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2015年11月8日 説教要旨
説教テーマ: キリストはわたしたちの平和
エペソ2:14〜16「キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、  数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、  十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。」  

 イエス様はご自分の十字架の死を通して、様々な敵意を滅ぼし、様々な関係と心に平和をもたらしました。

1)なぜイエス様は、平和を伝えるのでしょうか。
 神様は平和を喜ばれるからです。
詩篇/ 085篇 008節「わたしは主なる神の語られることを聞きましょう。主はその民、その聖徒、ならびにその心を主に向ける者に、平和を語られるからです。」
「平和」と訳されている単語の意味は、争いのない平和、心の平安、人を幸福にする繁栄と健康の意味があります。神様は、わたしたちにこの平和を語り、平和の国を伝え、約束して下さっています。

2)平和はどこにあるのでしょうか?
 神様との間の平和です。人類の歴史は、神様との敵対の関係にあったと言います。人は神様を知らず、信ぜず、偶像崇拝を行い背いてきました。その罪によって、神様と人との間に敵意が生まれています。キリストがもたらす平和は、神様との間の平和、そして、人との間の平和をもたらしたのです。

3)どのようにして平和を得られるのでしょうか。
 イエス・キリストの身代わりの十字架の死によります。エペソ2:16「十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである」 十字架によって敵意を滅ぼしされたのです。これは神様の一方的な愛と憐れみによります。この平和を得る方法は、自分の罪を悔い改めて、イエス・キリストを信じる時に与えられます

4)平和を受けた信仰者はどう生きるべきでしょうか。
 この平和は「わたしたちの平和」です。
平和を喜び、平和をこの世に伝える使命があるのです。
2015年10月25日 説教要旨
説教テーマ : 教会の祝福と祈り
エペソ人への手紙/ 01章 22-23節「そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。 この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。」

 信仰者の祝福とは何か?その答えを知るために、聖書を学びます。パウロはエペソの教会が祝福を受けるために祈ったとあります。エペソ1:17〜19

1)祝福を受けるために祈らなければならない。
 @祝福は神様が与えてくださるからです。 1コリント3:6
 A御言葉に沿って、心からの願いとして祈ります。 ヤコブ1:5〜8、4:2〜4

2)まず、パウロはエペソの信仰者が召されて抱く望みを知るために祈りました。
エペソ:1:18「あなたがたが神に召されていだいている望みがどんなものであるか、」聖書の信仰者を思い出してください。アブラハム、ダビデ、パウロ・・・神様からの恵みを知り、望みを確信していました。望みを持っていることが信仰者の成長であり、特徴です。
 私たちはどれだけの望みを持ち、確信しているでしょうか? へブル11:1〜2

3)神の国の栄光を知るように祈りました。
エペソ人への手紙/ 01章 18節「聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか、」 神の国の栄光は望みの最も大きなものです。
イエス様は永遠の命を教え、神の国を私たちに伝えました。神の国の栄光を知るなら、今の苦労を厭わないのです。 ローマ08:18

4)神様の力強い活動を知る。
エペソ1:19「また、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように、と祈っている。
 神様は今も力強く活動されています。ヨハネ5:17
これらの祝福を知るようにパウロは祈りました。それは信仰者の喜び、力となるだけでなく、キリストの身体なる教会を建て上げることにつながります。(上記聖句)
 これらを含めた祝福が教会にあるべきなのです。教会の中で信仰者が祝され、恵まれ、神様のご栄光をほめたたえ、この世に伝えるのです。そして、教会には神様が満ち満ちておられるところです。私たちは信仰によって、このお言葉を受け入れ、教会を貴ぶのです。
2015年10月18日 説教要旨
説教テーマ :神の栄光をほめたたえる
エペソ人への手紙/ 01章 11−12節「わたしたちは、御旨の欲するままにすべての事をなさるかたの目的の下に、キリストにあってあらかじめ定められ、神の民として選ばれたのである。 それは、早くからキリストに望みをおいているわたしたちが、神の栄光をほめたたえる者となるためである。」
 この世に絶望した者が、神様の福音を知るとき、それは大きな希望となります。キリストに望みを置く者が、圧倒される恵みを知る者になり、心から創造と救いの神様をたたえる者に新しくされていくのです。これが神様の願いです。
エペソの手紙一章には、神様の豊かな恵みの富が書かれています。

1)天地の造られる前から、選ばれた
エペソ1:4「天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び」
私たちの信仰は、自分の能力によるものでも、運が良かったのでもなく、すべての始まりの時に定められていたと言うのです。全知全能の神様が選んでくださったことは、神様の偉大さと、私たちの立場の安心の確信に導いてくださいます。

2)罪過のゆるしを受けた
エペソ1:7「わたしたちは御子にあって、神の豊かな恵みのゆえに、その血によるあがない、すなわち、罪過のゆるしを受けたのである」 これはキリストの十字架の死が、神様の恵みの最初であり、土台であることを教えてくれます。パウロが「主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない」との告白につながっています。
十字架のあがないは、神様の恵みの筆頭です。

3)知恵と悟りに導かれる。
エペソ1:8,9「神はその恵みをさらに増し加えて、あらゆる知恵と悟りとをわたしたちに賜り、御旨の奧義を、自らあらかじめ定められた計画に従って、わたしたちに示して下さったのである」 信仰生活は知恵と悟りに導かれる恵みの生活です。
 これらの恵みを通して、真心から、神様をほめたたえる者に新しくされていきます。信仰を告白した時にこの賛美は始まり、信仰の成長により更にほめたたえ、再びキリストにお会いするときに完成されるのです。主をほめたたえる生活は、私たちの喜びの生活であり、神様から力を受ける信仰生活なのです。罪のない人の本当の態度であります。進んで、キリストにより、神様の栄光をほめたたえましょう。
2015年10月11日 説教要旨
説教テーマ :十字架の意味と価値
ガラテヤ人への手紙/ 06章 14-16節「しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。」

 パウロのこのお言葉は、私たちの信仰生活の土台となるべきものを吟味させられます。「主イエス・キリストの十字架以外に、誇りとするものは、断じてあってはならない」。私はキリストの十字架を信じ、語っているが、唯一の誇りとしているか? いつも心に十字架を見ているか?反省させられるのです。ガラテヤの人たちは、信仰面でも十字架以外に、律法に心を向けるようになっていました。ガラテヤ3:1
 私たちの信仰は、十字架につけられたキリストにいつも向いていなければなりません。そうでないと、自分の考えや人の教えに揺れ動き、真実なものから離れます。神の力の意味が分からなくなります。
 信仰生活で間違いがないのは、十字架を誇りとする信仰生活です。私たちが新しくなる解決策です。十字架の意味を正しく知って、その偉大な価値をほめたたえましょう。
十字架の意味

1)真実に神様を認める 1コリント1:21
十字架のキリスト以外では、真実に神様を知り、受け入れることができません。

2)神様の愛を知ります。1ヨハネ4:10
神様の愛は十字架のキリストによって明らかにされたのです。このキリスト以外から誰も本当の神様を知ることはできません。

3)神様の聖さを知ります。ヨハネ3:16
 父なる神が御子イエス・キリストを罪の身代わりに十字架につけられた。御子が呪われたものとして死なれた。ここに神様の完全な聖さを知ります。
そういう神様だから、私たちも深く約束を信頼できるのです。
 私たちはイエス様の十字架を通して、神様の救いのご計画を明確に信じることができるようになりました。また、もっともっと深い意味が十字架にあることを知っています。キリストの十字架の模範とか。この十字架が神の力、神の知恵(1コリント1:24)なのですから、もっと学んで自分の唯一の誇りと言えるようになりまたいですね。
2015年10月4日 説教要旨
説教テーマ :教会のために
ガラテヤ人への手紙/6章 2節「互いに重荷を負い合いなさい。そうすれば、あなたがたはキリストの律法を全うするであろう」」
 信仰生活の第一は、自分の内面を清めることです。イエス様が十字架のあがないによって、私たちの罪のゆるしを与えてくださり、また罪から解放してくださり、自由を与えてくださいました。しかし、自分のことだけを思うことは神の愛に背きます。
同時に、キリストと教会に仕える道でなければなりません。愛の実践です。どのようにして仕えるのでしょうか?

1・教会が清められることを求める道です。
1)兄弟姉妹の罪を正す道 ガラテヤ6:1
教会の中にはっきりとした罪があるなら、それから離れるよう、裁くのではなく、愛から柔和な心で勧めることです。
2)負いきれない荷で苦しんでいる人がいたら助けることです。 ガラテヤ6:2
 罪を正すこと、重荷を負い合うこと、このような行為は、キリストの律法を行う愛の行為なのです。
私たちは自分のことだけを見るのではなく、教会に心からの関心を持つべきです。

2・自分自身は教会の中で忠実に仕えるのです。 ガラテヤ6:5「人はそれぞれ、自分自身の荷を負うべきである」
教会全体に気を向けることと共に、自分自身が教会に仕えることに全力で行動しなければなりません。周りがどうであろうと、イエス様が導かれた教会の中で、自分に任されている教会の働きに熱心でなければならないのです。周りの人がどうであろうと、自分の務めを全うすることが最も優先されなければならないのです。
例:黙示録のサルデスの教会は死んでいるといわれました。 黙示録3:1〜6
しかし、その教会の中にイエス様と共に歩み続ける信仰者が数人いるとイエス様は言われます。たとえ教会が良くない状態になっていたとしても、私たちは自分の働きを忠実にこなさなければならないのです。

3・働きの報いがあるのです。 ガラテヤ6:9「私たちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取ることになる。
教会のために、教会に熱心に仕えましょう。結果は、あなた自身に報いがあります。
2015年9月27日 説教要旨
説教テーマ :御霊によって歩きなさい
ガラテヤ人への手紙/ 05章 16節「わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。」

 信仰を持つとは、真実を知るものになることです。それは万物を想像された神様を知ることであり、この世界がなぜあるのか?人はどこからきて、どこへむかっているのか?そして、自分はどうしたよいのか?ということを学びます。
 私たちはイエス様によって、罪が許され救われました。そして、イエス様はわたしたちに言われるのです。「御霊によって歩きなさい」。この意味を学びます。

1)私たちの前に二つの道があることに気付く。
私たちの前には大きなひとつの道がありました。それは「肉の欲を満たす」道です。自分の思いに従う道です。ところが、信仰を持つことにより、別の道が示されたのです。イエス様の道です。

2)それは相逆らう道でした。
ガラテヤ5:17「なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。」
この聖句は、私たちを戸惑わせます。信仰を持つと、一つの真っすぐな道かと思うと、私たちを試す二つの反する道の前に立たされるからです。

3)御霊によって歩きなさいと命じられます。
そこで、イエス様は御霊に従う道を選びなさいと命じられています。
・それは神様のことを思う道であり、ローマ8:5
・肉の欲を満たさない道であり
・真実な自由がある道である。 といいます。2コリント3:17

4)御霊による道には、神様の助けがある。
この試みの中、信仰によって御霊による道を選ぶなら、神様の全能の助けがあります。
・御霊のとりなし
・すべてを益とする全能のお導き
わたしたちは信仰によってこの道を進み始めました。そして、さらに信仰によって信仰に進みます。神様のお力によって義人の道を完成するのです。ローマ1:17、イザヤ40:31
2015年9月20日 説教要旨
説教テーマ :全ての恵みを受ける自由
ガラテヤ人への手紙/ 5:1「 自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。」

 自由とは、地上の様々な束縛からの解放のことです。律法、罪、死、様々な世の不幸の力からの解放です。これらの恐ろしい束縛からイエス様の十字架によって、信仰者は完全に解決されました。
 その束縛の根源は罪にあるので、イエス様が身代わりに死んでくださることによって、また、初穂として復活されたことによって、罪とその刑罰から解放され、人に自由が与えられたのです。これらは地上の束縛からの自由です。
 更に、天に向けての自由があります。神様のおられる天から様々な恵みを受ける自由です。
ローマ人への手紙/ 08章 32節「ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。」

 私たちは天のお父様は、なんでもおできなり、すべてをお持ちの方であると信じています。イエス様を通して、わたしたちが受けた自由には、天の宝を引き出してよい自由でもあるのです。放蕩息子の話で、父は長男に言いました。
ルカ15:31s「すると父は言った、「子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ」」
子とはこのような特権を持った者です。私たちは信仰によって神の子とされました。

1)神様の約束は常に変わることがなく、私たちはその約束を自由にいただけるのです。
2)神様の恵みの座にいつでも自由に近づくことが出来、どんな時の励ましを受ける事ができます。
3)そして、天国に何の邪魔もなく入ることが出来ます。こういう自由です。
 私たちは自由の子であることを自覚しましょう。神様の恵みにフリーパスが与えられているので、ピリピ4章13節「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。」と言えるのです。信仰をもって神様の恵みを求めましょう。私たちにその自由があることを、信じましょう。
2015年9月13日 説教要旨
説教テーマ :神の裁きから救われ、栄光に向けて生きる神の子

ガラテヤ人への手紙/ 03章 26節「あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。」

 「神の子」と言う表現には多くの内容があります。第一に思いつくのは、神と和解し、神の子として、神の家族の一員になると言うこと。そこには信じられないほどの多くの相続の恵みがあります。
反対に受けないものもあります。神の裁きを受けないことで、これは非常に大事なことであり、聖書の恐ろしい警告です。人には地獄の裁き、永遠の滅びがあると警告しているのです。

 この話を人は嫌います。信じられない事でしょうし、信じたくないのです。しかし、クリスチャンにとって、創造の神様を知る時、神様の裁きはあると納得させられます。なぜなら、
@この世界は神様によって創造されたからです。
偶然に意味なく存在する世界ではなく、全能の神様が目的を持ち、意志を持って創造されたから、終わりには裁きがあるのです。

A神さまには義と罪を分ける規範があるからです。
神様は義なる方で、義と罪を完全に聖別される方です。聖書の中に、そのために律法を定めておられます。終わりの時に、罪には裁きがあるのです。

B神様は聖なる方だからです。
神様は聖なる方であるから、罪をそのままで神の国に受けいれることがおできにならないのです。終わりの時には、完全なる裁きがあるのです。

 神の子とはこの恐ろしい裁きから救われる者です。
なぜなら、神の愛のゆえに、私たちの罪の身代わりに神の御子イエス・キリストが罪の呪いを受けて身代わりに死んでくださったからです。罪の代価を、ご自身の命を持ってあがなって下さったからです。
 信仰者は信仰によって、この救いだけで非常に大きな恵みを受けたのです。もう、永遠の滅びを経験することがなく、神の国で永遠の命を受けたのです。聖書の信仰者たちはそれを喜び、この地上生活を旅人として、そのゴールを目当てに励んで進んだのです。だから、私たちもその報いを望み、忍耐強くこの信仰の歩みを続けましょう。
2015年9月6日 説教要旨 
説教テーマ :神に生きる
ガラテヤ人への手紙/ 02章 19−20節「わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。」
 私たちは信仰によって罪を赦され、律法によって裁かれないことを知りました。なぜなら、すでにキリストが十字架で身代わりに裁かれて下さったからです。更に、パウロは「わたしはキリスト共に十字架につけられた」と言うのです。どういう意味でしょうか?
実際にパウロは十字架につけられていないので、そう信じると言うことでしょう。
 十字架は死を意味します。パウロは「わたしは」と言い、他の箇所では「わたしの内の古い人」と言っています。つまり、わたしもキリスト共に死んだと言うのです。
これはパウロの決心であり、願いであり、信仰であると信じます。なぜなら、もし古い人が死んだなら、もう古い人がその人を束縛するはずがないはずですが、パウロもわたしたちも常に古い自分との葛藤の中にあり、パウロはその悩みの中に「わたしはなんと惨めな人間だ」とも告白しています。そこで、この告白は信仰だと信じるのです。
 信仰とは、ヘブル人11章 01節「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」
マルコによる福音書/ 11章 24節「そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。」
ヤコブの手紙/ 01章 06節「ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい」
 キリストと共に死んだと信じるならば、そのとおりになると聖書は約束しています。
コリント人への第二の手紙4章10節「いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちがこの身に現れるためである」
キリストと共に死ぬとは、日常では古い自分の考え、思い、また感情に影響を受けないで、キリストの思いに生きる決心で、そのために古い自分は死んだと信じることでしょう。
 神様は私たちがキリストの十字の死と復活を信じ、また、同様に自分も死に、キリストと共に生きる信仰生活に生きることを望まれています。その時、キリストの命がその人に現れると言うのですから、新しい生き方が出来るのです。私たちの高い信仰の願いです。
2015年8月30日 説教要旨
説教テーマ :神の恵み 約束の御霊
ガラテヤ人への手紙/ 03章 13-14節「キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。 それは、アブラハムの受けた祝福が、イエス・キリストにあって異邦人に及ぶためであり、約束された御霊を、わたしたちが信仰によって受けるためである。」

 このお言葉では、アブラハムの祝福が、私たちが約束された御霊を信仰によって受けることであると教えています。

 神様は救いのご計画をすべての始まりからおもちでした。そして、初めにアブラハムに約束としてお示しになられたのです。信仰によって義とするとのお約束であり、その報いとして、アブラハムにその子孫を多くし、またカナンの地を永久に所有させるというものでした。そして430年後、真実な信仰に導くために律法を与え、およそ2000年後、神の御子イエス・キリストをこの地に送られて、初めの約束を完全に成就されたのです。しかも、更に恵みに満ちたものとして、人に提供してくださいました。

1) 神の御子ののろいの死を通して
 イエス様が私たちの罪の身代わりに十字架の上にご自分をはりつけられ、身代わりに罪の呪いを受けられて死なれました。そして三日目によみがえられ、彼を信じることによって救われる道を備えられるため、約束の成就のためでした。

2)約束された御霊を受ける
 アブラハムへの約束は、子孫が増え、カナンの地が与えられることでしたが、神の御子を通して明らかにされた神様の約束は、御霊を受けることだと示されました。それは御霊を受けることにより、人を新しく創造することでした。

罪を赦し、清め、命を与えるご計画です。神の子としてすべてを相続し、世を支配する者とするご計画です。その為に、人がこの地にあってイエス・キリストを信じ、あがめ、従順に従うように導きを与えるお働きです。時間をかけて、悟りを与え、人の内面をキリストに似た者とするお働きです。現在、信仰による約束の子は増え、キリストの再臨を通して世を支配する者になる時を待っています。

 わたしたちはイエス様に清められ、御霊の宮として新しくされ、イエス様の証人として、恵みを受ける約束の子として、信仰により生きているのです。
2015年8月23日 説教要旨

説教テーマ :信仰義認

 ガラテヤ人への手紙/ 03章 12-14節「 律法は信仰に基いているものではない。かえって、「律法を行う者は律法によって生きる」のである。 キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。 それは、アブラハムの受けた祝福が、イエス・キリストにあって異邦人に及ぶためであり、約束された御霊を、わたしたちが信仰によって受けるためである。」

 様は私たちに信仰の回復を望んでおられるのです。人に罪が入り込み、人は不信仰に落ち込み、神様を見なくなり、見えなくなり、希望のない死に至る滅びの道を進んでいます。

 その罪人を救う神様のご計画があります。それは人の信仰を回復して、信仰によって罪と死を罰し、義として命に至らせる救いのご計画です。ところが、人は信仰をもってもすぐに違う道に迷いこむと、パウロは心配しているのです。

 ガラテヤ人への手紙/ 03章 01節「ああ、物わかりのわるいガラテヤ人よ。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に描き出されたのに、いったい、だれがあなたがたを惑わしたのか。」

そして、信仰を持ったことを大きな経験と言いました。

 ガラテヤ人への手紙 03章 4節「 あれほどの大きな経験をしたことは、むだであったのか。まさか、むだではあるまい。」

 私たちが決して忘れてはいけないことがあります。

1)わたしたちの救いはキリストに対する信仰によって得た、行いではない。

2)更に、わたしたちは信仰によって生きる。

何をするにも、信仰から出ていることを確認します。

ローマ人への手紙/ 14章 23節「すべて信仰によらないことは、罪である。」

 もし、私たちの行動が間違っているなら、私たちはまず信仰を吟味しなければなりません。神様に、イエス様に対する全き信仰を持つなら、私たちの行動は矯正されていきます。
2015年8月16日 説教要旨
説教テーマ :自由

ガラテヤ人への手紙/ 02章 04節「それは、忍び込んできたにせ兄弟らがいたので――彼らが忍び込んできたのは、キリスト・イエスにあって持っているわたしたちの自由をねらって、わたしたちを奴隷にするためであった。」

 キリスト者の自由。わたしたちはイエス・キリストによって自由を受けています。それはとても感謝なことです。

1)律法からの解放
 わたしたちは行いがなければ救われないと言う束縛がありません。イエス・キリストの贖いによって、信仰によって救われています。律法は救いの条件ではなく、神様の御心知り、従う目標です。
2)罪と死からの解放
 イエス・キリストの身代わりの死によって、罪とその刑罰から解放されました。また、私たちの内に聖霊様がいて下さることにより、罪の性質から解放される道を進んでいるのです。
3)愛する道
 更に、わたしたちは自由に、イエス様のように他者を愛する道を進みます。

ガラテヤ人への手紙/ 05章 13節「兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。」

 この道は言葉によって示される道ではありません。イエス様が具体的な行動を示されているのではなく、自分の内にある愛によって行動する道です。
@いやいやではなく、喜んでする道です。
A自分の犠牲を嫌わない道です。
B真にキリストに似た者として道です。

 信仰生活は何かの利得のためのものではなくなります。最初、信仰を持つ時、こんな良いことがあると知って、それを得るために始めるでしょう。しかし、神様は、もっと良い道として、その行先をイエス・キリストに似る者となる道とされているのです。仕える人になり、愛を目標としているのです。

テモテへの第一の手紙/ 01章 05節
「わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と偽りのない信仰とから出てくる愛を目標としている。」
 2015年8月9日説教要旨
説教テーマ :神から下る

ガラテヤ人への手紙/ 01章 10節「今わたしは、人に喜ばれようとしているのか、それとも、神に喜ばれようとしているのか。あるいは、人の歓心を買おうと努めているのか。もし、今もなお人の歓心を買おうとしているとすれば、わたしはキリストの僕ではあるまい。」

 悔い改めてイエス・キリストを信じた人は、聖書のお言葉により全く世界観が変わってきます。神様のご存在を信じ、神様によって世界があることを理解し始めるのです。イエス様を信じたから解ると言うのではなく、信じてイエス様に聞いてわかってくるのです。つまり、聖書に教えられて、人は全く新しい理解が生まれます。

 ガラテヤ人の手紙の中で、パウロは次のように自分を紹介します。
ガラテヤ人への手紙/ 01章 01節「人々からでもなく、人によってでもなく、イエス・キリストと彼を死人の中からよみがえらせた父なる神とによって立てられた使徒パウロ、」

 また、パウロが語る福音についても
ガラテヤ人への手紙/ 01章 11-12節「兄弟たちよ。あなたがたに、はっきり言っておく。わたしが宣べ伝えた福音は人間によるものではない。 わたしは、それを人間から受けたのでも教えられたのでもなく、ただイエス・キリストの啓示によったのである。」

 そして最初の聖句のように、人ではなく、神様に喜ばれることを願っていると言うのです。私たちの信仰は、すべては神様から出ていて、イエス・キリストによって示される素晴らしいご性格と確かなお力とご計画によって、私たちは最善に導かれると信じるのです。なぜ、神様が喜ばれることを願うかと問われるなら、神様が喜ばれることが、私たち人間に最善であると信じるからです。

 この信仰を邪魔するのが罪と呼ばれます。神様が一番ではなく、人が中心、自分中心に考え行動します。それが今の世であり、今の世をよく見れば、人間の罪がいかに闇であるかがわかるでしょう。その罪から解放して下さるために、イエス・キリストが人の罪を負われて十字架で死んでくださいました。それは私たちを救うためであり、清めて下さるためです。
この方を信じることによって、人は神様を信じることが出来るようになり、新しい生き方が出来るようになります。人に良いものはすべては天から、神様から下るのです。
 わたしたちは人ではなく、イエス・キリストを見て、救いを信じ、ご計画を信じ、この福音を喜びを持って語るイエス・キリストの僕です。
2015年8月2日 説教要旨
説教テーマ :自己吟味
<内におられるキリストを悟る>
2コリント13:5、6「あなたがたは、はたして信仰があるかどうか、自分を反省し、吟味するがよい。それとも、イエス・キリストがあなたがたのうちにおられることを、悟らないのか。もし悟らなければ、あなたがたは、にせものとして見捨てられる。 しかしわたしは、自分たちが見捨てられた者でないことを、知っていてもらいたい」

 わたしたちは表面的なこと、現実のことに目を向けがちです。しかし、目に見えない方を見ることをおろそかにするなら、信仰生活は道をそれて迷ってしまいます。
コリントの人たちも、人を比較したり、罪に寛容になったり、違った教えが入り、キリストの真実の教えから迷いそうになっていました。信仰生活にはさまざまな誘惑、戦い、試練があるものです。
 私たちは時に信仰生活を反省し、自己吟味をすべきです。
そして、自分の内にあって力を持たれるキリストを見出し、キリストが内におられることを悟らなければならないのです。
 キリストが内におられるとは、キリストとつながっている事であり、キリストが自分の内にあって、自分に対して力を持たれる方であることを理解しなければならないのです。
ヨハネによる福音書/ 15章 05節「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。

@わたしはイエス・キリストを救い主として信じているか?
Aイエス・キリストはわたしの主か?
Bわたしはキリストに従う心構えはできているか?
もし、わたしが自分の肉の思いと違って、キリストに従う心があるなら、それは心にキリストがおられるからです。
そのキリストに従う時に、神様のお力を受けるのです。
2コリント13:8「わたしたちは、真理に逆らっては何をする力もなく、真理にしたがえば力がある」 その力の意味は、最後まで耐え忍ぶ力なのです。
2015年7月26日説教要旨
 説教テーマ :弱さを誇る
コリント人への第二の手紙/ 12章 09-10節「ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。」

 神様は弱い者を用いられる、これは、聖書の真理です。

コリント人への第一の手紙/ 01章 28節「有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。」

弱い者はどうして、神の力を受けるのか?

それは自分に頼らず、信仰によって生きるからです。自分に頼れない、しかし、主は力強く、全能の神様であるから、信仰の道を進むのです。

では、パウロの言う弱さとは何と言っているか?

1)苦難のある境遇
パプロが宣教の途上で経験した苦労です。2コリント11:23〜28

2)体の障害。2コリント12:7
この弱さは常に、パウロ自身の肉体に悩みとなりました。福音を伝える障害とも考えたこともあったでしょう。しかし、これらの弱さの前に立つパウロにイエス様の答えがはっきりとパウロの確信を与えます。

2コリント12:9「ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう」

 私たちは「主を誇る者ですが」が、パウロは誰かに自分自身について誇ることを求められる時、彼は、「自分の弱さ以外には誇ることをすまい」2コリント11:30と言います。。そして、次のように付け加えています。2コリント12:10「わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである」

 わたしたちは信仰者として様々な苦労の中にありますが、それを自分の弱さとして積極的に受け入れ、御言葉を信じ、神様のお力が働く機会として喜び、前進していくのです。

その時、私たちを弱り果てさせるものは何一つなく、すべては恵みと喜べるのです。
2015年7月19日説教要旨
教会の心構え

コリント人への第二の手紙/ 10章 04-6節「わたしたちの戦いの武器は、肉のものではなく、神のためには要塞をも破壊するほどの力あるものである。わたしたちはさまざまな議論を破り、 神の知恵に逆らって立てられたあらゆる障害物を打ちこわし、すべての思いをとりこにしてキリストに服従させ、 そして、あなたがたが完全に服従した時、すべて不従順な者を処罰しようと、用意しているのである。」 
 パウロはコリントの教会の人たちがもっと、彼を信頼し、主からの権威を信じ、聞き従ってほしいと願っています。

それは常に教会の中に、この世の罪の力と、この世の神(サタン)の力が働くからで、罪は指導者を軽んじ、サタンは違った教えを教会に植え付けます。そして、教会は真の恵みを知らず、キリストと一つとなることが出来なくなります。その風に押し流されるなら、教会は固まらないし、立つことが出来ません。

そこでパウロたちは、神様から霊の武器をいただいていて、それによって神様のご計画をなしていくのだと言いました。

その力は、
1)様々な議論を破る 2)神の知恵に逆らう障害物を打ちこわし 3)すべての思いをとりこにする  と強い言葉で語りました。

 どういうことか?と問う時に、それほどに人は強情で、神様のお力によらなければ、悔い改めることが出来ない者であることを知るのです。

その目的は人を「キリストに服従させる」ことです。そのために、パウロたちは働いていると言ったのです。キリストを信じることの障害となるものをすべて取り去る、コリントの人たちが全き信仰を持つことが出来るように、神様の権威と力によって働いていると言いました。

その障害が、パウロに対する不信です。教会の指導者、説教者との間には、強い信頼がなければ教会は成長しません。なぜなら、語られる神様の御言葉によって、砕かれ、キリストを見上げ、その信仰によって人は成長し、教会が成長するからです。

教会の心構え、それはハッキリとしたキリストに対する悔い改めと信仰により、指導者を信頼して、語られる御言葉に聞き従うことです。
2015年7月12日 説教要旨
説教テーマ :神の恵み 献金

 コリント人への第二の手紙/ 09章 6−8、12−15節「わたしの考えはこうである。少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる。 各自は惜しむ心からでなく、また、しいられてでもなく、自ら心で決めたとおりにすべきである。神は喜んで施す人を愛して下さるのである。 ・・・
なぜなら、この援助の働きは、聖徒たちの欠乏を補うだけではなく、神に対する多くの感謝によってますます豊かになるからである。 すなわち、この援助を行った結果として、あなたがたがキリストの福音の告白に対して従順であることや、彼らにも、すべての人にも、惜しみなく施しをしていることがわかってきて、彼らは神に栄光を帰し、 そして、あなたがたに賜わったきわめて豊かな神の恵みのゆえに、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのである。 言いつくせない賜物のゆえに、神に感謝する。」


 献金は「神の恵み」「恵みのわざ」と言われ、ここでは聖徒たちの欠乏を援助することであり、神様への感謝を表しています。

信仰を告白すると、神様の恵みを知り、分かってきます。恵みは神様からの贈り物で、人は恵みによってこの地上に生きて、そして救われます。

 ところで、恵みは本来、受けるものですが、献金を恵みとよんでいるのです。ここに神様のご計画があり、パウロは教会の指導者たちにこう言いました。

使徒行伝/ 20章 35節「わたしは、あなたがたもこのように働いて、弱い者を助けなければならないこと、また『受けるよりは与える方が、さいわいである』と言われた主イエスの言葉を記憶しているべきことを、万事について教え示したのである」

信仰者は神様から受けた恵みを、今度は働かせ、用い、捧げる者になるのです。信仰も、知も、愛も、他のために用いるのです。タラントのたとえにあります。

パウロは2コリント8:15で、イスラエルがマナを受けた時の話をします。それはマナを集めた者はあまらなかったと言うのです。あまらしたマナは次の日腐っていました。

私たちがこの世で受けている恵みは、この世で豊かに用いなければなりません。それは天に宝を蓄えることにつながり、決して腐らせないのです。

この献金は教会によって、救われていない人への伝道のために用いられ、聖徒の欠乏のために用いられるべき恵みです。そして、信仰者を豊かにするわざです。
2015年6月28日 説教要旨
説教テーマ :分離
コリント人への第二の手紙/ 06章 14節「不信者と、つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。キリストとベリアルとなんの調和があるか。信仰と不信仰となんの関係があるか。神の宮と偶像となんの一致があるか。わたしたちは、生ける神の宮である。」  

 分離、英語でセパレーションと言います。
分けて、離れることです。
 それは、自分の内面におけるもの、社会との係わりにおけるもの、教会の中においてもあるべきものです。

1)自分の問題
 罪との分離です。私たち信仰者の内には古い自分と新しい自分があります。古い自分は不信仰、神様を信じない心です。新しい自分は、今までを悔い改めてイエス様を信じて従う心です。生活の中に混同しがちですが、はっきりと分別ができ、古い自分を捨てて、新しい自分の生き方に心を向けなければなりません。

2)社会との係わりにおいて
 私たちは不信仰の社会に身を置いています。この世で生きることはイエス様の御心であり、この世に神様から遣わされている者なのです。しかし、私たちはこの世の罪の習慣から離れなければなりません。人から離れるのではなく、不義の行為から離れ、真理を伝える使命があるのです。

3)罪を故意に犯す兄弟姉妹からは離れます。
 聖書は兄弟姉妹と呼ばれる人がいたら、その人たちとは離れなさいと言います。一緒に行動しないように言うのです。(コリント人への第一の手紙/ 05章 09-11節)

 その理由は、わたしたちは「生ける神の宮」であるからです。 自分の心と体を聖く保つ努力をしなければならないのです。信仰者は信仰により、罪を赦され、清められ、聖なる者とされました。それは神様の聖さ、権威を知り、この世から選び分かたれ、神の子とされたのです。そして、神様の栄光を現すべき者とされた私たちは、イエス様が再び来られた時、想像を超える神様の栄光の中に招かれます。今、昔の罪から分離した生活を送り、その立場にふさわしくなることを忍耐し継続して目指しましょう。
2015年6月7日 説教要旨
説教テーマ :新しくされる

2コリント5:17「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」

 わたしは新しくされたと言える。神様に対する考え、世界に対する考え、自分について、他者について・・・随分と神様は私たちを造りかえて下さったと言えるのです。

 しかも、とても良い方法で神様は私たちを新しく生まれさせて下さいました。それは、ご自分のご性質をキリストと御言葉ととおして教えて下さり、私たちの救いのご計画を無理なく受けることが出来るよう完成して下さったのです。

 そのご計画は、御子の人の思いをはるかに超えた犠牲によります。神が人となられて、ご自身の戒めの中に歩み、しかも、私たち罪人の身代わりに死なれたことによります。更に、そのご計画の完全を示すため、三日目に復活されて、人の間に復活の姿を示し、天に昇られたのです。それが私たちの主イエス・キリストです。

 私たちには、罪の責めを課すのではなく、悔い改めの心と信仰による救いを下さいました。そして、私たちは新しくされ、新しく生まれた者とされたのです。

 そして、パウロは新しくされたわたしたちは新しい心を持って生きることを示しました。

 コリント人への第二の手紙/ 05章 15-16節「そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。 それだから、わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい。かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。」

 その救いの確信に満たされたパウロは、自分のためではなく、キリストのために生きると言ったのです。キリストが喜ぶことを生きる規範とし、そして、他者に対する見方も変えられたと言いました。

 創造の神、救いの神様を知ったとき、私たちはキリストが示す新しい生き方を喜び、受けいれ、救われた者の歩みを始めたのです。

 そして、新しくされた者として、最も大事な神様からの目標として、このキリストを宣べ伝えることです。
2コリント5:18
「神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。」
2015年5月3日 説教要旨
信仰者に見る神の働き

コリント人への第二の手紙/ 3章3,4節「そして、あなたがたは自分自身が、わたしたちから送られたキリストの手紙であって、墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心の板に書かれたものであることを、はっきりとあらわしている。 こうした確信を、わたしたちはキリストにより神に対していだいている。」

教会の働きは神様のお力によるものであり、そうでなければむなしいのです。

詩篇/ 127篇 001節「主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい。主が町を守られるのでなければ、守る者のさめているのはむなしい。」

教会の目的は、福音を世界に伝える働きです。

それは決して教会の人数に反映されるものではなく、教会の人の質にかかわる者です。教会の信者は、キリストの手紙でなければなりませんし、教会はその人の心に御言葉が書かれることに熱心でなければならないのです。

パウロはコリントの人たちがパウロたちの推薦状であり、キリストの手紙だと言いました。コリントの人たちはいっぱい間違いをしていた人たちでした。分派があり、不品行があり、無知なことが多かったのです。

しかし、彼らがキリストの手紙と言われた理由がありました。その罪を指摘したとき、

コリント人への第二の手紙/ 07章 11節

「見よ、神のみこころに添うたその悲しみが、どんなにか熱情をあなたがたに起させたことか。また、弁明、義憤、恐れ、愛慕、熱意、それから処罰に至らせたことか。あなたがたはあの問題については、すべての点において潔白であることを証明したのである。」

彼らは熱心に悔い改めたのです。真の信仰者は神様の御言葉の前には、誠実であり、熱心に悔い改めることが出来るのです。なぜなら、神様ご自身がその方の主であるからです。

教会は人数に悩む必要はありません。いつも一人の人のために、熱心であることが大事なのです。福音を語る務めは、栄光の働きであり、大胆に語る自覚を持たなければなりません。福音はさらに自由に、人をキリストの姿にまで変えて下さる主のお働きです。

2コリント3:17,18「主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。 わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである」感謝
2015年4月12日 説教要旨
 説教テーマ :慰めの神
コリント人への第二の手紙/ 01章 3-4節「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神、あわれみ深き父、慰めに満ちたる神。神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。」

わたしたちの信仰生活は神様の慰めによって満たされたものです。

2コリント1:5b 「わたしたちの受ける慰めもまた、キリストによって満ちあふれているからである。」イエス様が言われました。

マタイ5:4「悲しんでいる人たちは、さいわいである。彼らは慰められるであろう」と言われました。

 聖書の中に出てくる信仰者たちは、この世で順風満帆な生活を送っている人ではありません。私たちより何倍も苦難を経験しています。イエス・キリストを伝道し、周りから迫害を受け、日常の困難を経験していたのです。

2コリント1:8,9「わたしたちは極度に、耐えられないほど圧迫されて、生きる望みをさえ失ってしまい、 心のうちで死を覚悟し」
肉体と精神は疲れ果て、生きる望みを失っていたのですが、信仰に生き続けました。
弱い時にこそ強いと言うパウロの信仰がありました。

そして、彼の信仰はただ神様だけに向かいます。
2コリント1:10「自分自身を頼みとしないで、死人をよみがえらせて下さる神を頼みとするに至った。」

 その結果、パウロは神様に慰めを受け、その問題から救われてきたのです。
信仰者は慰めを受けている者です。神様の力強い慰めを必要としている者です。苦難と共にある慰めによって、信仰者はさらに霊的高みへと成長させていただけます。私たちも今までにこの慰めによって信仰生活が守られてきたのです。

 更に、この慰めの経験は、他者に向かいます。「また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。」その変わらない喜びが、あらゆる患難の中にある人々を慰める力とされるのです。感謝です。
2015年4月5日 説教要旨
 説教テーマ :復活

コリント人への第一の手紙 15 20-22「しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。それは、死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。 アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。」

 キリストの復活の信仰は、救いの信仰の大切な要素です。信仰者は墓に葬られたイエス様が三日目によみがえられたことを信じなければなりません。
そして、この復活の信仰は、私たちにさらに大きな神様のご計画を教え導きます。
 キリストの復活によって、死に勝利したと宣言します。それは、すべての人は死からよみがえると言うのです。
キリスト者にとると、この復活は永遠の救いの復活ですが、最後までキリストを受けいれなかった者には、永遠の裁きの復活になると聖書は警告します。
 その復活のからだが今の肉体とは全く新しく変えられます。
コリント人への第一の手紙 15 4748「第一の人は地から出て土に属し、第二の人は天から来る。この土に属する人に、土に属している人々は等しく、この天に属する人に、天に属している人々は等しいのである。」
イエス・キリストはわたしたちが罪から解放され、天に属する身体を受けるためにこの世に来て下さったのです。
「人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」黙示録214
その時こそ、心からの賛美をイエス様にささげるようになります。
ヨハネの黙示録/ 05 1113「大声で叫んでいた、「ほふられた小羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、さんびとを受けるにふさわしい」。」
 キリストの復活は私たちの大きな喜びの始まりです。この世が素晴らしい、この生が素晴らしいとすべての人が告白できる大きな恵みのカギなのです。神様のご計画の素晴らしさと忘れずに、地上の信仰生活、主のわざを励みましょう。
1コリント1558「だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。」
2015年3月22日 説教要旨
説教テーマ :最も大切な福音

コリント人への第一の手紙/ 15 01-2「兄弟たちよ。わたしが以前あなたがたに伝えた福音、あなたがたが受けいれ、それによって立ってきたあの福音を、思い起してもらいたい。 もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである。」
福音の意味は「良い知らせ」、神様からの「良い知らせ」の贈り物で、イエス・キリスト様に関わります。

それはパウロが以前伝えたと言い、パウロ自身も受け、コリントの人たちが受け入れ、それに立って信仰生活を送ってきたと説明しています。それを思い起こしてもらいたいと言って、福音を説明するのです。

1)福音はいつも忘れてはいけない。
 私たちはつい、新しいものを求め、最初の信仰を忘れてしまいがちです。しかし、この最初の信仰、福音に対する信仰はいつも新鮮に心の中にあるべきものです。なぜなら、その福音によって救われているからです。
2)福音はさまざまな恵みの副産物を生む。
 この福音に対する固い信仰によって、私たちの信仰の恵みが膨らみます。この福音についてパウロの説明は、
2コリント47「しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって」
3)福音の中心 キリストにあった御業
 この福音の中で最も大事なこととしてパウロは、
 @キリストが聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと

 A聖書に書いてある通り、三日目によみがえったこと
 ここに神様のご計画がはっきりと示され、
 神の愛がはっきりと示され、
 神のみ力と救いがはっきりと示されているのです。
このゆえに、福音は最も大切であり、人の救いのために、わたしたちは福音を全世界に宣べ伝える使命をイエス様から受けているのです。
 2015年3月8日 説教要旨
説教テーマ :愛の賜物

コリント人への第一の手紙 / 13章 4−7節「愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。 不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。

 パウロは愛を大いなる賜物と呼び、すぐれた道であると言っています。(1コリント12:31)使徒たちの共通の理解であったでしょう、ヨハネは愛は神から出たものであり、愛する者が神から出ていて、愛さないものは神を知らないと言いました。(1ヨハネ4:7−8)そして、神は愛である、神の本質と告白しました。

・深い知識は愛に向かい
ピリピ人への手紙/ 01 09節「わたしはこう祈る。あなたがたのが、深い知識において、するどい感覚において、いよいよ増し加わり、」

・信仰も愛に向かうものです。
テモテへの第一の手紙/ 01 05節「わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と偽りのない信仰とから出てくる愛を目標としている。」
教会は愛を最も大いなる賜物として、目標にしています。

愛は信仰生活の心の態度、言動に現れます。
それがテーマ聖句(1コリント1347)です。

1)人格的変化
ここには古い性質が見えません。新しい心の姿です。愛の賜物を受けるとこのようになると言っています。

2)力があります
愛は、神様が与えて下さる全てを忍び、信じ、望み、耐えるようにさせて下さるのです。それは信仰者のすべてです。日常の出来事であり、未来の祝福であり、すべてを神様の恵みのお導きとして信じています。
神様に満たされ、聖霊様に心の内で新しい賜物を生み出していただくことです。それは人間的な努力というより、信仰的献身によって生み出されるのです。
2015年3月1日 説教要旨

説教テーマ :霊の賜物

 コリント人への第一の手紙
/ 12 01「兄弟たちよ。霊の賜物については、次のことを知らずにいてもらいたくない。」

 コリント人への第一の手紙
/ 12 07「各自が御霊の現れを賜わっているのは、全体の益になるためである。」

 コリント人への第一の手紙
/ 12 11「すべてこれらのものは、一つの同じ御霊の働きであって、御霊は思いのままに、それらを各自に分け与えられるのである。」

 神様の賜物には、人によって変わらないものと、変わるものがある。すべての信仰者が持っているものが神(父、イエス・キリスト、聖霊)、救い、永遠の命・・・

唯一なる神とこれらの尊い賜物は、は私たちの基礎、土台となって、私たちを守り、支え、生かしてくれる。

 また、人によって違って与えられる賜物がある。それが「霊の賜物」言われ、それをパウロは知ってほしいと言う。(1コリント
121

どんな賜物があるか?

 それは種々あり、務めも、働きも種々ある。この聖書が書かれた時代は、特にその聖霊のあらわれは、福音がはっきりとこの世にしめされるために顕著でなければならなかった。

教会では信仰者に種々の賜物が与えられ、務めが決められ、パウロ、アポロ、ペテロなどそれぞれに働きがあった。そして、聖書が完成され、教会は広まり、成長していったのです。

クリスチャンらしさとは、自分のためではなく、神様と隣人のために生きるとこころにその尊さが現され、世の人とのすぐれた違いとなります。

2015年2月22日 説教要旨

  説教テーマ :主の晩餐式

 コリント人への第一の手紙 11章23〜26節
「わたしは、主から受けたことを、また、あなたがたに伝えたのである。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンをとり、 感謝してこれをさき、そして言われた、「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。
 食事ののち、杯をも同じようにして言われた、「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」。 だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。」
 

 聖書が書かれた時代、教会ではパンをさく集まりが開かれていました。それは週の初めの日曜日にも開かれ、同時にその前後で、主の晩餐式も行われることがあったと思われます。

 コリントの教会では、愛餐と言われる食事の態度が混乱していました。各自がそれぞれ自分の食事を準備して持ってくるのですが、自分勝手にバラバラに食べたり飲んだりしたようなのです。そのことをパウロは

 1コリント20「そこで、あなたがたが一緒に集まるとき、主の晩餐を守ることができないでいる」

 その態度は神様に対する罪となって、その災いを受けている人たちがいるとパウロは警告しています。1コリント112930

 教会でわたしたちが何かをするとき、イエス様をいつも中心にしていなければなりません。そして、イエス様が喜ばれる行動をするのです。

 主イエス様が夕食の時にされた弟子の足を洗うこと。ヨハネ134,5

 ご自身パンとぶどう酒に例え、犠牲による契約のこと。マタイ262629

 パウロは信仰者が「自分をよくわきまえておくなら、さばかれない」と言いました。(1コリント1131)私たちは罪人であること、恵みによって罪ゆるされたものであることを忘れてはいけないのです。そして、特に教会ではイエス様の恵みを忘れずに人の喜ぶことをなす者になることを目標とするのです。
 2015年2月15日 説教要旨
説教テーマ :教会の中の婦人
 テモテへの第一の手紙/ 02 08-12「男は、怒ったり争ったりしないで、どんな場所でも、きよい手をあげて祈ってほしい。 また、女はつつましい身なりをし、適度に慎み深く身を飾るべきであって、髪を編んだり、金や真珠をつけたり、高価な着物を着たりしてはいけない。  むしろ、良いわざをもって飾りとすることが、信仰を言いあらわしている女に似つかわしい。  女は静かにしていて、万事につけ従順に教を学ぶがよい。  女が教えたり、男の上に立ったりすることを、わたしは許さない。むしろ、静かにしているべきである。」 

 1コリント11章には、公の集会では、女性がベールをかぶることについて書かれています。このことについて聖書は他に書かれていませんし、この教えは、その時代のギリシャ地方の風習から、教会の秩序のためにパウロが命じていることです。

 また、男性はかしらに物をかぶってはいけないとありますが、聖書に他に書かれていませんし、現代のユダヤ教徒は頭に小さな帽子をかぶって礼拝に出ています。

 これらの教えは、「何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである。ユダヤ人にもギリシャ人にも神の教会にも、つまずきになってはならない」(1コリント1031,32 )の命令の中に理解されるべきものであります。

 女性の方々は、このような命令があっても、決して、不平等、不公正とは考えてはいけません。内容は違っても、男性にも同じように命令が与えられています。これらは皆、地上生活の中で、神様の秩序を守る行為なのです。

 本質においては、まったく自由にされています。

 コリント人への第一の手紙/ 11 11-12「ただ、主にあっては、男なしには女はないし、女なしには男はない。それは、女が男から出たように、男もまた女から生れたからである。そして、すべてのものは神から出たのである。」

 ガラテヤ328「もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。」

 天国においては、男も女もないのです。(マタイ222930

 御言葉を受けいれて、忠実に信仰生活に励みましょう。そして、多くの主に褒められた女性たちのように、主に豊かに用いられ、神様の栄光を現しましょう。
2015年2月8日 説教要旨

説教テーマ :神の栄光のため生きる

コリント人への第一の手紙/ 10 31「だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである。 ユダヤ人にもギリシヤ人にも神の教会にも、つまずきになってはいけない。 わたしもまた、何事にもすべての人に喜ばれるように努め、多くの人が救われるために、自分の益ではなく彼らの益を求めている。」

 イエス・キリストを信じて救われるとは、今までと全く違った生き方を信じ、生きるようになることです。それは人(自分)中心ではなく、神様中心に生きるようになることです。
 それは信仰により、御言葉によって真実を知る者になり、人は神様中心に生きて幸いになれることを信じる者になったからです。
 その生き方を「すべて神の栄光のためにすべきである」とパウロは語るのです。

 神の栄光とは何か?
それは神様が万物を超越された、何者にも比較されない、偉大なる方であることです。そのご性質のゆえに、その方のすべてが栄光に包まれています。

 私たちはこの世の一切が神様によって創造されたこと、神様は一切を支配され、ご計画を持たれておられることを知って、神様を心からほめたたえるのです。そして、「すべて神の栄光のためにすべきである」と命じています。

では、何をどのようにすることが、神の栄光のためなのでしょうか?
聖書の前後を見て、特に変わったことをせよとは書かれていません。「すべて」とありますが、日常の生活、御言葉に従う生活をすることが、栄光のために行動することなのです。

ペテロは死に方によって、栄光を現したと言います。ヨハネ2119
私たちの模範であるイエス様の歩みは、神様の栄光のために行動した一切を教えてくれます。

それは日常生活なのです。
 信仰者として、神様を第一とし、礼拝を守り、聖書を読み、祈り、人の益となることを優先する良心的生活です。この理解のために、私たちは聖書をよく学び、そして従うのです。
 そういう神の栄光を願う生き方に、神様は答えて下さり、恵みを与え、すべてを益として幸いをくださいます。何よりも、天において報いは大きいのです
2015年2月1日 説教要旨

説教テーマ :信仰の試練

1コリント10:11〜13 
「 これらの事が彼らに起ったのは、他に対する警告としてであって、それが書かれたのは、世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである。 だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。  あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。」

 パウロはイスラエルの失敗の信仰生活の例をあげて、わたしたちに不信仰に陥らないように、注意して信仰の道を歩むように教えました。

1)キリスト者の出エジプト クリスチャンの信仰生活は、その尊い歩みが汚されないように、イスラエル民の出エジプトにおける失敗が象徴として与えられています。

イスラエルの出エジプトはキリストの救いの恵みの象徴です。

・過ぎ越しは、イエス様の十字架のあがない、雲は主の恵み元にあることを象徴しています。

・紅海を渡った奇跡は、バプテスマの意味を象徴し、

・イスラエルの不信仰は、キリスト者の陥りやすい罪を象徴しています。

2)本当の試練は不信仰との戦いです。

パウロは同じイエス様の恵みにあずかった者(イスラエルも)として、起こりがちな試練を教えます。この世のことが時として信仰の試練となります。

@遅いと思う試練  イスラエルはモーセが現れるのが遅いと言って、自分たちで勝手に神様の偶像を造りました。神様のお言葉を待たなければない時に、偶像を造る罪を犯します。遅いと考えることは危険です。主の恵みの時は最適なので、待たなければなりません。

A肉的不品行の試練

B主の導きを疑う試練 主のご存在を忘れ、不平不満の罪を犯します。それは主を不信仰によって試みる罪と言われます。

C主の御言葉に従う指導者に対する反抗 つぶやきと言われイオます

3)忍耐して信仰の道を歩み続けなければなりません。

主は私たちのすべてを知られ、耐えて信仰の成長につながるように、どんな試練にも逃れの道が備えられているからです。主に信頼しましょう。
 2015年1月25日 説教要旨
説教テーマ :福音の心

1コリント 9章23節「福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである」

パウロは常に真剣に生きた人です。キリストに敵対しているときも、しかし、その後はさらに全く新しい心で大胆に生きた。彼は自分の脱ぎすて、キリストを着て生きた信仰者の模範と言えるのです。9章は三つの彼の模範が書かれています。

1)福音のための自己放棄(権利の放棄)1518
彼は福音を伝えることだけでは誇りとならないと言い、自分の宣教者としての権利を利用しないで無代価で伝えることを誇りとすると言いました。福音のために自己の権利を一切しないと言うのです。

2)福音のための自己否定 1923
 さらに、誰でも救われるために、人の奴隷となると言いました。そして、どんなこともすると言います。自分の考えを主張することなく、その人を受けいれることに努力し、福音を伝える。人の救いのための自己否定の道です

3)福音のための自己訓練 2427
 そのために、彼は覚悟しています。自分の肉の身体を打ちたたいて、その道に服従させる 

イエス様のお言葉を思い出します。

マタイによる福音書/ 16 25節「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。」

パウロは大変大きな決心をして、神様に恵まれ、大胆な信仰生活を送りました。彼の心の見ている景色は、随分と普通の人と違ったものだったでしょう。

信仰の沖に漕ぎ出し、恵みの海潮に乗って、また、山の頂に立った信仰者のキリストの愛に満たされた気高く新しくされた心です。

雅歌/ 08 14節「わが愛する者よ、急いでください。かんばしい山々の上で、かもしかのように、また若い雄じかのようになってください。」

山の上で見る景色は、地上の景色とは違うのです。