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2025年2月2日 説教要旨 試錬と謙遜
詩篇119篇67〜721わたしは苦しまない前には迷いました。しかし今はみ言葉を守ります。あなたは善にして善を行われます。あなたの定めをわたしに教えてください。・・・しかしわたしはあなたのおきてを喜びます。苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました。」

 試錬とは、苦難によりその人の信仰を試し、心を練り清めるものと辞書にあります。謙遜は、原語は苦しみ、屈服している状態を表すもので、その苦難の中に忍耐して「へりくだった」「心砕かれた」「柔和」な態度を意味するものとあります。
ですから、両方苦難の結果で、試練の清めと謙遜はつながっているのです。

 ダビデは二度大きな試練を経験しました。一度目はサウル王に命を狙われ逃亡した時、二度目は大きな罪を犯し、その報いとして家族の争い、殺人、逃亡など多くの苦しみを試練として経験させられました。
ダビデのように、試練を主からのものとして受け入れ、忍耐しながら信仰的に生きようとするとき、その人は謙遜を学ぶのです。

 謙遜とは、目に見える行動というより、心の変化です。ロイド・ジョーンズは次のように言います。<謙遜は、生まれながらの性質ではなく、信仰によって与えられる新しい性質である。その特徴は、@自身に誇りを感じない心。A自己主張しない心。B自分のためになにも要求しない心。
また、ジョン・バンヤンの言葉「倒れている人は、ころぶ心配をする必要がない」を例に挙げ、もはや @自分を意識せず A自分を憐れまず B誰からも傷つけられないと実感している人>と言いました。

 これは信仰者の高貴な性質で、試練により探られ、深く悔い改め、心砕かれた人が受けるものです。試練はこの謙遜を受けるための主の与えているもので、私たちは喜んで試練を受け入れ、この新しい性質を熱望するものなのです。
 ダビデは上記聖句にあるように、試練によって砕かれ、御言葉を学び、守る者にされたと証ししています。そして、後の節で「あなたの口のおきては、わたしのあためには、幾千の金銀にまさるもの」と告白するのです。試練は謙遜を生み出し、
主と御言葉を第一にし、他者に温かく接する者にされ、主の祝福を受けます。
2025年1月5日 説教要旨 神の国を求めて
サムエル記下5章 3〜4節「このようにイスラエルの長老たちが皆、ヘブロンにいる王のもとにきたので、ダビデ王はヘブロンで主の前に彼らと契約を結んだ。そして彼らはダビデに油を注いでイスラエルの王とした。ダビデは王となったとき三十歳で、四十年の間、世を治めた。

 長い逃亡生活の末に、ダビデはイスラエルの王となります。30歳ヘブロンでユダの王となり、ここでイスラエルの王となり、エルサレムに移り合計40年治めます。主は彼を王とするために、長い訓練を与えましたが、忍耐の必要な苦しみはイエス様ご自身も受けてくださいました。
ピリピ2章8〜9節「おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。」

1)王としての訓練
王として民を治めるために、試練とその忍耐の訓練は必要なのです。
ヘブル2章 18節「主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試錬の中にある者たちを助けることができるのである。」

2)高くされるために必要なのです
「それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。」
キリストの従順のゆえに、キリストは復活し、天の高い座に着かれました。

 主は私たちに従順とその故の忍耐は重要であることを教えています。罪に満ちた私たちにはなおさら、ダビデのように訓練される必要があるのです。その訓練を通して、私たちの心も行動も新しくされていきます。イエス様は言われます。
マタイ16章 24節b「自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。

 実生活に、自分を捨て、他者に仕える歩みを続けることは、忍耐を必要とします。継続するなら、御霊のお働きにより、新らしく主に似たものに変えられていくのです。それは神の国の住民としてふさわしく整えられる恵みです。
ぜひ、心機一転してこの恵みに預かれるよう決心しましょう。

新しい一年が、神の国にふさわしい成長したクリスチャンになれますように。
2024年12月1 日説教要旨 災いを恐れない信仰
詩篇34篇7〜9節「主の使は主を恐れる者のまわりに陣をしいて彼らを助けられる。 主の恵みふかきことを味わい知れ、主に寄り頼む人はさいわいである。 主の聖徒よ、主を恐れよ、主を恐れる者には乏しいことがないからである。

 ダビデは油注がれ、主に王として選ばれます。主のご計画が進み、神の霊により与えられた賜物が用いられ、サウルのそばに仕えるようになります。さらに、イスラエル兵が恐れて尻込みする中、ペリシテ軍の巨人ゴリアテの挑戦に発奮し、主の名によって戦い打ち破り、首を切り取るのです。結果、イスラエルは大勝利、ダビデは英雄となり、王となる一歩を踏み出すのです。

 ダビデのゴリアテを恐れない勇気はどこからきたのか?彼は人が陥る世の恐れすべてに勝利しています。社会には次の恐れがあります。

1)人を恐れる。彼は絶対的な力を誇示する巨人ゴリアテを恐れませんでした。

2)失敗を恐れる。彼は主の名によって必ず勝利すると失敗を恐れませんでした。

3)死を恐れる。彼は死を恐れることなく戦いました。
彼にはこれらに勝利している信仰心がありました。それが「主を恐れる」こと。私たちはこの信仰を主に教えていただきたいのです。
詩篇34篇 11節「子らよ、来てわたしに聞け、わたしは主を恐るべきことをあなたがたに教えよう。

 「主を恐れる」とはどういうことでしょうか?
世の恐れが人の心に入った始まりは、アダムとエバからです。
創世記3章 10節「彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」。」
恐れは罪から始まり、全き信仰を失ったことによります。これが世のものを恐れる始まりで、主を恐れ、敬うことではありません。
主を恐れるとは、神様への畏敬の心です。神の偉大さを認識し、尊敬している従順な心で、その心があるため主の戒めをも喜ぶのです。

 正しく主を恐れる時、人は世の恐れから全く解放され、主の戒めを喜び、自発的に従うダビデのような心が与えられます。私たちがさらに一歩信仰の成長を願うとき、それは主をまごころから恐れる心を持つことです。