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2016年11月20日説教要旨 説教テーマ:聖霊と共に歩む

 テモテへの第二の手紙/ 01章 6〜8節「こういうわけで、あなたに注意したい。わたしの按手によって内にいただいた神の賜物を、再び燃えたたせなさい。というのは、神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである。だから、あなたは、わたしたちの主のあかしをすることや、わたしが主の囚人であることを、決して恥ずかしく思ってはならない。むしろ、神の力にささえられて、福音のために、わたしと苦しみを共にしてほしい。」

 今日の学びは、信仰を持ち、イエス様に従い、イエス様のように義を行える人になりたいと祈り願う人のための学びです。パウロはテモテが弱っていないかと心配し、信仰の力が与えられるよう、彼を励ましています。その答えは、神様の力に支えられて、今の苦難に立ち向かい、主の証を続けなさいと命じているのです。
14節に「そして、あなたにゆだねられている尊いものを、わたしたちの内に宿っている聖霊によって守りなさい。」と付け加えています。

 つまり、信仰生活の困難な場面において、熱心であり続け、義の道に進む秘訣は、聖霊様によるのだと教えているのです。

1)聖霊様とは、聖なる霊のことで、神様ご自身のことです。神様について聖書は、「父と子と聖霊」と呼びます。マタイ28:19 信仰箇条に、父と子と聖霊は、完全性は等しく、救いの御業には区分があり、調和を保っておられますとあります。(まとめています)

2)聖霊様には多くの働きがありますが、信仰者の成長では、信者に力を与え、成長させてくださいます。この方に信頼しなければ成長がないように教えています。

3)信者の内、教会の内を宮として住まわれる神様です。信仰者といつも共にいてくださり、常に導き励まし、私たちの弱さを助けてくださいます。

 パウロは他の個所で次のように言います。ローマ8:4「これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。」これは、信仰者が自分の意志だけで頑張って義を達成しようとするのではなく、聖霊によって歩くときに義を全うすることができるようになると教えているのです。信仰者がイエス様の教えに忠実に従うことを願うなら、信者の内にいます聖霊なる神様を意識し、全き信頼をもって、信仰によって従っていくことをいつも忘れない信仰生活を進むように教えています。
私たちは助け主なる聖霊様と共に歩むことを、成長のためもっと学ばなければなりません。
2016年10月23日説教要旨 説教テーマ: 信心があって足る

1テモテ6:6〜8 「しかし、信心があって足ることを知るのは、大きな利得である。 わたしたちは、何ひとつ持たないでこの世にきた。また、何ひとつ持たないでこの世を去って行く。 ただ衣食があれば、それで足れりとすべきである。」

 私たちの信仰生活は信心を求めます。神様を心から敬う信仰です。それは心からの平安のある信仰生活に導いてくれます。
その中心は、イエス・キリストであり、教会です。1テモテ3:15,16
 私たちは心からイエス様を見、信じる時、真実な神様を見、神様を信じる者へと導かれます。ヨハネ14:9 イエス様を見続け、信頼を更に深めていかなければなりません。 その信仰生活はイエス様の教えに聞き従うことを目指します。1テモテ6:3

1)信心があって足ることを知る
 6節 「しかし、信心があって足ることを知るのは、大きな利得である。」
そして、この信心の生活で、心は満たされると教えます。
 信心があるとき、人の心は満たされるのです。信心にはそういう、人の心を満たす性質があり、信仰生活で経験していきます。1〜2節に、奴隷の立場にある人に真に主人を尊敬せよとあるのは、信心による心の満たしがあるから言えるのでしょう。
パウロ自身、どんな境遇でも満たされた生活ができると言っています。ピリピ4:11〜13当然、それは彼の信心が心を満たすから言えるのです。

2)誘惑に陥らないよう警告 3〜5節
 この教えに同意しない信仰者がいましたが、彼らの性質を、高慢、何も知らない、信心を利得と心得るなどと言いました。彼らは自分がまだ中心なので、主のお言葉に従えないのです。パウロ自身、その高慢の道に落ち込まないように、肉体にとげが与えられていると告白しています。自分を高くせず、イエス様の前にいつも身を低く、聞く者になるためです。

3)信心には大きな利得がある。
 信心は、イエス様だけを敬虔の心をもって見上げる性質で、この世のものに頼らないのですが、結論は最も利得があるというのです。この世において、主の確かな霊肉共の守りを経験し、後の世においては主の尊い祝福を受ける約束です。私たちは信心があり、満たされた心で、世に多くをきたせず、天に望みを置く信仰生活を送りたいものです
2016年10月16日説教要旨  説教テーマ: 教会の愛と聖さ

テモテへの第一5章 03節「やもめについては、真にたよりのないやもめたちを、よくしてあげなさい。」

 教会は罪人には寛容ですが、罪は厳しく対応するところです。私たちは皆、罪深い者ですが、イエス様は寛容に見逃し、信仰によって救ってくださいました。
しかし、罪はご自身の十字架の犠牲をもって、いのちの代価を払ってくださったのです。神様はご自身に似せて創造された人を愛されていますが、罪は憎み、まったく退けられます。ですから、イエス様の尊い犠牲によって救われた者が、その罪の為に身代わりに死なれたイエス様のことを思い、決して罪に寛容であってはならないのです。

 教会はイエス・キリスト様を証するところですから、すべての人に寛容に接し、救われるよう教会に招きます。
しかし、私たち自身は教会として罪から離れ、私たち自身を清める道を歩むのです。
1テモテ5章では、特に「やもめ」について教えています。「やもめ」とは、夫を失い独り身となった可哀想な女性です。孤独を味わい、経済的にも困窮することでしょう。
パウロはここで「真にたよりのないやもめ」の厳しい条件を指定しています。牧師に対する条件と同じように厳しいのです。

@望みを神において、日夜、絶えず願いと祈りをしている。5節

A60歳より上 9節

B子女を良く育て、旅人もてなし、聖徒の足を洗い、困っている人を助け、善行に努め、よいわざがひろく認められている人10節
こういうほんとうのやもめを教会は世話をしなければならないと命じているのです。16節
生ぬるい信仰者は当てはまりません。
更に、20節「罪を犯した者に対しては、ほかの人々も恐れをいだくに至るために、すべての人の前でその罪をとがむべきである。」

 教会はどういう方であろうと、心から教会に招き、救いの為に仕えます。また、兄弟姉妹同士、愛の交わりに励みます。しかし、同時に生ぬるい信仰から離れ、イエス様の尊い救いにふさわしく、聖く生きることを熱心に目指すのです。
2016年10月9日 説教要旨 説教テーマ: 信心のための訓練

1テモテ4:7〜8「しかし、俗悪で愚にもつかない作り話は避けなさい。信心のために自分を訓練しなさい。 からだの訓練は少しは益するところがあるが、信心は、今のいのちと後の世のいのちとが約束されてあるので、万事に益となる。」

 信仰生活について、聖書は教えを常にしています。それらは一つなのですが、いくつかの側面から伝え、深く語っています。
「信心のための訓練」と、神様に対する敬虔な心と行動を持つことを教えます。すべての信仰者に与えられている恵みです。

 ペテロはその道を、次のように説明してくれました。
2ペテロ1:5〜7「それだから、あなたがたは、力の限りをつくして、あなたがたの信仰に徳を加え、徳に知識を、 知識に節制を、節制に忍耐を、忍耐に信心を、 信心に兄弟愛を、兄弟愛に愛を加えなさい。」

信仰に徳、徳に知識、知識に節制、節制に忍耐、忍耐に信心と言いました。信仰者はこのような歩みを経験することを教え、その歩みによって、誰もが敬虔な信仰者になり、キリストに似る者となることを教えたのです。

 イエス様を信じた者は、悔い改めていますから、誰もが優れた生き方(徳)を生活に求めるのです。その時、聖書から真理の知識を受けます。それがなければまっすぐに進むことができません。キリストの知識を受けると、どうしても節制(自制)を求められます。なぜなら、自分の思いとは違う道を教えられるからです。
同時に、その教えの中にいるために忍耐が必要です。この忍耐は人の性質を整え、望みと共にあるものです。この忍耐と共になければ、真実ではないものが信心です。神様に対する敬虔さです。神様を心から信頼し、敬い、崇拝する心で、罪人からの実際の回復です。
この心によって、人は敬虔な行動ができるようにされるのです。パウロのように、目標はイエス様です。

 そして、この信心の訓練は、今の生活に、後の生活に、豊かな益があると言います。
信仰者はこの信心があるとき、最も平安で望みがあります。後悔しない日々を送れます。
また、神様の国では、魂の主、イエス様に「よくやった、忠実な僕よ」とほめられ、喜ばれるのです。私たちはこの信心の為に、力の限り努力しなければなりません。
2016年10月2日説教要旨 説教テーマ:神の家を建てる

1テモテ3:15〜161「万一わたしが遅れる場合には、神の家でいかに生活すべきかを、あなたに知ってもらいたいからである。神の家というのは、生ける神の教会のことであって、それは真理の柱、真理の基礎なのである。  確かに偉大なのは、この信心の奥義である、/「キリストは肉において現れ、/霊において義とせられ、/御使たちに見られ、/諸国民の間に伝えられ、/世界の中で信じられ、/栄光のうちに天に上げられた」。」

教会について、私たちはどう考えたらよいのでしょうか。
1)イエス様は教会によって、福音を世界に伝えようとしていることを認める。
 教会は真理の柱、真理の土台であることを認め、教会がしっかりと整えられなければならないことを自覚しましょう。

2)教会の霊的指導者は牧師であり、実践の補助は執事です。
 牧師(監督)・執事にふさわしい資質が、3章に書かれています。どんな人にも非難されない生活のできている人で、また、教会の実践面の牧師補助者として執事が定められています。

3)牧師は教会を教え、導く、神様のみ前に価値ある働きであります。
 2節に、牧師の資質として「よく教えることができ」とあるように、教会を教える働きこそが重要な使命です。
教会はイエス様によって監督されているものですが、その働きを牧師は実際に任されているのです。黙示録2,3章を見ると、牧師がその責任を負わされていることが分かります。

4)教会はイエス様が監督し、成長させ、キリストの身体にふさわしいものになることを目指します。
 兄弟姉妹、今よりももっと教会に注目してください。そして、教会がキリストの香りを放ち、人々の救いの場になることを祈り、願い、求めてください。
コリント人への第一の手紙/ 01章 10節「さて兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの名によって、あなたがたに勧める。みな語ることを一つにして、お互の間に分争がないようにし、同じ心、同じ思いになって、堅く結び合っていてほしい。」

@教えを受け入れ、従い、教会が一つになる。

A互いに受け入れあい、福音によって神の力を信じ、この世に伝えていく。
 心から信じ、熱心にならないなら、教会は決して神の家として建て上げられないでしょう。キリストに従い、牧師と共に、主の教会を建て上げましょう
2016年8月28日説教要旨  説教テーマ:たゆまず良い働きをしなさい

テサロニケ第二3:13〜14「兄弟たちよ。あなたがたは、たゆまずに良い働きをしなさい。 もしこの手紙にしるしたわたしたちの言葉に聞き従わない人があれば、そのような人には注意をして、交際しないがよい。彼が自ら恥じるようになるためである。 」

 イエス・キリストを主と告白し、彼が完成された十字架と復活を信じるのが救いの信仰です。これは人が、今後イエス・キリストに従順に従っていくことの告白でもあるのです。
これは、今までの怠惰な生活からの決別を意味します。

 ここで言う怠惰な生活とは何か?6節
それは聖書が教えることに従わないことです。悲しいですが、私たちも怠惰な生活を送っていることを認めざるを得ません。十分に従っているとは言えません。
でも、心ではいつも従いたい、良い働きをしたいと願っている者です。この心をもって新しい義の生活を送ることをたゆまずに願っているのがクリスチャンではないでしょうか。

 ところが、古い自分に負けて、怠惰な生活に埋もれてしまう信仰者がいました。そして、ついには自分の生活の糧を得る仕事を放棄した者もいたのです。色々な弁明をして、苦しい仕事をしないで、自分の考えに従い、楽な好きな働きだけをしていたようです。

 信仰者は自分の思い、考えではなく、聖書の教えに自分を従わせることを目標にしなければなりません。それが良い働きです。神様のお言葉に間違いはないのですから。

 もし、故意に聖書の従わない信仰者がいたらどうしたらよいでしょうか。
ここでは「交際しないがよい」「遠ざかりなさい」6節とパウロは命じています。 理由を、「彼らが自ら恥じるようになるため」14節と言うのです。
信仰があれば、放蕩息子のように、いつか自分のみじめさに気づき、自分の生き方を恥じるようになるからです。そして、ついには悔い改めてイエス・キリストの元に帰って来るからです。信仰があれば、必ずそうなるのです。そうならない場合は、初めから真実な信仰がなかったのです。

 私たちはイエス様が教えてくださる御言葉に従う、良い働きをたゆまずに願うものでなければなりません。それが信仰者です。この時、必ず肉の思いとの闘いが起こります。信仰者はその時、いつもイエス様の愛と恵みを思い返し、感謝するのです。そして、イエス様に従い、たゆまずに良い働きをする者へと変えられていくのです。主に従うとき、どんな困難を覚えても、主に信頼し、忍耐して、愛に生きることを願いましょう。ローマ7章 18-25節
2016年8月14日 説教要旨
説教テーマ:主の来臨と信仰生活

テサロニケ人への第二2章 1〜3節「さて兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの来臨と、わたしたちがみもとに集められることとについて、あなたがたにお願いすることがある。 霊により、あるいは言葉により、あるいはわたしたちから出たという手紙によって、主の日はすでにきたとふれまわる者があっても、すぐさま心を動かされたり、あわてたりしてはいけない。 だれがどんな事をしても、それにだまされてはならない。まず背教のことが起り、不法の者、すなわち、滅びの子が現れるにちがいない。」

 信仰者は永遠の望みを持ちつつ、今の時を恵みとして生きることが重要です。

エペソ人への手紙/ 05章 16節「今の時を生かして用いなさい。今は悪い時代なのである。」

 今は悪の霊の力が働く悪い時代にあるのですが、その中でイエス・キリストに清められ、救われた者として、永遠の命を受けている者として、よりよく生きることを聖書は教えています。神様は悪の霊をさばかれる完全なお方です。すべてのことを知られ、ご計画されている方ですから、信仰者が主イエス様にあるとき、すべてを理解することができ、すべてを恵みとして受け入れることができるようにして下さっています。感謝です。

 主が再び来られるとき、それはこの世が神の義によってさばかれる時です。私たちはイエス・キリスト様のあがないによって、裁かれるのではなく、救われる時です。

 その時、どんなことが起こるのでしょうか?

 今は悪の霊を阻止している方がこの世におられます。7節 それは神の霊であり、教会を宮としておられるので、今は恵みの時です。人類の歴史は、今までその方により制御され、守られてきました。(第二次世界大戦など)しかし、その方がキリストの身体なる教会と共に、この世から取り除かれる時、サタンは不法の人を通して現れます。

 イエス様が再びこの世にその姿を現されるのはその時です。その時、世界は、人々は不法の人の力としるしと不思議によりとりこになってしまいます。神様よりこの世を愛しているからです。9、10節 その時、イエス様はこの世にあらわれ、世を義によってさばかれるのです。  信仰者はこの望みを持っています。しかし、この望みによって現実を逃避してはいけないのです。この望みを励ましとして、この世に対して堅く立ち、信仰者として義に生きる道を選ぶ者となるのです。信仰と忍耐によって、主の証をするのです。

テサロニケ第二章 17節「あなたがたの心を励まし、あなたがたを強めて、すべての良いわざを行い、正しい言葉を語る者として下さるように」
2016年8月7日 説教要旨
説教テーマ:信仰と忍耐と望み

テサロニケ人への第二1章4〜7節「そのために、わたしたち自身は、あなたがたがいま受けているあらゆる迫害と患難とのただ中で示している忍耐と信仰とにつき、神の諸教会に対してあなたがたを誇としている。  これは、あなたがたを、神の国にふさわしい者にしようとする神のさばきが正しいことを、証拠だてるものである。その神の国のために、あなたがたも苦しんでいるのである。  すなわち、あなたがたを悩ます者には患難をもって報い、悩まされているあなたがたには、わたしたちと共に、休息をもって報いて下さるのが、神にとって正しいことだからである。  それは、主イエスが炎の中で力ある天使たちを率いて天から現れる時に実現する。」

 私たちにとって大事なことは、主イエス・キリスト様に対する信仰をはっきりと持ち、忍耐して彼に従順に歩むことです。 信仰者の歩みには必ず困難と思えることがあります。信仰を持つ前の生活と同じであることはありません。新しくなるのです。また、新しくなることを願うのが信仰生活です。
 そこには迫害と呼ばれるものが起こります。大きなもの、小さなもの・・・命の危険を伴うもの、こまごまとして信仰の邪魔をすると思われるもの・・・信仰者は神様の助けと恵みを信じて、イエス様に従順であろうとするとき、信仰と忍耐が試されるのです。この信仰と忍耐こそが、信仰者の本物の証です。

1)神の国にふさわしい者の証 信仰の忍耐は救われるものの証です。
 ヘブル人への手紙/ 10章 36節「神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である。」
 マタイによる福音書/ 24章 13節「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。 」

2)神の正しい裁きの証 キリスト者に対する態度は神様の恵みの試験紙です。
 キリストに対する人々の態度は、キリスト者に対する態度につながっており、神様の裁きとなるのです。テサロニケ第二1:5「神のさばきが正しいことを、証拠だてるものである。」
 マタイによる福音書/ 10章 42節「わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない」。

3)イエス・キリスト様が再びこの世に来られるときに、報いは完成します。
 わたしたちにとって、信仰と従順の忍耐は本物の信仰者の証なのです。
2016年7月31日 説教要旨
説教テーマ:教会の中の信仰生活

テサロニケ人への第一の手紙/ 05章 11-18節「だから、あなたがたは、今しているように、互に慰め合い、相互の徳を高めなさい。 兄弟たちよ。わたしたちはお願いする。どうか、あなたがたの間で労し、主にあってあなたがたを指導し、かつ訓戒している人々を重んじ、 彼らの働きを思って、特に愛し敬いなさい。互に平和に過ごしなさい。 兄弟たちよ。あなたがたにお勧めする。怠惰な者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。 だれも悪をもって悪に報いないように心がけ、お互に、またみんなに対して、いつも善を追い求めなさい。 いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。」

 教会生活について、ことこまかに命じています。集う一人一人が神様への信仰をもって、固くつながり、高い目標に向かうことを命じます。そのため、指導者を重んじ、愛し敬い、さらに信仰的に遅れいている者を寛容な心で、戒め、励まし、助けなさいと。
心の態度は、どんな時にも善を追い求め、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことを感謝しなさい。これらの信仰生活をキリストにあってすることを神様は求めておられる。

 教会生活はただ自由で楽なところと考える人には、とんでもない重荷を負わせると思うかもしれません。しかし、実際の多くのキリスト者が、不完全であってもこの道を進んできました。私たちの信仰生活は、イスラエルが荒野を旅した時のように、常に信仰を試される時であることをしっかりと自覚していなければなりません。今は神の国に向かう旅の途中なのです。そこで、この教会の中の信仰生活をどう理解すべきか学びます。

1)信仰が試されています。
これらの教えに忠実に従うことは、肉の思いとの闘いを意味します。霊的、信仰的であるか試されているのです。

2)キリストへの従順は、まずこの世で指導者に従うことで試されます。

3)御言葉に完全に従うことを目標にすることで試されます。御言葉は愛と聖の歩みを示し、キリストにあって生きているかを試します。

4)更に、主キリストに対する信仰は、喜び、祈り、感謝に満たされることを教え、試しているのです。 この信仰生活によって、教会が主に清められ、真実に神の子の集まりにふさ わしい整えられたものへと成長することを神様は願われています。信じましょう。
2016年5月29日 説教要旨
説教テーマ: 主イエスの名によって

 コロサイ人への手紙/ 03章 17節「そして、あなたのすることはすべて、言葉によるとわざによるとを問わず、いっさい主イエスの名によってなし、彼によって父なる神に感謝しなさい。

 パウロは「いっさい主イエスの名によってなし」なさいと命じます。いったいどういう意味なのだろう?
「イエスの名によってなし」とは、その意味を聖書で調べると、イエス様の権威によってしなさいとなります。イエスの名によって悪霊を追い出し、奇跡を行いました。また、罪のゆるしと永遠の命を受けるとあるのです。

 また、バプテスマを「父と子と聖霊との名によって」または「イエスの名によって」施せと命じ、御言葉を語るときも「イエスの名によってあなたがたに命じる」とパウロは言いました。教会の働きの権威もイエス様によるのです。つまり、イエス様の名に全ての権威と力があります。はっきりと確信しましょう。

 しかし、決して名前に力があるのではありません。ユダヤ人のまじない師たちが、イエス様の名前をつかって悪霊を追い出そうとすると、逆襲を受け、ひどい目にあっています。(使徒19章)
 イエス様に対する確かな信仰、イエス様を確かな主とする信仰が大事です。
私たちは「言葉によるとわざによるとを問わず、いっさい主イエスの名によってな」すよう日々に心がけましょう。

 イエス様が聖書で命じ、勧めていることを熱心に行うことを求めましょう。
キリストをほめたたえることを願いとして従いましょう。
イエス様が歩まれた道を歩もうと進み、十分でなくても、イエス様が喜ばれていることを信じて進みましょう。これこそが霊と誠とをもって礼拝する行為です。

 ならば、イエス様の教えに反する罪を恐れ、エペソ5章 21節「キリストに対する恐れの心をもって、互に仕え合うべきである。」
主に従うときには助けを信じ、喜びをもって信仰生活を送れるでしょう。そして、豊かに主の実をならす信仰者となることを信じます。兄弟姉妹、ますます主イエス様をあがめましょう。そして、忠実に従うことを求めましょう。
2016年5月22日 説教要旨
説教テーマ:上にあるものを思い、求めなさい

コロサイ3:1〜2「このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。」

 聖書は私たちに天にあるものを思い、求め、天に宝を蓄えなさいと命じています。その理由を「あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから」と言います。
イエス・キリストを信じるとは、罪に死んでいた者が、命によみがえることです。キリストは死んでいる者を救いに導かれるために、肉体をとられ、罪びととして十字架に張り付けられたのです。そして、罪びとの初穂として、復活され、私たちを命に蘇らせて下さったのです。ですから、今この世でイエス・キリストを真心から救い主と信じる者は、キリストに従い、命を得たのです。

 そして、キリストと共よみがえった者は、天にあるものを求めなさいと命じています。
天にあるものとはどういうものか?

第一に、それはよみがえった者の相続するものです。
 ローマ8章 17節「もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。」 私たちに相続するものを今から思い、求めなさいと言うのです。例として、私たちが義人に成ろうと求めることは、私たちはキリストと同じかたちに変えられるので、今もその姿を求めるのです。ピリピ人3章 21節

第二に、キリストご自身がおられます。
 天ではキリストがおられ、キリストのものが満ち満ちています。ですから、私たちはキリストを求め、キリストの教えを求めるのです。 

第三に、求める行為には報いがあります。
 マタイ6:19〜21「むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。 あなたの宝のある所には、心もあるからである。 」

 イエス様が教えることを行動に移すなら、祈りであったり、伝道であったり、喜ぶこともにも天で報いがあります。上にあるものを思い、求めることには報いがあり、地でも人に喜び、感謝、確信を与えてくれるのです。また、それは地上のものに心を引かれないことにつながっていることを忘れてはいけません。(コロサイ3:2、ローマ6:5)
2016年5月15日 説教要旨
説教テーマ: キリストにしっかりと着く
コロサイ2:18〜19「あなたがたは、わざとらしい謙そんと天使礼拝とにおぼれている人々から、いろいろと悪評されてはならない。彼らは幻を見たことを重んじ、肉の思いによっていたずらに誇るだけで、キリストなるかしらに、しっかりと着くことをしない。このかしらから出て、からだ全体は、節と節、筋と筋とによって強められ結び合わされ、神に育てられて成長していくのである。」

 信仰者の道は、キリストにしっかりと着くことです。しかし、その実、キリストから離れ、迷ってしまう信仰者、教会は多いのです。キリストを告白しなくなると言うのではなく、表面的には信仰者として歩んでも、その心と行動が離れるのです。
ある人たちは、自分たちで作った規定に縛られたり、謙遜さを装ったり、キリストに向かずに様々な別の方法で信仰を鼓舞しようとします。彼らは故意でないにしても、道に迷ってしまっています。黙示録2章、3章には、道を踏み外す教会が書かれています。エペソの教会には、

黙示録2:4〜5「しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。そこで、あなたはどこから落ちたかを思い起し、悔い改めて初めのわざを行いなさい。もし、そうしないで悔い改めなければ、わたしはあなたのところにきて、あなたの燭台をその場所から取りのけよう。」
彼らが責められたのは「初めの愛から離れた」ことでした。それは疑いもなく、キリストとその教えから離れたことです。私たちはキリストにしっかりと着いていなければなりません。これがキリスト者の道です。キリストを貴び愛し、その教えの中を歩まなければならないのです。それがなくてはならないクリスチャンの道です。

 そして、キリストにしっかりと着くことは、教会にしっかりと着くことです。その中で教えられ、育てられていくことです。
なぜなら、教会はキリストのからだであり、かしらはキリストだからです。教会は信仰者の集まりですが、そこではイエス・キリストがはっきりと語られ、教えが実行され、信仰者一人一人はしっかりと教会に着いて信仰生活を送ります。その時、教会は強く結び合わされ、神様に育てられ成長していくのです。
2016年5月8日 説教要旨
説教テーマ:愛の交わり
コリント人への第一の手紙/ 13章 13節「このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。」

 母の日、父の日は明治時代の頃、アメリカの教会で始まりました。聖書に「あなたの父と母を敬え」との戒めがあり、敬い、感謝する心をあらわしたいと始まったようです。
この思いは全世界に広まり、多くの人々の心に共感され、5月第二日曜日が、世界中で子供から親へ贈り物をする母の日となりました。

 聖書の一番の戒めは、愛することだと明言されていて、すべての教えはこの愛をあらわすものです。そして、私たちの社会で、この愛が最もあらわされる典型が、母と子の関係であろうと思うのです。(罪のゆえに、この関係が崩壊していることもあります。)
愛とはどういうものでしょうか。愛の定義は難しいのですが、あえて言葉にするなら

1)愛とは大切にする心
神様を大切にする、人を大切にする心です。自分と同じように、それ以上に相手を大切にすることを聖書は教えます。

2)愛は変わらないもの
世の中では、愛は人の心同様に変わるものと考えているようですが、聖書は「愛はいつまでも絶えることがない」と教えます。それは、神様の愛が変わらないものであり、信仰者もそのように変えられていくからです。

3)愛はもっとも大いなるもの
「このうちで最も大いなるものは、愛である」とあるように、愛は私たちの第一の目標になるべきものです。

 母子の愛と 神と人の愛
母子の愛の始まりは、お母さんが子供を望み、出産の苦しみがあり、大きな喜びに変わったところから始まります。そしていつも愛を注ぎ、育てます。

 同様に、神様は人を望みをもって創造し、しかし罪に落ちた人を、再び十字架の苦しみをもって新しく創造し、救われた人を見て喜ばれています。ルカ15:4〜7
母の日は愛と感謝をあらわす日です。この幸いを確かなものとするために、苦難、試練の時も常に愛し、愛の交わりを大切にしましょう。
2016年4月24日 説教要旨
説教テーマ:キリストによる和解の務め

 コロサイ人への手紙/ 01章 21-22「あなたがたも、かつては悪い行いをして神から離れ、心の中で神に敵対していた。 しかし今では、御子はその肉のからだにより、その死をとおして、あなたがたを神と和解させ、あなたがたを聖なる、傷のない、責められるところのない者として、みまえに立たせて下さったのである。」

 万物と神様は敵対関係にあるのです。それは現在の様々な事柄が神様の御心の中にないことを説明します。人の心は神様中心ではなく、自分中心です。その結果、様々なところで争いが起こっています。また、自然界も決して神様の御心に従っていません。神様は愛なる方です。残虐を好まず、涙を喜ばれません。ところが恐ろしい災害が起こっています。その理由を、人の罪が人と万物を神様との敵対関係においていると言うのです。

 神様の御心の満ちた世界を次の聖句に見ることができます。
イザヤ書/ 11章 06-9節「おおかみは小羊と共にやどり、ひょうは子やぎと共に伏し、子牛、若じし、肥えたる家畜は共にいて、小さいわらべに導かれ、 雌牛と熊とは食い物を共にし、牛の子と熊の子と共に伏し、ししは牛のようにわらを食い、 乳のみ子は毒蛇のほらに戯れ、乳離れの子は手をまむしの穴に入れる。 彼らはわが聖なる山のどこにおいても、そこなうことなく、やぶることがない。水が海をおおっているように、主を知る知識が地に満ちるからである。」

 私たちの常識から外れた世界、恐ろしい動物たちが、おとなしくなり、自然界が穏やかになるのです。そこには死も、涙も、悲しみも叫びも痛みもないのです。(黙示録21:4)

 この神様の世界が訪れます。この国に入るために、神様との和解が必要なのです。
キリストはその肉のからだにより、その死をとおして、神様と和解させ、真の平和を私たちにて下さいました。イエス様は、ご自分の為、ご自分によって創造された世を、ご自分の死によって再びご自分の元に回復しようとされています。神様の愛はキリストの十字架の死によって明らかにされました。その愛を人は理解しなければなりません。

 そして、これを奧義と紹介します。
コロサイ1:26「その言の奥義は、代々にわたってこの世から隠されていたが、今や神の聖徒たちに明らかにされたのである。 」世に隠されてきた、この和解の奧義を、私たちは受けました。そして、悟るものにされ、伝える務めを任されているのです。イエス様は十字架の犠牲を受けられました、そして、我々は世に伝えるための犠牲を求められています。
2016年4月17日 説教要旨
説教テーマ:イエス・キリスト様とは

 コロサイ1:19−20「神は、御旨によって、御子のうちにすべての満ちみちた徳を宿らせ、 そして、その十字架の血によって平和をつくり、万物、すなわち、地にあるもの、天にあるものを、ことごとく、彼によってご自分と和解させて下さったのである。」

 イエス・キリストにはいっさいの神の徳が宿っていると言います。このことは私たちがイエス様を深く知ること、信頼すること、信じる方向へと向かわせます。それが信仰生活です。コロサイの教会には違った教えが入ってきました。

 哲学的な考え(コロサイ2:8)、ユダヤ教的教え(コロサイ2:16)、わざとらしい謙遜、苦行(コロサイ2:23)が信仰者の間に入ってきました。人間的な考えはすぐに信仰を弱らせ、純粋さを失わせます。その結果、霊的な恵みが見えなくなり、聖書が語る恵みから離れ迷いの道に進み、ついに教会の堕落につながります。だから、パウロは信仰者の中心はキリストにあることを強く勧めました。そこに人の言い伝えや自分の感情、考えが入らないように、信仰的に生きるキリストの道を示したのです。彼らに生まれたキリスト・イエスに対する信仰が汚されないように勧めたのです。

 まず、イエス・キリスト様のありのままの本質から語ります。コロサイ1:15〜20
ここには人にとって、すべてのことに第一の方となられる理由が書かれています。18節

@みえない神のかたち。 見える神様であると言うことです。15節
Aすべてに先立って生まれた方。 被造物でなく、神様から生まれた神の御子です。15節
Bいっさいは御子によって創造された。16節 神様の御業です
C御子の為に創造された。16節 神様の御心です
D御子によって成り立っている。17節 御子のお力です。
E神として人として教会の頭。18節 私信仰者の主です

 私たちはこの方を更に知り、信頼して生きることが大事です。
コロサイ人への手紙/ 02章 03節「キリストのうちには、知恵と知識との宝が、いっさい隠されている。 」 「隠されている」とは、探し求めるためです。深くキリストを知ることにより、信頼して歩むことにより、神の宝物を探し出し、喜び、感謝する信仰生活に進むのです。キリスト以外、他の何物にも心を向けすぎてはならないのです。キリストにこそ、一切の恵みがあることを認め、さらにキリストと共に歩むことを求めましょう。
2016年4月3日 説教要旨
説教テーマ:恵みに満たされた生活

ピリピ人への手紙/ 04章 12-14節「わたしは乏しいから、こう言うのではない。わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。 わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。 わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。」

 新しい年度が始まりました。この一年も、信仰者として恵みに満ち、有意義な年でありますようお祈りいたします。主の来臨と、この世の終わりもさらに近づき、私たちの地上の寿命もさらに短くなりました。地の塩、世の光として、主イエス様の弟子として、信仰者の味のある、光を照らす一年を願います。

1)主の恵みを深く悟りましょう。
 コリント人への第二の手紙/ 12章 09節「ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」」パウロが苦しんでいる時、イエス様は「わたしの恵みはあなたに対して十分である」と言われました。肉体の苦しみがあるとき、「恵みは十分」と言われたのです。
 イエス様はさらに「弱いところに完全にあらわれる」と言います。そして、パウロは肉体の弱さを受け入れます。イエス様のお言葉を信じて、弱さを誇ると言うようになります。どんな時、状況にも、信仰者にとって恵みは十分であるとイエス様は言われます。

2)あらゆる境遇に処する秘訣
 パウロはどんな境遇にも動揺することがないことを学んだと言います。富むこと、貧しいこと、美食にも、飢えにも・・・どんな状況にも、心は天の恵みの喜びを失わないと言うのです。彼は、価値少ない土の器の中にイエス様からの宝をもって生活していると理解し、地上の身体も、様々なものも朽ち果てるもの、それほど価値のないものと考えていたのです。だから、地上の出来事に一喜一憂する必要がないと言います。

3)主の御心をなすことを第一とした。
 「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。」パウロがなそうとしたことは、主の弟子として、愛する主イエス様の御心をなすことでした。そして、それをなすことができると断言しているのです。主の十分な恵みを信じ、主の御心をなすことを地上生活の最も大事な働きと考えました。私たちも恵みに満たされ、御心に励みましょう。
2016年3月20日 説教要旨
説教テーマ:祈りによる心豊かな信仰生活

ピリピ人への手紙/ 04章 04-7節「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。主は近い。 何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。」

 イエス様は信仰生活の内面について、いつも喜び、思い煩わす、寛容な心で人に接し、感謝の心を忘れず祈りの生活を送るように言われます。 この実践をパウロに見ます。パウロが無実の罪で鞭うたれ、牢屋に入れられたとき、
使徒16:23−25「それで、ふたりに何度もむちを加えさせたのち、獄に入れ、獄吏にしっかり番をするようにと命じた。 獄吏はこの厳命を受けたので、ふたりを奥の獄屋に入れ、その足に足かせをしっかりとかけておいた。 真夜中ごろ、パウロとシラスとは、神に祈り、さんびを歌いつづけたが、囚人たちは耳をすまして聞きいっていた。」

 彼らは無実の罪を着せられたのに、牢屋で祈り、賛美をしていたのです。彼らのその態度に囚人たちが耳をすませて聞き入っていたとあります。パウロはこの理不尽な待遇にも、喜びを持ち、人に対する寛容な心を持ち、感謝をもって祈りの生活をしています。彼らの態度は、全知全能の神様のご存在を周りの人たちに証しました。

 人はふつう、どんな時にも喜べ、感謝せよ、寛容になれと言われてもできません。困難な出来事には、悲しみ、不平を言い、怒ります。
信仰者が、どんな時にも喜び、寛容、感謝な心を持つことは、信仰があるからできることであり、全知全能の神様がおられることを証するのです。その時の最善な行為が祈りです。
思い煩いに面する時、信仰をもって祈りをささげるのです。神の平安が来ると約束しています。主を信頼でき、平安がくるまで祈るのです。

 神様は信仰者に主にある心豊かな信仰生活をせよと命じます。喜びのある、寛容な心、感謝と祈りの生活です。私たちは心がいつも主にあって豊かであるか、絶えず祈っているか?吟味しながら信仰生活を送りましょう。キリストの十字架の苦しみは、私たちに罪のゆるしと癒しを与えます。それは私たちが悪い時代のなかにも、信仰によって心豊かな祈りの生活をするためです。そして、全知全能の神様を証するためです。
2016年3月6日 説教要旨
説教テーマ:キリストを求め続ける信仰生活

ピリピ人への手紙/ 03章 08−9節「わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。」

 クリスチャンの信仰生活の内面の目標は、真実に、自分自身がキリストのものとなること、自分の内のどこでも、キリストが主であり、また、キリストを見上げる時、救われた自分をいつもキリストの元に見出すことができる信仰を持つことです。
 このようなことをパウロがここで語るのは、ピリピの教会が違ったキリスト、福音に惑わされることがないように願い、恵みから離れた信仰生活に陥ることがないように願ったからです。

 1)信仰者はキリストを誇り、自分を誇ることがないように。(律法主義)
この時代から、教会の中に「〜しなければ救われない」「〜しなければ神様に喜ばれない」と言う違った信仰が入ってきたのです。

 2)信仰者は自由にされたから、自分の思いに生きてよい。(無律法主義)
信仰を損得で考え、自分の願いのために都合よくとらえ、キリストの十字架を軽んじる教えが入ってきました。

 行いを主張する教えも、自由を優先する教えも間違っています。適度に行い、適度に自由にすると、バランスをとると言うことでもありません。どこがおかしいのか?
それはキリストが中心でない所です。
私たちの目標は、キリストを得ることです。
 自分の心の中に、いつもイエス様を主とあがめている心があり、イエス様の教えに従おうと願う心があることです。
また、キリストを見上げる時、そこの救われた自分を見出せることです。そういう信仰、そういう心を持つことが信仰生活の目標であり、完成されたと言うより、それを求め続けるのが信仰者です。
2016年2月28日説教要旨
説教テーマ:信仰生活と死

ピリピ人への手紙/ 02章 17-18節「そして、たとい、あなたがたの信仰の供え物をささげる祭壇に、わたしの血をそそぐことがあっても、わたしは喜ぼう。あなたがた一同と共に喜ぼう。 同じように、あなたがたも喜びなさい。わたしと共に喜びなさい。」

肉体の死について、私たちは心の準備をしていなければなりません。聖書の中でも、死は起こっているし、私たちの身の回りでもあるのです。
人は人生の質より量を求めます。地上で長く生きることを最も幸いと考えがちです。死で、すべてが終わってしまうと考えているからです。

聖書は全く違ったことを教えます。
ヨハネ3:16「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」

1)死は永遠の命の入口
神の御子の十字架の意味を、人が永遠の命を得るためであると宣言しているのです。

2)死を恐れないように、悲しまないように
イエス様を信じる者は、死を恐れない、永遠の命がある、その為にイエス・キリストが命の犠牲を払われたと言うのです。
テサロニケ人への第一の手紙/ 04章 13節「兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。」

3)喜びなさい
信仰者はイエス様によって救われた者として喜びなさいと言います。
ピリピ4:4「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい」私たちはどんなことにも、いつも喜びを持っている事を勧めます。死さえも喜ぶと言うほどです。

 肉体の死は私たちの前にすでにあります。いつか分かりませんが、遠い未来ではありません。しかし、本当に感謝なことは、私たちはイエス様を信じて救われました。永遠の命を受けました。神様の国では、栄光を受ける者とされました。そして、死はこの世の苦しみからの解放です。私たちは長く生きることより、主の僕として正しく生きたいものです。
2016年2月21日説教要旨
説教テーマ:キリストの心を持つ

ピリピ人への手紙/ 02章2-5節「どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ思いになって、わたしの喜びを満たしてほしい。 何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。 おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。 キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。」

 パウロはイエス様の心と生き方を見るように勧め、みんながイエス様と同じ心になり、一つになるように願っています。
パウロの嘆きの一つは、ピリピ2:21「人はみな、自分のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことは求めていない」でした。パウロ自身は、イエス様を信じてからは、イエス様の心を求め、従うことに熱心でした。それが、神様の祝福と確信していたのです。
ところが、多くの信仰者は、信仰を持っても自分のことを第一に求める人たちばかりだったのです。だから、教会の中にいがみ合い、争いがあったと言うのです。

 ピリピ2:6〜9にイエス様が歩まれた道を簡潔明瞭に説明しています。そして、すべての被造物はこのイエス様を主と告白することが神様の願いなのですと断言します。
 信仰者はこの意味において、心を新たにしなければなりません。

1)私の心はキリスト中心か、キリストに従っているか?といつも心を見ていなければなりません。いつも罪びとの心は自分中心な思いが出てきます。

2)キリストの十字架はこの罪から人を開放するためでした。
ローマ6:22「しかし今や、あなたがたは罪から解放され神に仕え、きよきに至る実を結んでいる。それらのものの終極は永遠のいのちである」

3)キリストの心を自分の心とすることを求めましょう。キリストの心は決して人の欲を満たしません。逆に、欲の死を意味します。自分のプライドを無にし、低い者となり、仕える自己犠牲の道でした。

4)しかし、神様によって高くされる道です。
イエス様は、その自己犠牲の道によって高くされたと宣言されています。実はこれが神様が人に求めておられる愛の道です。私たちはそのままにはイエス様の道は険しすぎるかもしれません。しかし、教会において、日常生活で、他者をたっとび、イエス様をあがめ、自分を低くして、仕える心で生きることによって神様のご栄光を現すことはできるのです。
2016年2月14日 説教要旨
説教テーマ:パウロの信仰と願い

ピリピ1:20,21「そこで、わたしが切実な思いで待ち望むことは、わたしが、どんなことがあっても恥じることなく、かえって、いつものように今も、大胆に語ることによって、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストがあがめられることである。わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。

 パウロの願いは何だったのか?
第一に、それはイエス様がこの世の中に伝えられることでした。その為に、彼は働いていましたし、その為に様々な困難を受け入れました。私たちも第一に、イエス様を伝えることを願います。チラシであったり、言葉であったり、人がどういう反応をし、答えるかよりも、まず伝えることを願うのです。
第二に、キリストがあがめられることです。次に、聞いた人がイエス様を信じ、あがめるようになることを願います。なぜなら、キリストが栄光を受けられることが本来のあるべきことであるし、そのことによって人が救われるからです。

 パウロはその願いのために喜んでどんなことも忍耐した信仰者でした。
そこに信仰の本質があります。
1)神様がおられるからです。
 テモテへの第一の手紙/ 06章 6節「しかし、信心があって足ることを知るのは、大きな利得である。」 全能で愛深く、私たちを救い導かれる神様がおられることは、他に比較できない喜びではありませんか。

2)思いをはるかに超えた恵みがあるからです。
 ローマ人への手紙/ 08章 18節「わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。」 全能の神様が私たちに与えようとしている、与えてくださった恵みは、他に比較できない恵みなのです。
 パウロはこの信仰のゆえに、地上のどんな困難も喜んで受け入れることができ、忍耐したのです。そして、ピリピの信仰者たちもさらに信仰に進み、喜びにあふれ、キリストにある誇りを増すことを願いました。ピリピ1:25,26

 私たちもその信仰の道を進み、主にあって雄々しく生きるのです。