて語りますが、アテネの人たちには神様とはどう言う方かと話しはじめました。彼らが聖書を知らず、聖書の神様についての知識を全く持っていないからでした。わたしたち日本人と同じなのです。

 アテネの町にはおびただしい偶像があり、人々は知識や知恵には興味があったので、パウロから話を聞こうとするのですが、単に興味本位の熱心でした。 日本も偶像は多く、知識に対する欲求は強いのですが、真の神様については熱心に求めることはしません。次の聖句は多くの人に当てはまるのです。 ピリピ2:21「人はみな、自分のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことは求めていない」しかし、このようであれば、真の信仰にはいたらないのです。

 本当の神様とはどう言う方か知ることはとても重要なのです。実に、信仰を持ってからも深く知ることは大事なのです。 パウロは,どういう風に神様のことを伝えたのでしょうか。

1)万物の創造の神様
 使徒17:24「この世界と,その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない」 すべての物は神様によって創造されたこと、それは神様が天地の主であると言うことであり、この事実は,奥深い信仰の本質、悟りとも言えるものです。

2)仕えられる神様ではなく、与える神様
 更に、真の神様は人に仕えられる方ではなく、人に恵みを与える方なのです。献金や供え物、ささげ物と言われる物は、神様のためにささげると言いますが、実は人のための恵みに先立つ物であるのです。神様は人の心を見ておられて、人に真に価値ある恵みを受けることを願って命じておられるのです。神様は人の心を見て恵みを与えて下さるので、最も私達が大事にすべきものは人の心です。

 私達はイエス・キリストを信じて、罪赦され、救われ、真実を知る者にされていくのですが。真実なる創造の神様を深く知る信仰の旅を歩んでいる者なのです。
2013年9月22日  説教要旨
  キリストとは
使徒17:2、3「パウロは例によって、その会堂にはいって行って,三つの安息日にわたり、聖書に基づいて彼らと論じ,キリストは必ず苦難を受け、そして死人の中からよみがえるべきこと、また「わたしがあなたがたに伝えているこのイエスこそは、キリストである」とのことを、説明もし論証もした」

 現代はヒーローを期待しているように感じますが、当時は神様からのヒーロー、キリストを待ち望んでいました。ユダヤ人にとると、ローマの圧政から救い出し、先祖が伝えている民族の救主が来て、民は栄え、人々を幸福にしてくれることを望んでいたのです。 キリストの原語の意味は「油そそがれた者」で、神様に用いられる時、任命するとき,聖別する儀式として行われました。油は聖霊を象徴しています。 対象は預言者(エリシャ)、祭司、王(ダビデ)でありました。

 パウロは伝道の際、会堂に入ると、ユダヤ人が気付いていないキリストについて旧約聖書からよく紹介します。
1)キリストは必ず苦難を受ける。
 イエス様も弟子たちに伝えましたが、パウロは自分たちがイエス様を苦しめ、十字架につけたのですから、その事実を良く知り更に、その意味も深く理解しました。そして、必ず人々に伝えなければならないことと分かっていました。イザヤ53章

2)キリストは必ず復活する。
 ペテロも使徒2:25〜28を引用していますし、旧約聖書にはキリストの復活を暗示する話は多いのです。アブラハムがイサクを燔祭として捧げようとした話。ヨナが三日目に大きな魚から吐き出されたこと。マタイ12:40 そしてイエス様こそ、このキリストであることを伝えたのです。 イエス様は神様からの預言者であり、神様のお言を伝える方、 祭司であり、苦難をとおして、神様との和解をもたらし、救われる方、 として,全権を持たれ、人が従順に従うべき方として示したのです。

 パウロは、イエス様こそキリストであることを伝え、信じるように伝道していきました。私達はイエス・キリストの教え、その苦難、復活をとおして、神様について、この世界について、自分について、救について教えらているのです。 そして、結論は、凡ての人がこの救主、イエス・キリストを信じなければ救われないと言うことなのです。
2013年9月15日 説教要旨
  素晴らしい救い
使徒16:30、31「それから、ふたりを外に連れ出して言った、「先生がた、わたしは救われるために、何をすべきでしょうか」。ふたりが言った、「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」」

 一人の牢屋番と家族が,神様の不思議なお導きにより救われる話が出てきます。誰が救われるのか?人には全く分からないのですが、神様は確かな判断で、救われる者を定め、導かれるのです。 悔い改めの心をもって信仰を告白した人たちは,皆、救の喜びを表します。そして、使徒行伝に出てくる人たちは皆、バプテスマをすぐに受け、彼らは信じた後の行動で、救の素晴らしさを証しているのです。信仰と救いは、人に大きな変化を与え、その素晴らしいことを実証する力がある事を教えられるのです。

 救とはどういうものか?
救の素晴らしさが分かるのは、神様を知り、今の人のありのままの姿がどれほど惨めであるかを理解し、そして、神様の救のご計画を知って、その驚くべき恵みに、心から喜ぶものになるからです。 更に、學びつづけ、この世界の成り立ち等を知るなら、救は本当に素晴らしいと驚き喜ぶものとされていきます。

 ハッキリとした信仰によって、確かな救の確信に導かれるなら,その人の心は神様からの平安を受け、喜んでキリストの御心に従う者とされます。 獄吏は、パウロの「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」との言葉を聞いて、喜び、上司の命令に背くことも恐れず、パウロたちから教えを受け、バプテスマを受け、歓待しました。

 私達は皆、信仰を持って救われると、自分がキリストの御心に従って変わらなければならないことに気付きます。心の問題、行動の問題として変わらなければならないと思うことが分かります。しかし、それがなかなか思いどおりに行かないことも學ぶのです。では、どうしたら良いのでしょうか。

 結論は、ハッキリとした悔い改めと信仰を持って、確かな救の確信を頂いて,キリストに頼り従うことが問題の解決につながるのです。 行動面から代わろうとする努力、またその効果には限界があります。私達は行動することに目を向けるよりも先に、「目に見えないものに目を注ぐ」こと、信仰、救,恵みに目を注いで、神様からお力を頂いて、救の素晴らしさを理解し、喜びを力として前に進んで行くことが大事なのです。
2013年9月8日 説教要旨
  心を開くこと
使徒16:14「主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに耳を傾けさせた」 

 パウロたちは二度目の伝道旅行で、初めてマケドニヤに渡り、ピリピに入ります。アンテオケの教会から出て行くのですが、教会の働きとして伝道は行われます。「教会はキリストの身体」と聖書に言われていますが、伝道は成長したクリスチャンたちの最も霊的な証と言えるでしょう。 それは外の人たちのための働きであり、その為に最も大きな犠牲を払うのですから。彼らは自分たちの経験する犠牲を,犠牲とは思わず、喜んで経済的にも祈りの働きにおいても、様々の点で犠牲を惜しまない人たちなのです。

 人は本来、自分のことしか考えない性質を持っていますが、イエス・キリストを信じてから、キリストの御心を行える者にされていくのです。
使徒20:35「わたしは、あなたがたもこのように働いて、弱い者を助けなければならないこと、また「受けるより与える方が、さいわいである」と言われた主イエスの言葉を記憶しておくべきことを、万事について教え示したのである」

 そして、そのピリピでの宣教の中で、神を敬うルデヤに会います。 イエス様は彼女の心を開いて、パウルの語ることに耳を傾けさせたとあります。 心を開くことは救われるために,必要なことです。「開く」と言う言葉は、完全に開くと言う意味の単語が使われていて、パウロが語る言葉を彼女は信じ,必死になって吸収しようとしたのです。 黙示録3:20「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし,彼もまたわたしと食を共にするであろう」

 イエス様はわたしたちに心の戸を開けるように言われます。そして、戸を開けるのは神様の働きでもあるのです。 ならば、わたしたちは心を開けるチャンスがあるなら、進んで開けることを望み、神様の恵みを受けることを願わなければなりません。 真実に心を開けることは,実は自分では出来ないのです。人の心は人の意志で簡単に制御できるものではないのです。自分の都合のいい時に、悔い改めてイエス様を信じる等と考えることは出来ないのです。

 わたしたちはルデヤのように、御言葉に心を開けるように導かれているなら、進んで心を開いて御言葉を受けいれましょう。そして、イエス様と共に歩む道を進みましょう
2013年8月25日 説教要旨
  試煉に立ち向うとき
使徒14:22、23「弟子たちを力づけ,信仰を持つ続けるようにと奨励し、「わたしたちが神の国にはいるのには、多くの苦難を経なければならない」と語った。また教会ごとに彼らのために長老たちを任命し、断食をして祈り、彼らをその信じている主にゆだねた」 
 
 パウロたちは頑固なユダヤ人たちの迫害を受けながら、信仰を持ったばかりの人たちを残して行かなければなりませんでした。信仰を持ったばかりのクリスチャンの今後を非常に心配したのです。わたしたちも信仰を持ち続けるとき、外から内からの困難を受ける時に、どうなるんだろうと悩む事があります。 そんな時、どう対処したらよいのか?パウロのしたことから學ぶのです。

 彼らの第一の願いは、彼らが信仰を守り通す事でした。
「弟子たちを力づけ、信仰を持ち続けるようにと奨励し」。信仰者の第一の願いは信仰を持ち続ける事です。その為に、試練に立ち向か時に、どうしたのでしょうか。

1)出来る事をした。
 わたしたちは試練が来ると分かっていても、その準備をすることには限りがあります。南海大地震が来る、津波が来ると言われても、すべての人が十分な備えが出来ているとか言うと,出来ていないのです。同じように、わたしたちも試練の備えには限りがありますが、出来る範囲の事をすることは大事なのです。 彼らは教会の長老を定め、断食の祈りをしたと言います。教会の信仰がただしく守られるように、出来る限りの事をしたのです。

2)信じている主にゆだねた。
 そして、ここに信仰生活に大事な「ゆだねる」と言う言葉が出て来るのです。 「ゆだねる」とは、神様の前に置くと意味です。自分の手から離して、信頼する主イエス様にお任せする信仰の態度なのです。 まだ未来の事、経験のない事は知らないし、分からない事であって、わたしたちがどうあがいても解決できない事がらです。その時、信仰者はイエス様に委ねる信仰があるのです。 その時、パウロは「彼らをその信じている主にゆだねた」とあります。これは彼ら自身が信じている主イエス様にお任せしたと言う意味です。彼ら自身に信仰があったからこそ,主イエス様に試練を平安をもって委ねる事が出来たのです。
2013年8月11日 説教要旨
  実をつける信仰
使徒14:9、10「この人がパウロの語るのを聞いていたが、パウロは彼をじっと見て、いやされるほどの信仰が彼にあるのを認め、大声で「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」と言った。すると彼は躍り上がって歩き出した」

 信仰は、その人自身と生活に良い実をならすものです。
イエス様は「もし人がわたしとつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる」と言われています。イエス様を真実に信じれば、必ず良い結果に導かれると言うのです。

 ここでパウロは、一人の人を見いだします。彼の話を熱心に聞く人ですが、足が悪く、生まれてから一度も歩いた事のない人でした。しかし、パウロは彼に癒されるほどの信仰があると認めたとあり、そして、大声で「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」と命じると、彼は躍り上がり歩き出したのです。ここでわたしたちは実を結ぶ信仰を教えられます。

1)聞く事から始まる。
この足の悪い人は、パウロの語るのを聞いていました。信仰は聞く事によって始まります。聞く人にならなければなりません。神様のお言は無条件で聞ける人こそが信仰を持つようになるのです。

2)イエス・キリストに対する信仰
パウロは救主イエス・キリストを伝えました。教会もその働きを継承しているものです。救と信仰の成長の土台なのです。
1コリント3:11「そして、この土台はイエス・キリストである」

3)実をつける信仰とは
「いやされるほどの信仰」とは、どう言う信仰なのでしょうか。それはイエス・キリストに対する全き信頼の信仰なのです。わたしたちは信仰があると言っても、忍耐強く信仰を変えない信仰と言うより、すぐに不平不満に陥り、信じた事を忘れてしまう弱い信仰なのです。この足の悪い人は、長い信仰生活を送っていた人ではないのです。パウロの話しを聞いて、イエス・キリストに心底信頼した人なのです。ある信仰書に次のように書かれてあります。

<クリスチャンは決して曖昧な信仰を持ってはなりません。キリストを信じるのです。信仰の対象を信じなければ、信仰に効力がありません。信者はキリストが生きておられることと、自分に関わる事にキリストが関心を持っておられること、どんな困難な場面でも、助けを求める事が出来ると言う認識を常に持って日々生きるべきです。信仰は、いつも共にいてくださるイエス様に信頼することの実践です。>
2013年8月4日 説教要旨
信仰への導き
使徒13:48「異邦人たちはこれを聞いてよろこび、主の御言をほめたたえてやまなかった。そして、永遠の命にあずかるように定められていた者は、みな信じた」
 
 イエス・キリストの福音が語られると、人々は否応なく二つに分けられます。
信じる人と信じない人です。
それは人の気ままな気分によるものではありません。確かに、信仰を持った人はどんな試練があろうと、生涯イエス・キリストにしたがっています。信じる時には、心からの悔い改めをするからで、その人に信仰を与え守られるからです。神様に背いていた誤りを認め、心からイエス・キリストを信じる決心をした結果です。

 信じない人は、罪人のためのキリストの十字架の死を愚かと言い、復活をありえないと笑うのです。また、キリストに従うことと、自分の損得を天秤にかけて、キリストの救の恵みを小さな事として捨ててしまうのです。このようにして人は二つの道に別れて行きますが、信じる人について上記聖句は驚く事に、それは神様の定めだと言っています。「永遠の命にあずかるように定められた者は、みな信じた」 つまり、神様はすでに信じる人を定めていて、信じるように導かれていると言うのです。しかも、一人ももれずに、みな信じると言います。 聖書は信じる事は神様の賜物であり、信仰の成長も神様のお働きだと言います。

 私達がイエス様を信じているなら、それは神様が随分前に信じるように定めて下さっているからであり、そして、もっと信仰が成長したいなら、神様によって成長させていただくのだと言うことです。

 この事は、信仰者は神様が信仰生活の中心にいなければならないことを教えます。昔、イスラエルの人たちが神様中心に生きたように、クリスチャンももっとイエス様中心の信仰生活をしなければならないのです。なぜなら、神様は信仰者の歩みの一切に中心的に関わって下さっているからです。そして、神様ご自身がイエス様中心の信仰生活をする事を私達に望まれています。

 イエス様にはまだ導かなければならない羊が、囲いの外にいる事を知っておられます。私達にその羊を見いだす働きを委ねられていて、神様によって永遠の命にあずかるように定められた人の為に、福音を語り続けることを命じています。
2013年7月21日 説教要旨
  神に用いられる人
使徒13:22「それから神はサウロを退け、ダビデを立てて王とされたが、彼についてあかしをして、『わたしはエッサイの子ダビデを見つけた。彼はわたしの心にかなった人で、わたしの思うところを、ことごとく実行してくれるであろう』と言われた」

 明日、中村で松岡兄がバプテスマを受けられます。彼はその為の準備に一生懸命です。服装のことやら、バプテスマを受けた後はどうなるか?長く學び、決心に導かれたさいわいな結果です。 熱心にイエス様に従おうとする人が神様に選ばれた人と言えるでしょう。聖書は神様は人の心を見て選ぶと言い、その人は御心に従うだろうと言うのです。

 バプテスマは信仰告白の証です。イエス・キリストの十字架の死と復活を信じ、わたしもキリストを主として罪に死に義に新しく生きる決心の証です。信仰者がイエス・キリストを信じ、その教えに従おうとする、そう言う歩みこそ、神様に選ばれていることです。人は自分で決めたと思うのですが、神様の選びとお導きがあって、始めて人はイエス様に従えるのです。だから、信仰生活を望む人は神様に選ばれた人です。

神様が人を選ばれることについて學びます。
1)神様は心を見られる
神様は人の心を見て選ばれます。人は外の顔かたちを見るが、神は心を見られると言うのです。神様に対する誠実さ、忠実な心を見られるのです。私達はいつも神様に心を見られています。そして、心が神様に受け入れられるなら、神様のお導きを受けるのです。
2)心を大切にする
神様が何よりも人の心を見られるなら、私達も心を大切にするべきです。自分の心が正しいか吟味し、他の人の心を大切にする人、思いやりのある人です。
3)神様の御心を実行する
神様の御心を知る努力をしましょう。非常に大事なことです。そして、それを行う人になることを第一に願うのです。

 神様が選ばれる人は、神様の御心知ったなら、それを実行しようとする人です。神様に忠実な人です。 まず、心を変えてイエス様を信じましょう。信じることが出来たなら、主の命令に従いバプテスマを受けましょう。そして、主の教えに従う信仰生活が始まるのです。その時、主は聖霊を注いで、その道を確かに助けて下さいます。
2013年7月14日 説教要旨
キリストを伝える
使徒13:2、3「一同が主に礼拝をささげ、断食をしていると、聖霊が「さあ、バルナバとサウロとを、わたしのために聖別して、彼らに授けておいた仕事に当たらせなさい」と告げた。そこで一同は、断食と祈とをして、手をふたりの上においた後、出発させた。」
 成長している教会は、非常に伝道に熱心です。熱心な伝道を継続することは、更に大切ですが難しいのです。当然、教会の伝道者が中心になり、伝道の大切さが語られ、具体的な働きがなされるのです。イエス様は弟子を伝道に遣わすとき、二人一組で送りました。一人では弱いからです。伝道は、一人一人の犠牲が求められる非常に大切な働きなのです。神様の愛の必要な働きなのです。

1)伝道はすぐになされた。
 イエス様が現れた時から、すぐに福音は語られ広められました。あのバプテスマのヨハネから始まっています。イエス様自身も活動され、まだよく理解できていない弟子たちも遣わしたのです。 そして、福音が伝えられ、教会が形成されたばかりのアンテオケにおいて、彼らはすぐに指導的立場のバルナバとサウロを遣わすのです。 キリストを伝える働きは、すぐに、常に続けられなければならない大切は教会の働きです。

2)福音を伝える動機は何か。
@様の命令です。
聖書の伝道の始まりはすべて神様のご命令によって始まっています。父と子と聖霊なる神様のご命令で伝道が始まります。そして弟子たちは忠実に従いました。
A非常に大切だからです。
すぐに伝えなければならない理由は、人の永遠の命に関わる最も大切なことだからです。人は神様から離れて、神様の恵みを知らないで、罪の中を滅びに向かっています。そこから神の御子キリストにより救い出して、尊い命を受けるためです。

3)わたしたちに出来ること。
 クリスチャンは皆フルタイムの伝道者になるように言われていません。しかし、それぞれが違いを持って、同じ働きに加わる者として教会にいるのです。私達にはどんな働きがあるでしょうか。 @祈り A献金の支援 B生活の中の証 教会が整えられることは、その力が伝道に向かうために必要です。兄弟姉妹、キリストを伝えることが神様の使命であることを受けとめて下さい。そして、自分に出来ることから熱心に始めて下さい。
2013年7月7日 説教要旨
  イエス様の視点で見ると
伝道の書3;10〜11「わたしは神が人の子らに与えて、ほねおらせられる仕事を見た。 神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終わりまで見きわめることはできない」
 
 人の望まないこと、思いもよらないことが起こることがある。その意味を知ることが出来ず、神様は何を考えておられるのかと不信仰になることがある。 聖書の中にも、どうしてと思うことがある。 使徒行伝12章に、ヨハネの兄弟ヤコブがヘロデ王に剣で切り殺された話しがあり、その後で、ペテロも同じように殺そうと捕まえられるが、彼は御使いが現れて牢屋から救い出される。気にしないで読み飛ばすこともできるが、その意味を考え始めると、どうしてと思う。同じ使徒であるのに、一人は切り殺され、一人は助けられる。私には不公平に感じてしまうのです。 ダビデ王とウリヤの話しも、どうして?と思うし、若くして殺されたステパノもどうしてイエス様は彼を救わなかったかと考えてしまうのです。

 ところが、聖書は「すべてに時があり」「神のなされることは皆その時にかなって美しい」と宣言しています。すべての出来事は意味があり、適切だと言うのです。 そこでわたしも「そうだ!」と考え始めるのです。凡てのことは神様の支配権があり、凡ての出来事は、その時にかなっている、適切であると。

 人は他の生き物と違い、永遠を思う思いを授けられているとあります。それは、神様のことを考えること、永遠のことを思う心が与えられていることでしょう。永遠を憶う心で見る時に、理解が違ってくる、感じ方が変わってくる。

 イエス様が心の中におられるなら、凡ての出来事に対する理解が変わって来ます。「神のなさることは皆その時にかなって美しい」と受けいれられるのです。 ウリヤもステパノもヤコブも決して不幸ではない。イエス様の下に行き、良くやった忠実であったと褒められ、永遠の命を受けて幸いを得ているのです。

 この視点は、私達の日常の出来事すべてに当てはまることです。何も意味がないと思った事に、実はイエス様の御心があり、意味があるととらえられるのです。 その時、信仰者は喜ぶもの、感謝するもの、祈る者と呼ばれることでしょう。私達が見きわめることができない事もあります。しかし、信仰はそれでもイエス様に信頼して、その出来事を受け入れられるのです。だから、信仰者はいつも平安をもつことが出来ます。
2013年6月30日 説教要旨
  クリスチャンと呼ばれた
使徒11:26「ふたりは、まる一年、ともどもに教会で集りをし、大ぜいの人々を教えた。このアンテオケで初めて、弟子たちがクリスチャンと呼ばれるようになった」

 わたしたちが日常的に使う「クリスチャン」と言う言葉が、聖書の中にあり、こんなにも早い時からあったことは少しの驚きです。この名はペテロが自分たちに当てはめて使い(1ペテロ4:16)、ユダヤの王さまも知っていたのです。(使徒26:28)その言葉の意味は、直訳では「キリストに属する者」と訳されます。 クリスチャンと呼ばれはじめたのがアンテオケとありますが、この町は最初にキリストの福音が力強く広まり、エルサレム教会からバルナバが遣わされ、パウロが呼ばれ、福音が最高の指導者を得て伝えられ、教えられた大きな町でした。更に、この町から本格的にパウロたちにより、世界宣教が始まりました。 これらから、人々がクリスチャンと呼びはじめた理由を、理解できるのです。

 それは教会がキリストに夢中になっていたのです。
信仰者たちがいつもキリストと言う名を語り、キリスト中心に生活をしていたからです。
@ イエス・キリストの名によってよく祈り。
A イエス・キリストにいつも頼り。
B イエス・キリストを凡ての面で信じていたのです。
彼らの行う奇跡は、復活されたイエス・キリストによってなされることを信じていました。

 イエス・キリストは完全な赦しを与える方であり、同時に恐るべきさばき主であると信じていました。
そして、人の救はイエス・キリストを主と告白することを求められています。
ローマ10:9「すなわち、自分の口でイエスが主であると告白し・・・救われる」とあるのです。
イエス様は、教会の土台は、「生ける神の子キリスト」との告白であると言われたのです。

 わたしたちの日常生活が、周りの人たちから「クリスチャン」とあだ名されるほどにイエス・キリストを心の中にも、行動にも前に出した生活をするべきなのです。 心の中に常にキリストを置き、その声を常に聞き、従う生活。困難を解決して下さるのはイエス・キリストとの信仰を持った生活。わたしたちはもっともっとイエス・キリストに信頼した生活をするべきなのです。
2013年5月26日 説教要旨
  聖書と信仰と救
マルコ16:15「全世界に出て行って、すべての造られた者に福音を伝えよ。信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる」

 イエス様の弟子たちが、イエス様を異邦人に宣べ伝えた最初の象徴的な出来事が書かれています。エチオピアの女王に仕える宦官の救の話です。このエチオピア人はエルサレムに礼拝に出てきた、熱心なユダヤ教徒でした。馬車を準備して来るほどに犠牲的な信仰生活を行っていました。しかし、信仰心は熱くても、救われてはいませんでした。イエス様を信じる事以外に、神様の救はないのです。 世界中にどんなに信仰心の熱い人がいても、それだけでは救われないのです。救とは、一言で言うなら神様に義とされ、最高の神様の恵みの中に入れられる事と言えるでしょう。 このエチオピア人は、神様のお導きにより、ピリポに会う事ができ、イエス様を信じるように導かれ、イエス様を心から信じて救われたのです。

 神様の救は一瞬にして起こりました。
彼はピリポからイエス様の話しを聞くと、すぐに信じました。そして、その信仰の証拠として、バプテスマを受ける事を願い、その場で川に降りて、ピリポからバプテスマを受けたのです。その事実が、わたしたちに彼は神様によって救われたんだと確信させるのです。 バプテスマとは、イエス様を信じて、罪が赦され、新しい命に生きることを象徴する教会の救の儀式なのです。決してバプテスマによって救われるのではないのですが、救われた者の救の証なのです。

 なぜ、彼は神様によて救に導かれたのか?
人が救われる理由を知ることはできません。しかし、聖書の言葉に信頼していた事は、一つの重要な理由と言えるでしょう。 彼はエルサレムでの礼拝の帰りに、イザヤ書を開いて声を出して呼んでいたのでした。その書かれている意味は分からなかったのですが、それを何とか知りたい声に出すぐらいに、求めることに非常に純粋な人でした。そして、神様はピリポをその馬車の横に導き、彼に御言の意味であるイエス様を教えることをされたのです。

 聖書と信仰と救。これらは切り離す事のできない大切なものです。わたしたちはこの救を受けてもらうために、イエス様の福音を宣べ伝えているのです。聖書には人を救うお言があり、必ず成就する力があるのです。その尊い働きのためにも、わたしたちは聖書を正しく理解して、人々に提供する準備が必要なのです。
2013年5月19日 説教要旨
 元気なクリスチャン 事実の信仰
使徒8:1、4「その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒以外のものはことごとく、ユダヤとサマリヤとの地方に散らされて行った。・・・さて、散らされて行った人たちは、御言を宣べ伝えながら、めぐり歩いた」

 教会の歴史は迫害から始まりました。それ以後も、様々な攻撃が教会に対してありましたが、強烈な迫害にも負けずに、世界中に福音が伝えられ、今では世界のどこにでもクリスチャンがいるようになりました。中国など迫害が多い地域でも福音は広まっています。
 初代のクリスチャンたちと現代のクリスチャンとでは、異なった環境、状況の中にありますが、しかも同じ信仰を持って成長しています。事実の信仰です。

 初代と現代のクリスチャンの違い
 使徒行伝に出てくるクリスチャンたちはイエス・キリストを見ていました。イエス様から直接教えを受け、十字架の死を間近に見て、復活のキリストにお会いすることができました。更に、キリストの奇跡によって助けられ、弟子たちの奇跡をなんども見たのです。 彼らはそれら一切を福音の事実として語り伝えました。

 しかし、現在のクリスチャンは、イエス様を肉の目で見ることもお会いすることもできません。更に奇跡を目の当たりにすることもできないのです。 ただ、完成された聖書を持っていて、見ることができないイエス様が語られるお言を頼りに、聖霊様の助けを受けて信仰生活を行うのです。 ヨハネ22:29「イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、、さいわいである」」わたしたちはイエス様が「幸いである」と言われた、<見ないで信じる>信仰生活を送っているのです。

 しかし、見ないのですが、事実と信じる信仰なのです。
初代のクリスチャンたちが信仰者として、迫害の中にも元気さを持っていたのは、事実だと確信していたからです.確かに、見ているのですから、事実であることが分かっていました。 わたしたちも同じように、事実であると信じる事が信仰生活の力の源となるのです。神様のご存在の事実を信じる事。この神様に愛され、救われた事を事実と信じる事。イエス様の十字架と復活、聖霊様の内住、これらを幼子のように信じる時に、信仰の元気が与えられるのです。
2013年4月28日 説教要旨
聖霊様の導きと喜び
使徒 7章 51節「ああ、強情で、心にも耳にも割礼のない人たちよ。あなたがたは、いつも聖霊に逆らっている。それは、あなたがたの先祖たちと同じである」

 聖書にあるお言は、罪人を救い、生かす、生ける神の生ける御言であることを學びました。イエス様がこの世に来られて2000年以上教会はこの福音を伝えてきたのです。 そして、この生ける御言と共に働かれるのが聖霊様です。御言葉を信じ、従おうとする時、聖霊様が導いて下さるのです。

 ところが、イスラエルの民は、神様に従うことにおいて失敗し、そのことを「聖霊に逆らっている」と言われたのです。

 聖霊に逆らうことをするならどうなってしまったか? イスラエルの多くの民は、イエス・キリストを信じず、仕えることができず、その為、救いの福音はイスラエルから離れ、異邦人に伝えられて行きました。更に、ご存じなようにイスラエルの国はローマ帝国に滅ぼされ、西暦1948年まで流浪の民となったのです。

 聖霊様に導かれ、従えるのは、信仰者にとってもっとも幸いな生き方なのです。 その恵みとして聖霊様による喜びがあります。 ローマ14:17「神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖霊における喜びとである」 聖霊様はわたしたちにイエス様が語られたことを思い起させ、従う願いを心に生まれさせて下さいます。ヨハネ14:26、ピリピ2:13 主に従うために、御言葉を心に植え付けて下さり、それを達成したい願いを与えてくれます。そして、従おうとする時に、聖霊様からの喜びが来るのです。

1)イエス様の光により、自分の様々な姿(罪、愚かさなど)を知っても、神様の愛と救を知って、自分の存在を喜ぶ者とされていきます。

2)神様を喜び、仕えることを喜ぶ心が与えられます。
 パウロは宣教師の報酬は、何も貰わないことだと言いました。1コリント9:19 それは、神様に仕えることこそが喜びであると告白しているのです。

3)物事を神様の視点で理解することができるようにされ、真理の中にある喜びがあります。1コリント2:11、12

4)聖霊様からの賜物を受け、教会に仕える喜びがあります。1コリント12:3〜
 聖霊様意従順に従うことを心がけましょう。
2013年4月7日 説教要旨
  ヨセフの信仰 従順と忍耐
創世記39:2、3「主がヨセフと共におられたので、彼は幸運な者となり、その主人エジプトびとの家におった。 その主人は主が彼とともにおられることと、主が彼の手のすることをすべて栄えさせられるのを見た」

 ヨセフは奴隷に売られたけれども、苦難を乗り越え、非常に成功した信仰者としてみられています。しかし、それは単なる成功話ではなく、彼の生き方とみ業を成就した神様のご計画に注意すべきなのです。 私たちにとると、試練が多く、思いどおりでない信仰生活をどう考え、そしてどうすべきかを教えられるのです。神様の祝福を受ける道を教えられるのです。

1)奴隷
 ヨセフは兄弟たちにより、エジプトの奴隷として売られました。奴隷とは自由がなく、苦しい環境なのですが、彼はその中で自分のすべきことを知っていたのです。だから、彼は後に大国エジプトの頂点にのぼれました。彼は神様と共に歩み、与えられた状況で、神様の前に義を追い求める生活を送ったのです。そして、神様の恵みを受けました。

2)罪の奴隷
 ヨセフの話から、私達のことを考えるとき、私達は他からの強い束縛を受けているとは言えません。ご主人にこき使われる奴隷ではないのです。しかし、自由であるがゆえに、罪の奴隷となっていることに気付くのです。神様の前にただしく生きようと願っても、できない罪に対処できない弱い自分を発見させられるのです。 ヨハネ8:34「すべて罪を犯す者は罪の奴隷である』 そして、パウロの告白は、ローマ7:24「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」

3)ヨセフは神様と共に歩んだ。
 ヨセフはまず、自分の罪に負けないために、神様と共に歩んだのです。神様に対する信仰を持ち、神様の守りを信じ、神様の教えを優先する生き方をしたのです。そして、いつも神様が共にいて下さって、彼を勝利へと導いたのです。上記聖句

4)ヨセフは従順と忍耐の人であった。
 そして、ヨセフ自身に求められたことは、神様に対する従順さと忍耐でした。ヨセフの心の王座には、自分の考え、感情ではなく、主ご自身がおられ、同時に地上にあっても従順に仕えることができました。その為に、忍耐の性質が与えられたのです。この働きによって神様のご計画は成就し、多くの神様の民が救われました
2013年3月31日 説教要旨
  復活 最も信仰的な話
1コリント15:20−22「しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。 それは、死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。 アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである」」

 キリスト教において、最も大事な伝えたい事実は、キリストの十字架と復活の話です。それぞれに信じる困難があり、十字架の死は,その惨めな死に方に、愚かな話だとつまずき、復活はそんなことあるはずがないと言って躓く人は多いのです。 しかし、そのような方法で、神様は人を救おうとされました。

 特に、イエス様が人として死から復活されたことを信じるとは、不可能を可能にする神様を信じることなのです。 その信仰は、全能の神様を信じることであり、死を克服する希望があります。なぜなら、死は誰も変えられない、誰も経験する、逃れられない恐ろしい結末であり、その死からの復活は神様のみ業とての希望なのです。

 このキリストの復活とその信仰は、その人を生かします。 イエス様による人の罪の身代わりの死と、その死からの復活を信じることは、人が神様を信じて生きるようになることであり、神様による新しい生き方をはじめることなのです。 このキリストを信じて生きることは、自分自身の間違った思いから解放され、この世の悪い思いから守られ、キリストによる新しい命の道、生き方を中心に導かれることになります。

 神様の全能を信じ、迷いや不安から救われ、イエス様による希望を持ちます。イエス様による教えにより、何が善であるか目が開かれ、生き方が清められます。 そして、生きるとはどう言うことかを教えられ、希望のある生き方ができるようになるのです。 そして、次のように言います。

1コリント15:58「だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦が無駄になることはないと、あなたがたは知っているからである」

キリストの十字架の死と復活を事実として信じる大切さを教えられます。
2013年3月24日 説教要旨
  キリストの十字架の意味
 1コリント1:21−23「この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととさrたのである。 ユダヤ人はしるしを請い、ギリシャ人は知恵を求める。 しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える.このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、 召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシャ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである

 キリストとその十字架の死は、クリスチャン信仰の核心です。決して忘れてはいけない信仰の土台です。 ところが、異邦人には愚かなものだと言います。キリストが私達の身代わりに死んで下さったと言っても、「それがどうしたの?」と言われかねないのです。 「ユダヤ人はしるしを請い』「ギリシャ人は知恵を求める」と言うように、人は自分に関心のあることを求めますが、神様を求め、神様が関心のある事を求めようとはしません。
ピリピ2:21「人はみな、自分のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことは求めていない」 これこそ、人の罪の性質なのです。

 もし、人が聖書を通して、真に神様を求めるなら、すべての人は罪の自覚に突き当たります。罪のゆえに、神様は受け入れてくれないと悲しむはずなのです。 その時にこそ、キリストの十字架は神の愛として、私達の心にとどき、魂を救い、私達を慰め、励ましてくれるのです。
 神様はどうして、愚かと思われるキリストの十字架を伝えようとするのでしょうか。それは純粋に神様を信じるようになるためです。
人は無条件に神様を信じ、従うことを神様は喜ばれます。

 キリストの十字架の死を信じることは、神様の恵みを受ける土台なのです。
一切の神様の恵みは、人の罪の身代わりに死なれたキリストの十字架を信じる所から始まります。そして、今、信仰を持った私達がイエス様の十字架をいつも心において生きる時、次の恵みを思い起させます。
@ 自分が罪人であることを思い出させ、自分を謙遜にします。
A 神の愛を思い出させ、愛に励まされます。
B キリストの苦しみを思い出させ、自分の苦しみを軽くしてくれます。
C 完全なゆるしを思い、主に感謝させます。
2013年3月17日 説教要旨
  落胆しない望み見る信仰
 ヘブル11:13、14「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものを受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。 そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している」

 信仰とは、イエス様を信じ、神様に守られ,支えられて,大きな救いに向けて進む心です。イエス様を信じ、イエス様の完全な救いの業を信じ、永遠の約束を信じることです。 アブラハムを見る時、私達はどのような信仰生活を生きるべきかをよく教えられます。

1)信じる信仰
 神様とそのお力を信じ、イエス様が完成されたみ業に対する信仰、また語られた約束に対する信仰。

2)従い行動する信仰
 信仰に遵って行動する信仰です。

3)落胆しない信仰
 どの様な立場になろうと、神様に対する信頼により、落胆しない信仰です。 信仰は、長い人生に不都合と思える事があっても、変わらない、動かないものでなければなりません。

4)待ち望み続ける信仰
 落胆しない信仰生活は、いつも神様の約束と神様の最善の導きを信じているからです。「万事が益となる」ことを信じているからです。

 ですから、先にロトに土地を選ばせることが出来ました。 どんな困難が目の前に現れても、慌てず、落ち着いて,速やかに行動できました。 そして、いつもそこに神様の恵みを見たのです。

 私達も、望み見る信仰生活をしましょう。
現実に恐れないように、神様の約束と最善を信じて、恵みを望み見て信仰生活を送りましょう。神様はこのような私達を喜ばれ、確かな道を示して下さいます。 主にある望みを持ちつづけましょう。
2013年3月10日 説教要旨 
  信仰と大胆さ
 使徒行伝 5章 26-32、40-42節
2テモテ1:7-8「というのは、神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである。 だから、あなたは、わたしたちの主のあかしをすることや、わたしが主の囚人であることを、決して恥ずかしく思ってはならない。むしろ、神の力にささえられて、福音のために、わたしと苦しみを共にしてほしい。」

 聖書にある使徒たちの歩みを見ていると,どんな場面でも信仰者として大胆に生きていると感じます。私達も少しでも近づきたいと願うのです。 迷いがないのです。 イザヤは、信仰のない時人は、「羊のように迷っていた」と言いますが、信仰を持ったのですから、迷わない、大胆な信仰生活をしたいものです。

1)どんな状況でも 2コリント6:4-8
 パウロは「あらゆる場合に、神の僕として,自分を人々にあらわした」と言いました。信仰はどんな場合にも「主の僕」としての正しい生き方を教えてくれます。

2)イエス・キリストが救主であると言う信仰の大胆さです。
 決して自分の思いや考えに基づく大胆さではありません。反対に、自分によらないで、キリストに頼る生き方をすることです。 イエス・キリスト様に従う大胆さなのです.神様に対する悔い改めと信仰がなければ出来ない大胆さです。 自分の感情「恥ずかしい」とか「恐れる」と言う感情を持たない大胆さです。

3)大胆さの力の源は 神様の凡ての恵みです。 2コリント6:6-8
 信仰によって神様から受けた恵みを理解している人が、信仰者として大胆になれるのです。神様から来る恵みが、その人を強くするのです。 2テモテ2:1「そこで、わたしの子よ。あなたはキリスト・イエスにある恵みによって、強くなりなさい」 パウロは、神様から頂いた真実、知識、寛容、慈愛、聖霊、愛、真理の言、神の力,義の武器と言いました。

 私達は自分のために大胆になるのではなく、真理に従う時に大胆になるのです。恐れず、恥じず、勇気をだして,信仰者として誰の前でも、どう言う場面でもキリストを証し,キリストの教えに従うのです。こう言う大胆な信仰生活を神様は豊かに祝福して下さいます。更に恵みを与えて下さいます。 もう、世に迷うことがない、光の中を生きる信仰生活を求めましょう。
2013年3月3日 説教要旨 
  神様を試みる罪
 使徒行伝 / 5章 3ー4節「そこで、ペテロが言った、「アナニヤよ、どうしてあなたは、自分の心をサタンに奪われて、聖霊を欺き、地所の代金をごまかしたのか。売らずに残しておけば、あなたのものであり、売ってしまっても、あなたの自由になったはずではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人を欺いたのではなくて、神を欺いたのだ」

 神様を試みるとは、聖書の中では信仰を持つ者が、不信仰の心、軽んじる心をもって、教会に嘘をついたり、不平不満を言うことでした。 ここで、アナニヤとサッピラは、資産を売った額を偽って報告してしまったのです。些細な事と考えていたかもしれませんが、そのことをペテロは、聖霊を欺き、主の御霊を試みたのだと責め、。その結果は、死と言うあまりに恐ろしいものでした。そして、使徒5:11「教会全体ならびにこれを伝え聞いた人たちは、みな非常なおそれを感じた」とあります。

 信仰生活は一切が恵みの中にある幸いなものであると知っていますが、不信仰の心に対てしては非常に注意しなければなりません。 マタイ12:31、32には、「聖霊を汚す者は、ゆるされることはない」「聖霊に対して言い逆らう者は,この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない」とイエス様が言われたお言に注意しなければなりません。

 その根には,不信仰の心、神様を軽んじる心があり、故意に行動に移す事、教会に嘘をついたり、不平不満を言うことを心から注意しなければならないのです。

 信仰者は熱心になって主に従わなければなりません。 真実な心をもって、主に従う信仰生活には,豊かな祝福の約束があります。 旧約聖書、新約聖書のどちらにも祝福の約束があります。 ヨシュア1:8  列王記上17:13−15  マラキ3:10  マタイ6:33 2コリント9:6−8

 クリスチャン生活はいい加減ではいけません、なまぬるい生活ではいけません。何ものにもまさる恵みを受け、幸いの約束を受けているのですから、熱心になって主に従い,主のめぐみの約束を受ける生活をするべきなのです。
2013年2月10日 説教要旨
キリストによる神の祝福への招き
 使徒3:26「神がまずあなたがたのために、その僕を立てて、おつかわしになったのは、あなたがたひとりびとりを、悪から立ちかえらせて、祝福にあずからせるためである」

 私達は神様を信じない時は、神様の救い、祝福、さばきを何も知りませんでした。キリストを十字架につけた人たちに対して、ペテロは「あなたがたは知らずにあのような事をした」と弁護したほどです。彼らは嫉妬や自己保身、プライドの為に、キリストを嫌い殺しました。彼らが故意にキリストを拒んだのは確かですが、罪のゆえに、キリストが真の救主とは知れなかったし、知らなかったのです。 イエス様ご自身も「父よ、彼らをおゆるし下さい。彼らは何をしているのか分からずにいるのです」と十字架の上で語り、ステパノも、「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」とイエス様と同じ態度を取っています。 このゆるす態度こそ、信仰者のあるべき姿であり。罪人を祝福に招いておられる神様のお心なのです。

 しかし、知ったなら、私達はキリストを受けいれ、信じ、従わなければなりません。使徒3:19「そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい」

 救主の来られる最初の預言が、このように(キリストの十字架の死)成就したように(使徒3:18)、王なるキリストが再び、世をさばく為に来られる預言が成就するので、罪のゆるしのため神様を信じなければならないと言うのです。使徒3:20、21

 キリストの死人からの復活は、彼らがこれらの約束を信じる確証となり、使徒たちはその証人として福音を伝えていたのです。
使徒3:15「しかし、神はこのイエスを死人の中から、よみがえらせた。わたしたちは、その事の証人である」

 ペテロはここで話の最後に最初の聖句のようにまとめています。
イエス・キリストが人としてこの世に来られたのは、人がみんな、この世の悪から離れて、神様の祝福を受けるためなんですと。

 神様の祝福受けるためには、悪から離れなければなりません。そして、信仰によって、神様の祝福は受けるのです。その祝福は何よりも大きなのです。 私達はこの地上においても、救われた喜びを持っています。心の平安があり、希望があります。しかし、時がくれば、それ以上に素晴らしい祝福を見るのです。
2013年2月3日 説教要旨
キリストの権威と信仰
 使徒3:16「そして、イエスの名が、それを信じる信仰のゆえに、あなたがたのいま見て知っているこの人を、強くしたのであり、イエスによる信仰が、彼をあなたがた一同の前で、このとおり完全にいやしたのである」

 教会が内において成長して行く時、人々はその魅力に導かれて集ってきました。そして、使徒たちも奇跡を行いながら、外に向けて宣教が広められて行きました。 ここで最初の外での宣教の働きが書かれています。 宮の門の前で物乞いをしていた一人の生まれながら足なえの男性が、障害を取り除かれ、救われたのです。

 この奇跡を見た人たちが使徒たちの周りに集った時、ペテロが上記言葉を語ったのでした。 ペテロはイエス様のことを語りました、イエス様が殺されたこと、しかし、神様は死人の中からイエス様をよみがえららせたこと。そして、イエス様の復活の証人が私達であると宣言しました。パウロは、イエス様の死は、私達の罪の身代わりであったことを強く語っていますが、

 ここでペテロはこの人がいやされたのは、このキリストの権威であり、お力によるのであると語ったのです。そして、そのイエス様の権威からのお力は、信仰によって引き出されると説いたのです。ここに私達の信仰の性質を学ぶことができます。信仰自体に力があるのではなく、神様のお力は、イエス様ご自身の権威により、そのお働きであることです。信仰がいやすのではなく、信仰を見て、キリストが働かれると言うことです。私達は次のことを信じていなければなりません。

1)イエス様は今も全てにおいて働いておられる。
 私達の身の回りの一切合切、イエス様のご支配の中にあると言うこと。

2)私達がイエス様の御心を知り、信じるときに、御心は成就すると言うこと。
 よみがえられたキリストは、私達の主であられます。天においても地においても、一切の権威をもたれる主です。 信仰とは、この方を信じ、その御心の最善であることを信じ、キリストの権威を信じることです。私達は完全な義なる、愛の救主イエス・キリストに信頼して、この方の元に来て、全くお委ねし従うなら、真の幸福を見いだします。
 2013年1月27日 説教要旨
 使徒2:38「「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう」

 イエス様の弟子たちが、福音を広めて行く時、どんなことが起ったのでしょうか。弟子たちの奇跡は、キリストの真実であることを人々に分からせながら、福音は広まりました。ペテロの語ることに、人々は深い後悔の念を持ちます。「強く心を刺され」と表現され、心の奥底からキリストを侮辱し、殺すことに加担した 自分の間違いを認めさせられたのです。

 その時、彼らは素晴らしい言葉を発します。
使徒2:37「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」 この言葉は、非常に尊いのです。神様は人がご自分に対して、こう問いかけて来るのを待たれています。あの、パウロも自分の間違いに気付いた時、「主よ、わたしは何をしたらよいのでしょうか」とイエス様に答えています。これこそ、悔い改めの言葉です。

 ペテロは、悔い改めと、続いて「イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい」と言いました。 それはイエス・キリストを信じることと、信じてバプテスマを受けることを勧めています。 イエス様ご自身を主(神)として、救主として信じ、イエス様が成された救いの業をそのままに信じ、キリストに従っていく。そして、わたしは救われたと信じるのです。

 この信仰の証がバプテスマです。この故にバプテスマは信仰の最もハッキリとした証と言えます。ですから、信仰を持ったなら、主のご命令に従い喜んでバプテスマを受けるべきです。

 その時、主は救いの証印を与えてくれます。それが「聖霊の賜物を受ける」と言われました。私たちの体が神様の宮となり、この身体のうちに住まわれます。そして、聖霊の働きをこの身に受け、御霊の実を受けるのです。人格においてもキリストの姿に似る賜物を受けるのです。真の信仰生活が始まります。
 2013年1月20日 説教要旨
 福音と敬虔な恐れ
使徒2:43「みんなの者におそれの念が生じ、多くの奇跡としるしとが、使徒たちによって、次々に行われた」

 信仰とは、この世の超越した創造主なる神様を知ることであり、その方を心から信頼し、信じることです。
その時、当然、敬虔な恐れの念が生じることが起こります。使徒行伝の中で、福音が語られ、聖霊様が人々の心の中に住まわれる時、みんなの者におそれの念が生じたとあるのです。その思いは日常的な状態ではなく、その後の彼らの行動が、彼らの心の変化を示しています。

 使徒2:44〜47「信者たちはみな一緒にいて、いっさいの物を共有にし、資産や持ち物を売っては、必要に応じてみんなの者に分け与えた。そして日々心をひとつにして、絶えず・・・」
 彼らの恐れは、彼らの生活行動を根底から聖い方向へと導くものであったのです。彼らの神様への敬虔な恐れは、彼らが神様を忘れたり、安易に罪に走ることを制限し、イエス様の御心を求め、進んで、喜んで、イエス様が喜ばれる道を進もうとさせたのです。

この恐れは、どのようなものでしょうか。

1)おびえることではな、敬虔さから出る思い。
聖書の「おそれ」と言う言葉は、同時に「敬う」と言う意味が含まれる単語です。ですから、この恐れは単に怖い対象を恐れるのではなく、心からその素晴らしさ、偉大さの故にかしこむ心をもって恐れるのです。

2)信仰者として成長させる恐れです。
古い自分を超越した信仰者になるために、熱心にさせる感情です。信仰の初期に恐れがないなら、なまぬるい者となり、遂にはキリストから離れてしまいます。

3)神様への信頼と愛が深まるに従って、最善な道として、神のさばきへの恐れは消えて行きます。
1ヨハネ4:18「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを取り除く」
 しかし、まだまだ罪深い私達は主への信頼とともに、恐れる心を持ちつづけ、熱心に主に従う信仰生活を歩まなければなりません。