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2023年12月10日 説教要旨 雌牛の灰とキリスト
民数記19章9節「それから身の清い者がひとり、その雌牛の灰を集め、宿営の外の清い所にたくわえておかなければならない。これはイスラエルの人々の会衆のため、汚れを清める水をつくるために備えるものであって、罪を清めるものである。」

 ここにはキリストの予型である雌牛の犠牲の話が出てきます。へブルの著者は、へブル9:13「やぎや雄牛の血や雌牛の灰が、汚れた人たちの上にまきかけられて、肉体をきよめ聖別する」と言い、肉体をきよめ聖別する犠牲ととらえています。民数記19章は、人が死ぬとき、その死体に触れる時、またその周りにあるものが汚れると言い、それを清めるために雌牛の灰を入れた水を振りかけ清めなければならないと命じます。

 律法は人の死を汚れたものと呼び、触れると汚れると言います。この律法により、民は非常に煩雑な清めの儀式が加えられることになりました。その清めを故意にしなければ民から絶たれると宣告されています。
聖書は明らかに人の罪、罪がもたらした死を嫌っていて、その事実を神の民は知るように、嫌い離れることを命じるものです。しかし、人はこの戒めに従えず、律法により、罪の深さが明らかになりました。人をこの罪深さから救うために、神のみ子イエス様が世に来てくださり、十字架で救いの道を開いてくださったのです。これがクリスマスの大きな喜びで、この雌牛の犠牲とイエス様の共通点を見ることができます。

1)完全で、傷がなく、くびきを負ったことのない赤い雌牛 (民数記19:2)
キリストは罪がなく、律法の下におられましたが、自由に主に従う方でした。(ヨハネ6:38)そして、ご自分から十字架につかれたのです。また信仰とは自発的に主に従います。

2)雌牛もキリストも営所の外で殺されました。イエス様については、
ヘブル 13章 12節「だから、イエスもまた、ご自分の血で民をきよめるために、門の外で苦難を受けられたのである。」とあります。
そして、へブルの著者は、私たちも営所の外に出ていこう、そこに主がおられると勧めます。へブル13:13「したがって、わたしたちも、彼のはずかしめを身に負い、営所の外に出て、みもとに行こうではないか。」

3)雌牛の灰は汚れた肉体を聖別し、主の十字架により彼への信仰は、良心をきよめ、神に仕えるものにする。 私たちの信仰はこのキリストに倣う道であり、その結果、世の様々な汚れから清められ、神の国に向かう生き方です。

2023年11月5日 説教要旨 つぶやかない信仰生活
 民数記11章 1〜4節「さて、民は災難に会っている人のように、主の耳につぶやいた。主はこれを聞いて怒りを発せられ、主の火が彼らのうちに燃えあがって、宿営の端を焼いた。そこで民はモーセにむかって叫んだ。モーセが主に祈ったので、その火はしずまった。主の火が彼らのうちに燃えあがったことによって、その所の名はタベラと呼ばれた。また彼らのうちにいた多くの寄り集まりびとは欲心を起し、イスラエルの人々もまた再び泣いて言った、「ああ、肉が食べたい。

 ネット上にツイッターという投稿システムがあり、そのメッセージをツイートと呼ばれていますが、それを「つぶやき」と訳されていました。日常で感じたことを短く投稿するものらしいです。しかし、ここでイスラエルの民は不満をつぶやき、神様の怒りを買いました。信仰がない時、まだよく知らないときのつぶやきについては、神様は寛容に見逃し対処してくれたのですが、幕屋が完成し、信仰の旅が始まってすぐのつぶやきを怒られたのです。

 それについてモーセは不快に思い、神様は怒られました。どのようにつぶやいたのか?ここで「民は災難に会っている人のように」つぶやいたとあります。彼らの欲心で満足できなかったのです。世の人は自分の欲望によって生きていて、不満を口にするように、同じように不満を口にしました。この態度は、それまで注意深く民を導かれた神様には驚きであり、信仰はどこにあるのか?違反に対して怒られたのです。

 私たちがイエス様を信じるのは、人生に対して不満な思いが心にあり、なんとかしてほしいと神様に求めることでした。そして、信仰の結果、イエス様の十字架、復活によって、信仰による救いが与えられ、主に従うときに、新しい心に変えられ、不満ではない、望みの生き方に変えられることになるのです。

 不満をつぶやく生き方は、決して信仰によるものではなく、古い自分を第一にする心からでるものです。神様を第一にしてイエス様を信じるとき、つぶやく生き方ではなく、導きに感謝し、満たされた心で望みを持ち、試練があっても忍耐する者にしてくれます。
信仰の模範者モーセは少しの試練があっても少しも動揺することなく、望み続け、従い続けたリーダーでした。私たちにとって、高い模範はイエス様です。

@つぶやかないようにしましょう。A今与えられているもので満足しましょう。B望みを持ち続け、信仰的に従順な歩みを心がけましょう。
イエス様への信仰は、私たちを新しくし、十分に従える幸いな者にしてくれます。
2023年10月1日説教要旨 燭台のともしび、キリストの輝き
民数記8章 1〜4節「主はモーセに言われた、「アロンに言いなさい、『あなたがともし火をともす時は、七つのともし火で燭台の前方を照すようにしなさい』」。アロンはそのようにした。すなわち、主がモーセに命じられたように、燭台の前方を照すように、ともし火をともした。燭台の造りは次のとおりである。それは金の打ち物で、その台もその花も共に打物造りであった。モーセは主に示された型にしたがって、そのようにその燭台を造った。 」

 イスラエルの宿営の中心に聖所があり、その聖所の中に純金でできた34kgもある重い燭台が置かれました。打ちモノづくりで、打たれたキリストをあらわしています。
民から最も純粋なオリーブ油を集め、祭司たちがそれをもって火をともし、芯を整え、夕から朝まで絶えず火をともすよう命じられました。その光は前方にあるパンの机、左前方の金の香壇を照らします。聖所にはほとんど光は入りませんから、唯一の明かりで、これは闇を照らす光、キリストを示しています。キリストはもともと光であられ、人を照らされる方でした。(ヨハネ1:4,9)神様は人を愛し、誰をも大切に思ってくださっています。

 闇を照らすと言う時、これは罪人には大問題です。私たちの重い罪を指摘し、悔い改めることを命じるからです。私たちは自分の罪を公にされることを恐れ、嫌う者で、しかし、キリストが私たちにその罪を認め、悔い改めることを求められるのです。そして命じます。
ヨハネ12:36「光のある間に、光の子となるために、光を信じなさい」
ご自身を光と宣言し、私を信じるように命じるのです。悔い改めてイエス・キリストを信じなさい。

 ひとりの人が真に悔い改めてイエス様を信じ、イエス様に従っていくことは、人にとってとても大きな決断であり、神様の奇跡と言えます。なぜなら、それほど罪から離れることは難しいからで、しかし、イエス様は言われます。
マルコ 10章 27節「イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」。」
確かに、イエス様の弟子たちは、周りの人たちが迷うどんなことがあろうと従いました。

 そして、信じる私たちを光の子と呼び、新しい心と行動の人にあたらしく造り変えようとされています。それはキリストの弟子、光の子と呼ばれる者です。是非、自分をイエス様に差し出しましょう。その時、私たちは神様に有用な器とされ、望みなくさまよっておられる方々の救いのための、キリストの輝きのお働きが出来るのです。
2023年9月3日 説教要旨 誓願の供え物と神の愛
レビ記/ 27章 1〜4節「主はモーセに言われた、「イスラエルの人々に言いなさい、『人があなたの値積りに従って主に身をささげる誓願をする時は、あなたの値積りは、二十歳から六十歳までの男には、その値積りを聖所のシケルに従って銀五十シケルとし、女には、その値積りは三十シケルとしなければならない。』」

 レビ記最後に、誓願の捧げものについて書かれています。願い事を伝え、かなえられたなら何かをささげることを誓うのです。これは自発的な誓いであり、ヤコブは信仰を誓い(創世記28:20〜21)、ハンナは子をささげること(サムエル上1:11)を誓いました。ここで捧げものは聖所の金庫に捧げます。

@人の場合、性別年齢に応じて金銭に換算して聖所に捧げます。

A動物は、犠牲とする動物を燔祭としてささげます。

B住居は金銭に換算され、住み続ける場合には家賃を聖所に払ったそうです。

C畑はヨベルの年までの蒔く種の金額を捧げます。通常の売買ではありませんし、これらはそれほど大金にはならないように定められています。

 ただ、供え物にならないものもあり、それらはすでに主のものとされているものはできません。家畜の初子(26〜27節)、奉納物(28〜29節)、十分の一(30〜33節)
このささげ物は誓いにかかわることで、願いがかなえられる時、ささげると誓うものでした。 イエス様との関わりでは、神様は救いのためにご自身に誓われたとあります。
ヘブル6章 13節「さて、神がアブラハムに対して約束されたとき、さして誓うのに、ご自分よりも上のものがないので、ご自分をさして誓って、」

 神様はアブラハムと子孫の祝福、後の信仰者の救いのためにご自分に誓われたのです。この誓いのためにイエス様は十字架につかれました。この救いについてヨハネ3:16では、神の愛の故とあります。つまり、人の救いの誓いは神の愛から出て、自発的な行為であるのです。そのために、父と御子は苦しまれました結果、私たちは救われたのです。

 神様の自発的愛の結果、私たちが救われたとするなら、救われた私たちは自発的にこの愛に従順をもって答えていくことがふさわしいのです。そして、ささげられるものはすべて神様に聖別されたように、キリストにつながった私たちも聖別され、主の者とされました。
ローマ14章 08節「わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。」

2023年8月6日 説教要旨 世の光といのちのパン
レビ記/ 24章2〜6節「イスラエルの人々に命じて、オリブを砕いて採った純粋の油を、ともしびのためにあなたの所へ持ってこさせ、絶えずともしびをともさせなさい。すなわち、アロンは会見の幕屋のうちのあかしの垂幕の外で、夕から朝まで絶えず、そのともしびを主の前に整えなければならない。これはあなたがたが代々ながく守るべき定めである。彼は純金の燭台の上に、そのともしびを絶えず主の前に整えなければならない。あなたは麦粉を取り、それで十二個の菓子を焼かなければならない。菓子一個に麦粉十分の二エパを用いなければならない。

 聖所の中でアロンの奉仕として二つ挙げられています。燭台の灯を絶えずともすことと、安息日にパンを備え、いつも机の上にパンを整えていることでした。
光もパンもイエス様を表すものです。

1)光の役割とは
神様を表すもので、少しも闇がないこと。特に人には必ず必要で、生きるために、安心のために、前に進むために光はどうしても必要です。

2)パンの役割とは
イエス様がご自身を「いのちのパン」とお呼びになったように、これもまた、生きるために必要です。世のパンは肉体のために必須なように、キリストは霊的に生きるためです。信仰がなかった時、人は虚しさ、絶望を覚えるのは、この霊のパンを持たないからです。

 光とパンが聖所に絶えず備えられたのは、神様の住まわれる天に常のもので、人にそれを求めるように教えるものです。そこに神様のご計画があります。

1)イエス・キリストを救い主と信じることにより
神様と共におるために、聖書はイエス・キリストを信じることを命じます。信じるときに、幕屋が示す一切の恵みが与えられます。

2)神の宮となることを知るように
幕屋は人の一切の必要を教えるものであり、それをまず、キリストが完成させられました。そして、信仰によって自分のものとするように勧めます。信仰者は今、神様のご計画に従い、神の宮とされ、自分の内にキリストの一切の恵み受けています。光の中に住み、命のパンをいつも持って生きているのです。この事実により、キリストへの信仰を明確にし
、従順に歩むことにより、その良い実をならすことを望まれています。

2023年7月2日 説教要旨 神の聖さと救い
レビ記/ 22章 31〜33節「あなたがたはわたしの戒めを守り、これを行わなければならない。わたしは主である。あなたがたはわたしの聖なる名を汚してはならない。かえって、わたしはイスラエルの人々のうちに聖とされなければならない。わたしはあなたがたを聖別する主である。あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの国から導き出した者である。わたしは主である」。」

 レビ21章から22章は、祭司、大祭司への戒めです。それは汚れから離れることを命じるもので、民と祭司、大祭司では徐々に律法は細かく厳しいものとされています。
この律法は神が聖であり、祭司は神が聖と認めるものにならなければならないこと、そして、神が聖とするために導くものであることを教えます。レビ21:7〜8 だから、「あなたがたはわたしの戒めを守り、これを行わなければならない。」と命じます。内容は、

@汚れから離れる レビ21:1〜6,10〜12
・祭司は民の死に接し、身を汚してはならない。大祭司は父母の死で身を汚してはならない。死に対して、激しい悲観の行為をしてはならない。

A結婚相手の選別 レビ21:7〜8,13〜15

B身に傷のある者は祭司になれない レビ21:21
彼らは聖なる食物は食べることが出来るが、奉仕してはいけないと命じます。

 これらは決して上下の差別ではなく、選別の理由は、罪の結果に対するもので、その影響の出ている事柄です。神の聖さの故に、これらの罪にかかわることを神様は受け入れないことを教えるのです。22章に入っても、食べること、捧げものついての聖さの分別を命じます。人としてこれらを厳格に守り通すことは信仰の試練であって、非常に困難なことで、結局イスラエルは失敗します。私たちが学ぶべきことは、

1)神様は世とは完全に分離している聖なる方であること。

2)この世の苦悩から救われるためには、この聖なる方につながり、私たち自身も聖なる者になるほかに方法がないこと。そして、自分自身にその力はないことです。

3)しかし、私たちを救うために、イエス様は人となり世に降りてきて下さり、この戒めをすべて全うされ、罪人の罪の身代わりに十字架の死を経験され、復活されたことです。私たちは自分で聖くなることはできませんが、キリストを信じ、従うときに、キリストの聖さにあずかることが出来るようにしてくださっています。私たちは信仰により救われます。この恵みに感謝し、自発的に聖なる御旨を求める者になりましょう。
2023年6月4日 説教要旨 祭司の救いの働き
ローマ人への手紙/ 12章 01〜2節「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。」

 レビ記8〜10章まで、大祭司、祭司の任職式です。特別な儀式が行われ、彼らは民と神様との交わりの大切な働きに任じられます。レビ記4〜5章には罪に関して、祭司が贖うことによって罪がゆるされるとあり、人の救いのため祭司は必要なのです。

 神様と人との交わりを断っているのは人の罪であり、その問題の解決と良好な交わりをするために祭司が任じられています。しかし、この儀式律法によって人は救われることはありませんでした。人の罪があまりに深く、律法と祭司の有限さによって、人の救いの務めが果たせなかったのです。私たちは神様と人を隔てる罪の重さに気付かされます。

 人の罪の深さに気付く者のために、神様はご自身の御子を大祭司としてこの世に送ってくださいました。イエス様は人としてお生まれになられたのです。
ヘブル人への手紙/ 02章 17節「そこで、イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった。」

 イエス様は大祭司としての資質を持ち、さらにご自身を犠牲としてお捧げして下さり、律法を全うされて、信じる者の救い主となってくださいました。
さらに、罪を悔い改めイエス様を信じる私たちを、大祭司に仕える祭司の立場にして下さったのです。この祭司に求められることが、
レビ記/ 10章9〜11節「これはあなたがたが聖なるものと俗なるもの、汚れたものと清いものとの区別をすることができるため、また主がモーセによって語られたすべての定めを、イスラエルの人々に教えることができるためである」。

 大祭司となられたイエス様による救いを完成させるため、私たちは真理を理解し、自身を犠牲として、人々に聖なる方を伝え、聖なる生き方、救いを伝える使命が与えられているのです。イエス様は神様の救いを完成してくださいました。私たちはその補助をします。
2023年5月7日 説教要旨 神様が共にいて下さる
出エジプト34章 8〜9節「モーセは急ぎ地に伏して拝し、そして言った、「ああ主よ、わたしがもし、あなたの前に恵みを得ますならば、かたくなな民ですけれども、どうか主がわたしたちのうちにあって一緒に行ってください。そしてわたしたちの悪と罪とをゆるし、わたしたちをあなたのものとしてください」。

 イスラエルの民は、主に忠実に従う告白をしたのち、モーセが帰って来るのが遅いと不安を持ち、すぐに主の御言葉に背く行為をしてしまいました。彼らの心に信仰が根付いていないためです。初めの罪と同じ性質、エバの行為と同じ、不信仰です。

 神様はとても怒り、民を滅ぼすと言われたのですが、モーセは必死にとりなします。モーセ自身、彼らの行為を驚き、怒りますが、悔い改めることを求め、同時に主にゆるしを願うのです。信仰者の熱心なとりなしの祈りは力強いことを知ります。私たちも不信仰な世の人々のため、家族、友人知人のために熱心にとりなしをいのりましょう。

 神様はすこしずつ怒りをおさめられ、恵みの地に進むように命じられますが、自分は共にのぼらないと言われました。なぜなら、民の罪のゆえに、共にあるなら彼らを滅ぼすからと言われます。しかし、神様が共にいて下さらなければ、イスラエルの民が望む地へ行くことは不可能です。 そこで、モーセは上記祈りを捧げます。

1)一緒に行ってください。 人は罪深く、真理に対して盲目です。主が共に行って下さらないと、迷い、滅びます。人の救いとは、神様と和解して、共にあることです。イエス様を信じることは、罪の赦しと共に主が共にいて下さる恵みを受けるのです。

2)悪と罪とをゆるし 人は全くの罪人で、心から出てくる思いは自己中心的で神様の目には不義に満ちています。だから、その旅においても常に罪の赦しがなければなりません。私たちは信仰と共に、主の恵みの中にある為、常に罪の悔い改めをもって、主に罪の赦しを受けなければなりません。

3)あなたのもの(聖別してください) 神様が共にいて下さることは、私たちが神様のものとして聖別されていることです。もし、私たちが信仰をもって主の御言葉に従う歩みをするなら、主は私たちのそばに臨在して、聖別して下さり、世とは異なる新しい義の歩みに導いてくださいます。
2023年4月2日 説教要旨 大祭司キリストによる完成
出エジプト記29章42〜46節「これはあなたがたが代々会見の幕屋の入口で、主の前に絶やすことなく、ささぐべき燔祭である。わたしはその所であなたに会い、あなたと語るであろう。また、その所でわたしはイスラエルの人々に会うであろう。幕屋はわたしの栄光によって聖別されるであろう。わたしは会見の幕屋と祭壇とを聖別するであろう。またアロンとその子たちを聖別し、祭司としてわたしに仕えさせるであろう。わたしはイスラエルの人々のうちに住んで、彼らの神となるであろう。わたしが彼らのうちに住むために、彼らをエジプトの国から導き出した彼らの神、主であることを彼らは知るであろう。わたしは彼らの神、主である。

 29章に入り、大祭司アロン、祭司アロンの子たちの任職式が書かれています。28章の装束を着せ、罪祭の犠牲、燔祭の犠牲、任職の犠牲をささげさせました。
この任職式により、大祭司・祭司は聖別され、主の御働きを担う者にされました。神様はイスラエルの民を導き出し、幕屋を建設させ、その内部を整え、ここに奉仕する祭司が永久に定められたのです。この祭司性はアロンの子孫、レビの子孫によって継承されて行きます。神様は従順に従う時、祭司の国、聖なる民、わたしの宝と約束されました。イスラエルの律法の中心は、神の幕屋と祭司性にあります。 

 ところが、へブル人の手紙の著者は、これをヘブル10章 1節「いったい、律法はきたるべき良いことの影をやどすにすぎず、そのものの真のかたちをそなえているものではないから、年ごとに引きつづきささげられる同じようないけにえによっても、みまえに近づいて来る者たちを、全うすることはできないのである。」と宣言します。事実、イスラエルは失敗しましたが、それは人の罪の悪性によります。人を聖め、救うためには、完全な義による贖いが求められたのです。そして、神の御子イエス・キリストの救いが恵みの福音として明らかにされました。

 人の救いのためには大祭司が必要であり、神の御子イエス様は大祭司のお働きと犠牲をご自身で完成し、ご自身への信仰により、罪人は聖別され、恵みにより救われると伝えました。
私たちは旧約の学びを通して、人の罪深さと救いの重さを知らなければなりません。しかし、イエス様はそのすべての障害をご自身によって取り除いて下さり、恵みと信仰によって救ってくださいました。この方への信仰によってこそ、私たちは新しく生きるべきです。彼に信頼し、彼の歩まれた足跡を喜んでたどる信仰者になりましょう。

2023年3月5日 説教要旨 神の法を目指し恵みへ
 ヤコブの手紙/ 01章 25節「これに反して、完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される。」

 出エジプト20章から神様の律法に入っていき、本日は21〜23章には民の間での律法に入ります。20章十戒は「〜してはいけない」という禁止の命令であって、罪人には厳しい教えで、例えば、アルコール中毒の人に飲んではいけないは非常に難しいことなのです。続いて、十戒を飲まない人には簡単なようにTヨハネ5:3〜4には信仰者には戒めを守ることは難しいものではないと言っています。

 イスラエルに命じられた律法は、人を大切にする教えと言えるでしょう。人権を認め、あわれみの行動をすることです。しかし、それが罪人には難しいのです。愛がなく、聖さがなく、自己中心ですから。奴隷については、奴隷は7年目には解放され、50年ごとのヨベルの年の解放(レビ25章)の取り決めは、どれほど神様が人を尊んでおられるかがわかります。律法を守るなら、神様が共にいて、祝福すると約束されました。しかし、それができなかったイスラエルは、私たちに人の罪深さを教えます。

 律法の困難さは、一つにそれは行うことを要求していることです。考えや思いだけで終わってはならず、それを実践しなければ罪として厳しい罰があります。その故に、イスラエルはこの教えに従うことに失敗したのです。アブラハムやモーセ、ダビデのようにしっかりとした信仰がなければ不可能なのです。

 イエス様の時代にも、表面的には信仰的に見え、飾っている律法学者、パリサイ人がいましたが、彼らの心は罪人のままで汚れているとイエス様に叱責されました。マタイ23章

 なぜ、神様はこのような罪人に律法を与えたのでしょうか?それは律法によって自分の罪を自覚させ、悔い改めて、救い主を求めるようにさせるためでした。律法はキリストを証しするために与えられているとイエス様は言われました。ヨハネ5:39〜40
この後、イエス様は人の罪の贖いのための十字架と復活の救いの業を完成し、信じる者を義に導く救いの道を完成してくださったのです。

 罪人がイエス様を信じる時、律法と罪の奴隷から解放し、恵みにより自由にし、新しい心を与えて律法を行うことができるようにしてくださいました。義を求める人はキリストに導かれ、恵みを受け、律法を行うことができる祝福を与えて下さいます。

2023年2月12日礼拝 説教要旨 異邦人の救い エテロの回心 
使徒行伝/ 17章 22〜23節「そこでパウロは、アレオパゴスの評議所のまん中に立って言った。「アテネの人たちよ、あなたがたは、あらゆる点において、すこぶる宗教心に富んでおられると、わたしは見ている。実は、わたしが道を通りながら、あなたがたの拝むいろいろなものを、よく見ているうちに、『知られない神に』と刻まれた祭壇もあるのに気がついた。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、いま知らせてあげよう。」

 モーセとイスラエルの民が荒野のシナイ山の近くに来た時、モーセの義理の父エテロとモーセの家族が訪れてきました。エテロは偶像の神々の祭司の仕事をしていたようですが、娘であるモーセの妻と子たちを連れてきました。彼は出エジプトの際、神様の多くの奇跡を噂に聞き、家族の再会のためと共に、確かめたい思いもあって訪れたのでしょう。モーセは彼にすべての出来事を伝えると、エテロは驚きをもって、主を褒めたたえ、燔祭と犠牲を神に供えた(12節)とあります。

 異邦の神々に仕える偶像崇拝者が、不信仰を悔い改めて、真の神様を信じた、出エジプト後最初の異邦人改宗者です。この告白はとても大きな主の出来事で、私たちの心から願いです。彼はその後、助言をもってイスラエルの民のために主に用いられました。

 上記聖句は、パウロがギリシャのアテネに来たとき、多くの偶像を見て悲しみ発奮し、彼らに真の神様を伝えようとしたところです。
パウロは「あなたがたは、あらゆる点において、すこぶる宗教心に富んでおられる」と言ったように、偶像崇拝者に信仰心が全くないわけではありません。かえって、彼らはあらゆる点に熱心なのです。しかし、真の神様に到達できていません。

1)真実に求めれば真の神様を見いだす。パウロは続けて
使徒17章 27節「こうして、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった。」 エテロは真心から主を求める人だったのです。

2)悔い改めの心をもって ところが、アテネの人たちにも当てはまりますが、罪人がキリストを受け入れないのは、神以上に愛するものがあるからです。(ヨハネ3:20)

3)わたしたちはキリストの証人
エテロが信仰に至ったのは、モーセの証しによるとも言えます。彼はキリストの柔和さを持ち、正直でした。人々はそういう人の言葉を信じます。
教会は奇跡のしるしによるのではなく、キリストのお力を信じ、キリストをのべ伝えます。


2023年1月8日 礼拝 説教要旨 信仰生活の備え
出エジプト記12章43〜46節「 主はモーセとアロンとに言われた、「過越の祭の定めは次のとおりである。すなわち、異邦人はだれもこれを食べてはならない。しかし、おのおのが金で買ったしもべは、これに割礼を行ってのち、これを食べさせることができる。仮ずまいの者と、雇人とは、これを食べてはならない。ひとつの家でこれを食べなければならない。その肉を少しも家の外に持ち出してはならない。また、その骨を折ってはならない。

 これからイスラエルの民は奴隷であったエジプトから、初めての地へ、神様とモーセに導かれて出て行きます。その原点が過越しによりましたが、その時、その長い旅のための定めが語られました。これにより私たちの信仰生活のための重要な備えを学びます。

1)割礼
 過越しの祭りに参加するためには、割礼が必須でした。割礼とは男子の性器の前の皮を切除する儀式ですが、これは罪から離れた新しく生きたいとの悔い改めを象徴します。
コロサイ2章11節「あなたがたはまた、彼にあって、手によらない割礼、すなわち、キリストの割礼を受けて、肉のからだを脱ぎ捨てたのである。」信仰の前の悔い改めは重要です。

2)過越しの子羊にあずかる
 子羊をほふり、その血を鴨居に塗り、そしてその肉を残さずに食し、外に出さないことを命じます。これは十字架につかれ死なれ、よみがえられたキリストへの全き個人的信仰を象徴しています。イエス様自身、肉を食べ、血を飲むように命じます。(ヨハネ6:53〜57)

3)種入れぬパンを食べ、パン種を置かない
 パン種は罪を象徴していて、信仰生活は罪から離れることを決意しなければなりません。悔い改めと信仰と共に、新しい生活の実践です。

 イスラエルは過越しの祭りを定められ、この命令に忠実であるときに、信仰生活に勝利があることを教えられたのです。私たちの信仰生活もこの備えが必要です。この霊的備えがあって、初めて罪に勝利し、新しい信仰生活へと進みます。

 また、同時に救いの確信も持たなければなりません。
@わたしはキリストの命の代価によって救われている。(出13:13〜15)神様はご自分の子とするためには、みな、代価を払って贖わなければならないといいます。
Aあがなわれた者は、神様のものとなると言います。(出13:2)聖なるものにされます。
B神様の栄光をあらわす者とされる。(1コリント6:20)