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2018年12月9日説教要旨 主の恵みにより罪に立ち向かう
ローマ人への手紙/ 05章 15節「しかし、恵みの賜物は罪過の場合とは異なっている。すなわち、もしひとりの罪過のために多くの人が死んだとすれば、まして、神の恵みと、ひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、さらに豊かに多くの人々に満ちあふれたはずではないか。

 イエス様がこの世に来てくださり、私達に思いもよらない恵みの賜物を与えてくださいました。それは身代わりによる、私たちの罪の赦しであるだけでなく、更に豊かな恵みなのです。それをパウロはローマ5章12節から8章に向けて語ります。それが私たちの内にある罪の解決です。

 私たちは二つのことに苦しい悩みを抱えています。
罪と死です。罪の心を持ち、罪を犯し、死を待つ悲しみの人生です。
この世界にイエス様は来てくださり、義人として身代わりに十字架にかかられ、罪の犠牲となって下さいました。そして、死から蘇られ、神様の全能を証されました。
私たちはこのイエス様を信じて、罪から救われ、永遠の命を受けたのです。

 ところが、この地上において、信仰者は自分の内にある罪に今なお苦しんでいます。罪の心と罪を犯す、敗者のような信仰者の姿です。
パウロ自身、ローマ7:24「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう」と吐露しています。これで終わりなのでしょうか?

 しかし、ローマ7:4「これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである」と伝え、勝利の道を示しているのです。
上記聖句においても、「まして、神の恵みと、ひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、さらに豊かに多くの人々に満ちあふれたはずではないか。」とあるのは、主の恵みははるかに罪の力よりも強く大きく、信仰者の内に満ち溢れるはずであると言うのです。

 このことを6章以降にパウロは語ります。
1)この恵みのお力を信じましょう。
2)信仰によって求めましょう。
ヨハネの第一の手紙/ 05章 04節「なぜなら、すべて神から生れた者は、世に勝つからである。そして、わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。」
信仰の道は信仰に始まり、信仰に至らせ、勝利を味わう道なのです。
2018年11月18日説教要旨 信仰の義
ローマ人への手紙3章 21〜24節 「しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。 それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。
すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、 彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。


 パウロは1章、福音と信仰を語りましたが、18節から3章21節まで信仰という言葉を使いません。そして、22節、最も重要な事柄として「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」と宣言するのです。

 それまで神様の怒りが不義に対してあることを伝え、すべての人はその不義と神様の怒りの下にありと警告します。誰もその怒りから逃れられないのです。
しかし、「しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。」と喜びの言葉を伝えます。

 神様の怒りから救われ、義とされ、神様の恵みにあずかれる福音が、信仰による神の義としてあらわされたのです。それはイエス・キリストを信じる信仰の義です。
イエス様はこの世界に神様の義を証するため、さらに罪人に神様の義を与えるために来られました。神様ご自身が罪を負い、罪を罰し、人を救うためです。
このような救いは、神様とはいかにうるわしく、その方の下に行けることはすべての喜びにまさると思わさせてくれます。人は誰でも、イエス様を信じる時に救われるのです。

 神様は人が罪を悔い改め、イエス様の下に行き救われることを願われています。更に、新しい心をもって、信仰に歩み、神様の義を地上で証する者になってほしいと願われているのです。ローマ3章31節「すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである。」

 そのためには、私たち自身の心が信仰により新しくされなければなりません。
自分の誇りを捨て、キリストを見上げ、神の義を追い求める態度です。そして、そこに祝福を見だし、喜ぶ信仰生活を願われています。 信仰を求め、真の義を求めましょう。
マタイによる福音書/ 05章 06節「義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。」
2018年11月11日説教要旨 罪の自覚と悔い改め
ローマ3章19〜20節「さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法のもとにある者たちに対して語られている。それは、すべての口がふさがれ、全世界が神のさばきに服するためである。 なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。」

 私たちは、神様は真実な方と心から言える者になれればと願います。真実とは、「わが岩」と、どんな時にも信頼できる方、正しい方とすることです。
今、人は不真実な中にあります。正しくなく、自己中心で、そのゆえの苦しみの中に生きています。そのようなものであっても、神様は真実であると言える信仰が与えられることを願うのです。

 神様は罪人の私たちに、良心を与え、イスラエルには律法を与えられました。それは人が罪を自覚するためです。「律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。」とあります。

 律法は神様から与えられるものであり、イエス様もパウロも、律法が良いものであることを証しています。(マタイ5章17〜18節、1テモテ1章8節)

 パウロは更に、9節から18節に、人は皆、恐ろしく汚れた罪の性質を持っていると告げています。 エレミヤ書17章 09節「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。」に符合します。

 神様は私たちが罪びとであること、全くの罪人であることを認めてほしいのです。
ルカ15章の放蕩息子が、自部の思いのままに生き、その果てに絶望し、自分の過ちに気づいたように、律法と良心によって認めてほしいのです。彼は自分の罪に気付き、初めて父に対して愚かな行為をし、罪を犯しことを認め、初めて悔い改めて父の下に帰る決心が出来たのです。その結果、父の下に帰り、赦しを願い、そして、父の愛に気づかされ、彼は父の恵みを味わうことが出来ました。父がどれほど信頼できる方が分かったのです。

 パウロは、私達に神様の怒りを教えます。罪に対する怒りの前に私たちがいることを教えるのです。神様は、私たちを愛し、救いたいために、律法を与えて下さり、罪に気付かせ、悔い改めてご自身の下に帰るように言われています。そして、帰ったなら、すべての罪をゆるすと御子イエス様をこの世に送って下さり、十字架で罪の贖いを全うしてくださいました。今、私たちは罪を認め、悔い改めてイエス様を信じるなら救われ、従うなら、真実な神様の豊かな恵みにあずかれます。救われた罪人として、主に従うことを求めましょう
2018年10月28日説教要旨 神の怒りへの備え
ローマ人への手紙/ 01章 18〜19節 「神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される。なぜなら、神について知りうる事がらは、彼らには明らかであり、神がそれを彼らに明らかにされたのである。」

 神様は怒られる方です。愛の神様ですが、聖なる方として不義に怒りを持たれます。人は神様が愛される対象なのですが、人の不義は嫌われています。
この不義への怒りにかたよりはありません。
ローマ人への手紙2章 11節「なぜなら、神には、かたより見ることがないからである」
不義に対する怒りは誰に対しても同じく向かうのです。

 人が不義に陥るのには順序があるようです。不信心に陥ることにより、人は不義に落ちていきます。アダムとエバが、主の御言葉に対する疑いから入って罪を犯したようにです。不信心が人に入るなら、人は御言葉を聞かなくなり、不正な道を歩むようになるのです。そして、この不信人と不義に対して神様の怒りは臨むのです。
小さな怒りは、地上の災いとして現れ、信仰者には訓練として示されます。

 しかし、愛と義と共に、その大きな怒りが現われたのが、イエス・キリスト様の十字架の死です。「あがないの供え物」とは、神の怒りへのなだめの供え物です。
ローマ人への手紙3章 25〜26節「神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、 それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。 」

 神様の不義への怒りと人への愛は、ご自身の御子を身代わりにされたのです。ご自分がご自分を打たれることによって、ご自分の聖と愛、義を示してくださいました。
この御子への信仰を聖書は教えて、神様の怒りから救われるように教えていますが、もしこの御声に聞かないなら、主の恐ろしい怒りが人の上に臨むのです。
ヨハネの黙示録/ 14章 10節「神の怒りの杯に混ぜものなしに盛られた、神の激しい怒りのぶどう酒を飲み、聖なる御使たちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。」

 私達が不義から離れ、救われるために、私たちは信仰の道を進まなければなりません。
信仰は、私たちを神様の怒りから救い、神様の義に向かわせます。
2018年10月21日説教要旨  説教題:福音を伝える
ローマ1章15〜17節 「そこで、わたしとしての切なる願いは、ローマにいるあなたがたにも、福音を宣べ伝えることなのである。 わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。 神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである。」

 福音とは、クリスマスの夜、羊飼いたちに天使が語った「大きな喜び」の知らせです。それはイエス様に関することでした。(ルカ2:10,11)
パウロは福音がローマに伝えられていることを喜び、自分自身も伝えることを熱望して手紙を書いています。この福音は使徒たちばかりでなく、ローマの迫害で逃げて行った信仰者によって伝えられていったのです。

1)私たち信仰者すべては、イエス様のご命令である福音宣教の使命があります。
イエス様は福音を完成させ、使徒を選び、ご自身で伝えることを始められました。そして、イエス様を信じる私たちは、その福音を伝える使命を受け継いでいるのです。

2)福音は救いを得させる神様の力
福音はすべての人を救い、幸福にする神様のお力だとパウロは言います。唯一で、この世のもっとも尊い知らせなのです。恥ずかしがらず福音を誇り、伝えましょう。

3)福音はイエス様の教えを含み、信じる者に霊の賜物を与えます。
聖書を熱心に学ぶことは、福音の恵みにあずかることであり、霊的知恵、知識などを受けます。それは私たち自身が信仰に歩む力を受けることです。イエス様の真理を悟り、正しい道を歩み、正しい判断をする励ましの力となります。

4)福音を語る側も受ける側も共に励ましとなる。
ローマ1章12節「それは、あなたがたの中にいて、あなたがたとわたしとのお互の信仰によって、共に励まし合うためにほかならない。」
福音は人を信仰へと導きます。その時、語る側も受ける側も、恵みを受け、共に励まし合うことになると言います。(1コリント9:23)
福音を伝えましょう。まず、家族、友人、仕事の同僚へ。多くの人は無関心ですが、まず信頼関係のある人たちに福音を伝えましょう。イエス様のもとに救いがあること、喜びがあること、神様の恵みにあずかることを伝えましょう。
2018年9月30日説教要旨 神の国への備え
黙示録22章10〜14節 「またわたしに言った、「この書の預言の言葉を封じてはならない。時が近づいているからである。不義な者はさらに不義を行い、汚れた者はさらに汚れたことを行い、義なる者はさらに義を行い、聖なる者はさらに聖なることを行うままにさせよ」。「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。 わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである。いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである。 」

1)神の国の栄光
 私たちがイエス様を信じる時、次の聖句があります。
ヨハネ1章 12節「しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。」 
その受けつぐものが、黙示録21,22章に出てきます。その環境は一言で次のように語られています。
黙示録22章3節「のろわるべきものは、もはや何ひとつない」愛と聖さ、神の義に満たされた、神様の嫌われるものが何一つない完全な世界なのです。

2)時が近づいている
 2000年以上前から、時が近づいていると語られ、信仰者は熱心に主に従ってきました。
@私たちの地上の時の終わりが日々近づいています。
私たちにとると、私たちの時間は地上の今しかありません。その数十年の短い歩みの幕はすぐに閉じる時が来るのです。今の時を生かすことを心がけなければなりません。
A主が再び来られる時が近づいています。
今は、主が教えられたこの世の終わりの前兆が現われている時代だと思われます。主の御言葉を覚え、世に執着することを止め、主の再び来られることを心に意識しなければなりません。

3)備え
@信仰の備えをしましょう。信仰によって救われているので、信仰を明確にしましょう。
A主の御言葉に従いましょう。熱心に悔い改め、主に忍耐し忠実でありましょう。
A預言を広めましょう。 自分の内に、世の中へと福音を伝えましょう。
2018年9月23日説教要旨 すべてのものを新たにする
黙示録21章5節「すると、御座にいますかたが言われた、「見よ、わたしはすべてのものを新たにする」。また言われた、「書きしるせ。これらの言葉は、信ずべきであり、まことである」。」

 世界の大患難時代があり、後に千年のキリストの王国があり、そして神の国の完成に至ります。21章にはそれについて書かれています。
すべてを新たにするとの宣言は非常に衝撃的です。聖なる神様の完全な分離と新しい世界が起こるのです。
イエス様は新しくするときには、常に古いものは取り除かれます。ここでも20章に大きな白い御座のさばきにより、容赦なく悪の群れは火の池に投げ込まれ、いのちの書に名がないものは皆投げ込まれ、完全な終わりを迎えるとあります。
 しかし、救われている者は、新しくされた者であり、新しい世界に住むことが出来るのです。彼らが住むところは、聖なる都、新しいエルサレムと呼ばれています。

1)先の世界のものはありません。
 人々を悲しませた罪、死、それらの悪いものはいっさいありません。海もなくなります。

2)父と御子がその中心におられます。
 聖所であり、光としてその世を照らされています。人と共に神様がおられるのです。

3)神様の栄光に満ちています。
 都は透明な純金で作られていて、主の栄光が隅々にまで行き届いています。

4)聖都は聖徒たちの住居です。
 イエス様は地上におられたとき、すみかの準備をしに天に昇られると言われました。
ヨハネ14:2,3「あなたがたのために、場所を用意しに行く」

 私たちの備え
1)新しい世界には、新しくされた者だけがいるのです。イエス様は「誰でも新しく生まれなければ神の国を見ることはできない」と言われたとおりです。新しく生まれなければ、見ることも住むこともできません。
2)新しい義を求めて進むのです。
ヨハネの第一3章03節「彼についてこの望みをいだいている者は皆、彼がきよくあられるように、自らをきよくする。」 望みをもって、主の義を求め続けましょう。
2018年8月19日説教要旨  説教題:見えないものに目を注ぐ
コリント人への第二の手紙/ 04章 16〜18節「だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。」

 伝道者は「空の空、いっさいは空である」と告白しました。人生は空しいと言うのです。
私たちはそんなはずはないと生きるのですが、年をとるに従い、身体も気力も衰え、更に人生が思い通りでないこともあり、死を前に空しいと思うのです。
死の前に全ての人は落胆させられます。
上記の言葉は、信仰を持った者が、私たちは落胆しないと宣言し、それについて語っています。
その条件は、信仰があるからです。

 信仰とはイエス様を主と信じることであり、神様を信じることです。信仰は聖書の御言葉を通して、多くのことを教えてくれ、それを確信させてくれます。

1)内なる人は日ごとに新しくされていく
 人は、年をとると身も心も衰えます。誰もがそう思っています。しかし、信仰が心にあると、日ごとに新しくされていくとあります。その人は日に日に新しいことを学び、新しいことを信じ、神様により新しくされていくのです。心は衰えません。

2)永遠の重い栄光を受けると信じる
 地上の日々の生活は、苦しみの多い艱難と呼ばれるものかもしれません。しかし、信仰はその苦しみにも意味を与え、その忍耐は永遠の重い栄光に変わると希望を与え、確信させますます。なぜなら、神様が約束されているからです。

3)だから、わたしたちはいつもイエス様とその恵みの御言葉に目を向けるのです
 「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである
私たちは見えるものに目を注ぐなら、その結果はすぐに落胆につながることを知っています。しかし、主とその恵みに目を注ぎ続けるなら、私たちはいつも新しくされ、栄光を受ける喜びを持ち続けながら信仰生活を送れるのです。
2018年7月29日説教要旨 説教題:主の救いと厳粛な裁き
ヨハネ黙示録14章14〜16節 「また見ていると、見よ、白い雲があって、その雲の上に人の子のような者が座しており、頭には金の冠をいただき、手には鋭いかまを持っていた。 すると、もうひとりの御使が聖所から出てきて、雲の上に座している者にむかって大声で叫んだ、「かまを入れて刈り取りなさい。地の穀物は全く実り、刈り取るべき時がきた」。 雲の上に座している者は、そのかまを地に投げ入れた。すると、地のものが刈り取られた。」

 主の世の罪に対する怒りが現われると、自分の滅びを知ったサタンは怒り狂い、人々も彼らの暴虐に組みするようになります。しかし、この世にこの大患難が起こる時は、イエス様がこの世を裁かれる時なのです。
マタイによる福音書/ 13章 30節「収穫まで、両方とも育つままにしておけ。収穫の時になったら、刈る者に、まず毒麦を集めて束にして焼き、麦の方は集めて倉に入れてくれ、と言いつけよう」

 黙示録14章では、主に従う14万4千人のイスラエルと、殉教した異邦人クリスチャン、それから恐ろしい滅びに向かう人々が出てきます。前の二グループは主に喜ばれる収穫の麦に当たりますが、獣と拝む後の者たちは、毒麦と見なされて、裁きを受けます。
黙示録14章9〜11節 「ほかの第三の御使が彼らに続いてきて、大声で言った、「おおよそ、獣とその像とを拝み、額や手に刻印を受ける者は、神の怒りの杯に混ぜものなしに盛られた、神の激しい怒りのぶどう酒を飲み、聖なる御使たちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。その苦しみの煙は世々限りなく立ちのぼり、そして、獣とその像とを拝む者、また、だれでもその名の刻印を受けている者は、昼も夜も休みが得られない。 」

 彼らはこの地上で、神の激しい怒りのぶどう酒を飲まされ、永遠においては火と硫黄で苦しめられ、日夜休みが得られないと警告しています。

 私たちの救い主は、終わりの時には容赦のない裁き主となられます。なぜなら、主は罪を容認されない義なる方であられ、忍耐して救いを世に長く伝えられた結果なのです。
ヨハネによる福音書/ 03章 19節「そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである。

 私たちは、主イエス様の救いを確かめ、他の人にこの永遠の救いを伝えなければなりません。今の時に、主の救いを受け、滅びから救われ、世に主の愛を伝えなければなりません。
2018年6月10日説教要旨 説教題: 終わりのさばきの時に救われる人々
ヨハネ黙示録7章13〜17節 「長老たちのひとりが、わたしにむかって言った、「この白い衣を身にまとっている人々は、だれか。また、どこからきたのか」。 わたしは彼に答えた、「わたしの主よ、それはあなたがご存じです」。すると、彼はわたしに言った、「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。それだから彼らは、神の御座の前におり、昼も夜もその聖所で神に仕えているのである。御座にいますかたは、彼らの上に幕屋を張って共に住まわれるであろう。
彼らは、もはや飢えることがなく、かわくこともない。太陽も炎暑も、彼らを侵すことはない。御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう」。」


 地上に教会がなくなる時、地には神様のさばきが始まります。悪が自由にされ、悪に満ちた世界が始まり、同時に人による災い、また恐ろしい自然災害が罪の裁きとして始まるのです。私たちがこの大患難を生きる者ではないことは感謝です。その時、救われる人々について黙示録7章は語ります。

@14万4千人のイスラエルの民  今もイエス様を信じないユダヤ人たちですが、その時には多くのイスラエルが救われます。14万4千人と書かれています。神様は彼らに救いの印を押し、彼らは悔い改め、イエス様を信じて、彼に従う者となるのです。

A多くの異邦人  また、イスラエルの勇気ある信仰と行動を見る多くの異邦人が、命を懸けて信仰に導かれるのです。悪の支配する世界ですから、彼らは助けもなく容赦のない迫害を受け殉教します。
しかし救われ、天において子羊の前に立つのです。(上記聖句)
そして信仰を告白し、主に従順に歩んだ者、命の犠牲を払った者たちは、永遠の初めに定められている神の休息に入れられます。しかし、この時にも救われない人たちは、神様による永遠のさばき、滅びに入れられるのです。

 主のあわれみ深い救いへの招きは、終わりの終わりまで続けられていきます。教会はこの救いへの招きを伝えるために、イエス様のお働き為にこの世にあります。今の救いの恵みをよく覚え、熱心になって信仰者として歩みましょう。
2018年6月3日説教要旨 説教題: 主の報復の時が来る
ヨハネの黙示録06章 17節「御怒りの大いなる日が、すでにきたのだ。だれが、その前に立つことができようか」

 イエス様が手にもつ巻物の7つの封印が一つずつ解かれて、その封印毎に、出来事が書かれています。 
第一の封印がとかれると、白い馬に乗った者が、勝利を得るために出ていきます。
第二の封印がとかれると、赤い馬に乗った者がいて平和を奪い、人が殺し合うことをさせる権威が与えられ、大きな剣が受けます。
第三の封印がとかれると、黒い馬に乗った者が現れ、飢饉が世界に起こるようにします。第四の封印がとかれると、青白い馬に乗った者が現れ、死と呼ばれ、
彼らによって、地の四分の一のに対する権威と、争い、飢饉、死の権威が与えられるとあります。
これらの出来事は、マタイ24:3〜14節と符合し、世の終わりの前兆の出来事の様です。
第五の封印がとかれると、これらの時に、イエス様の名の為に迫害され、殉教した人々が魂として祭壇の下にいて、彼らに害を与えた人々を裁くように嘆願しています。
第六の封印がとかれると、未だかつてなかった天変地異が起こります。
マタイ24:29に出てきます。すべての人は神の恐ろしい裁きを嘆き、救われたいと願うのです。ダニエルは、これらの出来事は、7年の間に起こると預言します。(ダニエル9章)

 神様は預言に従い御子イエス様をとおして、救いをこの世に送ってくださいました。それがおよそ2000年前にイエス様が来られて、十字架で人の罪の身代わりに死なれ、復活された後、教会にすべての福音の使命を与えて下さっているこの時代です。今は恵みの時、救いの日と言われています。

 しかし、この恵みの時が終わり、裁きの日が来る預言が黙示録です。これらの一つ一つの封印がとかれ、地に恐ろしい災いが起こることを知る時、私たちは、今は恵みの時であることを心に深く示されます。主の報復の時、裁きの時があることは、今、私たちはイエス様の様に全く恵み、救いを伝える時であることを意識させられるのです。裁きの時ではなく、誰に対しても神の愛を証するのが私たちの使命であることを深く覚えましょう。
2018年5月27日説教要旨 説教題:主の日の封印が開かれる
ヨハネの黙示録5章 2〜7節「また 、ひとりの強い御使が、大声で、「その巻物を開き、封印をとくのにふさわしい者は、だれか」と呼ばわっているのを見た。 しかし、天にも地にも地の下にも、この巻物を開いて、それを見ることのできる者は、ひとりもいなかった。 巻物を開いてそれを見るのにふさわしい者が見当らないので、わたしは激しく泣いていた。  すると、長老のひとりがわたしに言った、「泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」。  わたしはまた、御座と四つの生き物との間、長老たちの間に、ほふられたとみえる小羊が立っているのを見た。それに七つの角と七つの目とがあった。これらの目は、全世界につかわされた、神の七つの霊である。  小羊は進み出て、御座にいますかたの右の手から、巻物を受けとった。」

 旧約聖書にも新約聖書にも「主の日」の預言があります。 イザヤ13章6節「あなたがたは泣き叫べ。主の日が近づき、滅びが全能者から来るからだ 」
ペテロの第二3章 10節「しかし、主の日は盗人のように襲って来る」
これは創造者・全能者にして主なる神様による、全地のさばきの日です。今、南海大地震の予報がされていますが、聖書には主の日の予告がされているのです。

 黙示録4・5章には、天国におけるこの始まりの時がヨハネに示されています。7つの封印がされた巻物があり、その封印がとかれ、開かれる時に、主の日が始まるのです。
その巻物を御座におられる方から、ほふられたと見られる小羊が受け取ります。彼だけが封印を解くことができる方として現れ、巻物を開くのです。
その時、御座におられる方と、特にこの小羊なるイエス様に最高の賛美がささげられているのが天国の様子です。

 天国では、このように神様に対して最高の愛がささげられます。それは愛の律法の全うされている光景でもあります。天国は、神様と被造物の愛の交わりの完成です。
マタイによる福音書/ 22章 37節「イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。」 同時に、第二の戒めも全うされるはずです。
マタイによる福音書/ 22章 39節「第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』  しかし、地は神様の愛は取り去られ、罪の満ちた世界となり、神様のさばきが全地に襲います。それが黙示録6章以降に示されています。
2018年5月20日説教要旨 ヨハネが初めて見た天の様子
黙示録4章1〜3節「その後、わたしが見ていると、見よ、開いた門が天にあった。そして、さきにラッパのような声でわたしに呼びかけるのを聞いた初めの声が、「ここに上ってきなさい。そうしたら、これから後に起るべきことを、見せてあげよう」と言った。
すると、たちまち、わたしは御霊に感じた。見よ、御座が天に設けられており、その御座にいますかたがあった。」
 

 黙示録4章に入り、内容ががらりと変わります。もう教会と言う単語は22章に一度しか出てきません。教会は天に引き上げられているので、出てきません。次のように語られています。 テサロニケ人への第一の手紙4章 17節「それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。」

 そして、ヨハネは天で、御座、七つの霊、24人の長老、4つの生き物を見るのです。御座には父と御子なる神様がおられ、その前に聖霊様がおられます。
24人の長老とは、主イエス様を信じる救われた信仰者、教会の代表であると思われます。4つの生き物は、神様の栄光のご性質を現していると思われ、24人の長老と4つの生き物は、それぞれに座につかれている神様をほめたたえるのです。

 長老たちは、頭の金の冠を御座の前に投げ出して、創造主をほめたたえます。彼らは主の血の贖いによって救われた者として、すべての栄光を主に捧げるのです。

 この天における信仰者の様子について、後に御座から次のように語られています。
ヨハネの黙示録/ 21章 3〜4節「 また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、 人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。
人間の罪が解決し、神と人が共に住むようになり、罪の悲しみはすべて過ぎ去ったと言われるのです。人間世界の罪を悔い改める者には、最高の主の祝福です。しかし、罪を愛する者は、ここに入ることが出来ないだけでなく、彼自身も喜べないでしょう。なぜなら、ここは神様が中心の国であるからです。
しかし、神様を喜ばず、罪にとどまる者は、この地に残り、主の恐ろしい裁きをうけることが6章以降に書かれているのです。私たちは新しくされ、天にて主をほめたたえるこの時を望みとする者です。
2018年3月25日説教要旨 説教題: 試練に立ち向かう
ヨハネの黙示録2章 8〜10節「スミルナにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『初めであり、終りである者、死んだことはあるが生き返った者が、次のように言われる。わたしは、あなたの苦難や、貧しさを知っている(しかし実際は、あなたは富んでいるのだ)。また、ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくてサタンの会堂に属する者たちにそしられていることも、わたしは知っている。 あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない。見よ、悪魔が、あなたがたのうちのある者をためすために、獄に入れようとしている。あなたがたは十日の間、苦難にあうであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう。」

 クリスチャンは喜びなさい、感謝しなさいと命じられていて、喜べる・感謝できることがいっぱい経験するのだろうと考えます。しかし、聖書に出て来る信仰者やこのスミルナの教会を見るなら、正反対に苦難が続けて来ることを知ります。
パウロは取り除けてほしいと願うとげを自分の身に持っていました。伝道の経験は、迫害と苦難の連続でした。しかし、聖書が教えるのは、その中にあっても喜びを持ち、感謝する信仰生活を送ることです。こういう生活こそ、信仰の証をしていることなのです。
次のことを覚えていましょう。

1)苦難、貧しさを拒んではならない。
苦しいこと貧しさの辛さは、信仰者の成長のためのものです。パウロは弱い時にこそ強いと言いました。2コリント12:10 苦難の時は信仰の成長の時です。

2)いつもイエス様が共におられ、見守ってくださっています。
神であられ、人となられ、死なれたけれども復活された全能の救い主が共にいて下さっています。いつも見守られているので、励まされていましょう。

3)恐れてはならない。
迫害や貧しさを恐れてはならないことを覚えましょう。恐れることは、主に背く罪です。それは信仰の後退を意味します。

4)イエス様に忠実であることをいつも心に持ちましょう。
イエス様が喜ばれるのは、この忠実です。信仰を持ち続け、主に信頼し、主の御言葉に従うことです。
苦難があっても、信仰に歩み続けるなら、イエス様の豊かな祝福を受けます。
2018年3月18日説教要旨  説教題: 初めの愛から離れたエペソ教会
 ヨハネの黙示録2章 1〜7節「エペソにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『右の手に七つの星を持つ者、七つの金の燭台の間を歩く者が、次のように言われる。 わたしは、あなたのわざと労苦と忍耐とを知っている。また、あなたが、悪い者たちをゆるしておくことができず、使徒と自称してはいるが、その実、使徒でない者たちをためしてみて、にせ者であると見抜いたことも、知っている。 あなたは忍耐をし続け、わたしの名のために忍びとおして、弱り果てることがなかった。 しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。 そこで、あなたはどこから落ちたかを思い起し、悔い改めて初めのわざを行いなさい。もし、そうしないで悔い改めなければ、わたしはあなたのところにきて、あなたの燭台をその場所から取りのけよう。」

 教会はイエス様が十字架の犠牲によって建て上げられた尊い救いの砦です。それはその後、使徒たちにより福音として伝えられ、信じる者による建て上げられ続けてきました。エペソの教会はパウロ、アポロ、テモテ、ヨハネなどの多くの伝道者により熱心に教えられ出来上がったものです。
最初、エペソの教会は教えを真心から守り、愛の実践に富んでいました。ところが、イエス様はそのエペソの教会に強く警告するのです。

 彼らは使徒たちから受け継いだ教えについては厳格に守り、異端を憎み、イエス様に褒められています。現代の教会には数少ないと言われています。
しかし、イエス様から「あなたは初めの愛から離れてしまった」と責められているのです。しかも、悔い改めて初めに戻らないならエペソの教会をなくすと言われたのです。初めの信仰、愛を思い出し、悔い改めなさい。初めの教会の業を行いなさいと命じます。
私たちは次のことを学びます。
1)イエス様のすべての教えを守らなければならない。
イエス様の道徳的教え、儀式的教え、内面の教えなどについて、一つとして軽んじてはいけないのです。そして、すべて愛の中に守らなければならないことを教えられます。
2)熱心に悔い改める態度が求められます。
私たちは十分でないことを分かっている者です。イエス様の教えに忠実であるために、常に悔い改めの心が必要です。主の御言をよく聞き、恵みを信じて歩まなければなりません。

 その義の道を歩み、その尊さを喜び、賛美しながら、主の福音をこの世の中に伝えていくのです。その時こそ、主の福音はさらに前進することでしょう。
2018年3月11日説教要旨  説教題:イエス・キリストの黙示
ヨハネの黙示録1章 5〜6節「また、忠実な証人、死人の中から最初に生れた者、地上の諸王の支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。わたしたちを愛し、その血によってわたしたちを罪から解放し、  わたしたちを、その父なる神のために、御国の民とし、祭司として下さったかたに、世々限りなく栄光と権力とがあるように、アァメン。」

 ヨハネの黙示録の書き出しには「イエス・キリストの黙示」とあり、1節には父なる神様が御子に伝え、御子がヨハネに伝えたものとあります。しかし、書き出しにあるように、イエス様による啓示なのです。それはイエス様ご自身の真理について、更に未来の出来事、特にイエス様が再び地上に来られることを明らかにしているのです。

 まず、イエス様は人であられることと神様であられることが明らかにされています。
13〜14節「それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。そのかしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真白であり、目は燃える炎のようであった。」とあります。
彼の様子はダニエル書の神様のようにあらわされています。
ダニエル書7章 9節「わたしが見ていると、もろもろのみ座が設けられて、日の老いたる者が座しておられた。その衣は雪のように白く、頭の毛は混じりもののない羊の毛のようであった。」

 ご自分をイエス様は「アルパ・オメガ・初め、終わり」と告白しますが、これは神様の永遠性をあらわしています。黙示録1:8、1:17、21:6、22:13
8節 今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者、全能者にして主なる神が仰せになる、「わたしはアルパであり、オメガである」。

 ヨハネが見たイエス様は大祭司の様子と共に、容赦のない裁き主でした。
足は光り輝くしんちゅうとありますが、これは祭壇の材料で裁きの象徴であり、声は大水のとどろきとあり、口から悪しき者を殺すもろ刃のつるぎが出ています。
ヨハネはこのイエス様を見た瞬間、その足元に倒れて死人のようになったのです。17節

 再び現れるイエス様は恐ろしい裁き主として来られるのですが、今は救いの日です。
主は恐れるなと言われ、このような全能の神様が私たちの救い主であられるのです。
2018年3月4日説教要旨 説教題: 不信仰と戦う教会
ユダの手紙1〜4節「イエス・キリストの僕またヤコブの兄弟であるユダから、父なる神に愛され、イエス・キリストに守られている召された人々へ。あわれみと平安と愛とが、あなたがたに豊かに加わるように。愛する者たちよ。わたしたちが共にあずかっている救について、あなたがたに書きおくりたいと心から願っていたので、聖徒たちによって、ひとたび伝えられた信仰のために戦うことを勧めるように、手紙をおくる必要を感じるに至った。  そのわけは、不信仰な人々がしのび込んできて、わたしたちの神の恵みを放縦な生活に変え、唯一の君であり、わたしたちの主であるイエス・キリストを否定しているからである。彼らは、このようなさばきを受けることに、昔から予告されているのである。」

 教会の中で、疑いの心が蔓延し、怒号が飛び交うことがあり得るのです。イエス様の時代から、不信仰はいつも教会を分裂させ、肉的な思いに満たそうとします。サタンは巧妙に攻撃してます。

 ユダは、不信仰の例を、旧約聖書から憎しみに支配されたカイン、不品行を愛したソドム・ゴモラ、不平不満に満ちた出エジプトのイスラエル、世の利得を愛した預言者バラム、指導者モーセをそしったコラと羅列しています。これらと同じ、不信仰の罪が教会の中に入ってきたので、ユダはこの書簡を書き送り
ました。

 彼らについて、放縦な生活を行う者、安易に指導者をそしる者、「分派をつくる者、肉に属する者、御霊を持たない者」と容赦なく罪を指摘しています。そのような不信仰に対して、ユダは、信仰のために戦うよう勧めるのです。

 どのように戦うのでしょうか?論争せよとは教えません。厳しく接せよとも言いません。信仰者の戦いは、理不尽な不信仰がある中でも、信仰的であれと教えるのです。
1)あれみと平安と愛を忘れてはいけません。
ユダはこの信仰者の特質が豊かになるように祈っています。2節、20〜21節
2)あわれみ、救い出してやりなさい。22〜23節
3)その時、罪によくよく注意しなさい。23節後半私たちは教会の中に不信仰が入り込むことをゆるすことはできません。しかし、同時に私たち自身が主の教えから離れることがないよう、注意深く信仰と愛の中にある戦いなのです。
2018年2月25日説教要旨 説教題: 真理とたましいの恵み
ヨハネの第三の手紙1〜4節「長老のわたしから、真実に愛している親愛なるガイオへ。
愛する者よ。あなたのたましいがいつも恵まれていると同じく、あなたがすべてのことに恵まれ、またすこやかであるようにと、わたしは祈っている。  兄弟たちがきて、あなたが真理に生きていることを、あかししてくれたので、ひじょうに喜んでいる。事実、あなたは真理のうちを歩いているのである。  わたしの子供たちが真理のうちを歩いていることを聞く以上に、大きい喜びはない。」


 信仰者にも、主に忠実な人もいれば、不忠実な人もいることを教えます。この手紙では、ガイオは忠実であり、デオテレペスは不忠実の代表者として書かれています。
二人とも教会の中の中心人物のようですが、伝道者に対して違った態度で接しています。
ガイオは柔和な方のようで、同じ信仰の友に対して非常に好意的な愛の態度で接し、しかし、デオテレペスは攻撃的で、ヨハネは彼を「みんなのかしらになりたがっている」と評しています。

 しかし、これは小さな問題ではない、人の個性の問題ではない、信仰の問題と言うのです。11節「愛する者よ。悪にならわないで、善にならいなさい。善を行う者は神から出た者であり、悪を行う者は神を見たことのない者である。」
デオテレペスは、説教において異端ではなかったでしょうが、行為を見てヨハネは厳しく言います。彼に対して「悪を行う者は神を見たことのない者である」と言うのです。
神を知らず、真理を知らないと言うのです。彼は巡回伝道者を受け入れず、彼らを受け入れたいと願う者を教会から追い出し、ヨハネ達も受け入れようとしません。きっと怒りっぽく、不寛容で、1コリント13章の愛の性質と真反対です。

 ガイオに対して、ヨハネは「たましいがいつも恵まれている」と呼びかけました。真理に従うなら、私たちのたましいは恵まれるのです。1ペテロ1:8〜9では、キリストを愛し、喜びにあふれていると言います。しかも、「いつも恵まれている」とあるように、この恵みは揺れ動き、変わる状態ではありません。変わらない救いの確信、喜びがあるのです。

 ガイオとデオテレペスの違いは、ガイオはイエス様にしっかりとつながっていること、デオテレペスは古い自分を捨てきれず、罪の中にあり続けているところにあります。明確な悔い改めをもって、真理に従い、新しく生きるところに、たましいの恵みがあるのです。そして、この真理の道は、愛する方向に向かっています。
2018年2月18日説教要旨 説教題: 真理と愛を基として
 ヨハネの第二の手紙1〜3節「長老のわたしから、真実に愛している選ばれた婦人とその子たちへ。あなたがたを愛しているのは、わたしだけではなく、真理を知っている者はみなそうである。それは、わたしたちのうちにあり、また永遠に共にあるべき真理によるのである。 父なる神および父の御子イエス・キリストから、恵みとあわれみと平安とが、真理と愛のうちにあって、わたしたちと共にあるように。」

 聖書は私たちに明確な救いを語っています。真理の理解と、新しい心、新しい歩みを教えています。その始まりは、真理を知ることからです。
イエス様は真理を伝えるために来たと言われました。
ヨハネによる福音書/ 18章 37節「わたしは真理についてあかしをするために生れ、また、そのためにこの世にきたのである。だれでも真理につく者は、わたしの声に耳を傾ける

 真理とはイエス様が語られ、証せられたことであり、福音と呼ばれもします。
聖書著者パウロは、真理を正しく伝えることに非常に熱心でした。
ガラテヤ人への手紙/ 02章 05節「わたしたちは、福音の真理があなたがたのもとに常にとどまっているように、瞬時も彼らの強要に屈服しなかった。」
また、私たち、教会も同じように真理に立っています。
テモテへの第一の手紙3章 15節「神の家というのは、生ける神の教会のことであって、それは真理の柱、真理の基礎なのである。」

 そして、真理を知っている者は、兄弟姉妹を愛するとヨハネは言いました。真理を知った者は、イエス様と同じ心をもち、愛する者になるのです。それは、信仰者をこの世から聖別することです。世は愛を知りませんが、信仰者は愛を知ったのです。
ヨハネによる福音書/ 17章 16〜17節「わたしが世のものでないように、彼らも世のものではありません。 真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります。」

 真理を知った者は、人を愛する者になるのです。愛さない者は真理を知らないと言います。愛することは、その人が真理をどれほど知ったかのバロメーターなのです。
そして、真理と愛を基として歩む信仰生活は、次の祝福を受けます。
「恵みとあわれみと平安」。これらは信仰者の特別な祝福の賜物です。真理と愛は信仰者が従順に歩む証の生活ですが、それに伴って、神様からのこの賜物が与えられるのです。これこそ、キリストの香りではないでしょうか。神様からの忠実な者に与えられる贈り物です。
2018年2月11日説教要旨 説教題: キリストの救いの道
ヨハネ第一の手紙5章19〜20節 「また、わたしたちは神から出た者であり、全世界は悪しき者の配下にあることを、知っている。 さらに、神の子がきて、真実なかたを知る知力をわたしたちに授けて下さったことも、知っている。そして、わたしたちは、真実なかたにおり、御子イエス・キリストにおるのである。このかたは真実な神であり、永遠のいのちである」

 この世には二つの支配があると教え、今は悪しき者の支配の中にあると言います。悪い霊がこの世を支配しているので、不信仰が蔓延し、悪しき行為が満ち、人は罪を愛し義を厭うものとなっているのです。その故に、人は不幸な者となり、魂の滅びに向かっています。

 しかし、イエス・キリスト様はこの世に来てくださり、真実で善なる神様を知る者にして下さったのだとヨハネは言います。
その通りです。私たちも善にして全能で真実な神様を知りませんでした。その結果、人生の半ばで希望が見えず、死への虚しさを思い知らされたのです。しかし、イエス様を信じるに至って、真実な神様を本当に親しく知る者に変えられました。心から感謝です。
そして、ヨハネの言うように「わたしたちは神から出た者である」と喜んで告白する者に変えられたのです。

 それはイエス様を信じることによって始まりました。
「神の子がきて、真実なかたを知る知力をわたしたちに授けて下さったことも、知っている」これこそ真理です。
人が絶望し、救いを求めるなら、イエス様を知り、イエス様を信じればよいのです。なぜなら、イエス様が神様からの唯一の救い主であるからです。
1)イエス様がどういう方か知り、信じましょう。
2)イエス様が何をして下さったかを知り、信じましょう。十字架と復活
3)信仰を告白したら、父なる神様と御子イエス様との親しい交わりの中に入れられていることを信じましょう。

 神様の御心は、すべての人が救われて真理を悟ることです。そして、神様によって命を受けていることを喜び、主をほめたたえることです。そして、この救いの道は、信仰をもってどういう信仰の歩みをするかで、その恵みに大きな違いが現れることを認識しましょう。
罪から離れ、キリストへの信仰にしっかりと立ち、主に従うことに熱心になりましょう。
2018年1月21日説教要旨 説教題: 信仰の勝者として生きる
ヨハネの第一の手紙4章 3〜4節「イエスを告白しない霊は、すべて神から出ているものではない。これは、反キリストの霊である。あなたがたは、それが来るとかねて聞いていたが、今やすでに世にきている。子たちよ。あなたがたは神から出た者であって、彼らにうち勝ったのである。あなたがたのうちにいますのは、世にある者よりも大いなる者なのである。」

 ヨハネは偽預言者が教会の中をかき回し、惑わす者に注意するように言います。イエス様の時代から今に至るまで偽預言者が現れ、多くの宗教が起こりました。イエス様は毒麦の譬えでこのことを預言し、これをゆるされています。
中世のカトリック、現代のエホバの証人、いろいろな間違った教えが起こり、人々を真実なキリストから離しています。ヨハネは反キリストと呼びました。

 これらの間違った教えに、多くの人が惑わされるとあります。
5節 「だから、彼らは世のことを語り、世も彼らの言うことを聞くのである」彼らは巧妙に好奇心を刺激し、プライドや人の欲で誘惑するのです。
私たちはどうやって見分けるのでしょうか。

1)聖書にのみ聞く
6節 「神を知っている者は、わたしたちの言うことを聞き、神から出ない者は、わたしたちの言うことを聞かない」 私たちの聖書にだけ聞く態度です。イエス様ご自身、サタンの誘惑を受けた時、「こう書いてある」とだけ答えました。マタイ4章

2)イエス様を告白する。
3節「「イエスを告白しない霊は、すべて神から出ているものではない」イエス様を正しく告白しているかです。イエス様を正しく告白していることが重要で、私たちは人となられた神の一人子キリストと告白します。

3)実によって見分ける。
イエス様に似ることを目指し、愛を第一として歩みます。

 このように見分けることが出来るとありますが、同時に、私たち自身が自分を吟味して歩みましょう。主イエス様にしっかりとつながっているなら、決して反キリストの霊に屈服し、罪の道を歩むことはありません。信仰者として主の歩まれた道を歩むことを決心する、忠実な信仰の勝者となるのです。私たちの内に大いなる主がおられるからです。
2018年1月14日説教要旨 説教題:神の愛を知り、愛の中に生きる
1ヨハネ3:16「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。」

 ヨハネ第一の手紙の特徴に一つが、「知っている」と言う言葉が多く出ていることです。「わたしたちは知っている」「あなたがたは知っている」と何度も出てきて、28か所「知る」に関する言葉が使われています。
信仰生活とは福音を「知る」ことであるとも言えます。知るとは、単に知的に知ることではなく、同意し、目的にすることです。

1)私たちは聖書を通して知ります。
 私たちは聖書を通して、神様のこと、人のこと、罪のこと、救いのこと、命のこと、永遠のこと、信仰生活のことを学びます。知るとは、その内容にアーメンと同意することです。

2)内におられる聖霊様によって知る。
1ヨハネ2章 20節「しかし、あなたがたは聖なる者に油を注がれているので、あなたがたすべてが、そのことを知っている。」
信仰を持つ者の内に住まわれる聖霊様のお働きによります。

 ヨハネがさらに多く語る言葉が「愛」です。52か所も出てきます。そして、次のように言います。ここには二つのことが語られています。
1ヨハネ3章 16節「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。」

1)キリストの十字架の死によって、真実な愛、神様の愛を知った。
イエス様のお苦しみに神様の愛を知ります。
そして、この愛のゆえに、罪をゆるされ、神様の豊かな恵みに受けたことを知ったのです。

2)兄弟を愛することを勧めます。
神様の愛を知った者は、兄弟を愛するべきと命じます。
また、この愛を持っている者こそが、イエス様につながり、命を持っていることの証なのだと言います。1ヨハネ3:14
そして、この歩みの中に、心を安んじていようと命じます。主は大いなる方です。19節
2018年1月7日 説教題: 信仰は素晴らしい 御言