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2019年12月8日説教要旨 土の器と福音の宝
 コリント4章7節「しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。」

 <砂の器>と言う有名な小説があるように、一般にも人の弱さとしてこの言葉は知られています。しかし、ここで使われている「土の器」は単に弱さとしてではなく、信仰を持ち、神様によって新しくされたものとして語られています。

 創世記、神様はアダムを土のちりから形づけ、いのちの息を吹き入れ、人として生きたものにされました。しかし、人は神様を信じない罪の人となり、死んだものとされたのです。   ここでいう「土の器」は、パウロが経験したように、罪人がキリストに出会い、罪を認め、新しく生まれた「土の器」のことです。
これは、@ 被造物であること、そしてA 神様が用いられる器であることの象徴です。
悔い改めイエス様を信じた者は、全く新しくされ、弱くても主が用いられる器とされたのです。自分の努力で自分を変えようとするのではなく、新しく主の器として変えられた者として、心は主に向け、主に忠実に従うことにより、主に変えていただこうとすることです。

 この器の中に宝を持っていると言います。
宝は4〜6節にある、「キリストの栄光の福音」、「キリスト・イエス」であろうと考えます。
信仰者は内にキリストを持ち、福音を持っています。
私たちはこの宝によって力を受けて苦難を乗り越え、心も造りかえられるだけでなく、福音を伝える働きを担うものです。「土の器」の中に「宝」は持つことにより、祝福を受けるだけでなく、これを伝える働きを主から受けているのです。

 主に用いられるとは、この宝をこの世界に伝える働きです。
この働きは、キリストがそうであったように、信仰者もキリストと共に十字架の死の歩みをしていることなのです。福音宣教は伝える側には、喜びと言うより、忍耐と迫害の連続です。だから、12節「こうして、死はわたしたちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのである。」

 しかし、わたしたち信仰者は伝える霊を受けているので、永遠の祝福を信じ、語り続けるのです。その結果、教会は内面においても、数においても成長します。
クリスマスが近づいています。福音を世に伝えるために、忍耐して奉仕しましょう。
2019年12月1日説教要旨 キリストの手紙
 2コリント3章3節「そして、あなたがたは自分自身が、わたしたちから送られたキリストの手紙であって、墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心の板に書かれたものであることを、はっきりとあらわしている。」 
 2コリント3章16〜18節「しかし主に向く時には、そのおおいは取り除かれる。主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。」

 多くの信仰者はコリントの教会のような歩みをしています。福音を信じ、信仰のスタートをきったけれども、多くの罪と間違いの中にあって、すぐれた恵み中にいないのです。
しかし、パウロは、コリントの人たちは、「わたしたちから送られたキリストの手紙」「心の板に書かれたものであることを、はっきりとあらわしている」と救われていると賛辞を贈ったのです。

 キリスト者生活は、文字に縛られたイスラエルのようなものではありません。キリストを主とし、彼に従い、彼の御言葉による、霊に従う信仰生活に入れられています。もし、信仰者がキリストを主として、熱心に従い、御言葉を学び、実践の道を熱心に求めるなら、御霊は真理を彼の心に示し、御霊によって自由を与え、新しい道に導かれるのです。御霊と真理は彼に自由を与えると教えています。(ヨハネ8:31〜32)
 そして、このキリスト者の自由こそが、信仰者の成長、キリストと同じ姿に変えられる道なのです。この自由は、古い罪人の性質から解放され、聖霊の導きのままに、新しく、力強く生きることが出来る自由です。(ガラテヤ書5章参照)

ガラテヤ人への手紙/ 05章 01節「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。」
ここには、後の節に肉の働き、御霊の実について書かれ、罪を十字架につけ、御霊によって進もうと勧めています。

 信仰者は誰でも、キリストを真に主とし、御言葉に熱心に生きるなら、御霊は自由に働かれて真理を悟らせ、キリスト者の自由の中に御霊の実に満たされたキリスト者生活へと進ませるのです。これが成長であり、キリストの栄光の似姿に進むのです。
この時こそ、主に用いられる器として、福音を伝える備えが出来たと言えるのです。
2019年10月20日説教要旨 信仰者の復活
コリント人への第一の手紙15章35〜38節 しかし、ある人は言うだろう。「どんなふうにして、死人がよみがえるのか。どんなからだをして来るのか」。おろかな人である。あなたのまくものは、死ななければ、生かされないではないか。
また、あなたのまくのは、やがて成るべきからだをまくのではない。麦であっても、ほかの種であっても、ただの種粒にすぎない。ところが、神はみこころのままに、これにからだを与え、その一つ一つの種にそれぞれのからだをお与えになる。」


 キリストは、ご自身が罪びとの身代わりに十字架で死なれ、三日目によみがえり、弟子たちに示し、天に昇られて、私たちの新しいよみがえりを教えられました。
罪人である私たちも、キリストと共に死ぬなら、キリストと共によみがえると教えて下さったのです。

 私たちがキリストと共に死ぬとはどういうことなのでしょうか?
それは罪の悔い改めをして、キリストを信じることなのです。悔い改めとは自分の不信仰を認め、心を変える決心し、イエス様を主と信じるのです。自分に信頼しないことであり、キリストを主として従うこと、その決心です。これが信仰による生活、信仰生活です。

 すると、聖書はキリストと共によみがえると教えています。
内面の変化と共に、実際の新しいからだへの復活を受けるのです。

1)信仰者の実際の変化
信仰が生まれ、希望が生まれ、愛が生まれてきます。なぜなら、内に御霊が住まわれ、私たちに変化をもたらしてくださるからです。御霊は私たちの救いの保証です。

2)主の再臨の時の復活
私たちの今のからだは、「朽ちる、卑しく、弱い肉、肉のからだ」です。しかし、イエス様が再びこの世に来られるときには、一瞬にして「朽ちることのない、栄光の、強い、霊のからだに」に変えられるのです。

3)栄光の神の国に入れられる
その時から、信仰者は神様と共に、涙も、死も、悲しみも、叫びも、痛みもない栄光の世界の中に入れられます。
 私たちは今、信仰と共に苦しみの中に生きています。主に従おうとすれば、肉のからだは苦しみます。しかし、主はこの栄光の時を覚え、励ましてくれています。
2019年10月13日説教要旨 キリストの復活と人の栄光
1コリント15章19〜22節 「もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。 しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。 それは、死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。 アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。

 福音の中に、最も大事なことはキリストの十字架の死とキリストの復活であることをパウロは語り、この15章では復活を語ります。

 キリストの復活の信仰は、救いの信仰と言うことにとどまらず、信仰者を更に高い希望に導くのです。この希望がないなら、信仰者の救いは哀れなものとり、単なる心の拠り所としておわるのです。

 しかし、実際イエス・キリストは死人の中からよみがえり、御力をもって栄光の主となられました。それは神の愛と恵みにより、信じる私たちもキリストに完全につながり、キリストと同じように栄光の中によみがえると言うことです。

 これはキリストが再び来られた時に実現し、キリストにあって死んだ者が朽ちない体によみがえり、キリストの下に上げられ一つとなることです。
そして、この地は、キリストにより義に支配され、悪と死が滅ぼされ、キリストも神様と一つとなってこの世の聖所となり、光となられるのです。

 この地にあって人は誰も悩みと苦しみの中にあります。どんなに幸いと思う人も、ついには死と言う絶望の中に入れられ、神様のさばき場に立たされます。
しかし、神様は愛と恵みによって、私たち罪びとを救ってくださったのです。罪をゆるし、義の道を教え、正しい道に導かれ、永遠の命に招いて下さっています。

 そして、キリストが再び来られるときには、全く新しい心と体を与えて下さり、真の救いの喜びの中に入れて下さるのです。私たちはこの喜びの希望をいつも心にもって、今の信仰生活を送りましょう。

 パウロは「日々死んでいるのである」と証しています。それは自分を捨て、キリストにつながり、愛の中に生きていると証しているのです。キリストの復活は、神様の全能を示し、この信仰は私たちを希望にあふれさせ、主の愛の中に生かす力となります。
2019年4月28日説教要旨 信仰の三つの道
ローマ14章17〜19節「神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖霊における喜びとである。こうしてキリストに仕える者は、神に喜ばれ、かつ、人にも受けいれられるのである。 こういうわけで、平和に役立つことや、互の徳を高めることを、追い求めようではないか。」

 信仰の道はイエス様が明確に示して下さいました。一つの道でありますが、同時に多くの側面を持ちます。それぞれを理解していくなら、その道は更に豊かになり、信仰生活が霊的に祝福されたものとなるのです。本日は信仰にある大切な三つの道を学びます。三つであっても一致した一つの道です。

1)聖書知識の道 1〜6節、14〜16節
ローマ14章の問題は、この知識の違いから起こる裁きあうことでした。肉を食べる、食べないなどに関することで、この原因は聖書の知識の深さにより、また、もっと大事な愛の無知によるものです。知識は成長のために、赤ちゃんの霊の乳であり、より成長のための固い食物です。聖書をよく学びましょう。

2)イエス様を主とする道 7〜12節
私たちは多くの違いを持つ者です。しかし、イエス様を主とすることは共通しています。イエス様を主と告白し、主に導かれている者であり、各自は主の僕です。信仰がある限り、主は彼を立つようにされるのです。私たちは皆イエス様を主とする道を歩み続けています、他者はさばいてはいけないのです。

3)主にある確信を持つ道 22〜23節
パウロの言葉は、つねに確信に満ちています。
知識においても、主イエス様においても、さらに他者の信仰の成長、自分の生きている意味においても・・・彼は「確信している」と言います。
そして、私達も確信をもつように熱心に祈っています。(コロサイ4:12)
この確信を得る道は、信仰のみです。(エペソ3:12)
私たちは良心的に信仰によって歩むなら、この確信を持つことが出来ます。

ヨハネの第一の手紙/ 03章 21節「愛する者たちよ。もし心に責められるようなことがなければ、わたしたちは神に対して確信を持つことができる。」
この三つの道を忘れないで、信仰による祝福の道を歩みましょう。
2019年3月24日説教要旨 教会中心
ローマ 12章3〜8節「わたしは、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりびとりに言う。思うべき限度を越えて思いあがることなく、むしろ、神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがって、慎み深く思うべきである。なぜなら、一つのからだにたくさんの肢体があるが、それらの肢体がみな同じ働きをしてはいないように、わたしたちも数は多いが、キリストにあって一つのからだであり、また各自は互に肢体だからである。このように、わたしたちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っているので、もし、それが預言であれば、信仰の程度に応じて預言をし、奉仕であれば奉仕をし、また教える者であれば教え、勧めをする者であれば勧め、寄附する者は惜しみなく寄附し、指導する者は熱心に指導し、慈善をする者は快く慈善をすべきである。」

 私たちは信仰により、新しく生まれ、神の栄光にあずかる大きな恵みを受けた幸いな者です。その私たちに、主は新しい道を示されました。その重要な一つが、教会を中心にした信仰の道で、主と教会に仕えるように命じているのです。自己中心から離れ、キリスト中心、教会中心の新しい歩みです。

1)教会は神の国の現れです。 ルカによる福音書17章 21節「神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。

2)教会は復活のキリストの身体です。 エペソ1章 23節「この教会はキリストのからだであって」

3)各自は互いに肢体 教会は互いのためにあり、賜物は、教会の徳を高めるためにあります。
コリント人への第一の手紙/ 12章 07節「各自が御霊の現れを賜わっているのは、全体の益になるためである。」

 私たちは、信仰により、私たちの教会を愛し、互いの徳の為に働くことが主の御旨です。信仰を持ち、信仰により、御言葉を共に学び、謙遜を忘れず、時に励まし、時に優しく戒め、その為に忍耐し、継続するのです。教会があなたにとって最も大事な集まりとなりますように、キリストと教会があなたの信仰生活の中心となりますように祈ります。
2019年3月17日説教要旨 献身は聖化の最高の道
ローマ人への手紙12章 1〜2節「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。 あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。」

 イエス様の時から、福音を間違って理解してしまうことが多くありました。人の考えが入り、自分の都合の良い解釈をいれることです。私たちは福音を正しく理解して、熱心に福音に生きなければなりません。それこそが恵みの信仰生活です。福音に生きると言えるでしょう。

 福音は、救いと救いによる聖い信仰生活を教えています。ローマ12章は、実践の話に入ったのです。聖化と呼びます。

1)聖化は神様のお働き
悔い改めてイエス様を信じた私たちは、聖くなることの願いは心にあるはずです。これは神様のお働きです。私たちは熱心に願い求めますが、その時、神様が願いにこたえて下さるのです。

2)聖化の五つの要素
@ 明確な信仰 信仰生活の土台です。 A 聖潔の追及 聖くなることを熱心に求めること。 B 聖書の研究 福音を正しく理解すること。
C 教役者の必要 教会が必要な一つの理由。 D 献身

3)献身の勧め  最も効果的なその人の態度です。
献身の心をもって、聖化を求めて行くなら、神様は必ず答えてくださいます。
その人にとって、主の御言葉に従うことは難しいことではありません。神様のお力の現れであります。信仰による勝利は、聖化の道にあります。
1ヨハネ5:5わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。 世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか。」

 イエス様は救いと共に、この聖化の道も備えて下さっています。この道は、主の恵みに満ちた祝福の道であることを覚え、熱心に求めましょう。
2019年3月10日説教要旨 恵みの救い
ローマ11章4〜6節「しかし、彼に対する御告げはなんであったか、「バアルにひざをかがめなかった七千人を、わたしのために残しておいた」。それと同じように、今の時にも、恵みの選びによって残された者がいる。しかし、恵みによるのであれば、もはや行いによるのではない。そうでないと、恵みはもはや恵みでなくなるからである。」

 人は救いを求めて新旧約聖書を読みます。ただ、イエス様は次のように言われました。ヨハネ5章 39節「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。」
イスラエルの民も、このキリストに注目しなければならなかったのですが、彼らは儀式・律法の行いだけに目を向けて、キリストを見なかったのです。その結果が、イスラエルの歴史です。彼らは信仰に歩まず、キリストを見ないゆえに、神様に敵対し、神様からの裁きを受け、悲惨な歴史を残しました。

 そういう民族でありますが、神様の約束は変わらず、どの時代においても残りの民、主に従う民を残しておられました。それは預言者、モーセ、ダビデなど、イエス様の時代にはヨセフ、マリヤなどです。彼らは恵みの選びを受けた人たちでした。
それは今も変わらず、私たちの救いの源であり、恵みの選びと言われ、救いなのです。この恵みはどういう形で表されているでしょうか。
イエス・キリスト様によります。

1)イエス様の身代わりの十字架
わたしたちが出来なかった律法を身代わりの十字架によって全うしてくださいました。私たちの罪の身代わりです。

2)死からの復活
イエス様の復活を信じること、それは神様の全能を信じる信仰です。その信仰が義と認められ救われるのです。
神様の救いは今も変わらず、恵みにより信仰によるのです。決して行いではないのです。そして、私たちを神様の栄光を信じる者へと導き、私たちの大いなる救いとなります。 罪を悔い改めて、イエス様を信じましょう
2019年3月3日説教要旨 福音宣教
ローマ人への手紙/ 10章 13〜15節「なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」とあるからである。 しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。 つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」と書いてあるとおりである。」

 福音宣教は教会の第一の使命で、福音とは神様から与えられたイエス・キリスト様による救いの知らせです。
私たちの救いの為には様々なお導きがあったでしょうが、イエス様を信じる者にされ、神様の救いの中にあります。その救いために、今日の聖句で、教会によって人が遣わされ、遣わされた人が福音を語り、それを私たちが聞き、信じ、イエス様を呼び求める者となって救われたのだと言っています。
この福音は、私がそうであるように、すべての人を幸福にすると信じています。真に魂を喜ばせる知らせです。

 そして、私たちは皆、この福音宣教に召されています。なぜなら、教会の使命であるからです。私たちが語り伝える福音によって、人は救われてくるのです。(ローマ12:5〜8)
ヨハネ 20章 23節「あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」
その働きをすること、する人は麗しいと言われています。
ローマ10章15節「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」と書いてあるとおりである。」
これは神様の御業であり,御旨であるからです。主のなされることはすべて美しいのです。(伝道3:11)私たちは教会として、その働きの為にそれぞれはタラントを受けていますから、互いに協力し合い、タラントを豊かに用いて、福音宣教の働きを続けていかなければなりません。主が「よくやった、忠実な僕」と言ってくださることを喜びとして。(2コリント5:9)
2019年2月17日説教要旨 信仰によって神様の確かさを信じる
ローマ9章1〜6節 「わたしはキリストにあって真実を語る。偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって、わたしにこうあかしをしている。 すなわち、わたしに大きな悲しみがあり、わたしの心に絶えざる痛みがある。 実際、わたしの兄弟、肉による同族のためなら、わたしのこの身がのろわれて、キリストから離されてもいとわない。 彼らはイスラエル人であって、子たる身分を授けられることも、栄光も、もろもろの契約も、律法を授けられることも、礼拝も、数々の約束も彼らのもの、 また父祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストもまた彼らから出られたのである。万物の上にいます神は、永遠にほむべきかな、アァメン。 しかし、神の言が無効になったというわけではない。

パウロは、神の愛をもって、イスラエルの救いを願っています。神様の約束を正しく理解し、イスラエルの約束を説明します。

1)神の言と約束は無効にはならない 6節
神の言は必ず成就され、神の約束も変わることがないのです。私たちは主の御言葉を信じて、約束を信じて、信仰に堅く立って歩みます。
イスラエルは信仰によらず、行いによる義を求めたために失敗しました。

2)神の選びのご計画 11節(ローマ8:29.1ペテロ1:2)
神様は世の初めに、すべてを知られ、定められています。私たちはこの方の定めを信頼して、平安の道を、ただ信仰によって歩みます。

3)神の絶対的主権 18〜21節
私たちは創造主にして全権を持たれている主を信じ、信頼します。そして、すべてを主にお委ねして歩みます。

4)信仰こそ約束と選びを受ける方法 (ローマ9章30〜33節)
そして、私たちのすべては信仰にかかっていることを信じこれからも、イエス様に目を向け、彼に対する信仰にさらに進みます。信仰によって心を一新され、義を受け、主と共に主に従って約束の道を歩むのです。
2019年2月3日説教要旨 御霊による祈り <ローマ8:26〜30>
ローマ人への手紙8章 26節「 御霊もまた同じように、弱いわたしを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。」

聖書は祈りの力を明確に教えます。
マルコ11章 24節「そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。」
しかし、私たちは祈りが聞かれないと不満を持ちます、が、ヤコブは、
ヤコブ4章 02〜3節「あなたがたは、むさぼるが得られない。そこで人殺しをする。熱望するが手に入れることができない。そこで争い戦う。あなたがたは、求めないから得られないのだ。求めても与えられないのは、快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからだ。」と答えます。
私たちは祈りの確信を持ちたいものです。
祈りは神様によって整えられ、支えられ、届いています。

1)地にあっては、御霊がとりなしてくださっています。(26節)
これは私たちの知りえない神様のお働きで、最善のとりなしをして下さっているのです。

2)天にあっては、イエス様がとりなしてくださっている。(ローマ8:34)
その結果として、万事が益となるのです。(ローマ8:28)
このとりなしを邪魔するのが肉の働きであり、御霊を悲しませています。
エペソ人への手紙/ 04章 30節「神の聖霊を悲しませてはいけない」
私たちはイエス様の救いにより、十分な恵みの中に信仰生活を送れるように備えられ、導かれています。
私たちは主の御旨を学び、熱心に、主の御旨に従う祈りをしましょう。
そして、主の恵みを深く知り、義の道を歩み、主の栄光に入ることを望みとして、平安と確信の信仰生活を世に証しましょう。(ローマ8:30)
2019年1月13日説教要旨 罪との戦い
ローマ7章21〜24節「そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。 すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、 わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。 わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。」

 罪を悔い改め、イエス様を信じて救われることを聖書は教えます。
私たちはこの救いの確信をもって、御言葉に従う新しい信仰生活を送ることを願います。愛に満たされ、義に満ちた、不義のない心さわやかな信仰生活です。

 ところが、ここでパウロが告白するように、まず絶望を経験するところから始まるようです。罪人が義人イエス様の御跡を歩もうとする場合、対処しがたい捨てなければならないものがあるのです。
それはイエス様がその為に十字架で死なれた人の内にある悪、罪です。

 イエス様は私たちにこの罪を明確に自覚してほしいと願われています。イエス様が教える厳しい戒めは、その為にもあり、人を罪の自覚に導きます。
自分の内には、執拗で抗しがたい罪の性質があるのです。
パウロに「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう」と告白させる罪です。パウロのこの告白は、彼自身だけの問題ではなく、すべての罪人の告白なのです。彼はどのように対処することを教えているでしょうか。

1)キリストの十字架と復活を通し
私たちは信仰により、古い私はイエス様と共に十字架につき死に、イエス様と共に新しい者として復活し、神に生きる者となったことを信じ、認めるよう、これは信仰的態度です。

2)もはやわたしではない罪を捨てなさい。17節、20節
私の内には、私ではない、捨て去るべき罪があると言います。私ではないので、何の躊躇なく捨て去るべきです。

3)義を喜ぶ内なる人に従う。
その時、神様の霊が導いて下さることを次の章で学びます。
2019年1月6日説教要旨 義の僕として
ローマ6章 15〜18節「それでは、どうなのか。律法の下にではなく、恵みの下にあるからといって、わたしたちは罪を犯すべきであろうか。断じてそうではない。あなたがたは知らないのか。あなたがた自身が、だれかの僕になって服従するなら、あなたがたは自分の服従するその者の僕であって、死に至る罪の僕ともなり、あるいは、義にいたる従順の僕ともなるのである。しかし、神は感謝すべきかな。あなたがたは罪の僕であったが、伝えられた教の基準に心から服従して、罪から解放され、義の僕となった。」

 新年あけましておめでとうございます。
本年も、主にある愛に満ちたお交わりをどうぞよろしくお願い致します。
世の終わりを意識し、更に神様のお恵みを世にお伝えする教会の働きの為に、共に助け合い、励まし合って、祈り合ってご奉仕できることを願います。
また、2019年が私たちのさらなる成長の一年でありますように。

 今年初めのメッセージは、義の僕として生きることです。
イエス様の僕として、罪から離れ、義に生きること、義の行いに向かうことです。私たちの日々の生活が何に服従しているでしょうか?人は皆、何かに従っています。今までのように自分の思いのままに生きることは、聖書は迷っていると言います。神様から離れているのです。しかし、イエス様を知り、イエス様を信じ、私たちは神様の義を、初めて明確に知ることが出来るようになりました。私たちは罪から離れることを決心し、悔い改めてイエス様を信じ救われました。この事実について、聖書は以前は罪の僕であったが、今は、教えられた基準に心から服従して、義の僕となったと言われます。

 私たちはこの救いをよく知り、正しく歩まなければなりません。
1)感謝しましょう。
罪から離れ、義に生きることを目標として、そうされたことを主に感謝しましょう。心から喜び、義の歩みを願いましょう。
2)自由にされた者として、自発的に義を求めましょう。
私たちはイエス様により、罪と死からは解放され、自由と子としての身分を与えられたのです。救いを喜び、自発的に主に従い、義に向かいましょう。