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2014年12月21日 説教要旨
説教テーマ :メリークリスマス
ヨハネ118「神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである」

 メリーとは、陽気なとか、笑い楽しむと言う英語の意味があります。メリークリスマスは、クリスマスおめでとうと訳されますが、どうしてクリスマスはおめでたいのか?と思ったことありませんか。この意味が分からなければ、クリスマスの価値もぐっと小さくなります。ただのお祭りの一つとなります。

 しかし、クリスマスで祝うことは、お祭りが終わったときのむなしい感じではなく、その人の人生を魂の奥から明るくするものなのです。


1)クリスマス何があったのか?それはイエス・キリストの誕生です。
 見ることのできない神様が人となられた日で、わたしたちのそばに来られた特別な日なのです。

2)キリストはわたしたちの目を開かせます。イエス様は世の光としてこられたのですが、この光を通して人は真実、真理に目が開かれます。例をあげると
@創造の神がおられること。
A人は罪の中にあって、恐ろしい刑罰の前にあること。
Bすべての人には神様の素晴らしい救いがあること。
人間の社会は、決して良い事ばかりがある天国ではなく、かえって悲しい事、恐ろしい事、嫌なことが日々に起こっています。ある人は生まれてこなかった方が良かったと言う人もいるのです。

 どんなに幸いな生涯を送れても、一切を無にする死が幕を下します。
しかし、天と地を造り、人を創造された全能の神は、そのお力によって人に幸いを得させようと計画されているのです。
エレミヤ書/ 29 11「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。」 クリスマスの幸を知られて、心から喜びましょう。
2014年11月16日 説教要旨
説教テーマ:働く信仰生活

1コリント4:8「あなたがたは、すでに満腹しているのだ。すでに富み栄えているのだ。わたしたちを差しおいて、王になっているのだ。ああ、王になっていてくれたらと思う。そうであったなら、わたしたちも、あなたがたと共に王になれたであろう。」
ヨハネによる福音書/ 05章 17節「そこで、イエスは彼らに答えられた、「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」。」
1コリント4:16「わたしにならう者になりなさい」


信仰生活は神様の豊かな富を信じる生活です。少しも疑わずに、喜んで、何事も恐れずに平安に生きることが望ましいのです。
ところが、コリントの人たちは使徒たちの話を聞いてはいたのですが、自分の心地よい話は受け入れても、自分に合わない話は聞かなかったのでしょう。そして、争いが起こりました。こう言う信仰生活は身勝手な恵みの生活と言えるのです。
それは自分の肉を喜ばせる恵みだけを信じるからです。結果は反対になります。

わたしたちは恵みの話と共に、イエス様の教えに聞かなければなりません。そして恵みの上に、イエス様に従う生活を心掛けるのです。
イエス様は王としてこの世に来られました。マタイ2:2 しかし、生涯、神と人に仕える歩みをされ、ご自分は働くと言われました。ヨハネ5:17

パウロはこのイエス様に従ったのです。1コリント4:9〜13
パウロはコリントの人たちに言います。「あなたがたは、すでに満腹しているのだ。すでに富み栄えているのだ。わたしたちを差しおいて、王になっているのだ」

わたしたちはイエス様からの恵みを信じて、喜びます、安心します。しかし、今は、この地上にあっては王として地上で富むのではなく、イエス様のように王の立場を受けた者として、忍耐して主の御心に従う、天に宝を蓄える働き者ではなければならないのです。考え違いをしてはいけないのです。
2014年8月24日 説教要旨 
 復活の信仰
説教テーマ :彼は立つようになる

ローマ144「他人の僕をさばくあなたは、いったい、何者であるか。彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである。しかし、彼は立つようになる。主は彼を立たせることができるからである」


 どきっとする神様からのお言葉です。信仰者に「あなたはいったい、何者であるか」と言われることは恐ろしい問いかけですが、それは、わたしたちが同じ信仰者を軽んじ、批判し、裁くときに、イエス様から言われるのです。

日常の衣食に関して、信仰生活のちょっとした行為について、わたしたちは兄弟姉妹を悪く言うのは良くないのです。

それぞれの信仰者にはイエス様が主としてついておられます。イエス様のしもべに向かって裁くことになります。

イエス様の同意がなければ、おそろしいことです。


イエス様はわたしたちに信仰生活で最も大事なことは信仰とその確信だと言われます。

信仰とは、信仰者が自分の思いによっていきるのではなく、イエス・キリストを信頼し、キリスト中心に生きることです。ローマ1469


また確信とは、イエス様の御言葉を確信することです。時に、人と違って理解することがあり得ます。しかし、それでも確信のある信仰生活をするように言われます。

ローマ145「各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである」と。

そこに信仰が明らかにされるからです。神様は私たちの信仰を見ておられ、信仰からくる心からの確信を喜ばれます。


そして、信仰のあるクリスチャンを、神様は必ず立たせると言います。最後まで守り、救われるのです

2014年4月20日 説教要旨 
 復活の信仰

ローマ635「それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。 すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。 もしわたしたちが、彼に結びついて死の様にひとしくなる、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう」

信仰生活の順序があるなら、次のようであろうと考えます。

1)悔い改めと信仰とにより、イエス様による救いにあずかる。罪とさばきの中から救わ  れ、神様の家族とされ,永遠の命を受けるのです。

2)信仰の確信,救いの確信により、喜びのある信仰生活に進む。

3)新しい命に生き,神に生きる為に、罪との戦いに立ち向う。

4)神の国に入る。

 私達は信仰告白をすると、バプテスマを受けることを勧められます。イエス・キリストへの従順の一歩です。その時、そのバプテスマの意味は、私達が信じたイエス・キリストの罪人の身代わりの死と復活を象徴するものであり、これからの信仰生活が罪に死に,義に生きることであることを学びます。

 罪人の救いのみ業は、キリストの十字架の死と復活によって完成されました。私達はこの救いのみ業とイエス・キリストご自身を信じることを求められています。 この信仰告白をすると、その確信へと導かれます。み業の確信、救の確信・・・そこに救われた確かな喜びが生まれてきます。

同時に、罪の支配の世界での罪との戦いにクリスチャンは向かいます。パウロは、悪魔との戦い、罪との戦いの為に、神の武具で身を固めなさいと命じました。(エペソ611

 このことについて上記聖句は「もしわたしたちが、彼に結びついて死の様にひとしくなる、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう」と言います。

 私達はイエス・キリストの復活によって、神様のお力を信じました。そして、罪のゆるしを信じ、義とされたことを信じ、罪に死に新しい命に生きることを信じたのです。その実践が今のクリスチャン生活です。

 その秘訣は、イエス・キリストの死を自分のこととして,古い自分に死ぬことなのです。

救主イエス様だけを見あげ、自分のことを捨て,忘れることからでしょう。そして、いつもイエス様に従順に生きることです。バプテスマはその第一歩なのです。

 ヨハネ122426「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。自分の命を愛する者はそれを失い,この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。もしわたしに仕えようとする人があれば、その人はわたしに従ってくるがよい」

2014年2月23日 説教要旨 
  信仰による義人
ローマ1:17「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり、信仰に至らせる。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである」

 パウロは福音をつたえることに全身全霊をそそぎました。 ローマ1:15「そこで、わたしとしての切なる願いは、ローマにいるあなたがたにも、福音を宣べ伝える事なのである」と言います。 彼はイエス様を伝えること、福音は他に比較できないほど、非常に重要なことと確信していたからです。

 そこには聖書の深い理解があり、神様の御心の理解があるからです。万物、見えるものも見えないものも、神様によって最善のご計画で創造されていること。しかし、人は罪の中に生きて,神様の恵みが分からず、真の恵みから遠く離れて生きている姿です。 福音はその罪から救い出し,神様の義の中に生きるものとして下さる,非常に重要なものだと分かっていたのです。

 福音は神様の義について教えます。義とは「正しいこと」であり、人は正しくないと救われない事実です。人は皆、正しい生き方を求めなければいけないものなのですが、義から遠く離れています。福音はイエス・キリストを通して、まず人の罪を指摘します。そして、罪の結果、不義なるものとして永遠の滅び、死が来ることを教えます。

 イエス様の十字架の死は罪の呪いと滅びを教えるのです。人は神の形に似せて創造された尊い被贓物として、義を求めるものでなければならないのですが、罪人は義の中に生きることができなくなっています。「義人はいない、ひとりもいない」とあるとおりです。

 しかし、パウロは福音の素晴らしさを次のように言いました。 ローマ1:7「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり、信仰に至らせる。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである」 福音の中に神の義がある、それは信仰に始まり、信仰に至らせるものだと言ったのです。

 神の義と言われる時、その第一は神様に対する信仰です。 モーセの十戒にも最初は神様に対する信仰があるのです。わたしたちは義を追い求める者として信仰を求めなければなりません。そしてこの信仰はイエス・キリストに向かわせるのが福音です。

 真の信仰にこそ、真実な果実が実ります。だから、「信仰による義人は生きる」と言えるのです。 福音には素晴らしい恵みがあり、果実があります。わたしたちは福音の素晴らしさを確信して、パウロのように福音を伝える者にならなければなりません。
2014年2月16日 説教要旨 
  福音の目的(従順)
 ローマ1:5〜6「わたしたちは、その御名のために、すべての異邦人を信仰の従順に至らせるようにと、彼によって恵みと使徒の務めとを受けたのであり、 あなたがたもまた、彼らの中にあって、召されてイエス・キリストに属する者となったのである」

 福音を信じ、信仰を持つことは,罪のない本来の人の心の姿に回復することです。 それをパウロは「すべての異邦人を信仰の従順に至らせる」と言いました。 パウロ自身、ローマ書で最初に「キリスト・イエスの僕」と自分を紹介しています。
 それは彼が自分ではなく、イエス・キリストを主と告白し,従順に生きていることを証しているのです。イエス様自身が 使徒1:8「聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて,エルサレム,ユダヤと地の果てにまで、わたしの証人となるであろう」と言われています。

 従順とは,具体的にどう言うことでしょうか。 聖書の御言葉に従うことです。その教えが自分の考えや思いと違っていても、聖書の言葉に従うことが従順です。

第一に、神様、イエス様に対する従順です。
 それはパウロが「キリスト・イエスの僕」と言ったように、イエス様に対する信仰を第一にすることです。

第二に、人に対して従順であることです。
 人はもともと利己的、傲慢な者です。自分を人の上にしたいのです。だから、批判的精神が強く、人をさばくことを日常的にします。しかし、イエス様は弟子の足を洗い、弟子に互に仕え合うことを教えられました。

 福音とは、イエス様に関する一切の恵みであり、この福音は私たちに従順であることを教えています。その時、パウロは ローマ1:6「あなたがたもまた、彼らの中にあって、召されてイエス・キリストに属する者となったのである」と言いました。

 神様に対する従順な心は,イエス様のお心であり、その生き方は「イエス・キリストに属する者」と言われるに相応しいのです。
私たちは従順な素直な心、謙遜で聞くに早い人になりたいものです。
2014年2月9日 説教要旨 
  福音による救い
使徒26:17〜18「わたしは、この国民と異邦人の中から、あなたを救い出し、あらためてあなたを彼らにつかわすが、それは、彼らの目を開き、彼らをやみから光へ,悪魔の支配から神のみもとへ帰らせ、また、彼らが罪のゆるしを得、わたしを信じる信仰によって、聖別された人々に加わるためである」

 パウロは救われる時、はっきりとイエス様からその御心を示されました。そして、その御心に従い、世界中の人に彼が受けた福音の救いをつたえる努めに従事したのです。 パウロはイエス様から福音の意味すること一切を悟らされ、アグリッパ王の前で、福音をつたえようとするのです。 パウロは御言葉に従い、人の心の目が開かれなければならないと悟りました。 つまり、凡ての人の目は閉じていて、そのままでは福音を理解出来ないのだと分かっていたのです。

 そして、目が開かれるとは、

1)闇から光へ帰ることだと考えました。
 すべての人は光なる神様から離れていて、盲目なのだと,イエス様の下に来て初めて,人は本当のこと、ものが見えるものになる。

2)悪魔の支配から神のみ元へ
 ひとは、生まれながら悪魔の支配の中にある。それに気がつかなく、どう生きようと空しさの中にある。伝道者の書に「空の空、空の空、いっさいは空である」とあるのは、悪魔の支配の中にあるからだと理解したのです。そして、神様の下に来れば、本当の生き甲斐を見いだせると悟り語りました。

3)聖別した人々に加わる
 救いとは,神様に聖なる者と認められた群れに入ることだと言いました。それは罪をさばかれる者ではなく、恵みと祝福を受ける愛されている者とされることです。

 牢屋に入れられている者が、地位も名誉も富も、この世の一切の権能を持つ王に福音の救いを熱心にな語るのです。ここに福音の本質があります。
イエス様は「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」と言われています。ですから、この世の苦悩を持ってイエス様の元に行きます。どんな苦悩であろうと、その苦しみは解決されるのです。

 しかし、その解決はその人が救われて,パウロのような新しい人となり、この世の移り変わり、朽ちて行くものによる解決ではなく、信仰と希望と愛による救いなのです。だから、パウロは続けて言います。使徒26:29「パウロは言った、「説くことが少しであろうと、多くであろうと、わたしが神に祷るのは、ただあなただけでなく、きょう、わたしの言葉を聞いた人もみな、わたしのようになって下さることです。このような鎖は別ですが」
2014年2月2日 説教要旨 
  復活といのちの備え
使徒24:15「また、正しい者も正しくない者も、やがてよみがえるとの希望を,神を仰いでいだているものです。」

 イエス・キリストの福音は、十字架の死と復活を必ず伝えます。イエス様の弟子たちは、自分たちを復活の証人と呼びました。彼らは必ず、イエス様が死からよみがえられたと語り広めたのです。 そして、この事実は将来のすべての人の復活として更に理解され,語られていきます。イエス・キリストの十字架は,人の罪の為であり、復活は人の初穂としての永遠の命を伝えているのです。

 そして、この復活は凡ての人がよみがえるのだとパウロは言いました。信仰者だけの復活ではなく、凡ての人がよみがえる。 黙示録20章を読むなら、その意味することが分かります。第一の復活と第二の復活があるのです。 第一の復活はイエス・キリストの元に上げられます。しかし、第二の復活は火の海に投げ込まれると言うのです。

 すべての人がよみがえり、正しい者がキリストの元に行き、正しくない者が神様の恐ろしい裁きの中に投げ込まれる。 ルカ16章には、金持ちとラザロの死後のことが書かれています。人は神様に生前したことでさばかれると教えているのです。 人は地上で犯した罪について、神様の義により,定めにより,厳しくさばかれます。 しかも、復活した朽ちない身体を持って、永遠のさばきの中に入るのは真に恐ろしいことなのです。

 しかし、パウロは希望と言いました。 「やがてよみがえるとの希望を、神を仰いでいだいているものです」 人は皆、正しい者として復活を通して、永遠の命に生きる希望を持つことができます。 それは、イエス・キリストを信じる信仰によることによって受ける恵みです。

 2コリント6:2「見よ,今は恵みの時,見よ、今は救の日である」

 そこで、復活とさばきを知る私たちは、永遠の命を受ける備えをしていなければならないのです。その備えは心を変え、イエス・キリストを救主と信じること。 それが信仰です。ヨハネ3:16具体的には、イエス・キリストを信じて、主に従うことです。マタイ16:24〜27
2014年1月19日 説教要旨 
 教会の使命
使徒9:31「こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤ全地方にわたって平安を保ち、基礎がかたまり、主をおそれ聖霊にはげまされて歩み、次第に信徒の数を増して行った」

 教会は今も世にあり続けています。細い線のようであっても、続けてその役割を果たそうと神様に守られています。
教会の働きは何なのでしょうか。イエス様は次のように言われました。
マタイ5:13「あなたがたは地の塩である」
マタイ5:14「あなたがたは世の光である」
 光として,世に光なる神様を示し、その光によって世を照らし,救いと希望を与える使命があります。
 また、地の塩として世がサタンの支配に腐敗しきることがないように守っています。

 教会とはイエス様を信じる人の集りのことですから、一人一人が整えられ、助け合ってはじめてこの使命を果たすものになれるのです。

 そして、教会には他にない素晴らしい神様の賜物があります。それがあるから、私達は教会を尊び,とどまり続けることができます。
それは

1コリント13:13「このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。この最も大いなるものは、愛である」

 世にあるものはすべて朽ちて行きます。しかし、教会にあるものは決して朽ちず、いつまでもありつづけ、更に明るくなるものなのです。
 信仰があります。イエス様に対する信仰、神様に対する信仰は日に日に輝きを増しています。
 希望があります。神様が下さる希望は,私達の内で更に大きなものになっています。
 愛があります。神様を思う愛は日ごとに確かなものとなり、主に仕える力となっています。

 教会は、聖書にある一切の恵みがある所です。イエス・キリストの身体であり,キリストに満ちているものが満ち満ちているところです。

 この素晴らしい恵みを私達は確信します。そして、これからもイエス様が与えて下さっている使命を目標に前進続けます。
ヨシュア24:15「ただし、わたしとわたしの家とは共に主に仕えます」