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2020年10月25日説教要旨 主と共に生きる
テサロニケ人への第一の手紙/ 05章 8〜28節「しかし、わたしたちは昼の者なのだから、信仰と愛との胸当を身につけ、救の望みのかぶとをかぶって、慎んでいよう。神は、わたしたちを怒りにあわせるように定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによって救を得るように定められたのである。キリストがわたしたちのために死なれたのは、さめていても眠っていても、わたしたちが主と共に生きるためである。だから、あなたがたは、今しているように、互に慰め合い、相互の徳を高めなさい。」

 信仰は私たちに大きな救いを与えてくれたのです。一人で、わからない道を進むドライブを思ってください。この道はどこにつながっているのか?ただ進むほかのない不安に満ちた道。どこにも安心できる安全基地がない、それが不安の人生です。  そんな時、天から声が聞こえました。この方が救い主だ、これが道だ、あなたが救われるためにキリストが十字架で死なれた。信じるなら救われ、真実の光を見いだし、心に平安が与えられ、安全基地は与えられる。

 そして、私たちは救い主イエス・キリストを信じたのです。その時以来、私たちの心に主イエス様がいて下さり、共に歩んで下さいます。しかし、私たちの目の前に広がるのは、今までと変わらず、人に不安を与える荒野の道、あらゆる迷いの脇道が多数前に現れます。どうしたら良いのでしょうか?

 1)まず、私たちは主の愛と救いを信じなければなりません。
「信仰と愛との胸当を身につけ、救の望みのかぶとをかぶって、慎んでいよう」とあります。

 2)そして、いつも共にいて下さるイエス様に目を向け、声を聞き、進むべき道を確かにしなければなりません。世の騒音に比べるなら、その声は小さいかもしれせん。だから、一生懸命に耳を向けて聞き取りましょう。そして、全ての主の御言葉に聞き従うように心がけましょう。

 その教えは愛する命令であり、人の徳を高め合うように教えます。私たちはその御言葉に忠実でなければなりません。忠実に生きることにより、キリストをいつもおそばに歩むことが出来、神様は忠実な者を清め、日々新しい者として前に進ませてくださいます。主にあることを喜び、祈り、感謝の生活は、天国へ続きます。
2020年10月4日の説教要旨 試練への対処
テサロニケ人への第一の手紙/ 03章 01〜3節「そこで、わたしたちはこれ以上耐えられなくなって、わたしたちだけがアテネに留まることに定め、わたしたちの兄弟で、キリストの福音における神の同労者テモテをつかわした。それは、あなたがたの信仰を強め、このような患難の中にあって、動揺する者がひとりもないように励ますためであった。あなたがたの知っているとおり、わたしたちは患難に会うように定められているのである。」

 信仰者はイエス様によって救われて、後に試練・患難に会うように定められています。イスラエルの民がエジプトからカナンの地に向かう時、その間は荒野でした。なぜ?と思うのですが、それによって神様は民を清め、神の民にふさわしい者と整えるためであります。
試練により、民が相応しいかどうか?ふるいにかけられるのです。イエス様の例:ヨハネ6章

 聖書は、試練に会う場合、どのように対処すべきか教えています。
試練とは、その人にとり悩みや苦難となるもので、試練とは人を試す事柄です。
人は試練に直面する時、その人の本質がでます。また、その人が今後どのように生きるか決断を迫ります。信仰者の試練について学びます。

1)試練は必ずあります。
世の人も、試練の連続を経験する人は多いです。年を取ればなおさら悩みは増えます。パウロは「わたしたちは患難に会うように定められている」と明言しました。イエス様も
ヨハネ16:33「あなたがたは、この世ではなやみがある」と言われました。

2)主にあって試練はその人を清める手段
試練によって、金が精錬されるように、「主はわが神である」と信仰を確かにします。(ゼカリヤ13:9)

3)試練は、信仰によって祝福ととらえましょう。
人を悩ます試練は、信仰によって受け入れ、立ち向かうなら祝福となります。
詩篇119篇 71節「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを/学ぶことができました。」

4)誘惑に負けてはいけない。
ヨブの場合もそうですが、誘惑に負けて不信仰になってはいけません。罪となります。
私たちは信仰をもって、御言葉に従うことを忍耐し求めるなら、どんな試練も良いものとなり、信仰者をより高いものとする神様の手段なのです。
2020年5月3日説教要旨 新しく造られた者として善を行う
ガラテヤ6章7〜10節「まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。だから、機会のあるごとに、だれに対しても、とくに信仰の仲間に対して、善を行おうではないか。」

 15節「ただ、新しく造られることこそ、重要なのである」とあります。イエス様を信じる者は、神様によって新しく造られた者となるのです。この新しい創造によって、罪人は救われ、キリストの教えに従うことが出来るようになるのです。

 ところが、イエス様を信じても新しい創造も、御霊の内住にも気づかず、古い肉の生活を送る人は多いのです。そういう人は決して聖書の恵みの約束を受けられませんし、信仰があるかどうかもわからない、究極的には救われているかもわからないのです。
なぜなら、御霊の働きがないので、救いの保証を知ることが出来ません。

 私たちは新しく創造された者として、キリストに従い、善を行う者とならなければなりません。なぜなら、新しくされ、心はキリストを主と告白し、良い者とされているからです。
マタイによる福音書/ 07章 17〜18節「そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない。」
救いの当然の結果として、善行を求めるのです。

 もし、御言葉を軽んじ、色々弁明しようとするなら、それは神様を侮ることになります。しかし、神様はそういう態度をゆるされる方ではありません。
7〜8節「人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう」

 私たちは主のすべての御言葉に従順に従う決心をしましょう。
それは愛の実践であり、信仰は神様に対する、善行は隣人に対する愛の態度なのです。それを熱心に求めましょう。時が来れば、その恵みの実を刈り取ると約束しています。
善行は信仰者の証です。そのように新しく創造されているので、信仰と愛があれば普通にできることです。私たちはたゆまないで誰に対しても善を行うことを求めましょう。
2020年4月26日説教要旨 御霊によって歩きなさい
ガラテヤ人への手紙/ 05章 16〜17節「わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。」

 この世には人を惨めにする罪の法則があるように、人を栄光の道に進ませる御霊の法則があります。ローマ8章 2節「なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。」

 法則とあるように、非常に力強く確かなものです。私たちは罪の法則から離れ、確かな御霊の法則の中に歩みたいと願います。

1)真の悔い改めの願い
 自分では何もできないのです。しかし、神様は私たちの心に働いてくだり、自発的に悔い改め、新しい歩みをする願いを与えて下さいます。非常に重要な第一歩です。
ピリピ人2章 13節「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」

2)キリストを主とする信仰
 悔い改めの心があるなら、私たちはイエス様を明確に自分の主としなければなりません。そうでないと、この後に何も望めません。
マタイ6章 24節「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない」

3)熱心に求めなければなりません。
 主の御心は、私たちが完全に聖くなることです。ですから、聖くなることを求めなければなりません。

4)聖書の学びが必要です。なぜなら、自分を知り、すすむ道を明確にします。
 テモテ第二3章 16〜17節「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。」

 この歩みに献身しましょう。私たちは主にあって大きや野望を持つべきです。主は持つことを願われ、その歩みを御霊の法則として示して下さいました。私たちが一つ一つの主の御言葉に忠実であるなら、この大きな希望をかなえて下さるのです。