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2017年12月31日説教要旨  説教題: 主の教えと教会にとどまる 
ヨハネ第一の手紙2章24〜25節 「初めから聞いたことが、あなたがたのうちに、とどまるようにしなさい。初めから聞いたことが、あなたがたのうちにとどまっておれば、あなたがたも御子と父とのうちに、とどまることになる。 これが、彼自らわたしたちに約束された約束であって、すなわち、永遠のいのちである。」

 ヨハネは19節「彼らはわたしたちから出て行った」と教会から離れた人たちに言及しています。一時は信仰告白をして教会に加わった者たちでしたが、ヨハネ達の教えに反し、キリストの内にとどまることを拒否したのです。ヨハネは彼らを反キリストと呼びました。
イエス様に対する正しい教えから逸脱し、教会から離れて行ったのです。今でいうなら、エホバの証人であり、統一教会です。

 また、異端の教え以外にも教会から離れる人が多くいます。イエス・キリストの救い主であることを否定し、この世を愛して離れる人は多いのです。
そういう人たちについて、ヨハネは19節「彼らはわたしたちから出て行った。しかし、彼らはわたしたちに属する者ではなかったのである」と言い、また、
ヨハネ福音書15:2「わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。」と語りました。

 神様が実を結ばない(真実な信仰のない者)を取り除き、教会を整え、手入れすると言われているのです。イエス様から離れ、教会から離れる人たちは、神様によるふるい分けを受けているとも言えます。(ヨハネ6章53節〜参照)教会につながっていましょう。

 私たちは2017年、教会にとどまり、主に仕えることが出来たことを感謝します。それは主が私たちにつながっていてくれたからです。(ヨハネ15章4節)
どんなつまずきがあっても、主の教えから離れ、教会から離れてはいけません。
マタイによる福音書/ 16章 16節「シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」」 この告白をしたペテロは、多くの弟子が去ったときも、
ヨハネによる福音書/ 06章 68節「主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです。」と答えました。

 新しい2018年を迎えようとしています。少しずつの成長ですが、主の教えに従い、教会にとどまり、主のご栄光が現される年となりますように。
2017年12月24日説教要旨  説教題: 羊飼いと主のご降誕
ルカ2章10〜12節 御使は言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。 きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。 あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」。」

 主イエス様のご降誕を心より喜び、主を賛美いたします。人の救いと神様の愛の明確な現れです。人の闇の世界に、神様の光がともったときです。そして、私たちはその光を見て、喜び、望みを持つ者になりました。

 この世界を神様は闇とみられています。なぜなら、神様を信じる信仰がなく、神様から出る大きな喜びが存在しないからです。この世では正しい心の者がいなく、争いが絶えず、神様の救いがないのです。そして、最後には死があることに、人は気づかされています。だから、闇なのです。

 クリスマスは、この世界に神様からの「大きな喜び」が来たことを伝えます。驚くほど大きい喜びです。それがイエス・キリスト様です。

 夜、野宿をしながら羊の番をしていた羊飼いがいました。私たちと同じ、大きな喜びを知らない、持たない羊飼いです。そして、彼らに突然、天使が「主なるキリスト」を紹介します。彼らはただただ驚きです。彼らに見つけるよう、神様がご計画したことを天使が語ります。
「あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」

 闇の世に、光として誕生されたイエス様を見つけに行くように示したのです。彼らは驚きをもってそれが事実かどうか心を躍らせて、近くの町ベツレヘムに探しに行きます。

 そして、ついに見つけて、天使が告げたとおりだと言って、喜ぶのです。なぜ喜ぶか?神様が私たちを愛して、救い主を送ってくださったと喜ぶのです。

 彼らは神様に救いを望む民でした。そして、光として生まれたばかりの赤子を見たのです。きっとこの赤ちゃんは、成長して私たちを救ってくださる、神様は、私たちを救ってくださることを信じたのです。そして、彼らは神様を信じ、神様の救いを信じ、神をあがめ、またさんびしながら帰っていきました。
2017年12月10日説教要旨  説教題: 主の愛の道は栄光へ続く
ヨハネの第一の手紙/2章 4〜6節「「彼を知っている」と言いながら、その戒めを守らない者は、偽り者であって、真理はその人のうちにない。 しかし、彼の御言を守る者があれば、その人のうちに、神の愛が真に全うされるのである。それによって、わたしたちが彼にあることを知るのである。 「彼におる」と言う者は、彼が歩かれたように、その人自身も歩くべきである。」

 信仰者は、主を知り、主の愛を知って、イエス様の教えられている戒めを守り、その内を歩むように命じられています。
ところが、「彼を知っている」と言いながら、その戒めを守らない者は、偽り者であって、真理はその人のうちにない」とあるように、クリスチャンであると言いながら、生活において従っていない人が多くおり、そういう人は真実な信仰者でないと言います。

 私たちは信仰を持つことにより、自分の罪と共に、神様に深く愛されていることを知る者にされました。実は、どれほど愛されているか知ることが、その後の信仰生活に深くかかわります。例話:放蕩息子が父の深い愛を知ったからこそ、彼の人生は変えられたのです。
聖書は、キリストの十字架に神の愛が示されたと教えます。1ヨハネ2:2,3
私たちは、この神様の愛を信じる者になったのです。この愛を深くすることが重要です。

 そして、信仰者に求められることは、神様を愛する者になることです。それは神様との愛の交わりに入ることを意味します。互いに愛し合う関係です。
しかし、これは神様の愛を知ることから生まれることです。あの放蕩息子が父の愛を深く知ったとき、彼の心が変わり、彼のそれからの人生が変えられたことが容易に想像できるように、私たちもどれほど神様の愛を知ったかで、どれほど神様を愛する者になるかが決まってしまうのではないでしょうか。

 そして、神様を愛する者になった現れとして、御言を守る者となるのです。
5節「彼の御言を守る者があれば、その人のうちに、神の愛が真に全うされるのである。」
御言を守ることは、神様への愛の現れであり、その従順に神への愛が示されているのです。

 そして、私たちは主イエス様を模範として、同じ道を歩む願いを持っています。
週報暗証聖句へブル12章2節にあるように、イエス様をいつも仰ぎ見ていなければなりません。前に喜びを持ち、どんなことも耐え忍んで、神様の愛に導かれ、栄光へと向かいます。主の愛を深く知り、主への愛をもって御言葉に従うことが信仰生活の大切な要素です。
2017年12月3日説教要旨  説教題: 罪から離れる信仰生活
ヨハネの第一の手紙/1章 5〜9節「わたしたちがイエスから聞いて、あなたがたに伝えるおとずれは、こうである。神は光であって、神には少しの暗いところもない。 神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない。 しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。 もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。 もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。」

 私たちはイエス様を信じ、神様を信じる者になりました。ヨハネは、その神様は「光であって、神には少しの暗いところもない」と強く宣言します。
聖書は、私たちはイエス様を信じて、光の子となったと言います。それは罪を悔い改めてイエス様を信じて、罪がゆるされ、神の子、光の子とされると言うのです。福音は驚くべき恵みが書かれています。

 しかし、イエス様の時代から、信仰を告白し、イエス様を信じる者になっているのに、その行動が闇のままである者が多くあったのです。
ヨハネは、それは偽りであると言います。信仰告白について、罪を悔い改めていない偽り、イエス様を主としていない偽り、そして、真理がないと責めます。

 ヨハネは、信仰を持つなら罪がなくなるとは言いません。信仰者にも罪はあると言います。しかし、信仰者のベストは罪から離れ、キリストにつながり、神様との交わりの中を生きることであり、イエス様の血によってすべての罪が清められ、良心に責められることなく、平安と喜びの中に生きることなのです。

 そして、罪を犯したなら、罪に気付いたなら、その罪を悔い改めて、主に告白しなさい、そうすると、主はその罪を赦し、不義からきよめて下さると、主の道を示します。

 私たちは闇の中に生きることを悔い改めて、イエス様を信じて、神の子とされ、光の中に生きる者にされました。そして、今私たちが歩むべき道は、罪から離れて、光の中に生きることです。罪を悔い改め、罪から離れる信仰生活を熱心に求めましょう。主の御心です。
2017年11月26日説教要旨  説教題: ヨハネによるキリストの証
ヨハネの第一の手紙1章 01〜10節 「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について―― このいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠のいのちは、父と共にいましたが、今やわたしたちに現れたものである―― すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。
これを書きおくるのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるためである。」


 ヨハネは自分の経験を通して語る使徒です。特にイエス様について語り始め、自分の務めはイエス様について語り、世の人に伝えることであることを明確に理解しているのです。
彼の語りの特徴は、イエス様に対する私の証は確かであることを強調します。(1,2節)

1)私たちも明確な信仰を持ちましょう。
 明確な悔い改めと、明確な信仰を持っているでしょうか?心を吟味しましょう。
私はまったくの罪人であったこと、そして、そのために心は罪に汚れ、無知の中にあったことを認めます。現在も罪の汚れを持っている者として、イエス様を信じる信仰によってのみ、正しい道に歩むことを認め、更に主なるイエス様を信じて歩む決心を持ちましょう。

2)イエス様について明確な理解をしましょう。
 イエス様がどういう方であられるか?神様であられ、完全な人となって下さった事を認めます。十字架で死なれ、よみがえられ、天の昇られたこと。そして、私たちは信仰によってイエス様とつながっていることを認めましょう。イエス様は私たちの真実な主であられ、私たちを守り、永遠に導いて下さる方であることを信じましょう。

3)知識により、私の心が喜びに満ちることを求めましょう。
 神様とこのイエス様を知ることによって、心に喜びが満ち溢れることを求めましょう。この喜びがあるか心を吟味し、イエス様の喜びが満ち溢れることを目標として信仰生活をよりまっすぐに進む決心をしましょう。 ペテロの第二の手紙/ 01章 10節
「兄弟たちよ。それだから、ますます励んで、あなたがたの受けた召しと選びとを、確かなものにしなさい。そうすれば、決してあやまちに陥ることはない。」
2017年11月19日説教要旨  説教題: 主のご計画を信じ、従う
2ペテロ3:13〜14 「しかし、わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる。  愛する者たちよ。それだから、この日を待っているあなたがたは、しみもなくきずもなく、安らかな心で、神のみまえに出られるように励みなさい。」

 イエス様のおられない世界では、人は神様を軽んじ、ご計画を信じず、むなしい生き方をしてきました。イエス様が救いをもたらした後にも、彼を知った者が、神様のご計画を軽んじ、あざける者が現れ、欲情に従い、主のご計画を侮るようになると言います。 3,4節
彼らの失敗は、悔い改めと信仰が明確でなく、自分の欲を優先することを止めなかったからです。ユダは、「自分の不信心な欲のままに生活する」と言いました。ユダ18節
その結果、彼らは主のご計画をあざけり、不信仰に進み、不義をおかし続けるのです。主のさばきは厳粛に彼らの上に臨みます。

 しかし、私たちは御言葉に示されている主のご計画を信じて、不信仰にならず、教えに進み、安心と喜びの道を歩み続けましょう。

1)主は完全な方であり、完全なご計画を持たれ、勧められています。ペテロは次のように言いました。
2ペテロ3:8「愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。」
主には、時間は無限に分割され、平面にされているように、すべてを支配されているのです。遅いとか早いとは言うことはなく、今の時も完全に保持され、完全に進められています。主の完全性を信じ、信仰によって安心していましょう。

2)しかし、この世にあっては、滅びが突然に襲うと警告します。
2ペテロ3:10「しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。」
この世界には終わりが来ることも、天地創造からのご計画です。私たちの主のご計画に一つも過誤はなく、すべてが成就します。

 主イエス様を信じる私たちは、この信仰をもって、欲望に支配されず、主とそのお言葉に全き信頼を置き、純真な心でこの救いの道を歩み続けるのです。そして、この救いを他の人にお伝えすることを願います。主のご計画を信じ、従いましょう。
2017年11月12日説教要旨 説教題: 主の救いとさばき
ペテロ第二の手紙2:9,10「9節こういうわけで、主は、信心深い者を試錬の中から救い出し、また、不義な者ども、 特に、汚れた情欲におぼれ肉にしたがって歩み、また、権威ある者を軽んじる人々を罰して、さばきの日まで閉じ込めておくべきことを、よくご存じなのである。」

 ローマ人への手紙/11章 22節「神の慈愛と峻厳とを見よ」とあります。神様には大きな愛と大きな厳しさがあると言うのです。私たちが神様の愛を真実に求めるなら大きな愛を受け、愛を受け入れないなら厳しいさばきがあります。
上記聖句にあるように、神様は「信心深い者を試練の中から救い出し」てくださいます。その為に、神様の御子イエス様は人となられてこの世におりてきてくださり、十字架に犠牲をとして命をささげてくださいました。ただ信仰により救われる道を備えて下さいました。

 私たちの人生は試練と苦悩の中にあります。罪を犯し、罪を持つため、神様の恵みから遠く離れ、幸いではなく多くの不幸を経験し、更に罪のゆえに地上の人生を終える時、神様の恐ろしいさばきがあると警告されています。

 私たちはさばきを受けることがないように、地上の苦難から神様のさばきから救われるためにイエス様を信じて救われなければなりません。
ペテロは2章で、人類の歴史上、神様は不義の中に歩み続けるものをさばかれてきたと言います。御使いを裁き、不義なる人を裁いてきたことを証しています。ノアの洪水やソドムとゴモラの滅亡を上げ、同じように現在でも主を否定する者へのさばきが厳しくあると戒めています。

 ペテロは、不義の道を歩み、恐ろしい裁きを受ける間違った教えをする者、主の御言葉に否定する生活をするもの、偽教師があらわれると言うのです。その結果、多くの人が彼らを見習い、真理の御言葉に背いている。彼らへのさばきはすみやかに行われると警告します。

 私たちの心はもともと、不義を愛する汚れた心を持っているもので、不注意にいると彼らのとりこになり、同じ災いを受けます。しかし、イエス様を信じてゆるされ、きよめられ新しくされた者です。神様とイエス様を知り、私たちは義の道を教えられ、信仰によってその栄光の道を進む者です。1コリント15:58
私たちは御言葉の真実をまっすぐに求め、そこから外れることなく義の道を進み、この世の苦難から救われ、神様の恐ろしい裁きから救われ、恵みの道を感謝をもって歩む者です。
2017年11月5日説教要旨 説教題: 主と主の御言葉をいつも思う
ペテロの第二の手紙 1章 12〜13節「それだから、あなたがたは既にこれらのことを知っており、また、いま持っている真理に堅く立ってはいるが、わたしは、これらのことをいつも、あなたがたに思い起させたいのである。  わたしがこの幕屋にいる間、あなたがたに思い起させて、奮い立たせることが適当と思う。」
19節「この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい。」

 信仰生活は、私たちが御言葉に従って新しく変えられ、ふさわしく生きることです。
以前の自己中心な心から、迷いの道から、イエス様中心の確かな救いの道を確信する生活を送ることです。

1・私たちがいつも思い、目を留めるべきことがあります。

1)神様と主イエス・キリスト様とその御言葉に目をとめる
 これらは一つです。福音として、御言葉を知るのです。

2)いつも目をとめる
 いつも、忘れず、心を向けることが信仰生活です。勝利の秘訣です。 ヨシュア1:8

3)どんな状況でも目をとめる
 どんな時にも、主に従います。 1テサロニケ5:15〜18

4)心の一新が必要
 自分の決意だけではできません。信仰により、心の一新が必要です。

5)道しるべ、のぞみとして
詩篇119:105「あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。
@イエス様とその御言葉は、私たちの道しるべです。
 この道をそれてはいけません。迷いの道に入ります。そこから救われたのですから、二度と、この道を離れてはいけません。
Aいつまでもある望み
 この光は、夜道の街の灯りであり、夜の海に輝く灯台です。それを憩いの場として望み、心に励みとして歩みます。
B自分勝手な御言葉の理解はしてはいけません。 2ペテロ1:20
 いつもキリストとそのお言葉に目をとめて、一心に歩みましょう。
2017年10月29日説教要旨 説教題: 主を知り、主に従う
ペテロの第二の手紙/1章 2〜3節「神とわたしたちの主イエスとを知ることによって、恵みと平安とが、あなたがたに豊かに加わるように。 いのちと信心とにかかわるすべてのことは、主イエスの神聖な力によって、わたしたちに与えられている。それは、ご自身の栄光と徳とによって、わたしたちを召されたかたを知る知識によるのである。」

 私たちの信仰生活は、なんとか努力してイエス様のように義なる生活を送ろうとすることだろうか?聖書は神様とイエス様を知って、その教えに忠実であることを教えます。私たちはつい自分の力で結果を得ようと頑張ろうとします。しかし、聖書は主イエス様の神聖なお力によるのであって、人の努力によって結果を追い求めるのではなくて、まず主を知り、主に忠実に従うときに神様から結果が与えられると教えます。

1)神と主イエスとを知る
「神とわたしたちの主イエスとを知ることによって、恵みと平安とが、あなたがたに豊かに加わるように。」とあるように、私たちの聖書の学びは、すべて神様と主イエス様を知ることにつながっていなければなりません。

2)主イエスの神聖なお力による
「主イエスの神聖な力によって」とあるように、神様の御力が働いて、神様の恵みの一切は人に与えられるのです。御言<霊的言>を、心に信仰によって持つとき、(遺伝子<生物学的言>に神様がお働きになって生き物を形作るように)神聖なお力によって恵みが人に与えられるのです。人の行いによって恵みが与えられるのではなく、神様の御力があるからです。私たちはその信仰が求められます。

3)主の御言に忠実であることを求めましょう。
2ペテロ1:5〜7 「それだから、あなたがたは、力の限りをつくして、あなたがたの信仰に徳を加え、徳に知識を、知識に節制を、節制に忍耐を、忍耐に信心を、信心に兄弟愛を、兄弟愛に愛を加えなさい。」
信仰生活の知識は、それがすべてではなく、それを用いて歩むことが大事なのです。神と主イエスを知って、その主に忠実に歩むことです。
その時、神様の御力が働き、聖なる御言の約束を受け、実をならす霊的な信仰生活を歩むことが出来るのです。 私たちは安心して、主にお委ねする信仰の歩みをいたしましょう。
2017年10月22日説教要旨 説教題: 謙遜と従順
1ペテロ5:5〜7 「同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。また、みな互に謙遜を身につけなさい。神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜うからである。 だから、あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい。時が来れば神はあなたがたを高くして下さるであろう。 神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。」

 「同じように」とあるように、教会の中では長老(牧師)も若い人も、同じく謙遜で主の御言葉に従順な生活を送らなければなりません。
謙遜とは高ぶらない心で、人を尊び、自分自身はへりくだる心です。愛の心の現れと言えます。愛は「高ぶらない」「誇らない」(1コリント13:4)とあり、「神は愛である」のですから、神様のご性質です。これを否定することが罪です。
人は罪を犯し、罪が心に入り、高ぶる心を身に持ち、その結果、神様から離れ、恵みから墜ちてしまいました。
イエス様は私たちの救い主となられ、私たちを迷いの道から、主の元につれもどし、再び謙遜の心と従順の行動を私たちに教えようとされています。私たちが他の人に対して謙遜になり、仕える者となるなら、それは神様の下に身を低くすることであります。
1ペテロ5:6「だから、あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい。時が来れば神はあなたがたを高くして下さるであろう。」

 しかし、この世にあっては主に従おうとするとき、多くの苦悩を経験させられます。イエス様とその弟子たちがそうであったように、周りから迫害を受け、自分自身の肉との闘いが始まるのです。この苦悩が私たちにまとわりつく時こそ、信仰者が信仰によって生き、成長する機会となります。悩みを経験する時、信仰によってその思い煩いを主に委ねよと命じます。主に信頼し、主に委ね、忘れよと言うのです。(1ペテロ5:7)

 私たちが謙遜と従順の中に生きる時、神様は苦しむ私たちと共にいて下さり、信仰によって励まし、助け、より高い恵みの中に私たちを導いてくださいます。
高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う神様は、私たちを支え、守り、現実のこの世でも祝福を授けてくださいます。更にイエス様とお会いする時には、人の思いをはるかに超えた恵みの中に私たちを入れてくださいます。主に信頼し、謙遜と従順に歩みましょう。
2017年10月22日説教要旨  説教題: 謙遜と従順
1ペテロ5:5〜7 「同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。また、みな互に謙遜を身につけなさい。神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜うからである。 だから、あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい。時が来れば神はあなたがたを高くして下さるであろう。 神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。」

 「同じように」とあるように、教会の中では長老(牧師)も若い人も、同じく謙遜で主の御言葉に従順な生活を送らなければなりません。
謙遜とは高ぶらない心で、人を尊び、自分自身はへりくだる心です。愛の心の現れと言えます。愛は「高ぶらない」「誇らない」(1コリント13:4)とあり、「神は愛である」のですから、神様のご性質です。これを否定することが罪です。
人は罪を犯し、罪が心に入り、高ぶる心を身に持ち、その結果、神様から離れ、恵みから墜ちてしまいました。

 イエス様は私たちの救い主となられ、私たちを迷いの道から、主の元につれもどし、再び謙遜の心と従順の行動を私たちに教えようとされています。私たちが他の人に対して謙遜になり、仕える者となるなら、それは神様の下に身を低くすることであります。
1ペテロ5:6「だから、あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい。時が来れば神はあなたがたを高くして下さるであろう。」

 しかし、この世にあっては主に従おうとするとき、多くの苦悩を経験させられます。イエス様とその弟子たちがそうであったように、周りから迫害を受け、自分自身の肉との闘いが始まるのです。この苦悩が私たちにまとわりつく時こそ、信仰者が信仰によって生き、成長する機会となります。悩みを経験する時、信仰によってその思い煩いを主に委ねよと命じます。主に信頼し、主に委ね、忘れよと言うのです。(1ペテロ5:7)

 私たちが謙遜と従順の中に生きる時、神様は苦しむ私たちと共にいて下さり、信仰によって励まし、助け、より高い恵みの中に私たちを導いてくださいます。
高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う神様は、私たちを支え、守り、現実のこの世でも祝福を授けてくださいます。更にイエス様とお会いする時には、人の思いをはるかに超えた恵みの中に私たちを入れてくださいます。主に信頼し、謙遜と従順に歩みましょう。
2017年10月15日説教要旨 説教題:試練に立ち向かう
ペテロの第一の手紙4章 12〜13節「愛する者たちよ。あなたがたを試みるために降りかかって来る火のような試錬を、何か思いがけないことが起ったかのように驚きあやしむことなく、 むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。それは、キリストの栄光が現れる際に、よろこびにあふれるためである。」

 信仰者には試練が訪れると言います。
信仰生活は神様の恵みとこの世の試練との中に生きることです。
この世はキリストを嫌います。なぜなら、この世の考えから離れ、行動を共にしなくなり、価値観が違うものとなり、世に無い希望を持つ者となるからです。
私たちはイエス様を信じ、神様の御旨を信じて従う道を求めます。そして、神様の善を行うことを心の中心において行動するようになります。
すると、試練が来ると聖書は言いますが、その時は喜べと言うのが聖書の教えです。

1)今の試練
 今、私たちがイエス様を信じ、バプテスマを受け、教会生活を始めると周りからいろいろな迫害を受けることがあります。新しい希望を持ち、新しい生き方を始めるからで、この世の流れから離れ、神様中心の生活を始めるからです。しかし、私たちはこの信仰の道を歩み続けなければなりません。なぜなら、この世の歩みには希望がなく、救いがないからです。かえって、反対する人たちに救われた者の良い証を通して、この救いの道を示さなければなりません。

2)火のような試練
 12節では、「火のような試練」について書かれています。これは、終わりの時代、終わりの時の艱難の時代前後の迫害ことだろうと思われます。マタイ24:3〜14 しかし、それがどんな試練であろうと、心に備えをして向かわなければなりません。その時にこそ、真実な神様の祝福を受けます。1ペテロ4:14

3)主にすべてをゆだねて、試練に立ち向かう
 19節「だから、神の御旨に従って苦しみを受ける人々は、善をおこない、そして、真実であられる創造者に、自分のたましいをゆだねるがよい。」
私たちはすべてを信じる全能の神様にお委ねして、善を行い前に進むのです。
2017年10月8日説教要旨 説教題:イエス様による新しい生き方
ペテロの第一の手紙4章 1〜11節「このように、キリストは肉において苦しまれたのであるから、あなたがたも同じ覚悟で心の武装をしなさい。肉において苦しんだ人は、それによって罪からのがれたのである。 それは、肉における残りの生涯を、もはや人間の欲情によらず、神の御旨によって過ごすためである。」

 ペテロは「万物の終わりが近づいている」(7節)と警告しています。現代は、ペテロの時より、更に終わりが近づきました。
イエス様は終わりの時に、私たちを救うためにこの世に来てくださったのです。
ペテロ3:18「キリストも、あなたがたを神に近づけようとして、自らは義なるかたであるのに、不義なる人々のために、ひとたび罪のゆえに死なれた。」
罪のゆえに、神様から離れている者が、終わりの時に裁かれることがないように、神に近づけようと、イエス様は私たちの罪の身代わりに死んでくださったのです。
それはイエス様を信じるものたちの罪がゆるされ、神様に受け入れられ、裁かれることがなく、神様の祝福を受けるためです。
その為、神様が私たちに願われていることは、心を全く変えることです。

 人について、神様は次のように言われています。
3節「過ぎ去った時代には、あなたがたは、異邦人の好みにまかせて、好色、欲情、酔酒、宴楽、暴飲、気ままな偶像礼拝などにふけってきたが、もうそれで十分であろう。」
この世を見れば、欲望、偶像崇拝が満ちていて、私たちも皆、その中で空しい思いで生きていたのです。そして「もうそれで十分であろう」と語るのです。
心を変えて、新しい生き方を目指したらどうですか?
この世にあることは空しく、本当の平安、喜びがないことを知ったのですから、心を変えたらどうですか?と神様は私たちに問いかけています。

 心を変える新しい一歩は、イエス・キリストを信じることから始まります。
「私は門である」と言われたイエス様を信じて、門をくぐって救われた新しい生き方を始めることです。2節「それは、肉における残りの生涯を、もはや人間の欲情によらず、神の御旨によって過ごすためである。」
イエス様を信じて従うと、新しい生き方が始まり、平安、喜びがあなたに訪れます。
2017年10月1日説教要旨  説教題: 救い主イエス様の足跡
 ペテロの第一の手紙/ 03章 18節「キリストも、あなたがたを神に近づけようとして、自らは義なるかたであるのに、不義なる人々のために、ひとたび罪のゆえに死なれた。ただし、肉においては殺されたが、霊においては生かされたのである。」

 イエス様は私たちを神様に近づけるために人となられて死なれたと教えています。

1)人は神様から離れているのです。
人の世界には様々な宗教があり、神様があります。人はそれぞれ違った神様を信じています。何かを信じて人は生きていますが、聖書は神様から離れていると教えます。ですから、人は不幸を感じ、不安を持っており、死は絶望なのです。

2)原因は人の内にある罪です。
人が神様を見出せない理由を、聖書は人の罪と言います。
イザヤ59章 1〜2節「見よ、主の手が短くて、救い得ないのではない。その耳が鈍くて聞き得ないのでもない。 ただ、あなたがたの不義が/あなたがたと、あなたがたの神との間を隔てたのだ。またあなたがたの罪が/主の顔をおおったために、お聞きにならないのだ。」
罪は人の心に根深くある性質です。人は取り除けないし、その支配を強く受けています。

3)キリストは人を罪から解放し、神様に近づけるために人として来られた。
今日の聖句は、イエス様は人を神様に近づけるためにこの世に来られ、人の罪の身代わりに死なれたと教えます。罪の義なる犠牲となり、人を罪から解放し、救いを与える為です。

4)死なれ、自由となられたキリスト
しかし、死と同時にイエス様はすべての犠牲の業を終え、自由となられました。
「肉においては殺されたが、霊においては生かされたのである」とあり、罪の中にある霊に福音を伝えられました。イエス様の願いは福音を伝えることでした。
この事実は、信仰によりイエス様につながった私たちも、死と同時に肉体から解放され、自由にされることを知るのです。
5)日曜の朝、勝利の復活
そして、肉と霊を持つ私たちに、朽ちない復活を示され、イエス様に対する明確な信仰を示されました。
 そして、私たちは勝利の主を見上げ、その跡を歩む聖徒とされました。イエス様に従い、神様の御側を望みをもって共に歩む者です。もう、不幸も不安もなしに望みに歩む者です。
2017年9月24日説教要旨 説教題: 善を行う信仰生活
1ペテロ3章8〜12節 「最後に言う。あなたがたは皆、心をひとつにし、同情し合い、兄弟愛をもち、あわれみ深くあり、謙虚でありなさい。  悪をもって悪に報いず、悪口をもって悪口に報いず、かえって、祝福をもって報いなさい。あなたがたが召されたのは、祝福を受け継ぐためなのである。  「いのちを愛し、/さいわいな日々を過ごそうと願う人は、/舌を制して悪を言わず、/くちびるを閉じて偽りを語らず、悪を避けて善を行い、/平和を求めて、これを追え。 主の目は義人たちに注がれ、/主の耳は彼らの祈にかたむく。しかし主の御顔は、悪を行う者に対して向かう」

 私たちの信仰生活は、悪を避けて善を行うことに心がけることと教えます。

1)イエス様を模範としなさい
1ペテロ3:21「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。」
イエス様は忍耐して善を行う道を進みました。しかも、命を捨てる十字架の道でした。

2)具体的な例
善とは神様の教えです。具体的に語ります。
@人の制度に従いなさい。
A僕は主人に真心から従いなさい。
B妻は内なる人を着飾って、夫に仕えなさい。
C夫は、妻を弱いものと見て尊びなさい。
他の書簡で、パウロは子に対して、父に対して、主人に対して説明しています。
これらは、真心から互いに愛し、従うこと、仕え合うことを教えています。

3)忍耐して善を行いなさいと教えます。
善を行うとき、周りから迫害があることがあります。でも、忍耐して善を行い続けなさいと教えるのです。その姿を神様は喜ばれるのです。

4)報いがあります。@信仰の成長 A人が神様をあがめるようになる B愚かな人が黙る
B神様が喜ばれる C神様がその人に目を注ぎ、祈りを聞かれる
ガラテヤ6章 9節「わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。」 善を熱心に行える人を目指しましょう。
2017年9月17日説教要旨 説教題: この世の旅人として
ペテロの第一の手紙/ 02章 11〜12節「愛する者たちよ。あなたがたに勧める。あなたがたは、この世の旅人であり寄留者であるから、たましいに戦いをいどむ肉の欲を避けなさい。 異邦人の中にあって、りっぱな行いをしなさい。そうすれば、彼らは、あなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのりっぱなわざを見て、かえって、おとずれの日に神をあがめるようになろう。」

 私たちは「この世の旅人であり寄留者である」といつも告白できる者になりたいものです。

 @それは、この世の快楽に興味がありませんと告白することです。
肉の欲はすぐに消える感情の産物であり、私たちを真に満足させるものではなく、神様を見えなくし、信仰者には後で後悔させるものだからです。
ペテロの第一の手紙/2章 11節「愛する者たちよ。あなたがたに勧める。あなたがたは、この世の旅人であり寄留者であるから、たましいに戦いをいどむ肉の欲を避けなさい。

 Aそれは、この世の財産に興味がありませんと言うことです。
人はこの世に財産を貯めようと必死に生きています。しかし、その財産が人を真に幸福にはしないことを知っており、思い煩いのもとになります。
テモテへの第一の手紙/ 06章 08節「ただ衣食があれば、それで足れりとすべきである。」
旅人はこの世に富を蓄えることをしません。いつも目的地を見ています

 Bこの世の旅人は、目に見えない神様を信じ、目に見えない永遠の栄光を信じる者です。
救い主イエス様を信じています。
イエス様の十字架の救いを信じています。
イエス様の復活を信じ、神様の全能と約束の成就を信じる者になっています。
永遠の命と、神の国を信じています。 

 そして、立派な行いをしなさいと命じられています。
立派な行いとは信仰の証をしなさいと命じるのです。信仰が明確であれば、立派な行いができる、信仰と行いは一つであるべきと言うのです。
そして、その立派な行いは、世の中に神様を証していることであり、その人が神様の元に来るときには、心から神様をあがめるようになると言います。
2017年9月10日説教要旨  説教題:私たちを導く御言
 ペテロの第一の手紙/2章 2〜5節「今生れたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち、救に入るようになるためである。  あなたがたは、主が恵み深いかたであることを、すでに味わい知ったはずである。  主は、人には捨てられたが、神にとっては選ばれた尊い生ける石である。  この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。」

 聖書は間違いのない神様の御言葉で、この御言によって、私たちは導かれています。
御言は私たちを信仰により新しくし、この世の重荷から解放し、主の御心に沿った道を歩むように導いています。

1)イエス様の元に来て、御言を信じて新しくされる
イエス様は十字架で死なれ、復活されることにより、信じる私たちに救いと力を与えてくださいました。以前と全く違う新しい者とし、世の重荷から解放し、恵みを下さいました。
@救い(永遠の命)  A力(御言に従う力)

2)御言葉による信仰者の成長
@幼子として霊の乳(聖書)を慕い求めなさい
人は自我を持っています。信仰持つとき、イエス様と告白しますが、まだまだ肉の人のままです。霊の乳を慕い、自我から解放され、キリストの土台をしっかりと据えるときです。
A成長し、神様の御心を求める人となります。
赤ちゃんは自分の為に生きますが、成長すると周りの人に心を向けるようになります。愛が芽生え、他のものを見る余裕が生まれます。御言の次の導きは、主に従うことです。

3)神に喜ばれる霊のいけにえをささげる
この道順は、まず、生ける石となってキリストの身体を建て上げることです。
@イエス様の上に築き上げられる
尊い生ける石なるイエス様は、信じる私たちに同じ力を与えてくれます。清さ、愛の力、一致の力が与えられ、彼の上に生ける石として組み合わされ、教会を建て上げます。
A教会として、神様に喜ばれる霊のいけにえをささげます。
個々のみならず、教会として一致して賛美し、主の喜ばれる歩み、主に忠実に従う歩みをするのです。これが、御言が示す私たちへの導きです。
2017年9月3日説教要旨 説教題:恵みによる信仰生活
ペテロの第一の手紙/ 01章 13〜16節「それだから、心の腰に帯を締め、身を慎み、イエス・キリストの現れる時に与えられる恵みを、いささかも疑わずに待ち望んでいなさい。 従順な子供として、無知であった時代の欲情に従わず、 むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。  聖書に、「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてあるからである。」

 私たちは救われるために、主のお言葉に従うのではなく、救われた者、恵みの中にある者として、喜んで主のお言葉に従おうとする者です。その力は心から生まれるものであり、主のお言葉に従う力は、新しくされた恵みによる力であるべきです。

 御言葉の恵みを信じることこそ、力強く、喜びをもってクリスチャン生活を送る秘訣です。そして、ペテロは言います。 1ペテロ1:13「イエス・キリストの現れる時に与えられる恵みを、いささかも疑わずに待ち望んでいなさい」 

 イエス様が現れる時、信仰者の忍耐は報われるのです。その時、
1ペテロ1: 7「こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変るであろう。」

 私たちは今すでに救われて、心は安心の中にあります。しかし、同時にいつも忍耐を求められ、信仰に進むことを続けていますが、イエス様が現れる時の大きな恵みを信じ、望む時、私たちは大きな心の励ましを受けます。
ローマ人への手紙/ 08章 18節「わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。」私たちはこの望みの中にあります。

 そして、この力強い励ましを、主に従う力として新しい生活を進むのです。
それは、空疎な欲情に従う生活ではなく、聖なる者となることです。
主の恵みに対する信仰、望みこそが、私たちの日常をきよめる力となり、神様はこの信仰の聖なる歩みを願われています。キリストの尊い血はこのために流されました。私たちはイエス様の十字架をいつも忘れません。同時に、再び来られて、驚くべき恵みに入れて下さることを心の望みとすることを忘れず、聖なる歩みとすることを願うのです。
2017年7月30日説教要旨 説教題:信仰による新しい心で 生きる
ヤコブの手紙/ 04章 13〜15節「よく聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町へ行き、そこに一か年滞在し、商売をして一もうけしよう」と言う者たちよ。あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ。あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない。 むしろ、あなたがたは「主のみこころであれば、わたしは生きながらえもし、あの事この事もしよう」と言うべきである。」

 私たちの多くは、人生は思い通りではなく、悩みと苦しみが多かったと振り返るのではないでしょうか。色々と計画を立てて、満足の為に頑張るのですが、思い通りではなかったと思うのです。そして、死が近づくと人生とは空しいと振り返るのです。

 聖書に次の言葉があります。「伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である」 同じ思いだと共感する人もおられることでしょう。そして、もう人生を終える年齢になり、上記聖句「あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない」との言葉にうなずくのです。

 ところで、イエス様はこのような空しい人のために、この世に来られ、神様がおられること、永遠の命があることを示し、その為に罪人の身代わりに十字架で死んでくださったのです。更に、三日目によみがえられ天に昇られました。

 それは、空しい思いを持ち、罪と裁きに苦しむ人のために、信仰による救いの福音を伝えるためでした。そして、私たちはイエス様を救い主と信じて、救われたと喜ぶのです。

 この救いを受けた私たちはどういう信仰生活を送ることが幸いなのでしょうか?ヤコブは言います。「あなたがたは「主のみこころであれば、わたしは生きながらえもし、あの事この事もしよう」と言うべきである。

 もう、以前の自分の欲を求める生き方を止め、主イエス様に従う生き方をしなさいと。これは新しい心をもって、新しい生き方をすることです。

 パウロは言いました。2コリント5:17「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」

 イエス様を主であることを思い出し、その方の御心に従うことです。常に、心においてイエス様が主であることを確認して、彼に従順に従う信仰生活です。心においてイエス様が主であることが、その人の行いを新しくするのです。こういう信仰生活こそ、神様の裁きの人生ではなく、恵みの祝福に満ちた人生を信仰によって歩むことなのです。
2017年7月23日説教要旨  説教題:主の豊かな恵みを受けなさい
ヤコブ4章6〜10節 「しかし神は、いや増しに恵みを賜う。であるから、「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う」とある。 そういうわけだから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ちむかいなさい。そうすれば、彼はあなたがたから逃げ去るであろう。 神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さるであろう。罪人どもよ、手をきよめよ。二心の者どもよ、心を清くせよ。 苦しめ、悲しめ、泣け。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えよ。 主のみまえにへりくだれ。そうすれば、主は、あなたがたを高くして下さるであろう。」

 イエス様による救いは恵みに満ちたものです。イエス様の十字架と復活の御業は、私たちに勝利の歩みを与えて下さるための御業です。信仰はその勝利の力です。
1)死に勝利させ、永遠の命を得させてくださる。
2)誘惑に負けず、信仰を持ち続ける勝利を与えて下さる。
3)イエス様の戒めを守り行う勝利を与えて下さる。

 ころが、聖書が書かれたこの時代から信仰によって勝利の道を歩めない信仰者が多くいたことをヤコブは嘆いているのです。
その結果、教会の中で争いがあり、不適切な態度をする者が多くいたようなのです。この原因をヤコブは指摘し、正しい恵みにあふれた勝利の信仰生活を送るように示したのです。

 間違った歩みを次のように指摘します
@自分の欲望を第一に従ってはいけない。
A世を愛し、世を友としてはいけない。
B自分を優先し、誇り高ぶってはいけない。

 イエス様を信じる信仰とは、これらを悔い改めてイエス様を主と告白したことを思い返しなさいと言うのです。神様は「高ぶるものをしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う」とあるからです。そこで、次のように心がけるように命じます。
1)神の深い愛を信じなさい。 5節「ねたむほどに愛しておられる」
2)神様の前にへりくだりなさい。
 @神様のみ言葉に従いなさい。悪魔は逃げ去り、心に主の平安が来るのです。
 A罪から離れ、神に近づきなさい。罪は神様を見えなくします。
そして、主に従い、豊かに恵みを受けて神様の栄光を現す信仰生活を送るように命じます。
2017年7月16日説教要旨  教題:信仰と語る言葉
ヤコブ3章2節「わたしたちは皆、多くのあやまちを犯すものである。もし、言葉の上であやまちのない人があれば、そういう人は、全身をも制御することのできる完全な人である。」

 学者は言葉の起源の研究は困難と認めています。聖書は言葉が神様から与えられていたものと教えます。エデンでアダムとエバは神様と会話をし、言葉は親しい交わりをより深いものにしていました。しかし、人が神様をあざむき、罪人となってから、言葉は人の欲望の手段となり、言葉により人は集まり、人をコントロールし、神様を無視する大きな組織となったのです。そこで神様は言葉を乱して、彼らの目論見を打ち砕きました。(創世記11:1〜9)しかし、人の欲望を留めることが出来なくなり、今に至るまで、人は言葉を手段として、人が最高の地位にある組織を作り続けています。

 今、私たちにも言葉があります。神様に背く舌を制することをしないなら、多くの言葉のあやまちを犯し続けているのです。それが人を不幸にしている大きな原因です。
三つの不幸があると言います。
ヤコブ3章6節「舌は火である。不義の世界である。舌は、わたしたちの器官の一つとしてそなえられたものであるが、全身を汚し、生存の車輪を燃やし、自らは地獄の火で焼かれる。」

1)その人を汚します。
罪を犯し続け、全身を汚し続けているのです。

2)生存の車輪を燃やしている。(生存の車輪とは人生の意味)
人生をだめにしています。人は言葉によって、人生を良いものではなく、多くの災いに満ちた悪いものにしています。

3)地獄の火で焼かれる
地獄の裁きを受けるのです。それほどに重たい罪の行為だと言います。
解決策は何でしょうか。 @熱心に悔い改めることです。言葉は心から出て来るものですから、新しい心となるため、熱心に悔い改めなければなりません。
A信仰によって、心をきよめる。イエス様の知恵を求め、イエス様を熱心に従うことです。
B語ることを遅くする。それでも、舌を自制することは困難なので、語る時には十分に言葉を吟味しましょう。言葉は私たちの成長の重要な信仰の行為として、主の恵みの言葉を語る者として、主に喜ばれることを求めましょう。
2017年7月9日説教要旨 説教題:信仰と行い 信仰は勝利
ヤコブの手紙2章 14節「わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか。」
ヨハネの第一の手紙5章 4節「なぜなら、すべて神から生れた者は、世に勝つからである。そして、わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。」


 信仰者の行いについて、私たちにとって大きなテーマです。常に、行いが足りないと思います。もっと、こうなりたい、こういう行いができる者になりたいと願うのですが、出来なかったり、反対に、一生懸命頑張っている時、信仰のことをおろそかにしていたりします。どこに信仰生活の問題があるのだろう?と考える時、聖書は信仰にあると答えます。

 信仰には必ず行いが伴うと言うのです。
アブラハムの場合も、ラハブの場合も、信仰に行いが伴い、それが義と認められたと言うのです。神様に義と認められる救いは信仰だけによります。信仰によって救われるのですが、この信仰には必ず行いが伴うと言うことです。
信仰告白の時、バプテスマを受けます。これは信仰と行いの第一歩です。
マルコによる福音書 16章 16節「信じてバプテスマを受ける者は救われる。」

 信仰と行いを切り離すことはできません。ですから、次のように言いました。
ヤコブ2章18節「しかし、「ある人には信仰があり、またほかの人には行いがある」と言う者があろう。それなら、行いのないあなたの信仰なるものを見せてほしい。そうしたら、わたしの行いによって信仰を見せてあげよう。」
ヤコブは、自分は信仰によって生きている、行いは信仰を現しているという自覚があったのです。

 私たちは信仰者にふさわしい生活ができていない、信仰はあると言いながら行いがないと思えたらどうしたら良いのでしょうか?
答えは、原点に返り、自分の信仰を吟味することです。
なぜなら、信仰こそが信仰者の行いの源、勝利の力だからです。
ヨハネの第一の手紙5章 4節「なぜなら、すべて神から生れた者は、世に勝つからである。そして、わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。」

 この世を愛することをやめ、イエス様は自分の主と明確にしましょう。イエス様に熱心に従い、そのお言葉に力があることを認め従うことを裏表なく続けましょう。これが信仰です
2017年7月2日説教要旨 説教題:自由の律法にさばかるべき者らしく
ヤコブの手紙/ 02章 12節〜13節「だから、自由の律法によってさばかるべき者らしく語り、かつ行いなさい。  あわれみを行わなかった者に対しては、仮借のないさばきが下される。あわれみは、さばきにうち勝つ。」

 ヤコブの手紙は、行いを強調している書と言えますが、それは律法学者、パリサイ人が教える救いの為の、形式的なものではなく、永遠の救い恵みにイエス様によって入れられた者として、ふさわしく行いなさいと命じているのです。 それが「自由の律法にさばかる者らしく」と言う意味で、あわれみを受けた者らしく、人をあわれみの心でやさしく対応しなさいと命じるのです。 この教えは、ヤコブ1:9,10「低い身分の兄弟は、自分が高くされたことを喜びなさい。 また、富んでいる者は、自分が低くされたことを喜ぶがよい」との教えの中にも含まれますし、
ヤコブ2:1「わたしの兄弟たちよ。わたしたちの栄光の主イエス・キリストへの信仰を守るのに、分け隔てをしてはならない」との教えの中にも含まれているのです。

 私たちはイエス様の十字架の贖いによって、すべての重い罪がゆるされ、永遠の命を受け、神の子とせられた者として、主の教えに喜んで従うものでなければなりません。
イエス様は次のように言われました。
マタイ福音書5章 19〜20節「それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。」

 私たちはイエス様に対する信仰によって天国へ入れられる義が与えられました。そして、イエス様が教えられる小さな教え一つ一つを行うことを目標とし、喜びとします。忠実に生きることにより、天国で最も大いなる者と呼ばれると約束があります。反対に、それを破り、守らないで良いと教えると最も小さい者と呼ばれると警告します。恥を受けるのです。私たちは大いなる救いを喜ぶ者でなければなりません。そして、小さなことにも忠実であることを求めるものです。日々に、忠実に生きていることを祝福の基として喜びましょう。今日の忠実は、永遠の栄光につながっています。
2017年6月25日説教要旨  説教題: 試練への信仰者の備え
ヤコブの手紙/ 01章 2〜4節 「わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試錬に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。 あなたがたの知っているとおり、信仰がためされることによって、忍耐が生み出されるからである。 だから、なんら欠点のない、完全な、でき上がった人となるように、その忍耐力を十分に働かせるがよい。

  信仰生活に様々なかたちで試練は必ずあるものです。試練と訳された言葉の意味は、他にテスト、試み、誘惑などと訳されています。

1)試練は、信仰者のための信仰の成長のための訓練、試み
試練は、信仰生活の悩み、苦しみとなるもので、実は、信仰者の信仰の成長のために神様が与えられたものと聖書は教えます。信仰者にとり、試練とは信仰の試みです。訓練であり、成長するためにあるものです。

2)どんな試練があるか?
様々です。信仰に対する迫害であったり、生まれながらの障害、環境からくる悩みであったり、身体的、精神的な試みです。しかし、受け止め、喜びとしてとらえるように励まされています。

3)どんな対処があるか?
@知恵を祈り求めなさい ヤコブ1章5〜6節
試練の時、ヤコブは知恵を求めなさいと言います。確かに、神様からの知恵は試練に対処する特効薬です。知恵が与えられるだけでなく、信仰によって立ち向かえます。
A新しくされたことによって喜びなさい ヤコブ1章9〜11節
環境の不満は新しくされたことを知り、喜ぶことによって解決しなさいと命じます。
B約束されたいのちの冠の望みがあることを知りなさい ヤコブ1章12節

4)御言葉に従う備えをしていなさい
聖書の御言葉によることこそが、最も力強い試練への備えです。
@神様への信仰 ヤコブ1章17節
A御言葉を聞く人になりなさい ヤコブ1章19節
B御言葉を行う人になりなさい ヤコブ1章22〜25節
イエス様は勝利の信仰生活を送られました。私たちも完全に向けて、試練に立ち向かい、勝利者になりましょう。その為の備えは、御言葉であり信仰です。それが信仰者の成長です。
2017年6月18日説教要旨  説教題: 完成を目指して
ヘブル人への手紙/ 13章 20〜21節「永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死人の中から引き上げられた平和の神が、イエス・キリストによって、みこころにかなうことをわたしたちにして下さり、あなたがたが御旨を行うために、すべての良きものを備えて下さるようにこい願う。栄光が、世々限りなく神にあるように、アァメン。」

 私たちはイエス様を信じて、真理、真実を知る者になりました。この世界の始まり、終わり、神様の御心を教えられました。そして、地上に生きている間、私たちは信仰者の完成を目指して進むことが目標であることを知ったのです。それには順序があります。

1・私たちに、神様からの良きものが備えられること。
@イエス様を信じて救われること。
A神様のお力により、御旨を行う良い備えができること。
 神様は聖い方ですから、その御旨を行うためには、私たち自身が変えられなければかなわないのです。良い木は良い実をならし、悪い木は悪い実をならすのですから、私たちが良い木になることを求めなければならないのです。

2・神様のお働きです。
この良い備えは、神様によってなされることで、その為に著者は祈ったのです。
@清くなりたい願いも神様のお働き
ピリピ2:13「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」
A訓練を与える
へブル12:6「主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」
Bよきものを備えて下さる
ヘブル人への手紙/ 13章 21節「あなたがたが御旨を行うために、すべての良きものを備えて下さるようにこい願う。」

3・私たちの態度
1)信仰を第一とします。イエス様を信じ、神様のお力に信頼します。
2)御旨が成ることを追求します。
私たちには大牧者イエス様が救い主としておられます。この方を目当てに、み言葉を学び、祈り、信仰の道をまっすぐに進む時、主が完成に向けて進ませてくださいます。感謝。
2017年6月11日説教要旨  説教題: 恵みと信仰によって心を強くする
へブル13:8〜10「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。 さまざまな違った教によって、迷わされてはならない。食物によらず、恵みによって、心を強くするがよい。食物によって歩いた者は、益を得ることがなかった。  わたしたちには一つの祭壇がある。 」

 著者はここまで、イエス様のこと、罪の贖いのこと、信仰のこと、永遠の国のことなどを語ってきて、最後に信仰生活について語ります。これは、私たちの信仰生活は、ここまで語られた土台があって、信仰生活があることを教えてくれます。
信仰生活の具体的な目標は、愛と善行です。兄弟愛、思いやり、結婚関係、そして貪欲を捨て満たされた心でいることです。(へブル13:1〜5)
ヘブル人への手紙/ 10章 24〜25節「愛と善行とを励むように互に努め、 ある人たちがいつもしているように、集会をやめることはしないで互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか。」

 しかし、この信仰の実践において、決して忘れはいけないことは、信仰と恵みの上に善行があることです。まず、良い木となることを忘れてはいけません。
救いにおいても、信仰生活においても、恵みと信仰によってクリスチャンは進むのです。
エペソ2:8「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。」

 ですから、次のように語ります。
へブル13:9「食物によらず、恵みによって、心を強くするがよい。」
神様の恵みが心に豊かにされないなら、信仰の実践は困難なのです。イエス様は私たちがまっすぐな信仰生活をすることにより、益を受け、いよいよ信仰の恵みに進むことを願われているのです。日々に熱心に主に従うことにより、いよいよみ言葉の恵みを理解し、その実践に進み、さらに神様の恵みを受けるのです。それが神様のお働きです。

 わたしたちには一つの祭壇があると言います。そこはイエス様がご自身を犠牲とされた聖なる祭壇です。もうそこに、私たちは獣の犠牲をささげなくてよいのですが、捧ぐべきものがあります。主の歩まれた犠牲の道を共に歩み、15節「さんびのいけにえ」「善行のいけにえ」を感謝の心でささげるのです。恵みによって一人一人の心が強くされ、信仰の実践につながり、信仰生活がますます祝福されますように。
2017年6月4日説教要旨  説教題:信仰者の近づいているもの
へブル12章22〜24節 「しかしあなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の天使の祝会、 天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者なる神、全うされた義人の霊、 新しい契約の仲保者イエス、ならびに、アベルの血よりも力強く語るそそがれた血である。」

 私たちは何に近づいているのでしょうか?多くの人は死を絶望と考えます。しかし、聖書は明確に、人の死は無ではなく、裁きであると教えます。しかも二つの道、二つの世界があると言います。

1)恐ろしい神様による裁き
 神様は私たちに正しい道を伝えています。聖書の律法であり、人の良心が教えます。しかし、人は神様を信じず、その道を捨て、自分勝手に生きているのです。その結果、神様は人をご自分の聖さによって裁かれるのです。
黙示録20:15「このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた」

2)神様の恵み
 しかし、信仰者はこの道に歩まないと言い、上記の神様の恵みを語っています。
信仰者は恐ろしい火の池ではなく、神様の栄光の国に近づていると言います。
ヨハネの黙示録/ 21章 3〜4節「また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、  人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。」

 この恵みはすべてイエス様の血によるあがないと信仰によるのです。

3)信仰から信仰へ
 私たちはどのような信仰生活をすべきなのでしょうか?
ローマ人への手紙/ 01章 17節「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである。」
私たちは更に信仰に進む信仰生活を目指さなければなりません。心に信仰が満たされ、イエス様に全くつながった信仰生活を送り、心が変えられ、義を喜び行う信仰生活を目指すのです。アブラハムが歩んだように、イエス様が明確に示して下さった、信仰によって神様に仕える道です。そして、神様の栄光の国に近づくのです。
2017年5月28日説教要旨 説教題: 参加すべき競走
ヘブル人への手紙/ 12章 1〜3節「こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。 信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。 あなたがたは、弱り果てて意気そそうしないために、罪人らのこのような反抗を耐え忍んだかたのことを、思いみるべきである。」

 イエス様を信じて、私たちは新しい恵みの道を歩き始めました。その道を参加すべき競走と聖書は語ります。その道は、「耐え忍んで走りぬこう」とあるように、一生懸命に駆けることだと言います。

 人生は長くありません。私たちの信仰生活はあっという間に今に至りました。限られた地上の信仰生活を「耐え忍んで走りぬく」ことが信仰生活なのです。まどろみ、楽天的に、のんびりするようであっては、神様の御心に反するのです。

 私たちの前には「参加すべき競走が」がある。イエス様を信じてから、私たちの前には新しい道が備えられています。それはイエス様とその教えに従順に生きる道で、
イエス様が模範を示された道と紹介します。
「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。」
イエス様は自分の前に置かれている喜びをいつも心に持ち、父の御心に従順に、忍び通し、栄光の座につかれたのです。そして、イエス様と同じように、私たちもこの地上で、忍耐の限りを尽くして、主に従順であって、神の栄光に入るように勧めます。

 信仰生活は、イエス様に対する全き信頼と従順が試される生活です。前に置かれている喜びを信じて、信仰によって走るのです。この道を外れることは大きな災いがあると警告もあります。私たちはイエス様の十字架の血により、良心をきよめられ、その道を示されたのですから、この道をまっすぐにして、忠実に進もうではありませんか。イエス様が歩まれた道を喜んで進み、人知を越した恵みにあずかりましょう。
2017年5月21日説教要旨  説教題: 信仰と実践 
へブル10:38,39「「わが義人は、信仰によって生きる。もし信仰を捨てるなら、/わたしのたましいはこれを喜ばない」。  しかしわたしたちは、信仰を捨てて滅びる者ではなく、信仰に立って、いのちを得る者である。」

 へブル11章は、信仰によって生きた義人について書かれています。その信仰が義と認められるから義人と認められるのです。
ローマ人への手紙/ 04章 03節「なぜなら、聖書はなんと言っているか、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」とある。」
それは、神様の全能を信じ、全き信頼を持つことでありました。

ローマ人への手紙/ 04章 23〜25節「しかし「義と認められた」と書いてあるのは、アブラハムのためだけではなく、わたしたちのためでもあって、わたしたちの主イエスを死人の中からよみがえらせたかたを信じるわたしたちも、義と認められるのである。  主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである。」

 私たちが義とされる信仰とは、神様に対する全き信頼、全能者である信頼であることがわかります。「わたしたちの主イエスを死人の中からよみがえらせたかたを信じるわたしたちも、義と認められる」とあります。
アブラハムや旧約の信仰者たちは、神様に対する深い信頼があり、義と認められました。

 私たちはイエス様を信じ、主と告白し、復活の神様を信じる時、救われるとあります。私たちはラザロをよみがえらせたイエス様、全能のイエス様を信じます。この信仰がある時、キリストの十字架の贖いによって救われ、そして、この信仰によって生活をするとき、世に勝利する信仰生活に進むことが出来るのです。

 信仰とは、全き信頼をもって従うことです。信仰とは、神様のお約束を信じることです。
信仰とは、神様の導きに従い、正しい判断をすることです。
信仰とは、信仰のゆえに、迫害を恐れず、忍耐し続けることだと教えます。
ヨハネの第一の手紙5章 4〜5節「なぜなら、すべて神から生れた者は、世に勝つからである。そして、わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。 世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか。」

 この信仰は、私たちの服従によって証されるのです。
2017年4月23日説教要旨  説教題: 神様に近づこう
へブル10:19〜22 「兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、 彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道をとおって、はいって行くことができるのであり、 さらに、神の家を治める大いなる祭司があるのだから、 心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。」

 イエス様は救いの門として、私たちの罪の身代わりに十字架で死なれ、復活され、救いの道を備えてくださいました。

1)その結果、聖所に入ることができる。
 罪人には固く閉ざされ、制限されていた神様のみ前に、自由に大胆に進み入ることができるようになったと言います。それは、イエス様の犠牲とされたお身体と血によります。それは罪が許され、神の子とされた特権を教えてくれます。

2)みまえに近づこう。
 「さらに」と続け、「みまえに近づこう」と続くことは、信仰生活の目標を定めています。私たちは信仰によって救われた者として、さらに神様のみまえに進み出ることが勧められているのです。これこそ、実をならす信仰生活です。2ペテロ1:5〜8
み前に出る為、次のことを言います。

 @心はすすがれて良心のとがめを去り
新改訳聖書では、「心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ」と翻訳されています。信仰による良心がきよめられる道なのです。
み言葉の教えに忠実な、良心的信仰生活です。そのきよめのしるしがバプテスマです。

 Aまごころからの信仰の確信に満たされ
その上に、信仰の確信に満たされた信仰生活を目指します。神様はこういう真心からの信仰生活をもって、ご自身を礼拝することを喜ばれるのです。ローマ12:1
私たちの教会は、良心的、確信に満ちた信仰生活を目指します。その為、教会員みんなが熱心にみ言葉を学び、熱心に忠実に従うことを求めるのです。そういう信仰生活こそが、至聖所におられる神様のみまえに出る信仰生活で、霊の実をならす信仰者なのです。
2017年4月9日説教要旨  説教題: キリストの血の契約
へブル9章14節 「永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。

 来週は、イエス様の復活をお祝いする日ですが、ちょうど、本日はイエス様の死についての聖句です。血は命を現し、キリストの流された血は死を意味します。また、この血は贖いの為に儀式で用いられ、聖なるものとされました。

 レビ17:11「肉の命は血にあるからである。あなたがたの魂のために祭壇の上で、あがないをするため、わたしはこれをあなたがたに与えた。血は命であるゆえに、あがなうことができるからである。」
「あがなう」とは、死するものを死から命に買い戻すことです。

 旧約では儀式として、動物の犠牲の血が用いられましたが、幕屋の構造においても、儀式の作法においても、完全に全うできないものでした。
その原因は、良心を完全にすることができないと教えます。
へブル9章9節「この幕屋というのは今の時代に対する比喩である。すなわち、供え物やいけにえはささげられるが、儀式にたずさわる者の良心を全うすることはできない。」

 神様の願いは、罪人の心が変えられ、清い心となることです。愛の心で、真実に神様を喜び、真実に従い、真実に礼拝する心です。(マタイ5:48)
詩篇51:16,17「あなたはいけにえを好まれません・・・ 神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心を/かろしめられません。」
ヨハネによる福音書/ 04章 23〜24節「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。」

 このためにイエス様は十字架で血を流され、死なれたのです。
それは罪人の身代わりの死によって、罪をゆるすだけではなく、罪びとの良心を清めるためでした。それによって罪ゆるされた罪人が、死んだわざをやめ、生ける神さまに仕える者となるためです。私たちはキリストによって清められた良心を大切にした信仰生活を送らなければなりません。その為、良心的に生きる信仰生活を求めましょう。また、正しい聖書の知識を身に着けて、良心の働きにより正しい行いや判断力を身につけましょう。
2017年3月5日 説教要旨 説教題:神の安息
ヘブル人への手紙4章1〜2節 「それだから、神の安息にはいるべき約束が、まだ存続しているにかかわらず、万一にも、はいりそこなう者が、あなたがたの中から出ることがないように、注意しようではないか。  というのは、彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである。しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。」

 私たちの以前の思いは、この世には真実に自分の心を満たすものはないということでした。よく、恋愛は結婚までの真実な思いが一番良くて、結婚は墓場だという人がいます。入試合格を聞いた時が一番うれしくて、入るとまた大変です。失敗はさらに苦しくて、人生、心の落ち着けるところがないと年老いて言うのです。

 しかし、聖書は神様が万物を創造するとともに、人のためのご自身の安息をも用意されていると言います。 へブル4:3「 ところが、わたしたち信じている者は、安息にはいることができる。・・・しかも、みわざは世の初めに、でき上がっていた。」

1)信仰によって神様の安息に入ることができる。
イエス様がこの世に来てくださり、人の罪の為に、身代わりに死んでくださることにより、イエス様を信じることによって、人は救われ、神様の安息に入ることができる道を開いてくださいました。マタイによる福音書/ 11章 28〜29節「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。」

2)不従順による失敗
著者は「万一にも、はいりそこなう者が、あなたがたの中から出ることがないように、注意しようではないか」と警告します。イスラエルがエジプトから恵みによって出国できたのに、不従順によりカナンの地に入りそこなった例をあげます。その信仰が本物かどうか、あなたの信仰生活で試されるのです。

3)信仰生活の努力
11節 「したがって、わたしたちは、この安息にはいるように努力しようではないか。」
信仰生活、主にしっかりつながるために、試練に忍耐するために、正しい歩みをするために不断の努力が必要なのです。礼拝を守るため、聖書を読み祈るため、罪に打ち勝つため、いつもイエス様を見上げて歩む努力が必要なのです。既に完成されている神の安息を目当てに、イエス様の安息の中を忠実に歩みましょう。
2017年2月26日 説教要旨    説教題:神の家にあずかる
へブル3章6節 「キリストは御子として、神の家を治めるのに忠実であられたのである。もしわたしたちが、望みの確信と誇とを最後までしっかりと持ち続けるなら、わたしたちは神の家なのである。」

 神の家とは、アダム以来、すべて信仰者の集まりを指します。神の家族のことです。
そこには、アダムやエノク、ノアやアブラハム、モーセやダビデやイザヤなど・・・また、ペテロやヨハネやパウロがいます。つまり、人類の歴史のすべての真実な信仰者、救われた人たちの集まりです。
この家族は、主にあって一つであり、清められ者として、聖にして愛にあふれた交わりがあるのです。神様と人との親しい交わりがあるところです。

 この愛の交わりの為、キリストの罪の呪われた者として十字架に死んでくださいました。そして、蘇られ天に昇られ、栄光を受けられ父の右の座につかれました。
私たちはこの方を、心から信じて救われるのです。

 ところが、せっかく恵みによってイエス様を信じても、不信仰に落ちていき、救いから墜ちる人が多くいました。現在でも、そういう人たちは多いのです。そこで、へブル人の手紙の著者は、イスラエルの例を挙げて、不信仰にならないように警告しています。
その中心は、決してイエス様を忘れないように、軽んじないように、信仰から外れないように勧めるのです。

 イエス様はすべての創造者であり、神の家の創始者であり、統治者なのです。私たちはキリストにある望み、確信、誉を最後までしっかりと持ち続けなければなりません。キリストにある望み、キリストにある確信、キリストにある誉を心に明確に持つ努力をしましょう。その為、
7節 「きょう、あなたがたがみ声を聞いたなら・・心を、かたくなにしてはいけない」
13節 「「きょう」といううちに、日々、互に励まし合いなさい。」

 毎日、新しい心で主に従いましょう。イエス様に、イエス様の御心に従いましょう。今日、何か自分の間違いに気づいたなら、今から心を変えて従う方向へ向かいましょう。

 私たちがいつも主に従順な信仰生活を送ることは、神の家の住人であるだけでなく、周りの人たちに素晴らしいイエス様の義、愛、聖さをお伝えすることなのです。イエス様の証人として、イエス様からの恵みの望み、確信、誇りを持ち続けましょう。
2017年2月12日 説教要旨: 尊い救い
ヘブル人への手紙2章1節 「こういうわけだから、わたしたちは聞かされていることを、いっそう強く心に留めねばならない。そうでないと、おし流されてしまう。」
 「聞かされていること」とは、3節にあるイエス様の尊い救いです。そのイエス様は、一章で、神様であられ、人として罪のきよめをなし終えて、永遠の王となられたと宣言され、御使いと混同してはいけないと警告されています。
このイエス様によった与えられた救いに関することを、さらに明確に心に留めていなければならないことを命じられているのです。

1)私たちは救われたから尊いのです。
私たちは罪から救われ、永遠の命を受けたことを明確に自覚していなければなりません。救いの尊さは、自分が救われているからなのです。

2)大いなる神様の犠牲によって救われたから尊いのです。
1章で、神様であられるイエス様が人として犠牲を受けられ、罪の清めをなしてくださり、今、私たちの王として座につかれている。私たちはこの救い主の犠牲によっているから尊いのです。ピリピ2:6〜8

3)神様の完全な愛によって救われたから尊いのです。ヨハネ3:16、1ヨハネ3:16
この救いは、父と御子の愛によって与えられたものです。
私たちはこの愛によって包まれているから、尊いのです。
救いは、神様の愛の現れなのです。

 ですから、決して私たちはこのイエス様の福音を強く心に留めて信仰生活を送らなければなりません。
イエス様の福音は決して軽んじられるものではなく、最も重要で大事にされなければならないのです。そうでないと、押し流されてしまうと警告します。
この福音は神様の愛の思いが満ち満ちた救いのご計画なので、軽んじるなら、ゆるされず、滅びる警告として語っているのです。次の三つのことを忘れないようにしましょう。
@私たちは偉大な方の犠牲によって救われた。
A私たちは偉大な方の愛によって救われた。
B私たちは偉大な方の報いを受ける。
この尊い救いに関することを、信仰によって今よりいっそう強く心に留めていきましょう。
2017年2月5日 説教要旨: キリストの王座
へブル1章8〜9節「御子については、/「神よ、あなたの御座は、世々限りなく続き、/あなたの支配のつえは、公平のつえである。  あなたは義を愛し、不法を憎まれた。それゆえに、神、あなたの神は、喜びのあぶらを、/あなたの友に注ぐよりも多く、あなたに注がれた」/と言い 」

 救いとは悔い改めと信仰によりますが、信仰はイエス・キリスト様を正しく理解し、従うかが重要なことです。イエス様を軽んじる信仰が当時も今もあります。ユダヤ人たちはイエス様を真の神様と信じることに明確な決断が必要でした。現代でも、エホバの証人はイエス様を神と見ず、御使いと軽んじて誤った不信仰の道にあります。

 へブル人の手紙は、そういうユダヤ人クリスチャンに向けて書かれ、まずイエス様に関して詳しく旧約聖書から書き始めています。
神なる御子イエス・キリスト様は天使のような被造物ではなく、人となられ、罪のきよめをなし、神の座につかれた王なる神であると説くのです。

 へブル1:3「御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる。そして罪のきよめのわざをなし終えてから、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれたのである。

1)イエス様は神様です。  御子は神様の栄光と、その本質の真の姿を現される方であり、この世界を創造され、しかも秩序を保たれる神様であると言います。へブル1:10〜12は詩編102篇からですが、神様に対する呼びかけを、ここでは御子に向けているのです。十字架の人の罪の贖いは、神様が人となってくださって成し遂げられた贖いなのです。

2)イエス様は永遠の王となられました。
へブルの著者は、イエス様が世々限りなく続く王国の王として、今、天の王座についておられることを明確に信じるように語ります。旧約聖書を引き、その預言がイエス様によって成就したとユダヤ人に語るのです。旧約の預言の成就として、イエス様は永遠の王となられました。御使いはそのような立場にないと明確に語ります

3)その大国の素晴らしさを8,9節で語ります。
イエス様を王とする神の王国は、そのご性質により公平を愛され、義を愛し、不法を憎むと言います。それは極上の神様の喜びとなると言います。私たちにも大きな喜びです。
私たちもこの方をはっきりと主と告白し、王なるイエス様が喜ばれる歩みを目指すのです。
2017年1月29日   説教要旨:神の家族 ピレモンへの手紙から

エペソ2:17〜19「それから彼は、こられた上で、遠く離れているあなたがたに平和を宣べ伝え、また近くにいる者たちにも平和を宣べ伝えられたのである。 というのは、彼によって、わたしたち両方の者が一つの御霊の中にあって、父のみもとに近づくことができるからである。そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。」

 ピレモンへの手紙は、福音を信じる信仰者の心と行動に大きな変化をもたらすことを証する書です。信仰者にとって、心と生活の変化こそが最も明確な救いの証、救い主のお力の証であることを知ります。
ピレモンはコロサイに住む奴隷を所有する裕福な人でした。彼はパウロの伝道によりイエス様を信じ、彼の家族も熱心なクリスチャンになりました。息子は、牧会者になったようです。
その家に、オネシモという奴隷がおりましたが、彼は主人の金を盗み、逃げ出したのです。しかし、彼もパウロたちに会い、悔い改めてイエス様を信じ、熱心なクリスチャンになったのです。時間がたち、オネシモもパウロもこのままではいけないと示され、オネシモをピレモンのところに帰すことを決めます。その為に書いたのが、このピレモンへの個人的手紙です。

 主人と奴隷の関係は、当時非常に重要で明確で厳格な身分制度でした。しかもオネシモは主人の持ち物を盗んで逃亡していたので、死罪に当たる犯罪者です。
そこで、パウロはピレモンに彼を寛大な心で受け入れてほしいと手紙を書くのです。更に
ピレモンへの手紙/16〜17節「しかも、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上のもの、愛する兄弟としてである。とりわけ、わたしにとってそうであるが、ましてあなたにとっては、肉においても、主にあっても、それ以上であろう。 そこで、もしわたしをあなたの信仰の友と思ってくれるなら、わたし同様に彼を受けいれてほしい。」

 パウロはピレモンが受け入れてくれることを確信しています。
イエス様を信じる信仰は、私たちを救い、神の豊かな恵みの中に入れてくださるだけでなく、私たちに新しい心を与え、新しい生き方、神様に喜ばれる生き方に進むことができるように変えてくれるのです。何よりも、主と教会の交わりを第一とし、神の家族として、愛の交わりに進むことをイエス様は願われています。互いに愛し合うことを求めましょう。
2017年1月15日 説教要旨 主の教えを飾る信仰生活

テトス2章11〜14節 「すべての人を救う神の恵みが現れた。そして、わたしたちを導き、不信心とこの世の情欲とを捨てて、慎み深く、正しく、信心深くこの世で生活し、祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神、わたしたちの救主キリスト・イエスの栄光の出現を待ち望むようにと、教えている。このキリストが、わたしたちのためにご自身をささげられたのは、わたしたちをすべての不法からあがない出して、良いわざに熱心な選びの民を、ご自身のものとして聖別するためにほかならない。」

 パウロはテトスにクレテの教会で健全な教えにかなうことを語りなさいと命じ、教会のあらゆる立場の人たちに語るべきことを教えました。クレテの教会は口では信仰を言うけれども、行いにおいては、健全でない信仰生活を送っていたようです。反抗心の強い、従順でない人たちが多かったようです。

 しかし、彼らに対してもパウロは決して甘い言葉をかけません。正しい教理に沿った、信仰的生活を送るように命じるのです。彼らの弁明、反抗が目に見えるようですが、救い主イエス様に従う敬虔な生活を送るように命じます。
マルコによる福音書/ 10章 27節「イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」。」とのお言葉を思い出します。
そのことによって、「神の教えを飾る」ことになると言いました。 テモテ2:10「そうすれば、彼らは万事につけ、わたしたちの救主なる神の教を飾ることになろう。」

 信仰者が人の思いではとてもできないと言えることを、実践する時にこそ、神様の教えの価値、力、救いの素晴らしさを世に証出来るのです。
パウロはその動機を、主イエス様に向けます。テトス2:11〜14
@人を救う神の恵みが現れ、わたしたちを導いておられる。
A私たちはその生活の邪魔をする不信心、情欲を捨てなければならない。
B主が教える健全な教えにかなう生活を送らなければならない。
C主の栄光に富んだ出現を待ち望み、それを喜びとして、主の導きに従う。
 この歩みは、まったく新しい価値観による生き方です。しかし、主の恵み、主の救いを信じる者は、その歩みの価値を信じ、主の導きの生活を続けます。心には主にお会いする喜びを持ち、霊的喜びを力として信仰者の証の道を進ます。そういう教えの実践の生活こそ、主の教えを飾ることであり、神様の栄光を現す信仰生活です。
2017年1月8日 説教題:教会を清める(悔い改め)
テトスへの手紙/1章 1〜3節「神の僕、イエス・キリストの使徒パウロから――わたしが使徒とされたのは、神に選ばれた者たちの信仰を強め、また、信心にかなう真理の知識を彼らに得させるためであり、偽りのない神が永遠の昔に約束された永遠のいのちの望みに基くのである。神は、定められた時に及んで、御言を宣教によって明らかにされたが、わたしは、わたしたちの救主なる神の任命によって、この宣教をゆだねられたのである――
 福音宣教の中に、最も大事なこととして教会を整えることがあります。パウロはここで「神に選ばれた者たちの信仰を強め」「信心にかなう真理の知識を得させる」ことを上げました。その為に、テトスをクレテにのこし、整理し、長老を建てなさいと命じました。長老、監督、牧師はおなじ立場と考えます。その資質から書き始めます。

1)家庭を良く治め、信仰者として非難されない人 6節
2)世の人から信仰者として信頼される人 7〜8節
3)主のお言葉に忠実な人 9節 と書き送りました。
 その理由を、テトス1:9「それは、彼が健全な教によって人をさとし、また、反対者の誤りを指摘することができるためである。

1)教会は罪ゆるされた罪人の集まり
教会は罪をゆるされるために、救い主イエス・キリスト様を信じた者の集まりです。罪人がイエス様に従い、少しずつ成長するところなのです。罪を自覚する人の集まりです。
2)悔い改めを命じるところ
 教会は常に、古い罪から離れ、新しくなることを命じなければなりません。 テトス1:13「この非難はあたっている。だから、彼らをきびしく責めて、その信仰を健全なものにし、」 教会に集う者は、不信仰であってはならず、御言に不従順で、良いわざを行わないものであってはならないのです。パウロはそういう人は失格者と呼びました。テトス1:16
その理由を、悔い改めができておらず、信仰が健全ではないからだと言うのです。だから、はっきりと古い罪から離れるよう、悔い改めを求めるために、「きびしく責め」とテトスに命じました。それは教会を清めて、素晴らしい福音、素晴らしい信仰を教会が持ち

 行いにおいても証する教会となるためなのです。罪人がはっきりと悔い改めるために御言によって責めよと命じます。私たちは尊い恵みを受け、さらに証するため、御言に足らない者であるなら、熱心に喜んで悔い改める者でなければなりません。その時こそ、祝福があります。
2017年1月1日 説教題: 信仰は素晴らしい 御言
テモテへの第二の手紙/ 04章 01〜2節「神のみまえと、生きている者と死んだ者とをさばくべきキリスト・イエスのみまえで、キリストの出現とその御国とを思い、おごそかに命じる。 御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。」

 2017年、平成29年、新しい年を迎えることを感謝します。新年、あけましておめでとうございます。
今年の教会の説教テーマは、「信仰はすばらしい」とします。信仰の意味を深く理解し、信仰の広がりを知り、信仰を喜び、世の人に伝えることです。
本日は、御言への信仰から、これを伝えることを学びます。パウロはテモテに、「御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。」と命じました。御言への明確な信仰がある時、私たちはそれを伝えることを励まなければなりません。

1)まだ救いを知らない人へ
今年の暗証聖句も世界宣教のためのものです。私たちは様々な方法を用いて、まだイエス様の救いを知らない方に、福音を伝える努力をしなければなりません。

2)教会の中へ
パウロがテモテにここで命じているのは、教会の中に御言を伝えることです。これは何よりも先に兄弟姉妹が御言によって清められ、福音にふさわしい生活を送り、神様の栄光をほめたたえる者となるためです。また、この世界への福音宣教基地である教会が違った教えに染まらないように、御言の真理を伝える使命があります。。

3)父と御子への真実な信仰によって
宣教の心は、真実な信仰から出るように勧めました。
神のみまえと、生きている者と死んだ者とをさばくべきキリスト・イエスのみまえで、キリストの出現とその御国とを思い、おごそかに命じる。
これは単に怖れをもってしなさいと言う命令ではなく、信仰をもってしなさいと言う命令です。神様の偉大さ、イエス様の権威、厳かで栄光に満ちた神の国に対する信仰をもって、御言を伝えなさいと言う命令です。信仰は多くの内容を含みます。神様のお力、愛、助けの確信、また、御言への信仰、キリストの再臨、神の国への信仰、信仰が強くなりますように。