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2025年11月2日 メッセージ要旨 見捨てない神の愛
エレミヤ書29章 11〜12節「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。 その時、あなたがたはわたしに呼ばわり、来て、わたしに祈る。わたしはあなたがたの祈を聞く。

 主の律法に背き、不信仰のゆえに異国に捕囚となった民への、預言者の言葉です。多くの同胞が殺され、着の身着のままでバビロンの地へ連れていかれました。しかし、それが神様のご計画であり、それが平安、将来の希望を与えるものであると言いました。

 そして、事実捕囚とされることにより、偶像崇拝は出来なくなり、預言者の言葉に頼り、モーセの律法に立ち返るように人々は異国の地で変えられていきます。この時、70年が定められていて、試練の捕囚の後に再びエルサレムに帰ります。このような神様のお取り扱いを、今後も選ばれた民として、イスラエルは常に受けるのです。

1)見捨てない神
私たちは神の一度選ばれた人を見捨てないご性質を知ります。人は神様の救いの対象であり、一度救われる立場を受けるなら、最後まで見捨てることはされないのです。

2)神の愛のご計画
神様が人を導かれる時、常に先立って門を開き、道を示されています。人には自分を救う力はなく、すべて主が先だって救いの道を開かれます。それが愛だと言います。キリストは救いのために十字架に死なれました。(1ヨハネ4:9)

3)平安と将来の希望の計画
罪人が罪を認め、悔い改めてイエス・キリストを信じる時に、愛の神との交わりが回復し、変わることのない神の平安と希望を受けるのです。神様は私たちの心の目を開き、交わりを回復してこの素晴らしい救いに招かれています。どんな逆境の中でも救われるこの招きに答えてください。
2025年10月5日 説教要旨 神に求める人
使徒17章27〜28a節「こうして、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった。事実、神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない。 われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである。

 今まで聖書を知らずにいた人にとると、聖書には驚くことが書かれています。神様は近くにおられ、人は神様の中に生かされている。ご性質について神様は愛である、また全知全能と言うことも知りませんでした。そして神様を求めるなら見いだせると言うのも大胆なお言葉です。これは神様を求める人には大きな喜びです。
 イエス様の時代にユダヤ人の指導者ニコデモという人がいました。彼はイエス様に反感を持つパリサイ人の中の人でしたが、夜、イエス様に話を聞こう訪問しました。彼は年老いていたと思われるのに、若いイエス様を先生と呼び、神様の御言葉を聞こうとしたのです。彼は神様に真実を求める人でした。

 イエス様は答えます。
ヨハネ3章 3節「イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。」

 彼は理解できなかったのですが、イエス様は最後に次のように言われました。
ヨハネ3章 16節「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。

 イエス様は新しく生まれることが救いであること、私を信じる時に救われると言う大事な奥義を伝えたのです。

 彼がこの後どんな態度をとったか記述はありませんが、後にイエス様を弁護し、十字架につかれたイエス様を墓に葬ることをしました。彼はイエス様を特別な方と認め、復活のイエス様にあった時は明確な信仰に導かれたでしょう。

 神様を求め、神様に良いもの求める人は最高の救いの賜物を与えられます。救いとは罪人の悩み一切を解決されることであり、主が導かれる新しい喜びの人生に導かれるのです。
私たちは何よりも神様に求める者であり、神様に選ばれた者でありますように、そして、神様の豊かな祝福にあずかれますように祈ります。
2025年9月7日 説教要旨 キリストの福音
 ヨハネ3章 16節「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。

 私たちは福音を伝えています。福音とは「良い知らせ」という意味です。近所の介護施設で、私たちの家族親族に、またこの礼拝で伝えています。先月、美穂姉の長崎のお母さまが召されました。危篤と聞き急いで長崎に行きました。福音を伝えると、今まで拒んでいた母が信じてくれました。そして、家族の了承を得て、キリスト教式の葬儀でイエス様の元に送ることができました。とても感謝です。

1)悩みからの解放 福音は人の絶望の救いのためにあります。最も重い悩みが死です。誰も逃れることができず、恐ろしいものです。しかし、福音は死からの勝利を宣言します。

2)キリストの福音 聖書はイエス・キリストの誕生と死、そして復活を伝えていますが、それが福音というのです。神の御子が罪人を救うために、人になり世に来られ、罪人の身代わりに死なれ、そして復活して天に昇られた。これが福音の重要な内容と伝えます。

3)キリストを信じる時、罪人は救われる 人の悩みの原因は、神様から離れ、罪に呪われた者として生きているからです。罪を持っている為、聖なる神様が救いの手を伸べることができないのです。 そこでイエス様は身代わりに死なれ、彼を信じる時、罪が赦され、神様と和解して救いに入れられるように定めてくださいました。神様の愛のゆえです。

4)死に対する勝利 聖書は「死は勝利にのまれてしまった」と宣言し、生きると言います。 ヨハネ11章 25節「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。

 これはイエス様を信じるなら、永遠の神様と共に生きるとのお言葉です。 このお言葉を証拠づけるものが、信仰者の証しです。信仰者が新しく生まれ変わり、神様を深く知り、人を愛し、平安の中に生きていることがこの福音の確かさを世に伝えるのです。神様はご自身が知られることを願われています。
ぜひイエス様を信じてください。救いの富を知る人になってください。
2025年8月3日 説教要旨 信仰復興の方法
  歴代志上9章 1〜9節「このようにすべてのイスラエルびとは系図によって数えられた。これらはイスラエルの列王紀にしるされている。ユダはその不信のゆえにバビロンに捕囚となった。 その領地の町々に最初に住んだものはイスラエルびと、祭司、レビびとおよび宮に仕えるしもべたちであった。 

 この箇所は、捕囚から帰ってきた人たちについて語っており、その中心に祭司、レビ人、宮に仕えるしもべたちに言及しています。帰ってきたエルサレムの地で、指導者たちはまず信仰を回復のため、人材を整えます。そしてモーセの律法を中心にして信仰回復を務めました。世的になっていた民を神様の御言葉の元に集うことに務めたのです。

1)彼らの失敗 「ユダはその不信のゆえにバビロンに捕囚となった」とまず失敗の原因をはっきりさせています。民もすでに気づいていたでしょう。王を求め、その王が罪の中に民導き、国は滅んだのです。捕囚の地で悔い改め、再びユダの地で神の国の回復に向かうのです。

2)信仰の回復から 目に見える失敗の原因は、目に見えない不信でした。そこで指導者は民の信仰の回復、それは律法に忠実に従うことを求めたのです。その為、祭司、レビ人の立場を確立して、彼らによる礼拝をおこなうことに務めるためです。

3)信仰生活で重要なこと 見えないことに心を向けることを悟らなければなりません。
@キリストを主とすること 信仰生活はキリストを主と告白することから始まりました。ローマ10:9
A心が新しくなることが重要です。 古い心は自分を常に主張します、キリストを真に主とするためには自分を捨て、新しい心を主から受ける必要があります。 コリント第二5章 17節「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」 信仰の回復は、心が常にキリストを見上げるようになることです。
2025年7月6日 説教要旨 アブラハムへの恵みの契約 歴代誌1章
ガラテヤ3章 6〜9節「このように、アブラハムは「神を信じた。それによって、彼は義と認められた」のである。 だから、信仰による者こそアブラハムの子であることを、知るべきである。 聖書は、神が異邦人を信仰によって義とされることを、あらかじめ知って、アブラハムに、「あなたによって、すべての国民は祝福されるであろう」との良い知らせを、予告したのである。 このように、信仰による者は、信仰の人アブラハムと共に、祝福を受けるのである。」

 歴代誌上に入ります。これはバビロン捕囚からエルサレムに帰った時代にかかれた書で、学者エズラによると言われています。BC440年ころ、着の身着のままで荒れ果てたエルサレムに帰り、再建に乗り出した信仰者の書です。民に過去を振り返らさせ、希望を持たせ、主の御旨を教え奮起させるための書です。

 初めにアダムからの系図から書き始められ、アブラハムへの言及があります。アブラハムはイスラエルの偉大な先祖であり、彼らの望みもそこから始まりました。信仰と希望の原点なのです。
著者はその希望が過去の罪の歩みにより台無しになったこと、民が主の御旨から外れ、最後は捕囚というすべてを失う結果になったことを教えます。しかし、アブラハムへの主の恵みの約束は変わらないことにより元気づけようとしたのです。

1)アブラハム契約
イスラエルの希望の原点がここにあります。創世記12章から記されています。彼は偶像の世界、不信の世において、主に強い信仰持った人であり、その故に主は彼を恵みの契約者として選ばれました。彼自身、子孫イスラエル、全世界への神様の祝福を無条件に約束してくださったのです。

2)全世界への恵みの契約
@それは時が来るなら、天地の主が救い主を生まれさせ、彼によって全ての人を救う約束です。
A方法は信仰による救いです。
方法はアブラハムの持った信仰。その対象としてイエス様が地に生まれてくださり、十字架で罪のあがないをなし終え、天に上られ、信仰による救いを完成してくださいました。私たちは信仰によって生きるものです。
2025年6月1日 説教要旨 ヒゼキヤによる信仰の回復
歴代志下29章 28〜30節「そして会衆は皆礼拝し、歌うたう者は歌をうたい、ラッパ手はラッパを吹き鳴らし、燔祭が終るまですべてこのようであったが、 ささげる事が終ると、王および彼と共にいた者はみな身をかがめて礼拝した。 またヒゼキヤ王およびつかさたちはレビびとに命じて、ダビデと先見者アサフの言葉をもって主をさんびさせた。彼らは喜んでさんびし、頭をさげて礼拝した。」 

 北イスラエルは王国創始者ヤラベアムにならい、不信仰のまま速やかに滅びました。南ユダ王国は良い王と悪い王が出てきて、良い王はダビデにならう者でした。誰を模範とするかにより、弟子たちは最高到達点が決まります。私たちはイエス様でなければなりません。ヒゼキヤ王はダビデに真実にならい、ユダ王国で最も信仰的で成功した王となります。

 彼はイスラエルの滅び、南ユダの衰退を見、そしてダビデ王の祝福と繁栄を思い、この国を信仰的に立ち直すよう奮起するのです。私たちも模範的信仰者を見て、心を一新して奮起したいのです。
彼は主に立ち返るために、国を清めようとします。第一にしたのが、

1)レビ人による清めです。
清めとは罪の自覚と悔い改めから始まります。

2)信仰と礼拝の確立です。
罪祭をささげ、燔祭をささげます。これは神様に近づくためには罪の悔い改めと、そのために律法に従って犠牲で、ここに信仰が求められます。必要だからです。私たちが知る完全な捧げもの、イエス様の十字架の死です。

3)最後に感謝の捧げもの 感謝は礼拝にともなうものです。1)〜3)はすべて私たちの信仰と礼拝と同じで、次の順序で経験することです。
@不幸の原因として罪を認める。A罪のあがないとしてキリストの十字架を信じ、キリストを救い主として信じる。B主に感謝をささげる。

 ヒゼキヤの改革が終わると、民は喜び、主も喜ばれました。
歴代志下30章 27節「このとき祭司たちとレビびとは立って、民を祝福したが、その声は聞かれ、その祈は主の聖なるすみかである天に達した。」
私たちの喜びはこの主とのつながりによります。
2025年5月4日 説教要旨 ナアマン将軍の救い
列王紀下5章 13〜14節「その時、しもべたちは彼に近よって言った、「わが父よ、預言者があなたに、何か大きな事をせよと命じても、あなたはそれをなさらなかったでしょうか。まして彼はあなたに『身を洗って清くなれ』と言うだけではありませんか」。そこでナアマンは下って行って、神の人の言葉のように七たびヨルダンに身を浸すと、その肉がもとにかえって幼な子の肉のようになり、清くなった。

 聖書に時々異邦人に対して主が恵みを与える話が出てきます。ここではイスラエルの敵スリヤ人ナアマンのライ病が癒された話です。主は敵国のしかも将軍を恵まれたのです。イエス様は次のように言われました。
ルカ4章 27節「また預言者エリシャの時代に、イスラエルには多くの重い皮膚病にかかった多くの人がいたのに、そのうちのひとりもきよめられないで、ただシリヤのナアマンだけがきよめられた」。

 彼は罪の象徴であるライ病にかかっており、彼だけが救に選ばれました。彼がなぜ選ばれたか?と言う問いには、全知なる主は彼が癒されるとどうなるかを知られて、選ばれたのです。彼は癒されると自分の立場を顧みず、主に信仰をはっきりと告白します。信仰は行動で確かさが明らかになります。ナアマンは私たちのこの信仰と救いを教えています。

1)救いは罪からの解放
彼のライ病が癒されたことは、救とは罪から解放されることだと教えられます。私たちの災いはすべて罪から出ているので、罪が解決すると主の幸いを知るのです。

2)救いは自己中心からの解放
ナアマンははじめエリシャの言葉に自己中心のゆえに怒りました。私たちの信仰とはこの自己中心から解放されてイエス・キリストを主とすることです。

3)救いは御言葉を信じること
そして御言葉を信じて従い、ライ病が癒されたように、救は御言葉を信じ従うときに与えられます。

 この救いをイエス様は見える形で完成してくださいました。それはすべての人に提供され、誰でも悔い改めるなら無代価で与えられます。私たちもまた無代価で福音を伝えることにより、神の愛を世界に伝えなければなりません。
2025年4月6日 説教要旨 南北王国と恵みによる信仰生活
列王紀上15章 11〜12節「アサはその父ダビデがしたように主の目にかなう事をし、 神殿男娼を国から追い出し、先祖たちの造ったもろもろの偶像を除いた」
列王紀上15章 25〜26節「ユダの王アサの第二年にヤラベアムの子ナダブがイスラエルの王となって、二年イスラエルを治めた。 彼は主の目の前に悪を行い、その父の道に歩み、父がイスラエルに犯させた罪をおこなった。」


 ソロモン以降のイスラエルの分裂した二つの国は、それぞれ違った道を進みます。南のユダ王国は、アサ王がそうであったように、ダビデ王にならい、主の道から遠くそれなかったのですが、北のイスラエル王国はヤラベアムの悪にならい、一人として善王は生まれませんでした。

 初めの王が間違っていては、正しく立ち返ることはできず、正しい王がいたから、正しく生きることもでき、その模範がダビデ王でした。ダビデ王とヤラベアム王の信仰の違いが、その後の王たちに強く反映したのです。

 ヤラベアム王は見える物に目を注ぎ、滅びに向かい、ダビデ王は見えないものに目を注いで信仰的に歩みました。いつも神様に目を向け、御言葉に従ったのです。

 ダビデの生き方は、恵みによって生きたと言えます。彼は神様からの一方的愛を信じ、人を救おうとされていることを信じたのです。その神様の思いが心にある時、その人は恵みによって生きていると言えます。主は人を豊かに恵もうとされていますので、主に喜んで従いましょう。

 今は恵みの時だと言います、御子キリストにより明らかにされたからです。
コリント第二6章2節「・・・見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である。
ヤラベアム王は主の恵みを信じず、この世に囚われ、祝福を求め続けました。ダビデは何よりも主の恵みを信じ、恵みの賜物を求め、信仰によって歩んだのです。
この違いが後の王たちに受け継がれ、北イスラエルは滅びます。

 私たちは主の恵みを信じ、恵みによって歩まなければなりません、それが主の豊かな祝福を受ける秘訣です。
テモテ第二2章1節「そこで、わたしの子よ。あなたはキリスト・イエスにある恵みによって、強くなりなさい。」 私たちは目に見えない主を心にいつも持ち、豊かな恵みを信じて強められて信仰生活を全うしましょう。
2025年3月2日 説教要旨 ソロモンと神の知恵 列王記上3章
コリント人への第一1章 23〜24節「しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、 召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。

 年若いソロモンは王となり、主の「あなたに何を与えようか、求めなさい」との問いかけに、「聞きわける心をしもべに与えて、あなたの民をさばかせ、わたしに善悪をわきまえることを得させてください」と知恵を求めます。 この答えが主に喜ばれ、彼は地上で最高のさまざまな知恵を受けます。「ソロモンの知恵は東の人々の知恵とエジプトのすべての知恵にまさった」とあります。

 この知恵により、彼は民に恐れ敬われ、諸国から知恵を聞きに集まってくるほどでした。彼は国政において知恵深く行動し、イスラエルはソロモンの栄華と呼ばれる祝福豊かな時代を築きます。

 ソロモン王は自分の思いのままに生き、何不自由はなかったのですが、彼は<伝道の書に>「空の空、空の空、いっさいは空である」と哲学者のように語ります。

 彼は行政上の知恵、学者のような知識、それらの判断力、把握力は与えられていましたが、神の恵みに関する知恵は十分には与えられなかったようです。 父ダビデが試練により訓練され、その都度信仰によって獲得した謙遜や霊的な恵みの知恵は受けられなかったのです。パウロは次のように言います。 エペソ3章 19節「また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。

 この歩みは、キリストを信じ、その教えと愛に生活するとき、理解は深まり、神様から賜物として受ける霊的な生き方です。 ソロモンの知恵は、地上では見かけ上成功しましたが、彼自身の内面は、主の恵みにとどかず、彼の信仰は根がなく後退していきます。

 私たちは第一にキリストを信じ、御言葉に親しみ、訓練を通して神の知恵たるキリストを深く知らなければなりません。その時、真の神の栄光の歩みを経験するのです。パウロのようにどんな環境、試練にも対応できる自由、永遠の命を望みとして生きる平安、地においても御国の思いの中に生きる恵みです。
2025年2月2日 説教要旨 試錬と謙遜
詩篇119篇67〜721わたしは苦しまない前には迷いました。しかし今はみ言葉を守ります。あなたは善にして善を行われます。あなたの定めをわたしに教えてください。・・・しかしわたしはあなたのおきてを喜びます。苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました。」

 試錬とは、苦難によりその人の信仰を試し、心を練り清めるものと辞書にあります。謙遜は、原語は苦しみ、屈服している状態を表すもので、その苦難の中に忍耐して「へりくだった」「心砕かれた」「柔和」な態度を意味するものとあります。
ですから、両方苦難の結果で、試練の清めと謙遜はつながっているのです。

 ダビデは二度大きな試練を経験しました。一度目はサウル王に命を狙われ逃亡した時、二度目は大きな罪を犯し、その報いとして家族の争い、殺人、逃亡など多くの苦しみを試練として経験させられました。
ダビデのように、試練を主からのものとして受け入れ、忍耐しながら信仰的に生きようとするとき、その人は謙遜を学ぶのです。

 謙遜とは、目に見える行動というより、心の変化です。ロイド・ジョーンズは次のように言います。<謙遜は、生まれながらの性質ではなく、信仰によって与えられる新しい性質である。その特徴は、@自身に誇りを感じない心。A自己主張しない心。B自分のためになにも要求しない心。
また、ジョン・バンヤンの言葉「倒れている人は、ころぶ心配をする必要がない」を例に挙げ、もはや @自分を意識せず A自分を憐れまず B誰からも傷つけられないと実感している人>と言いました。

 これは信仰者の高貴な性質で、試練により探られ、深く悔い改め、心砕かれた人が受けるものです。試練はこの謙遜を受けるための主の与えているもので、私たちは喜んで試練を受け入れ、この新しい性質を熱望するものなのです。
 ダビデは上記聖句にあるように、試練によって砕かれ、御言葉を学び、守る者にされたと証ししています。そして、後の節で「あなたの口のおきては、わたしのあためには、幾千の金銀にまさるもの」と告白するのです。試練は謙遜を生み出し、
主と御言葉を第一にし、他者に温かく接する者にされ、主の祝福を受けます。
2025年1月5日 説教要旨 神の国を求めて
サムエル記下5章 3〜4節「このようにイスラエルの長老たちが皆、ヘブロンにいる王のもとにきたので、ダビデ王はヘブロンで主の前に彼らと契約を結んだ。そして彼らはダビデに油を注いでイスラエルの王とした。ダビデは王となったとき三十歳で、四十年の間、世を治めた。

 長い逃亡生活の末に、ダビデはイスラエルの王となります。30歳ヘブロンでユダの王となり、ここでイスラエルの王となり、エルサレムに移り合計40年治めます。主は彼を王とするために、長い訓練を与えましたが、忍耐の必要な苦しみはイエス様ご自身も受けてくださいました。
ピリピ2章8〜9節「おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。」

1)王としての訓練
王として民を治めるために、試練とその忍耐の訓練は必要なのです。
ヘブル2章 18節「主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試錬の中にある者たちを助けることができるのである。」

2)高くされるために必要なのです
「それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。」
キリストの従順のゆえに、キリストは復活し、天の高い座に着かれました。

 主は私たちに従順とその故の忍耐は重要であることを教えています。罪に満ちた私たちにはなおさら、ダビデのように訓練される必要があるのです。その訓練を通して、私たちの心も行動も新しくされていきます。イエス様は言われます。
マタイ16章 24節b「自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。

 実生活に、自分を捨て、他者に仕える歩みを続けることは、忍耐を必要とします。継続するなら、御霊のお働きにより、新らしく主に似たものに変えられていくのです。それは神の国の住民としてふさわしく整えられる恵みです。
ぜひ、心機一転してこの恵みに預かれるよう決心しましょう。

新しい一年が、神の国にふさわしい成長したクリスチャンになれますように。
2024年12月1 日説教要旨 災いを恐れない信仰
詩篇34篇7〜9節「主の使は主を恐れる者のまわりに陣をしいて彼らを助けられる。 主の恵みふかきことを味わい知れ、主に寄り頼む人はさいわいである。 主の聖徒よ、主を恐れよ、主を恐れる者には乏しいことがないからである。

 ダビデは油注がれ、主に王として選ばれます。主のご計画が進み、神の霊により与えられた賜物が用いられ、サウルのそばに仕えるようになります。さらに、イスラエル兵が恐れて尻込みする中、ペリシテ軍の巨人ゴリアテの挑戦に発奮し、主の名によって戦い打ち破り、首を切り取るのです。結果、イスラエルは大勝利、ダビデは英雄となり、王となる一歩を踏み出すのです。

 ダビデのゴリアテを恐れない勇気はどこからきたのか?彼は人が陥る世の恐れすべてに勝利しています。社会には次の恐れがあります。

1)人を恐れる。彼は絶対的な力を誇示する巨人ゴリアテを恐れませんでした。

2)失敗を恐れる。彼は主の名によって必ず勝利すると失敗を恐れませんでした。

3)死を恐れる。彼は死を恐れることなく戦いました。
彼にはこれらに勝利している信仰心がありました。それが「主を恐れる」こと。私たちはこの信仰を主に教えていただきたいのです。
詩篇34篇 11節「子らよ、来てわたしに聞け、わたしは主を恐るべきことをあなたがたに教えよう。

 「主を恐れる」とはどういうことでしょうか?
世の恐れが人の心に入った始まりは、アダムとエバからです。
創世記3章 10節「彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」。」
恐れは罪から始まり、全き信仰を失ったことによります。これが世のものを恐れる始まりで、主を恐れ、敬うことではありません。
主を恐れるとは、神様への畏敬の心です。神の偉大さを認識し、尊敬している従順な心で、その心があるため主の戒めをも喜ぶのです。

 正しく主を恐れる時、人は世の恐れから全く解放され、主の戒めを喜び、自発的に従うダビデのような心が与えられます。私たちがさらに一歩信仰の成長を願うとき、それは主をまごころから恐れる心を持つことです。